運命論者と千の鶴「片瀬さんがシチュー作ったけど食べるか、って」
「お、マジで? 行こう行こう」
料理をする人間というのは得てして人に振舞うことを喜びとしていがちだ。そうでなくともどうせ作るのだから、と数人分作って分け合ったりすることは寮内では珍しくない。かく言う本川も夜中突発的に食べたくなってコンビニまで走って作ったホットケーキを押し付けて回ったことがあるし、ここに住む者はちょっとした田舎の共同体くらいの距離感で生活している。積極的に全員と絡むわけではないが、顔を合わせればまあ話くらいはできる。本川と片瀬もそう言った関係である。なんなら平山という共通の話題がある分、もう少し近いくらいかもしれない。
「あの人の飯美味いからな」
「器用なんですよね、腹立たしいことに」
本川たちの暮らす寮には食事提供がない。従って学生は一日三度、人によっては二度だったり四度だったりするそれを毎回自分で考えなければならない。学食へ出向くのか、足を延ばして外食するのか、それとも寮内で自炊をするのか。本川と同室の男は二人して自炊をする気がまるでないので実質二択なのだが、そんな中、ただで手料理を食べさせてくれる片瀬と言うのはかなりありがたい存在だった。現金なのかもしれないが、本川はこういった機会でもないと基本片瀬とは話さないので、すっかり食事をくれる先輩、という印象がついてしまっている。いまいち掴みどころがない人、としか食事を抜きにしては形容できなかった。
「自分高校時代からの付き合いなんやろ?」
「中三からですよ。何年付き合っても全部見せてくれないですけど」
「まあ全部っていうのはなあ……」
本川が彼のことをよくわからない、というのはまあそれはそうだろうとも思う。要するに浅い繋がりなのである。お互いにそれ以上を求めようとも思わないから進展もないし、そんな相手に素を見せようとは思わないだろう。そう言う関係性でしかないのだ。互いの人生においてかなりの隅の方にいる。でも、平山と片瀬は違う。人生のかなり主軸のあたりに相手を置いているように、少なくとも本川には見えていた。平山なんてここにやってきたのすら彼を追うためだと聞いているし、まあなんというか、よほど大事なのだろう。
「今更何見たって引かないんだから、もういいと思いません?」
本川はふらふらとした人間だからそれを重たく感じるし、その反面、羨ましくなんかも思う。それ故に平山が片瀬に執着して、そのすべてを暴き立てようとするのを他人事ながら応援してしまったりもするのだ。だからと言って全てを見ようとするのは鬼畜の所業だとも思うが。見せないのは見せないなりに理由があるのだろうし、そもそも今こうしてうまく関係性が成り立っている以上はそれは必要のない情報でもあるのだろう。
(……まあ、今に満足できてないからこそのこれなんかもしれんけど)
わずかに片瀬に同情しながら本川は平山を宥めるような動きをする。この男が裏表がないからこその言動であることはわかるので、あまり責めるような真似はしたくなかった。それは彼の面白味を損ねることに繋がりかねない。他人のことをよく見ている割に共感性がやや弱いきらいがあるおかげで、彼は世間からややズレていられるのだ。そういうところを本川は気に入っているのである。やや不服そうにしながらも真面目に共同キッチンへと足を進める平山は、食欲を誘発する匂いが強くなっていくごとにみるみる機嫌を治していった。
「ちっす」
「おー、本川君だ」
「これもう食べていいんですか?」
「お前はちゃんと挨拶しなね」
軽く会釈をする本川と対照的に、すっと鍋へ向かっていく平山を片瀬は苦笑して止める。その手元では既に皿によそわれたシチューがふらふらと湯気をあげていた。とろついた白の中に埋まっているオレンジやら緑やらは視覚的にも威力が凄まじい。うまそ、と無意識に上げてしまった声に片瀬は「適当に鍋から掬って食べな」と皿を出してくれた。
「すんません、なんかいつも」
「いいんですよ。片瀬さんがしたくてしてることなんですから」
「そうなんだけどね? お前が言うとまた意味合い変わってくるから」
「言葉は常に公明正大ですよ」
やいやいと言い合いの体をしたじゃれ合いが始まる。それを尻目に本川はスプーンを手に取ると「いただきます」と手を合わせた。もっともあの様子では聞き入れられていなかったようだが。食品に感謝したことにしておこう、と思いながらスプーンから舌へとシチューを流し込む。いつ以来の味だろうか。外食するとき自分から選ぶようなものでもないから、随分と久しぶりに食べるような気がする。ゆるりとした甘みは大方野菜由来のもので、じんわりと舌先から体全体に伝わっていくのが心地よかった。シチューのパッケージやらCMやらに老婆が起用されている理由もわかる気がする。
「美味い?」
「めちゃめちゃ美味いっす。さすが片瀬さん。ブラボー」
「調子いいことこの上ないね。まあ気に入ってもらえたならいいんだけど」
わざとらしく太鼓持ちをしたものの、実際美味いと思う気持ちは本心だった。あともう一杯くらいいけるな、と真剣に自分の胃袋事情を換算していると、ふとご機嫌にシチューをちまちま食べていた平山があらぬ方向を向いていることに気が付く。変な挙動をしているのはいつものことだが、一体何を見ているのか。視線を追うようにしてそちらを伺うと、片瀬がすぐに「門のとこでしょ」と先回って教えてくれた。確かに窓の向こうには男子寮の門がある。
「よくわかりましたね。そう、門のところに、女性が」
「ほんまや。誰かの彼女かな」
「さっきからずっといるんだよね」
ここに彼氏がいるなら早く迎えに行くべきだと思うけど、と微妙に眉を寄せる。もっともな意見である。二月も後半に差し掛かり梅も咲き始めたとはいえ、春はまだまだ先。見る限りそこまで着込んでいるわけでもなさそうだ。あの格好で立ち尽くしていては寒いだろう。このシチューを食べ終えてなおまだいるようなら声をかけようかと二杯目をよそっていると、それより先に別の寮生が窓枠の中に映りこんできた。待ち人登場みたいですね、と無感動に呟く平山に軽く「よかったやん」と笑って改めて席に着く。
「っていうかまだ食べるんです? よく入りますね」
「お前が少食なだけや。俺は普通」
「あ、パンもまだあるけど本川君いる?」
「いりますいります」
「やば……」
座ったばかりだと言うのにパンを焼くためにまた改めて立つ羽目になる。早くしないとシチューのほうが冷めるな。そう思いながらトースターにパンを入れつまみを回すと一気に手持ち無沙汰になった。別に律義に前で待っていなくてもいいのだが、意味もなく中を眺めてしまう。なんとなく、先ほど窓越しに見た少女の気持ちを思った。
「おーい本川!」
「へっ!?」
途端、大きな声で己の名前を呼ばれて肩を揺らす。ばっと振り返ればそこにはさっき声をかけに言っていた寮生が大きく手を振って自分を呼んでいた。俺今パン焼いてんねんけど。そう若干わざとらしく不服気に言ってみても彼は怯むことなく、それどころかどこかにやにやとした様子で自分に近づいてきた。
「お前に客が来とる」
「客ぅ?」
「そう、しかも女の子」
「えっ」
はよ彼女迎えに行ったれ、とわかった風に肩を叩かれても意味が解らなかった。いや、彼女じゃないし。そう弁明するもむなしく誰にも届かない。助けを求めるようにして平山に視線を送っても、涼しい顔でシチューを食みながら「早く行ったらどうです」と突き放されるだけだった。
「アンタが本川陽太?」
「……はあ」
ちょっと面貸してもらうわよ、と可愛らしく整えられた容姿からは想像もつかないような物言いで問答無用に連れて来られたのは喫茶店だった。移動中ずっと横だか後ろだかに位置どって指示してくるからどこに連れていかれるのかと思っていたが、真っ当な店に連れてこられて少しだけ安堵する。たしか前に笠田と平山が利用したと言っていた店だ。まさかこんな形で自分も入店する羽目になるとは思わなかった。別にこのまま走って逃げることも出来ないではないのだが、住居は既に割れているのだし、そもそもあれだけ堂々と外に立っていたのだから、狼藉を働くようなことでもない、のだと思いたい。道ながら数度くしゃみを繰り返していたのも、些細なことではあるが気にかかった。本川の考えていた通り体が冷えているのだろう。道端で長話をさせるのは酷だ。カツカツとヒールの音を背に感じながら、本川はそう自分に納得させた。適当な二人席に腰を下ろすと、少女もわずかに強張った面持ちで正面に座る。
「ケーキセット一つと……アンタは?」
「えっ、ああ。じゃあ同じやつで」
「すみません、ケーキセット二つでお願いします」
にっこり笑って注文を取った店員を見送ると、ふうと一つ息をついて少女は机の上で指先を組んでこちらを見やった。店内にはゆったりとしたジャズ音楽が流れていて、なんだかいよいよ緊張感を失ってしまいそうだった。あの、と本川はとりあえず口火を切る。
「会ったことあったら悪いんですけど、その……どちらさんですか?」
「会ったことないわよ。完全に初対面」
アタシは橋本千鶴。アンタと同い年だから敬語もいい。と一つ断って水を口に含む。知り合いじゃないならなぜ、と聞くのは何だか無粋なような気がして口に出せなかった。本川が沈黙を破ったことに勢いづいたのか千鶴と名乗る彼女は改めて話し始めた。
「アンタの実家に、橋本虎太郎っていう名前の男が来たの、覚えてる?」
一瞬思考が止まって、それからぱっとその男の顔ではなく背中が浮かぶ。ああ、あの人。すっと出てきた肯定の言葉に、目の前のアーモンド形の瞳がすっと細められた。やっぱり、と言わんばかりの顔に慌てて、下の名前までは覚えてないから別人かも知らんで、と付け足す。本川の中の橋本という男は、この手で背の鶴を完成させた男だ。
「不機嫌そうな顔してた?」
「してた」
「ならそいつよ」
そんな雑でええんか、とは言わなかった。実際自分が彼の特徴をあげるとしたら似たようなことを言うだろうと思ったのだ。他の表情何て見たことがない。そういう人間だったのだろう、彼は。そういう風にしか生きられなかったのだと思う。彼の何を知っているわけでもない本川が語れる話でもないが。語る必要もないのだ。たまたま本川が悩んでいるときに居合わせてすぐに去っていった男でしかないのである。本川が勝手に彼の考え方に感化されていただけだ。それでその橋本さんが、一体何。そう問おうとしてすぐにハッとする。
「妹?」
「……そうよ。まあ一応うちでは兄は勘当扱いになってるみたいだけど」
「やっぱりそれは」
反社会的だからなのか。それは寸でのところで留まった。知らなかったらどうしようと思ったのだ。そうでなくてもまあ、デリケートな話題ではあるのだろうし。勢いよく言い淀んだ本川を見越したように、千鶴は息をついて「まあそういうことよね」と言った。社会的に良くない人間を匿っていられるほどの情はうちにはなかったみたい、という語り口はあからさまに彼女の家庭を非難する色が含まれている。まあどちらの気持ちもわからないでもない。当人はヤクザではないと言っていたが、同時に社会に守ってもらえる存在でもないと話していた。関わると同じように守ってもらえなくなるとも。両親は千鶴の口ぶりからするに真っ当……という表現が正しいのかはわからないが、まあ一般的な人間なのだろうし、一人の息子を切り捨ててもう一人の娘と自分たちの身を守ると言うのも、まあ間違った選択とは思わない。それを寂しいと思う気持ちもまた、決して否定されるべきものではないけれども。悔しそうな顔をして下唇を薄く噛む姿に、本川は何だか切ない気持ちになった。
「アンタがお兄ちゃんと会ったのは四年前ね?」
「せやな。俺が高三の時やから」
「丁度そこから行方が分からなくなったの」
それでついこの前、葬式の事後報告だけがうちに来た。吐き捨てるような物言いだった。内容よりもその態度に息を呑む。一切の感情の含有を排除せんとしたそれは、なんだか逆に生々しく痛々しい。ソウシキ。そう無作法にも鸚鵡返しに口にしてしまうそれに苛ついたように「そうよ」と返事をする千鶴に対して、本川は己の不用意さを恥じる余裕など持ち合わせていなかった。死んだのか。ワンテンポ遅れてその事実が胸を占める。埋まったのだか沈んだのだか知らないが、火葬されたということは、個を持つ肉体を手放したのだ。彼はもう、どこにもいなくなったのか。
「それは……えっと」
「お悔やみ申し上げますとかご愁傷さまですとかは言わなくていいわよ。定型文貰ったって何にもならないから」
「そっか」
いきなりこんなこと言って困らせて悪かったわね、と千鶴は本当に申し訳なさそうに言った。むしろ自分よりずっと彼女のほうが辛いだろうに、それを話させてしまったことのほうを、本川が謝罪したいくらいだった。冷え切った空気の中、ウエイトレスが気まずそうにケーキと珈琲を置いてその場を去っていく。白と赤のケーキは驚くほどに雰囲気に見合わなかった。
「え、えっと。それを俺なんかに教えに来てくれたん……?」
「いいえ。アタシ、そんなに善人でも暇人でもないの」
善人でも暇人でも来てくれへん距離感やと思うけど、と思いながら仕方なくフォークを握る。注文してしまった以上は美味しく食べなければ悪いと言うものだ。そういえばシチューはどうなっただろうか。片瀬のことだから冷やしておいてくれているだろうか。目の前に鎮座している生白いクリームを眺めながら先ほどまでいたあの空間を思った。当たり前だが温かくもないし、味だってずっと露骨に甘い。
「アタシが調べうる限りで最後にお兄ちゃんが訪れてたのはアンタの家だったのよ」
「……はあ」
「だから話が聞きたかったの。何か事情を知ってるんじゃないかと思って」
千鶴は珈琲に少しだけ口付けて、それから僅かに顔を顰めた。黙ってテーブル脇に置かれていた角砂糖の入れ物を差し向けると、少しだけバツの悪そうな顔をしてそれを受け取る。ややキツイ物言いが目立つが、案外可愛いところもあるのかもしれない。弛緩した空気に任せて本川は自分のカップにも砂糖を入れる。そうは言われてもなあ、と黒い水面に銀色を差し入れて回すと、塊はあっと言う間にその姿を消してしまった。
「俺、マジで大したこと知らんで。客の情報だって当たり前やけど父親が管理しとるし」
「わ、わかってるわよそのくらい……! 先にアンタの実家で追い返されたからここにいんのよ!」
「まあそらいきなり来た女にペラペラ全部喋ってるようじゃ冗談抜きで消されるやろ……」
「それも込みでなんか聞ければラッキーくらいで行ったのよ」
実際アンタの母親が「陽太のお友達か」って言うからアンタの存在に気づけたわけだし、それでこうして話聞けてるんだし。ケーキを丁寧に切り分けながらそんなことをすらすらと話す。己のプライバシーも何もあったものではない話である。母親を責めるわけにもいかないが、こうしたことが切欠でストーカーだとかに居場所を特定されたりするのだろうな、とやや薄ら寒い気分にはなった。というかそもそもなぜその情報だけでこの場所がわかったのか。実家からはお世辞にも近いと言えない距離である。そんなことを恐る恐る聞いてみると、千鶴はさも当然のように「玄関に合格証書飾ってあったもの」と笑った。全然可愛くない洞察力である。実家に帰ったら真っ先に片してもらおうと一人胸に刻んだ。
「悪用してないんだからいいじゃない。それで、ほんとに何も聞いてないの? 些細なことでもいいのよ」
「良いとか悪いとかじゃないねんけど。……橋本さんなぁ」
していたのはほとんど自分についての話だ。そこに彼自身の情報が含まれていたとは到底言えそうになかった。本川が覚えている範囲での彼の情報と言えば精々、たこ焼きが好きなことと、ヤクザではないが堅気でもない、曖昧な存在であるということくらいである。あとは、そう言った生き方しかできないことへの諦めのような捉え方。それくらいのものだ。千鶴にもそれだけを、出来るだけ忠実な語り口で話す。彼女はただただ眉を顰めて相槌を打ってくれていた。
「こう言っちゃ悪いけど……結構当たり障りないのね」
「まあそんなもんやで、俺とあの人の交流って。遠すぎるもん」
「……そうよね」
明らかに気落ちした様子で瞳を伏せる姿は、なんだか目も当てられなかった。本川からすれば変な状況だが、彼女からすれば唯一兄の人生に触れられる頼みの綱だったのだろう。正直なところ、いくら自分が思い出話を語ったところで死んだ人間はどうにもならないだろうにと思っていたのだが、多分それは違う。これは彼女自身の問題なのである。葬式にだって出られなかったのだ。きっと、本川が考えているよりずっと、千鶴はその死を受け入れられていないに違いなかった。
「……アンタまで落ち込まないでよ」
「あぁ、いやなんかその……ごめん」
「今のは八つ当たりなんだから謝られても困るわ」
正直わかってたし、と息をついてケーキのてっぺんに居座り続けていた苺をぱくりと口にした。実は生きてるとか、アンタ達に遺言預けてるとか、そう都合よくいかないのは当たり前よね。そんな諦めの言葉はどうにも痛々しい。叶うことなら自分も彼女にそう言ったどんでん返しをもたらしてやりたかったと思うほどには。気まずい雰囲気を振り払うようにして千鶴は一人でつらつらと話し続けている。何か口にしていないとやりきれないのかもしれない。結局はそれも誤魔化しにすぎないのだろうが。
「ほんと、いきなり呼びつけて変な話して悪かったわね。虫がいい話かもしれないけど、今日のことはもう忘れてちょうだい。私も忘れるから」
「……これからどうするん?」
「どうするも何も普通に家帰って、普通に生活するのよ。全部、全部忘れて」
「忘れられるん」
「……やめてよ」
なんとなく、何かしてやりたいと思った。それは、衝動的なものでしかないけれど。ここで彼女を一人で帰らせてしまうのは、寂しいと思ったのだ。
「ここで会ったんもなんかの縁やしさ」
踏ん切りつけるん、手伝わせてや。わざと軟派に明るくそんなことを口にした。モデルは親しい同学部の友人である。千鶴はしばらく意味が本気で理解できなかったらしくぱちぱちと何度も目を瞬かせてから、掠れる声で「どういう魂胆なの」と呟いた。
「それ、傷心中の女の子に付け込んで手を出そうとする男のムーブじゃないっすか?」
「……俺も後々思い返してそう思った」
「よっ、ナチュラルボーンナンパ野郎!」
「シンプルな悪口やめろや」
そういう気はなかった、という弁解はどう頑張ったって聞き入れられないものである。まあ当たり前だろう。自分が同じ言葉を聞いても普通に信じないだろうし。だからこそあの後交換した連絡先から本当にメッセージが入ったことに驚いたのだ。あんなあからさまに胡散臭い誘いに乗るようなタイプにも思えなかったから余計に。それだけ自棄になっているということなのだとしたら、それはそれで悲しく思う。本川は容赦なくブラックコーヒーを吸い込んでいく矢野を眺めながら小さく息をついた。駅下のカフェだからかガタガタと電車の音がうるさい。
「しっかし酔狂というか何というか。死んだ人間のことなんてどうせほっといても忘れますよ」
「なんちゅう言い草すんねん」
「ずっと引きずってる方が不健全でしょ」
「それはまあ、そうなんやけど」
残念ながら人間はどれだけ立ち止まることを望んでいようとも、何某かに背を押されて強制的に足を進めさせられるものなのである。時間と同じように、人生もまた勝手に進む。当人の意思関係なしに。途中で受けた傷が癒えていなかろうと足は動いて、その先で寿命を迎えるか、それとも目先の痛みに耐えかねてリタイアするかのどちらかなのだ。耐えられる限界値というのは当たり前だが人によって違う。治る前に全てが嫌になる人間のことを非難しようとも、あまり思えない。そう言う人間に立ち会えば当たり前に止めるべきだとも思うが、千鶴がそう言ったタイプなようにも感じられなかった。彼女はまず、兄の死を受けとめるところから歩みを止めている。
「葬式にも出れんと、やっぱり実感わかんやろうから」
死に化粧を見ずとも別れを悼むことのできる人間はいる。でもそれは、周囲にその死を共有できる人間がいてこそだろう。流れで思い出を語ったり、人となりについて悪し様にでもいいから話すことは、死者への追悼というよりかは自分のためになるのだ。極端な話葬式だってそうだろう。あれは生きている人間が死者と決別するためのものだ。千鶴には、それが足りない。死体だって見ていないし、思い出を語ろうにも家では兄のことはタブー扱いにすら見えた。そんな環境にいては兄の死に実感が湧こうはずもない。己が痛みを受けていることすらわからないようでは、傷も治しようがないのだ。
「だから話聞いてあげるんすか? お人好しっすね」
「別にそんなんじゃない。あの子の兄貴には俺もその……たこ焼きとか奢ってもらったし」
「釣り合いって言葉知ってます?」
「まあ細かいことはええねん。わざわざ俺のとこ尋ねてきてくれたんやし、これも縁やと思っただけ」
「ふうん」
まあ上手くいくといいすね、と適当に笑って正面の男は腕を捲った。もうそろそろ出ないと間に合わないんじゃないすか。わかりやすく腕時計を指し示してくる彼に、本川もガタガタと勢いよく椅子を引く。待ち合わせまでの時間埋めに付き合ってもらっていたことをすっかり忘れていた。乗る電車は既に決めているからそれに乗れさえすれば問題はないが、時間的にはまあぎりぎりだった。遅れたら五月蠅そうな相手である。こちらから声をかけておいてそれかと呆れられるかもしれない。矢野がいなければ危なかった。
「悪いな、バタバタさせて」
「いやまあバタバタしてるのは本川君だけなんで別にいいですけど」
「それもそうやな。謝る必要なかったわ」
謝られ得っすねー、とへらへらしながら手を振る動作は、用意ができたらさっさと出ろという意味だろう。もう少しここでゆっくりしていくつもりなのかもしれない。矢野が一人でいる姿というのは、どうにも想像しにくいものだが。絶えずニコニコしていたりするのだろうか。それはそれで心配な話である。別に無なら無でいいのだ。自分と二人でいるときもあまり沈黙を作りたがらない彼は、どうにも楽以外の感情を表現することを避けるきらいがある。別にもっと素を出してくれていいのに。平山だなんて同じ部屋に住んでいると言うのに半日会話をしない日があるくらいだ。笠田の部屋に行ったって、彼がゲームをしている後ろでひたすら漫画を読んで終わるときがざらにある。そういうものなのだ。気の置けない仲に、矢野だけ踏み込ませてくれないものだな、と悲しく思いながらその場を後にする。まあ彼にとってそれが心地いい距離だというのなら、それはそれでいいのだけれど。
「驚いた、早いのね」
「ちゃんと狙ってた電車に乗れたからな」
「アンタが時刻表見るタイプなのも驚きだわ」
この駅に来る電車三十分おきだから、てっきり適当に来てオーバーしてくると思ってた。感心したように見上げてくる千鶴に、若干馬鹿にされたような気になる。流石に待ち合わせの時間に間に合るようにするくらいの配慮はある。いくら提出物を忘れがちな高校生だった過去があったとしても、だ。そもそもめったに使わない路線だから調べない限りは辿り着くことすらできないのである。なぜこんなところを指定したのか、と問うと千鶴は澄ました顔で「ここがアタシの地元だから」と言った。
「あ、そうなんか」
「何にもないでしょ。いいわよ、気遣わなくて」
「まあ大阪もこんな感じのとこいっぱいあるけど」
「どこも都心部から離れれば似たようなもんよね。田舎にも都会にもなれない無個性な町にしかならないの」
ここは海があるだけマシ、と小さくどこかを見やってから千鶴は改札に背を向けて歩き始める。橋本との思い出の場所でも渡り歩きながら、緩く彼の話でもしよう。それが本川が提案したことだった。ここが千鶴の生まれた土地であるのなら、それは同時に橋本が生まれ育った土地でもあるのだろう。灰色の町に、わずかばかりの新緑が茂っている。高い建物も何もない、屋根ばかりの街並み。千鶴の言葉の通り、無個性ではあった。今はどこもそんなものなのだろうけれど。
「ご飯、食べてきた?」
「いや、さっきカフェオレ飲んだだけ」
「そう? ならいいんだけど」
高いヒールは以前と比べて少しだけ機嫌よさげに弾んでいるように思える。前回よりは心を開いてもらえたのだろうか。否、こんな意味の分からない提案をしてくる男のことを当たり前に信頼されても困るのだが。まあ始めて声をかけてきたときは期待と落胆と緊張でぐちゃぐちゃだったのだろうし、新しく兄の情報が手に入らない分逆に気楽ではあるのかもしれない。今日は、彼女が語る側なのだ。橋本という男のことを最後までよく知らなかった本川は、妹の目線から語られる彼という存在に、かなり興味があった。正直な話、それが本川を駆り立てるのに一役も二役も買っているわけである。
「飯行くん?」
「そう。お兄ちゃんといつも行ってた中華料理屋」
「おー、中華。ええやん」
食の話をしていると腹が減るものである。何食おかな、と刺激される唾液腺を感じながら呟くと、千鶴が「担々麺が美味しいわよ」と教えてくれた。長いこと食べていない料理である。笠田の下宿先にはないメニューだからだ。そういえばあそこ以外の中華料理屋に行くのも久しぶりか。そんなことを思いながら千鶴に「ええやん」と相槌を打った。
「辛いの好きなんや」
「食べれるってだけよ。辛いの自体が好きなわけじゃないわ」
「そういうもんなん?」
「そういうもんよ。逆にアンタは辛いの好きなの?」
「いや……食べれるってだけ」
「一緒じゃない」
くすくす笑って本川のほうを見やると、それから彼女は滔々と兄の話をした。兄はいつもラーメンと炒飯のセットを食べていたこと。ここからずっと離れたところに住んでいたのに、実家暮らしだった千鶴のためにここまでその都度足を運んでくれていたこと。いつも「会いたい」と言うのが恥ずかしかったから中華が食べたいとねだって呼びつけていたこと。なんだか聞いているこちらが恥ずかしくなるようなはにかみと声色は、彼女の兄への好意を半ば強引にも想起させるものだった。まあ想像はしてたが、やはり相当なんだなと本川は少し苦笑する。
「何よ、変な顔して。このブラコン女がとか思ってるの?」
「いやまあそこまでは思ってへんけど。懐いてんねんな、とは」
「懐いて……そう見える?」
当たり前に自覚していると思われたそれを不安げに聞き返してくるものだから、本川は一瞬言葉に詰まった。いや、そう見えへん道理がないけど。そう迂遠だかなんだかわからない言葉遣いでゆっくりと頷くと、千鶴は「そっか」と安堵したように呟いた。今ので正解なのか。なんだか釈然としないやり取りである。まあその程度の距離感と言えばそうなのだが。自分は今日、彼女のいいようにされるためにわざわざここまで来ているのだ。変な詮索も無用な言葉も極力避けるべきだろう。中華料理屋の漢字四文字の店名が仰々しく書かれたそれを前に歩みが早くなる千鶴を見て、本川はその再確認をした。
「若干お昼から時間外してきて正解だったわね。ほとんどいないわ」
「はよ入ろう。体冷えるで」
その華奢な肩には決して触れずに、背を押すようなパントマイムだけで中へと追い込む。千鶴はそれにもはいはいと言った様子であまり派手には反応せずに、奥へ奥へと追いやられるままに入って行った。向かい合うようにして二人席に座る。メニューを開きながらふと、先日は自分が奥側に座らされていたことを思い出した。今思えばせっかく捕まえた自分に逃げられないための苦肉の策だったのかもしれない。何ともまあ小癪というべきか、可愛らしいというべきか。
「注文していい?」
「どうぞ」
「すみませーん」
気前の良さそうな中年の男が「はーい」と声をあげながら近づいてくる。担々麺と、と言うところで言葉を区切ってこちらに視線を寄越す千鶴に答えて「ラーメンと炒飯のセットで」とメニューを指さした。回収されたメニューと引き換えに置かれた烏龍茶をちびちびと口にする。中華料理やって烏龍茶がちやよな、と要らぬことばかり考えていたら、目の前の女が微妙な顔をして両手で頬杖をつきながらこちらを見つめているのに気づくのが遅れた。
「……どしたん」
「別に、八つ当たり」
「後学のためにどこに八つ当たる要素があったんか教えてくれ」
「ラーメンと炒飯のセット」
「それで察すの無理あるって」
「今のでわかったら流石に拍手するわよ」
まあそもそも別に怒ってないんだけどね、ちょっと悪戯っぽく表情を崩してから姿勢を立て直す。
「お兄ちゃんと同じもの食べれるの、いいなあって」
「食べればええやん」
「昔挑戦したことはあるんだけど」
量が多くて食べきれなかったの、と千鶴は困ったように眉を下げ瞳を伏せた。まあそれはそうだろうなと思う。冷静に考えればラーメン丸々一つと、単品より少量ではあろうがそれなりのサイズの炒飯というのは中々腹に重たい。健啖家というわけでもなさそうだし、自分のように色々あれもこれもとは食べられないのだろう。胃のサイズは人それぞれである。最も自分に非があるとも思わないので、まあ文字通りの八つ当たりだったのだろうが。
「ちょっとだけ分けたろか」
「え、いいの?」
「そんな俺、別に意地汚くないから」
「ありがとう。アタシの担々麺も食べていいわよ」
「おっしゃ。よう言うた」
そもそも本川はもともと担々麺が食べたかったのだ。それをわざわざ曲げたのは偏に、あの男がよく食べていたと聞いたからでしかない。興味があった。橋本という男を構成していたのはどういったものだったのか。同じものを食べただけでわかったような気になるのも違うと思うが、それでもまあ、少しくらいは近づけるような気がしたのだ。そういうよくない気持ちを見透かされたが故のあの視線かと思ったから、見当違いだとわかってわずかにほっとしたのは秘密である。
「この後はどうするん。飯食って今日は解散?」
「……アンタがそれがいいっていうならそうするけど」
「いや、俺は別に何時まででもお付き合いしますよ姐さん」
「誰が姐さんよ。調子いいわね」
まあでも、と逡巡するように空に視線をやってから口を動かす。しかしそれと同時に店員の男がやってきて、ニコニコとしながら注文の品を次々と机に並べ始めた。担々麺、炒飯、ラーメン、そしてカラアゲ。本川は思わず視線をあげて男と千鶴を交互に見比べる。彼女もまた同じようなことをしていた。
「余ってたから、サービス!」
持ち前の気持ちの良い笑顔を残してその場を去っていく。二人掛けの狭いテーブルの上に所狭しと並べられたそれの中で異様に輝いている揚げ物は、量もそれなりながら何というかすごく、重たそうだった。
「……食える?」
「……ダメなら今日は解散しましょう」
取り合えず伸びる前に麺類から、と本川は覚悟を決めて割箸を割る。やっぱり担々麺にしといたらよかったかな、とらしくもないことを考える。しかし千鶴が髪を括りながら担々麺を前にニコニコしているのを見て、やっぱりこれでよかったのだと思った。
「え、普通に買い物するん?」
「……お兄ちゃんと行ったのって、こういう普通の場所がほとんどなのよ」
悪かったわね、面白味のない場所ばっかり連れて行って、と千鶴はやや不満そうな顔をして本川のことを見上げた。いや、別に嫌なわけじゃないねんけど。申し訳なくなって宥めるようにそう笑えば、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向かれる。ショッピングモールの雑踏の真ん中でこんなやり取りをしていたら、傍から恋人の気を損ねた男だと思われそうである。別にそれ自体をどうだとかは感じないが、同行者が気を悪くすることを避けたいと思うほどには本川も人間だ。
「橋本さんとはいつもどこ見て回ってたん」
「……基本はアタシの買い物だから、服とか、雑貨屋とか」
「じゃあとりあえずそこ行こうや」
大きな館内マップの前に止まって、どこから行く、と指先を迷わせる。千鶴は少しだけ不安そうな顔で「ホントにいいの?」と聞いた。今更何をと思わなくもないが、本川はそれを飲み込んで首を縦に振った。この程度のわがままは可愛いものである。平山や矢野と一緒に出掛けた時など、その場の気分で突然「やっぱり帰りましょうか」と言われることもあるのだ。怒りは湧いてこないが、予定を不意に捻じ曲げられる負荷は何やかんやすごい。それに比べれば、というか元々の趣旨から外れていない分そもそも千鶴に非はないわけで、本川はそこまで彼女が気にする理由がよくわからなかった。
「と、途中で嫌になっても開放しないわよ」
「え、そんなやばい買い物するんか」
「いや、それは普通だと思うけど……退屈じゃない。やっぱり」
「橋本さんには付き合わせてたんやろ」
「お、お兄ちゃんとアンタは違うでしょ。アンタは他人よ、他人」
「まあ否定はせんけど」
事実他人である。過ごしている時間は多分計五時間にも満たない。別に親しい存在でも何でもないのだ。しかしそこで変に気を使われても困るのも事実だった。というか、散々意味の分からない絡み方をしてきたのだから今更遠慮しないでほしい。今日は俺、自分の言うこと全部ハイハイ聞くつもりで来たから、別に気にせんでいいで。そう若干面倒くささを顔に出しながら呟けば、千鶴は未だ複雑そうな顔をしながら、渋々といった様子で頷いた。自分が渋る側ちゃうやろ、とはさすがに言わなかった。
「じゃあ取り合えず服……ここ、ここ行く。ここ」
「突然語彙失うやん」
「仕方ないでしょ! アタシあんまり口上手くないの!」
「ハイハイ」
「ホントにハイハイ言ってんじゃないわよ」
吹っ切れたようにカツカツとつるつるとした床に向かってヒールを振り下ろしながら歩いていく。それに続くようにして半歩後ろに歩いていると、なんだか可笑しくなってきた。大方橋本はこんな風な位置取りでは歩いていなかったのだろう。千鶴より常に先にいるか、それとも隣にいたのか。そんな些細な真実は多分、聞かない限り千鶴の口からも語られない。二人にしか知り得ない真実というのは、そんなちっぽけな物であればいくらでもあるのだろう。
「ええな、兄妹って」
「突然何?」
「いや、何となく思って。俺一人っ子やから」
「へえ、そうなの? あんまりらしくないわね」
「ついでにA型」
「それはぽいわね」
本川が一人っ子らしくないと言われるのは、単純に一人っ子の化身のような男が常に身近にいるからなのだろうと思う。同じ部屋で過ごしていれば、ある程度世話を焼く能力が身につくのだ。本川本来の性分なわけではない。どちらかと言えば自分はその辺りは雑なほうであるとすら思う。別に人間は放っておいても存外何とかなるのだ。不必要に構い倒す必要もないし、過保護になる理由もない。本川が他人に積極的に手を焼くときは、単純にそちらの方が物事が上手くいくときか、興味を惹かれたときくらいなのである。
「でも自分もあんまり妹っぽくないよな」
「まあ四六時中兄がいたわけじゃないから。そもそも普段一人っ子だって名乗ってるし」
「あ、そっか。すまん」
「別にいいわよ。こうやって妹だって堂々と話せるだけ、今幸せ」
おお、素直やん。そう思わず笑えば、千鶴は若干嫌そうな顔をして「茶化すんじゃないわよ」とぼやいた。感謝してんのよ、アタシだって。そう言いながら店頭のワンピースの裾に緩く触れて視線を誤魔化す姿は、何ともぎこちなかった。
「お兄ちゃんの話、誰にもできなかったから」
「別に……俺だってあの人に関心あったから誘っただけやし」
「理由とかはどうでもいいのよ。本当の理由なんて、そんなの絶対アタシにはわからないもの」
だからこうして付き合ってくれてる事実だけで十分。伏せられた瞳にはしっかり長い睫が生えていて、本川の視点からはその瞳が良く伺えない。ただ、話すだけで十分だなんて、何とも寂しい話だと思った。大事な人の存在を他人にひた隠しにして、全ての思い出を無かったことにしながら生活するというのは、どれほどの苦痛を伴うのだろうか。理解することはできないが、彼女一人で抱えるにしては、兄の存在というのは大きすぎるような気がした。
「……別に、今日に限らず付き合うから」
「あはは! 気遣わなくていいわよ。言われなくてもアタシ、アンタのこと使い倒す気満々だから」
「なんちゅうこと言うねん」
強気に出ているが、事実そこまでのことができるほどの度胸を持っているようには思えなかった。たかだか買い物に付き合わせるだけで尻込みしていたのだ。どうにも卑屈で、自分に自信がない一面があるのだと、本川は少ない時間の積み重ねで察してきていた。強気な物言いをするのは、単純にそれを悟らせないためもあるのだろう。
「ええんやで。お兄ちゃんが好きすぎて泣いてくれても」
「な、泣かないわよ。バカにしないで」
「ええなあ、仲のいい兄妹」
「……」
胡乱な瞳で本川のことを見つめて溜息をつく。女性にしてはやや高めの身長でこそあるのだが、それでも本川の視線のほうが上なので、見上げてもらわないと顔がちゃんと見えないのだ。橋本もこの顔を見ていたのだろうか。いや、こんな顔は大好きな兄にはしないのだろうな。それを思うと少しだけ笑える。彼女の負の感情ばかりを、自分が初めてとして受け取っているのは何とも因果なものだと思った。自分はそう言う役回りなのだ。
「……別に、兄妹だっていいことばかりじゃないのよ」
そう言ってまた不満げな顔をする。ハイハイ、といなせば千鶴はさらに眉間に皺を寄せて「もう」とそっぽを向いた。
「さっき試着した奴とこれ、どっちがいいと思う?」
「えー……それ俺に聞いたら俺の好みになるけど」
自分の好きなほう選びや、と思ったままをそのままに返せば、そういうことじゃないと言わんばかりの目で訴えられる。率直に面倒臭いなと思った。別にどちらも同じくらい気に入ったのなら適当に右のほうを選ぶなりなんなりすればいいのである。自分の着る服なのに他人の意見に左右されてどうする、と本川なんかは思ってしまう。
「もー、使えないわね」
「逆に橋本さんってそういうのにも付き合ってくれてたん? 全然想像つかへんけど」
「ちゃんと答えてくれるわよ。なんならお兄ちゃんはどういうのが好きって聞いて、言われたやつを買うの」
「ガチで想像できひん」
「まあお兄ちゃんも適当に選んでたとは思うけど」
大体いつもマネキンに着せられてるやつそのまま指さしてたから、と一つ息をつかれた。そんな半ば雑ともいえる選ばれ方をしても、律義にそれを買って着ていたのか。こだわりが強そうに見えるのに全て委ねていると言うのは、なんとも意外だった。思いの外、服に頓着していないのか。本川がそれを尋ねると、千鶴はしれっと「一人で服買うときは普通に自分の好きな服買うわよ」と言った。
「お兄ちゃんといるときだけ、選んでもらうの。お兄ちゃんの好みが知りたいから」
「え、えぇ……」
「あ、今引いたわね!? いきなり突き放すんじゃないわよ!」
「いや、すまん。そうやんな、そういうタイプやんな」
「気遣われなくてもわかってるわよ自分がやばいことくらい……」
そう露骨に拗ねる。まあかけた梯子を外すような形になってしまったので、本川としても若干の罪悪感はあった。想像以上に愛情が大きいなと思っただけで、別に引いたわけではない。否、若干引いたかもしれないが、別にそれを否定する気はないのだ。いやそういう関係もありやよな、とよくわからないフォローをして味方であることを示しても、千鶴は耳を塞ぐような動作をして「やめてやめて惨めになるから!」と首を横に振った。
「出会ったばかりのアンタに求めすぎたアタシが悪かったわ」
「いや、いいと思うで。俺は、ほんまに」
「うぅ……」
信じていいのかこいつを、と値踏みの目で千鶴は本川を眺める。それに応えるようにしてひらひらと手を振り降伏を示せば、少しばかりしゅんとして彼女の爪先が床を蹴った。ホントにいいと思う、と不安げに上目が揺れる。それは俺が決めることじゃないよ、と本川は若干突き放すように言った。良いも悪いも、それを他人にゆだねるのはずるいと思ったからだ。自分がいいと思うなら良いでいいし、他人の言うことなど気にしなければいいのである。正解があるクイズだったらまだしも、人間の感情だなんてコントロールできるものではないのだし、ましてや可視化されるものでもないのだから、他人の善悪観だなんて信ずるに値しないものだ。そんなものを委ねられても困る。本川ができるのは自分の感覚としてそれを表明することしかない。
「大体ダメって言ってもしゃあないやろ。ええやん、お兄ちゃん大好きで」
「……わからないのよ。普通のお兄ちゃんってどういう距離感なのか。これで、いいのか」
「気にする必要ないと思うけどなぁ」
本川だって父親の仕事のことを隠していたこともあるし、まあ一般的な家庭環境とは言えない部分も確かにあるのだろうと思う。どこだって何かしらおかしいところはある。サラリーマンのお父さんと専業主婦のお母さんがいて、それなりの一軒家に住んでたまに喧嘩もしながら仲睦まじく生活している家庭なんて、この世に何軒あるのかもわからないし、そもそもそれが本当に普通なのかも知らない。本川が想像する一般的な家庭がそんなイメージだと言うだけである。実際統計でも取ってみれば違うのかもしれないが、それでわかるのだって結局平均値でしかないのである。本当の実情だなんてわかりやしない。家庭というのは不透明なものなのだ。そんなものをいちいち他と比較していたって仕方がない。だから他人とそんなことを比べようとも思わない。無駄だからだ。
「まあ気になるもんはしゃあないやろうけど」
「気にしたって仕方ないのはわかってるの」
「じゃあ俺が言えることはないなぁ」
「悪いわね、なんか」
「ええよ。そう言うの含めて付き合おうって思ってたし。……ちなみに俺が好きなんはこっち」
千鶴が手にしているハンガーを指さして軽く笑う。あくまで自分の意見である。さっきは引くような素振り見せちゃったけどさ。本川は視線をふっと逸らして首元を抑える。なんとなく照れ臭かったからだ。改めて自分の好みを認識させられた気恥ずかしさもあったかもしれない。可愛らしい水色のブラウスは、本川の好きな女子アナウンサーが着ていたものに少し似ている。
「ふうん……まあ、こっちじゃない方買うんだけど」
「俺の好み、完全に晒し損やん」
「アンタが自分が好きなほう買えって言ったんでしょ」
「それはそう」
まあアンタの好みの傾向は覚えといてあげるわ、と鼻で笑われた。チャラついた感じな割に清楚なのが好きなのね、とも。まあ否定はしない。本川は元来可愛らしい感じの顔が好きなのだ。とはいえ容姿の好みと内面の好みは一致することのほうが少ないから、別に見た目で声をかけたりだとかはしないが。ああいう好みの容姿の存在は、シンプルに傍から眺めているだけでいいのだ。
「……」
「なによ」
そう言う意味では千鶴の容姿は整っているとは思うが好みではない。さすがにそんなことは、口が裂けても言えないけれども。
「折角だからアンタも何か買い物しなさいよ。なんかないの?」
「えぇ……いや、うーん」
別に必要なものは都度買っている。だから改めて何か買えと言われてもはっきり言って困る。そんなことを本川が告げると、千鶴はつまらなそうに「ふうん」と大量に手にした紙袋やらを揺らした。
「そういうもんなの、男って」
「少なくとも俺はそうやな。他は知らん」
「お兄ちゃんも全くそういう買い物しなかったのよね」
まあ無理にアタシと買い物しろとも言わないけど、と千鶴は拗ねたように唇を尖らせる。そう言われてしまうとやりにくい。本川だって何も好きで買うものがないと話しているわけではないのだ。何か見たいところ、と色々思い浮かべてもそもそもこの施設に何が備わっているのかも知らないし、どうしたものか。仕方なしに館内マップの前で立ち止まると、ひょこひょこと素直に千鶴が足を並べた。
「服はいいの?」
「気に入ってるブランドここにないからなぁ」
「じゃあ本屋とか」
「本屋……」
「アンタ本とか読むの?」
「読むわ」
意外ね、と瞳をぱちくりとさせる千鶴は本川に対してどんなイメージを持っているのだろうか。まあ確かに読書家というほど読むわけでもないが、たまに馴染みの古本屋で本を買うくらいはする。読めないわけではない。もっとも、漫画だとかのほうが読むには読むのだけれども。そう言う自分はどうなん、と千鶴に話を振れば、彼女は一気にばつの悪そうな顔をして「まあ……読まないわけじゃないけど」とお茶を濁した。
「何読んでるん」
「……夢野久作、とか」
「あー、ドグラマグラとかの」
「そうそう」
本川が拒絶的な反応をしなかったのをいいことに、千鶴は少しだけ口を軽くして語り始めた。
「ドグラマグラもいいけど、アタシはやっぱり瓶詰地獄が一番好きね」
「昔読んだことあるような気ぃするけど覚えてないわ。どんなやつ?」
「無人島に漂着した兄妹が瓶に詰めて流した三通の手紙の話……なんだけれど」
途端に歯切れが悪くなって、誤魔化すように笑う。何言ってもネタバレになっちゃうからダメね。そう言いながら手をひらひらとさせると、本川の瞳を伺いながら「そう言うアンタはどんな本を読むの」と千鶴は尋ねた。あぁ話を逸らしたいのだな、と直感的に理解する。追及しても良かったが、本川は大人しくその話題に乗ることにした。見せないことは、見せる必要のないことだ。
「まあ何でも読むけど……それこそその時代の作家やと、坂口安吾とか菊池寛とか、その辺」
「ああ、真珠夫人はアタシも読んだわ。瑠璃子の生き方が格好良くて好きだったんだけど、それだけにあの結末に結構やられたの」
「真珠夫人おもろいよな。俺は恩讐の彼方にがいっちゃん好きやけど、とにかくどの話でも人間の泥臭さとか葛藤とか、綺麗じゃない部分含めて好意的に書いてるのがすごいと思うわ」
「そう言われると俄然読みたくなってきたわね……」
「本屋寄る?」
「それじゃあまたアタシの買い物になるじゃない」
変に物分かりよくしなくてもいいのよ、と千鶴は長い睫越しに心配気な顔を見せながら言った。別に本川は遠慮をしているわけでも何でもないのだが。一度それを告げている以上何度言ってもわかってもらえそうにもないし、どうしたものか。少し悩んでから「そんなに俺の買い物に付き合いたいん」と茶化す方向性に持っていく本川に、千鶴は一瞬面食らったのかその涼しげな瞳を丸くしてから首を横に振った。別にアンタの買い物にはそんなに興味ないけど。そうさらっと言われるとそれはそれで凹むものである。
「お兄ちゃんにアタシ、話を聞いてもらったり、何かしてもらってばかりだったから」
「俺は橋本さんとは違うよ」
「わかってるし一緒にしようとも思わないわ。でも、同じ失敗は繰り返したくないじゃない」
一方的な関係は、どうあったって長続きしないでしょう。だから。そこまで言って次の言葉が見つからなかったのか、千鶴はぱちぱちと数度瞬いて困ったように笑った。やっぱりダメね、と寂しそうに呟く姿に本川は何故だか胸が締め付けられるような気分になる。伝えることを諦めないでくれ、だなんて本川にはとても言えないのに。
「長続きさせる気なんや」
「言ったでしょ、使い倒すって。アンタが拒むまでは精々利用させてもらうわ」
「……別に、拒まへんけど」
「あはは! お世辞も口説き文句も結構よ?」
「いやそんなつもりじゃ」
そういった立ち回りをされると本川としても扱いづらい。如実に感情を伝える表情筋がそれを露わにしていたのか、千鶴は可笑しそうに謝ってきた。ごめんなさい、とくすくす笑いながら彼女は本川の周りをちょろちょろと動いて顔色を窺ってくる。「怒った?」という言葉遣いは基本煽っているときにしか使わないと思うのは、心が綺麗ではないからなのだろうか。にやにやとした口元を見るに大方見当違いでもないのだろうが。
「別に怒ってへんから」
「あらそう? それならいいんだけど。悪かったわね」
「もうええよ……ほら、本屋行くで」
「ちょっと、だから本屋だとアタシの買い物に」
「ええねんて」
俺も本屋行きたかったし、ともそもそ言い訳をする本川に、千鶴はきょとんとした顔をした。少しだけ橋本の気持ちが分かったような気がする。多分、遠慮をしていたわけではなかった。単純に大事な妹の望みを叶えることのほうが、自分のことよりも優先されていただけなのだ。伝わらないものだな、と思う。血のつながった兄妹であっても、形にしなければ全くうまく伝わらない。ふと、早坂の顔が頭をよぎった。
「我儘聞いたりたいっていう、俺の我儘やから」
「何よその、永久機関というかウロボロス的というか……」
「ちょっとちゃうんちゃうかそれは」
「細かいことはいいのよ」
そんなことよりアタシの我儘、そこまで言うなら頑張って聞きなさいよね。そう言ってパシリと本川の背を叩く。想像よりも強い衝撃が骨から全身へと伝わっていった。本気で叩くなや、と小言を言ってやろうと丸めた背を労わりながらその顔を覗き込んで、やっぱりやめる。あんまりにも嬉しそうなその様子に水を差すのはなんとなく無粋だと思った。
「人の本棚の前で何をしているんです」
「そら本を探しとるに決まっとるやろ」
「それ全部私の所有物なこと理解してます?」
不審な動きをしていた本川を見かねた平山が背後から声をかけてくる。時刻は日を跨ぐ数時間前。すっかり暗くはなっているものの存外早くに開放してもらえたのをいいことに、本川は自室で本棚を漁っていた。もっとも本川の所有している本など量が知れているから、こうして同室の男が本の虫なのをいいことに、こうして彼のコレクションを拝見させてもらっているわけである。本川だって彼によく漫画を貸し出しているわけだし、多少は大目に見てほしい。そう言うと、平山は若干呆れた顔をしながら「まあ別にいいですけど」と隣にしゃがみ込んだ。
「で、何が目当てなんです」
「んぇ、えっとな、あれ」
「指示語で伝わると思わないでください」
「ごめんて。……夢野久作の本をさ、読みたくて。瓶詰地獄」
「夢野久作?」
なんでまた突然そんな。ああいうの好みでしたっけ。胡乱な瞳でそう問いかけられる。好みか好みじゃないかで言えばまあ好みじゃない部類ではあるな、と本川はその視線から逃れるようにして顔を背けた。それにさらに平山は訝し気な感情を深めてくる。つくづく探求癖がある男である。本川は観念して一つ息をついた。知り合いが好きやっていうから、気になっただけ。彼女のことを形容する言葉に知り合いを選ぶのは、何となく変な気分だ。
「へえ。外見で趣向はわからないものですね」
「……誰とは言ってへんやろ」
「あの門のところに立ってた人でしょう?」
「まあそうやねんけど」
何故知っているのかを聞く謂れはしっかり本川にあるだろう。人の口に戸は立てられぬとはよく言ったものだが、この場合どこに戸を立ててやればいいのか。何と追及したものか、自分相手では常に平静を保っているその瞳をじっと見つめながら考えていると、平山のほうが先にあっさりと口を割った。矢野さんから聞いたんですよ、と人差し指をくるりと回す動作は、なかなか様になっている。
「本川君が珍しく女の子に肩入れしてるんすよ、と」
「いや、肩入れて……」
「それでまあ話を聞く限り、タイミング的にあの人だろうと」
平山の矢野の物真似は驚くほど似ていなかった。というか矢野に限らず大抵の真似は似ていない。観察眼そのものは優れているはずなので、特徴はわかっても似せ方がわからないのだろう。何となく癪だったので矢野の真似をして肯定してやった。おお上手いですね、と感嘆しているらしいのにいまいち心の見えない歓声が上がる。
「ああいう感じの子がタイプになったんですか?」
「全然違う」
「やっぱり」
「好みとかじゃないねん。ただの友達……ですらない」
「めちゃめちゃややこしいじゃないですか」
「いやまあ、知り合いの妹ってだけなんやけど」
「そりゃまた随分と遠いですねぇ」
そんな人のためにわざわざ好みじゃない本を読むだなんて、酔狂というか何というか。揶揄っているわけではなく本当に理解できないと言わんばかりの声色で平山はしみじみと呟いた。矢野にも同じようなことを言われたような気がする。タイプじゃない異性に下心なく優しくすることは、傍から見ればおかしいのかもしれない。本川からすれば、そう言われることのほうがおかしいと思うけれど。
「なんか心配やから……ちょっとでもわかってあげられたらなって」
「ふうん。まあ好きにしたらいいと思いますけど」
「まあお前にとやかく言われる筋合いはないわな」
「言っても聞かないでしょうしね」
「違いない」
お互いに深く干渉しあわないからこその関係性である。本川や平山は比較的オープンな気質でこそあるが、それでも基本的には個人主義だ。笠田や矢野は言わずもがな踏み込まれることを嫌うし、要するに全員程よく距離を取りたい人間の集まりなのである。大方本質は全員近いのだ。因果なものだな、と本川は平山の横顔を見つめながらそんなことを思う。平山はそれにはいまいち気づかずに、本棚を一応確認しながら「夢野久作……」と譫言を呟いていた。
「残念ながら瓶詰地獄はここにはないですね。読んだ記憶はあるから多分実家かな」
「どんな話か覚えとる? 読んだかすら覚えてない」
「それは読んでないんでしょうよ」
私もきちんと全部覚えているわけでもないのでふわっと説明しますが。そう言いながら平山は立ち上がって、ベッドに腰掛ける。ずっとしゃがみ込んでいたから足が疲れたのだろう。本川もそれに倣って隣に腰掛けた。途端に血の巡りが良くなった感覚がして、少しだけ気分を害する。
「まず物語は、三つのビール瓶が発見されたという海洋研究所宛ての手紙から始まります」
「この瓶の中に手紙が入ってるわけやな」
「そうです。そこから第一の瓶、第二の瓶、第三の瓶と三通の手紙の文面が続けて語られるわけですね」
「中々浪漫のある話やな。書き手が違えばラブロマンスが始まりそうや」
「まあ彼も明るい話がないわけじゃないんですが……これは残念ながら、夢野久作と言えばこんな感じよねぇ、の話なのでそうはいきません」
まず第一の瓶、と眼鏡を押し上げて語る。なんだか講義を受けている気分になってきた、と冗談交じりに言うと「本川君、ちゃんと話を聞きなさい」とそれらしく叱られた。そんなところまで真似なくてもいい。
「第一の瓶にはまあ要約すると……無人島に救助の船が来たけど、今から妹と身投げします、みたいな内容が書いてあります」
「いきなりアクセルべた踏みやな」
「第一の瓶から既にクライマックスですね。まあ当たり前ですが読者は当然何故、と思うわけで、それの経緯が第二第三の瓶に描かれていると期待するわけですが」
「うんうん」
「まあその辺は……長いので本当に結論だけ言います」
平山はそれから逡巡するような瞳の動きを見せて、言葉を選び終わったと言わんばかりの表情で口を開いた。珍しいな、と本川は思わずその唇を凝視してしまっていて、一瞬耳の集中力が切れかける。だから、理解ができなかった。
「この話はインセストタブーの話なんですよ」
「へ?」
「……知らないとか言います?」
仕方なしに復唱してくれる平山に、本川はハッとする。いや、知ってる知ってる。そう口にしながらようやくその単語の意味を咀嚼できた。インセストタブー。近親相姦の禁忌。到底日常会話で話すような内容ではないが、と確認するように目を合わせると、平山は平然と「あってると思いますよ」と頷く。夢野久作ってそんな感じなんや、と本川は何とも言えない感想を抱いた。
「無人島に漂流した兄妹の、唯一の知識先は一冊の聖書でした」
「……他ならともかく、キリスト教ではタブーか」
「そうです。しかし兄である太郎は日に日に妹であるアヤコに、まあ悩ましい思いを抱えてしまう……といった内容が第二の瓶の手紙には太郎の筆致で書かれているわけです」
「なんか……コメントしづらいな。その、それが原因で罪悪感覚えて身投げってことやろ?」
「そういう風な解釈が一般的ですね。この辺は無宗教無信心な我々には理解しがたいですが」
こういった経緯が太郎の苦しみと共に締めくくられて、ついに最後の第三の瓶へと物語は移るわけです。平山はくるりと人差し指を回してから、じっと手のひらを見つめるとぎこちなく三本の指を立てた。物語り、とはいかないがなかなか聞き入ってしまってドキドキとしている自分に自覚的になる。夢野久作がすごいのか、目の前の男の説明が上手いのか。多分前者の方なのだろうな、と思いつつ本川は唾を飲み下して平山の次の言葉を待った。
「第三の瓶は少しだけ特殊なんですが……確か」
「おん」
「父さん母さん、僕らは仲良くやっています。早く助けに来てください」
「えっ?」
「みたいな内容がカタカナで簡潔に書かれていて、最後に二人の名前が書かれておしまい」
「えっ!?」
呆気なすぎるほどの幕引きである。本川は激しい肩透かしを食らったような気になって、ぱちぱちとその場で瞬きを繰り返して呆然とする。勝手に期待して勝手に裏切られているだけなのだが。全く動きのない視界の開閉を続けていると、段々思考が返ってくるのを感じた。第一の瓶では身投げの予告。第二の瓶では事の経緯。そして第三の瓶では救助の要請。
「……あれ。順番おかしない?」
「そう、そこがミソなんですよ。この三つの手紙は、作品内で書かれた順番が明記されていないんです」
まあこの辺は実際に読んでみると色々と考える手掛かりが散りばめられているので、坂井さんのところででも買って読んでみたらどうです、と平山は親切にも勧めてくれる。まあ偶にはそう言うのもいいかもしれない。千鶴と次に会う約束をした日はまだしばらく先だった。さして読むのが遅い方というわけでもないし、読み切ってもなおお釣りがくるくらいだろう。そうするわ、と平山に礼を言いつつ告げると、彼は少しだけ微妙な顔をした。
「どうしたん」
「いえその、本川さんに勧めた方……御兄弟がいるんですよね」
「おん。兄と妹の妹のほうやよ」
「私は一人っ子なのであまり実感が湧かないのですが」
兄弟姉妹がいる人には、この手の話は嫌悪されがちなのかと思っていたので。平山のその呟きに本川は何とも言えない気分になる。まあフィクションやから、と曖昧に笑う裏で本川は何を思えばよかったのだろう。千鶴があの時あらすじを語りたがらない理由がそこにあるのだとしたら。邪推とも思えるそれをゆるゆると頭を振ることによって吹き飛ばす。もし本当に、そう、だったのだとしても、本川には関係のないことなのだ。
「ちっす。来てたんか」
「笠田君、九時ごろに来てずっとここにいるんすよ」
「え、やば……」
「別に騒いだりしてないんだからいいだろ」
矢野の下宿先かつバイト先の坂井の店は、一階の古書堂部分の上に住居スペースが設けられている。一般の客は当たり前に侵入不可だが、本川たちのような馴染みの者は顔パスで上げてもらえるようになっていた。単純に追い返すのが面倒だからだろう。本やら漫画を買ってすぐにその場で読むことも、気づけばすっかり習慣化している。同じような経緯で矢野がサボっていることもあれば、今日のように笠田やら平山やらといった先客がいることも少なくなかった。彼のふてぶてしく話しながらもずっとコントローラーを離さない姿には、感心すら覚える。
「……自分、家にゲーム機大量にあるやん」
「旧型機だからないんだよ。これは矢野のやつ」
「俺が学生時代にずっといじってたやつっすよ」
まあ既にプレイ時間は笠田さんの方が上回りそうっすけど、とへらへら笑いながらも、意外に矢野は真面目に画面を見ている。自分ら朝からこんな感じなん、と聞くと両方から曖昧な答えが返ってきた。ちゃんと覚えていないだけで実際そうなのだろう。いかれてるな、と言いながら本川はテーブルの上に謎の位置取りで置かれている二つのコップに、冷蔵庫から持ち出した麦茶を注いでやった。自分が言うのもなんだが、坂井はよくこんな手のかかるデカい子供の相手をしていると思う。
「本川君はどうしたんすか。また漫画?」
「またてなんやねん。今日は小説や」
「あ、ほんとだ。うちの売り上げに貢献してる。笠田君も見習ってください」
「君のゲームの進行度には貢献してるから安心してくれ」
「一緒にしたらあかんやろ」
呆れながらも液晶の前に胡坐を組んで座りこんでいる二人に並ぶ。顔色一つ変えずに真面目な顔をしてゾンビを倒していく姿は中々可笑しかった。こういうのって、多少ビビりながら盛り上がるのが醍醐味なんじゃないのだろうか。開けられているスナック菓子を一つ口に含んでみると、彼らの時間経過が伺えた。黙って残りを消費することを諦めて、本川は先ほど自分のものになったばかりの本の表紙を眺める。その動作が気になったのか、矢野の大きな瞳がテレビ画面からこちらへと移っていた。
「おお、夢野久作だ」
「瓶詰地獄が読みたかってん」
「瓶詰地獄っていうとあれでしょ。アヤコと太郎のやつ」
「あー、そんな名前だったっけ。無人島に行く話だよね」
「もしかしてめちゃめちゃポジティブな冒険物語に解釈してます?」
腐肉をなぎ倒しながら笠田も器用に会話に入ってくる。本川もあらすじを聞いただけだが、あれは無人島に行くというよりかは、無人島に漂着してしまう、のほうが正しいだろう。全く以て本人たちの意思には関係ない。
「なんや、自分ら二人とも読んだことあるんや」
「……部活やってないと中高生ってマジで暇だからね」
「家いると暇だから、ゲームか読書くらいしかやることないっすよね」
「ごめんやん」
あらぬ形で藪をつついてしまったことを後悔する。いや、突きたくて突いたわけではないのだが。話を誤魔化そうとどう舵を切るかに意識を巡らせる本川に、笠田は呆れたようにちょっと笑って、それから「そういえば」と代わって話を変えてくれた。
「矢野にお兄さんがいるって知ってた?」
「えっそうなん? 初聞き」
「ね、僕もさっき聞いてびっくりしたんだ」
「別に隠してたわけじゃないっすよ」
話すようなこともないから話さなかっただけで、と矢野は平然と言い放つ。まあ確かに話題にも上がらなければ特別喋るようなことでもないだろう。本川含めそれぞれあまり家のことを話題に上げようとしないきらいがあるのだ。盆や正月にすら実家に帰ろうとしないぼんくら息子の集まりである。それぞれいろいろあるのだろう。まあ本川はなんかは、単純に幼少期に話さないよう言われていた癖が、未だにどこかに残っているだけなのだが。
「兄貴やったらお下がり貰えるやん。経済的やな」
「いや……貰った記憶がないっすね。まあサイズも趣味も合わないんで」
「五個上だっけ? それだけ離れてたら喧嘩もなさそうだ」
「そもそも喋んないっすよ」
「そういうもんなん?」
「そういうもんです」
そう言われてしまうと引き下がるほかない。本川も笠田も兄弟がいないから、普通に納得するしかないのである。世間一般の家庭のイメージってやっぱりちょっと違うねんなぁ。そんなしみじみとした本川のつぶやきを、笠田が「まあ色々な家庭があるからね」と拾った。まあ事実そうなのだろうと思う。橋本の家だって、当たり前に常識に当てはまらない家庭の在り方だ。
「そういえばさ」
本川は足の上に乗せていた本を改めて手に取ると、矢野のほうへと視線を向ける。笠田は器用にコントローラーをカチャカチャと鳴らしながら忙しなく画面を動かしていた。しかし、平気な顔をして相槌は打ってくる。画面いっぱいに映っている化け物はボスだろうにいいのか。そんなことを思いながら本川は話を続けた。
「兄弟いるやつからしてこういう話ってどうなん?」
「こういう話? ああ、兄妹間の近親相姦のことっすか」
「身も蓋もないね」
「隠したって仕方ないでしょ」
まあ宗教的にはタブーなんでしょうねけどねぇ、と本川から本を取り上げるとぱらぱらと指先で捲っていく。真面目な顔をしているとその顔づくりの綺麗さが浮き彫りになるのだな、と思わずまじまじと見つめてしまった。小作りな顔のくせに瞳だけはきちんと大きい。その癖パーツ一つ一つに嫌味がないのは、配置のバランスもあるのだろうか。女みたいな顔という表現をすると、笑いながらも僅かに傷ついた顔をするのを知っているから言わないが、本当に中性的な顔である。まあこの顔じゃあ苦労もするわな、と少しだけ同情した。異性相手もそうだが、変な同性に絡まれているのもたまに見かける。
「確かに普通に嫌ですけどね。でも別に自分が弟なことは意識しなかったかな。俺、妹じゃないし」
「そうか。悪かったな、変なこと聞いて」
「確かに普通にセクハラになりそうな質問だな」
「訴訟しますかぁ」
「ごめんて」
本川君も笠田君もたまにキショいこと言うからなぁ、とへらへら笑いながら若干棘のある物言いをする矢野に、笠田はしれっと「君も大概だぞ。この前だって……」と刺し返す。その瞬間スピーカーから低くくぐもった悲鳴が上がって、画面がぱっと明るくなった。あ、倒れたと言いながらコントローラーを床に置く笠田に、本川は話の続きを聞くことはできなかった。一体何を言ったのか、気にはなるが普通に怖かったのだ。おざなりに拍手をしている矢野に一抹の不安を覚えながら、本川も一緒になってエンドロールをぼんやりと眺める。アルファベットの名前ばかりのエンドロールは、自分からずっと離れた世界で製造されたことをひどく感じさせた。
「あ、でも本川君」
「ん? なんや」
「近親相姦の話に戻るんですけど」
「戻すような話ちゃうやろ」
ちびちびと酒でも煽るようにして麦茶の入ったグラスを傾けながら矢野はこちらに視線を向けてくる。今日はここで本は読めそうにないな、と諦め半分に視線を返せば、矢野は人差し指を立ててくるりと回した。平山の癖がしっかりうつっている。
「あれ、タブー視される理由って、厳密にはないらしいっすね」
「え、いやそら遺伝的多様性とか……ああいうのとちゃうんか」
「でも人間だってかつてはそれを是としていたわけでしょう。日本でタブー扱いされ始めたのだって江戸時代とかっすよ。世界には未だにそれを続けているところもあるくらいで」
文化が発展すると同時にそれが禁じられてきたのなら、それは生物としての本能とは逆の位置にあるってことにならないっすか。そう矢野は微笑んで問いかける。何が楽しいのかまるで分らなかった。気づけばもうテレビ画面は暗くなっており、笠田が律義にゲーム機を片付けている。本川は微妙な顔をしながら「……まあ」と曖昧な返事をして、話の続きを促した。
「ああいうのって本能がどうとかじゃなくて、殺人はダメとかそういうレベルの話なのかと思ってたけど違うのかい?」
「殺人は法律で禁止されてますけど、近親相姦は禁止されてないじゃないっすか」
「え、そうなんや。まあ確かになんて書くねんて話やわな」
「殺人がダメなのって法律で決まってるからなわけじゃないだろう……」
「でも倫理観とかふわふわなもん持ち出すと、マジで人それぞれの尺度になってまうし」
「うーん、……まあそれもそう、だけれど」
「そもそも殺人は当たり前に誰か死にますけど、合意の上なら近親相姦って被害者出ませんからね」
笠田は依然として腑に落ちないと言う顔をしている。どうしても割り切れないのだろう。その様子を見ていると、やっぱりあれこれ理由を模索したところで、結局予め人間に備えられている『なんとなくの忌避感』でしかないのかもしれないとも思ってしまう。いやしかし、それではさっき矢野が言った、かつては容認されがちだったという理屈が通らないのか。ぐるぐると回る思考に、当たり前だが答えは出ない。
「合意の上、っていうのが通りにくいからちゃう? 家庭内っていう閉じた社会での合意を、本当の合意と言っていいのかっていう問題があるやろ」
「そうなるとそれはもう近親相姦のタブーというより、強姦がタブーだという当たり前の話になってきますね。趣旨がずれちゃう」
「あーそっか。じゃあ確かにはっきりした理由はない、んか……?」
「今ぱっと結論を出せるような問題でもないんだろうけれどね。要因が一つなわけでもないだろうし」
「それはそうっすね。まあ考えてみると結構面白いよねっていう、ちょっとした世間話ってだけです」
「ちょっとしたの重さではないけどな」
それこそ平山とか入れたらまた違った話になりそうだ、と笠田が呟いて、それを皮切りに場の空気が弛緩する。八つ時を回りいい感じにゆったりとした午後だった。何気なく本川が机周りの片づけを始めると、それにならって各々がコップを下げたりスナック菓子を片したりし始める。これ終わったら帰って平山に同じ話振ってみるか、などと考えながら洗い物をしていると、不意に強めのソプラノが耳をついた。
「矢野さーん! 交代の時間ですってー!」
「げっ」
全く覚えのない少女の声だ。誰、と反射的に尋ねると非情に面倒臭そうな声で「……バイトの子」とだけ返事が返ってきた。そんなの雇っていたのか。全然知らなかった。心配そうに返事をしなくてもいいのかと矢野を小突く笠田に呼応するように、木造の建築が階段を昇ってくる足音を響かせる。
「あれっ、なんか増えてる。こんにちはぁ」
「おー、こんにちは」
「こんにちは。ほら、矢野」
「はいはい、今から行きますって」
肩までのショートボブに、赤い色のピンが映えている。身長こそ高いが、それでもまだまだ子供といった感じの少女だった。高校生だろうな、と本川はその若さに羨ましさすら覚える。もっとも、高校時代まで戻りたいほど今が苦痛かと言われれば、全くそんなことはないのだが。溌溂とした若さに連れられて行く矢野を可笑しく思いながら見送る。職場が楽しそうで何よりである。
「俺らもそろそろ帰る?」
「そうだね。矢野の労働に水差しちゃ悪いから」
買った本を手に、わざとらしく一階の本屋を通って帰る。頑張れよ、と矢野の背中を叩くと、露骨に嫌そうな顔をしながら「またのご来店お待ちしてまーす」とだるそうに言われた。
「……インセストタブー」
「その話まだ引き摺るんか?」
「引き摺るわけではないけれど」
少し衝撃だったんだ。そう言って笠田は逆方向のはずの帰路を付き合ってくれる。まあ暇だし、と言っていたが要するにまだ話たりないのだろう。衝撃って、何が。そう極力感情を押し殺して尋ねれば、笠田は少しだけ言葉を迷うように口先を遊ばせた後、上手く伝えられる自信がないけれど、と苦笑した。
「僕はそれが決して許されない事だと思っていたから。でもさっきの話で、その……」
「何が悪いんかわからんくなってきた?」
「そう。そうなんだ。もちろん遺伝上の問題だって存在するんだろうけれど……そういう理屈だけじゃないだろう、人間って」
「まあなぁ」
「もちろん親という立場から子供に手を出すのは絶対にダメだと思う。力関係が明確に存在するんだから。……でも」
それがプラトニックな関係性だとしたら。笠田はそこまで言って口をつぐむ。だとしたら、その是非はどうなるのだろう。思うだけでもそれは罪なのだろうか。インセスト、という言葉には思慕だけの意味は含まれていない。行為あってのタブーである。その一方で。
「世間一般には、それは通らへんのちゃうか」
「まあ感情の先のステップに進まない保証なんて全くないからね。感情のうちに糾弾しておこうと思う人が多いのもわかるよ」
「でも何となく笠田が言いたいことわかるわ。あくまで行為が問題なのであって、家族間の恋愛感情そのものには一切問題がないのかもしれない、ってことやろ」
「ないのかもしれないっていうか、ないんだと思うんだ。でも、それでもどうしても僕みたいのは忌避感を覚えてしまって」
ダメだな、と一つ落ち込んだように息をつく。忌避感。その感覚は本川にとって、理解はできるが実感とは遠かった。真面目に向き合っているのは間違いなく笠田のほうなのだと思う。一つ一つ理詰めで見ていって、それでもなお理屈抜きのところの嫌悪のようなものを俯瞰して見ることができると言うのは、けして簡単に出来ることではないのだ。本川はそこまでの労力を割けない。というより、はっきり言ってインセストタブーにすらいまいち何も思わない。もちろん強引に迫ることはいけないことだ。けれどもそれは先ほど矢野と話したように、強姦はいけないという当たり前の感性が本川にも備わっているというだけである。別に本気で想い合って事に及ぶと言うなら、本川はそれを禁じる謂れはないとすら思うのだ。ただ、それを証明することがあまりにも現実的ではないから、禁じてしまったほうが早いと言うだけで。
「まあ擦り込みみたいなもんなんかもな。当たり前すぎて、理屈言われても受け入れられへんのかも」
「結局のところ、倫理でも道徳でもないただの擦りこみ、か。だとしたらそれは、払拭してくべきなのだろうね」
「まあとはいえプラトニックな近親愛がどれだけ存在するかって話もあるしな。その言い分信じて性暴力見逃したら最悪やし」
「そうだね。……でも、話せて少しすっきりした」
素直に感謝を述べる笠田に、本川は照れくささからくる気まずさを覚える。別に、と短く誤魔化そうとすると、先に笠田が立ち止まって「じゃあ」と言った。
「満足したから僕は自分の帰路につくよ。また明日」
「えっ、お、おう……またな」
最近輪に輪をかけてマイペースというか、平山だとか矢野だとかに似てきているような気がする。別に寮まで送ってほしいだとかいう気色の悪いことを言うつもりはないが、それはそれとして突然放り出された感は否めない。薄手の上着に風が次々と体当たりしてくるのを、一人になった寂寥感がさらに増長して感じさせた。何だか悔しい。
千鶴との待ち合わせ先へと向かう電車の中で、先日購入した小説をぱらぱらと捲る。瓶詰の地獄。小さな島に詰められた、二人きりの兄妹。三つの瓶から放たれた、彼ら二人の罪。
(……罪、か)
彼らを糾弾するのは倫理でも道徳でも司法でもなく、聖書という紙束の中に存在するたった一人の神だった。閉じた社会の中ではそれは余りにも絶対なのだろう。絶対、なのだろうけれど。本川は基本的には無神論者だ。そりゃあ正月には神社に行き、クリスマスにはケーキを食べる生活をしているけれども、それは単純にイベントごととして楽しんでいるだけである。お賽銭を入れてがらがらと鈴を鳴らしたからと言って、自分の願い事が神にまで伝わるとは微塵も思わないし、ケーキを食べながらメリークリスマスと口にしたところで、キリストの降誕をめでたいとも感じない。それでも、彼らの言う神様がいるというなら、是非とも聞いてみたいと思う。インセストの罪の理由。道徳でも倫理でも片付けきれない、衝動の罪の理由。……だって、あんまりにも救われない。
(家族のこと、好きになろうと思って好きになるわけじゃないやろうに)
感情の抑圧はできても、感情の発生までは人間のコントロール下にはない。晴れていて嬉しいと思うのを、嬉しいと思わないようにすることはできない。精々後付けでこねくり回して否定することが限界である。恋愛感情だって同じことだろう。好きになってしまったら、仕方がないんじゃないのか。触れたいと思う心も、それ以上を求める心も、血がつながっているという理由だけで否定されてしまうのは、なんだか残酷だと思った。そんな爆弾をいきなり握らされて、誰に頼ることも出来ずに生きていくのは、誰のせいなのだろう。太郎とアヤコの身投げも罪の清算ではなく、現実からの逃避だったのかもしれない。救助の船が来てしまったことで二人だけの社会が開かれ、その感情が許されなくなることへの、逃避。そんなことをふと思った。千鶴はこれを読んで、何を考えたのだろう。
「次は水族館前、水族館前。お降りのお客様は……」
アナウンスにぼんやりとした思考を掻き消され、反射的に本をぱたりと閉じる。栞を挟みそびれたことをやや後悔しつつバックパックにそれを詰め込んだ。集合時刻八分前。改札まで向かうのに少しは時間を食うだろうし、まあいいくらいの時間だろう。席を立って減速していく列車の中、扉の前まで移動する。大阪湾とも、以前千鶴と待ち合わせた街とも違う海の風景が、車窓の外へ広がっていた。
「……」
気の遠くなるほど向こう側へと続いている海はどこへでも行けるはずなのに、なぜだか微塵も自由を感じられなかった。大きな波、続いていく波。そこには何の余裕もない。ただずっと、どこかもわからない向こう岸から決められたままにやってくるだけ。海には自由がない。海は誰かをどこかへ連れて行ってはくれない。ただ大きな流れとして、そこにあるだけなのだ。海は、何もできない。
「水族館前、水族館前」
完全に停車してから、間抜けな音と共にドアが開く。流石に海岸沿いとあって本川の生活圏内よりも幾分か寒かった。風に揺れる髪を感じながら改札口を探す。早く誰かと話したかった。風が冷たくて嫌になるから。単純な構造の駅は二つしかない改札を設けてくれている。その前に、スマートフォンを眺めることすらせずにぼんやりと辺りを見ている少女が立っていた。
「ちっす、早いな」
「前は待たせちゃったから。でもアタシもさっき来たとこよ」
「ならええんやけど」
「チケットはもう取ってあるの。だから早く行きましょ」
肩より少し長いストレートの髪を一本一本靡かせて、千鶴は踵を返す。水族館に行こうと言ったのは、当たり前だが彼女のほうだった。兄と行った、唯一のアミューズメント施設。唯一の、非日常の思い出の場所なのだ、ここは。本川が全く知らない街で、知らない時間が流れている。
「ちょっと調べたけど、餌やり出来るんやろ、ここ」
「そうなの。トドとかにあげれたはずよ」
「と、トド……」
ぱっと脳内に浮かんだのは恐らくアシカだかアザラシだかで、巨躯を持つであろうそれとは違う。トドとはどんな生き物だっただろうか。そもそも本川は海の生物のことをよく知らない。精々見てわかるのは、魚か海老か蟹か、その程度である。ペンギンとかにもあげれるって書いてたけど、と流石にイメージできる名前をあげてみると、千鶴は意外そうに目を丸くして「ホントに調べてきたのね」と
呟く。
「いや調べるやろ、遊びに行くとこのことくらい」
「そうなの?」
「え、いやうん。普通に楽しみにしてたらさ……」
「楽しみ……」
はたと千鶴は歩みを止める。どうしたんだと本川も数歩遅れで立ち止まって振り返ると、ふっと海風が吹いて彼女の髪を横に揺らしていった。その赤茶色の髪の中、一瞬、泣き出しそうな顔が見える。
「……え」
それは余りにも刹那的すぎる感情だった。本川は思わず不安になって駆け寄る。けれど、それと同時に千鶴もまた本川に追いつこうと歩みだしていて、相反する行動はすれ違う。
「どうしたの?」
丁寧な微笑みを見せて、千鶴は本川よりも前へと出る。早く行きましょうよ。そう言って彼女は本川のほうを振り返りもせずに歩みだす。どうすることも出来なくなって、数秒ぼんやりと水族館モチーフのタイルが埋め込まれた道路を見つめていた。はっとしたのは、千鶴の背が少し遠くなってから。
「ちょ、ちょい待ってや」
「もう、早く行かなきゃ。終わらないじゃない」
「終わるって、何が」
「……踏ん切り」
踏ん切りつけるために、アタシもアンタもここにいるんでしょ。歩幅の差は大きく、すぐに追いついた背越しに、彼女はそんなことを言った。自分の言葉だ。他でもない本川が、千鶴に告げた言葉だ。そう、やな。そう掠れた声で返事をする。踏ん切りをつける。それは何になのだろうか。兄との思い出にか。兄が生きていた過去からか。それとも。
(……ほんまにこれでええんやろうか)
兄の死を受け入れることは必要だと思う。けれどもそれとは別に、千鶴は兄と決別しようとしているように思えた。あんなにも兄のことを慕っているくせに、初めて会った時から彼女はずっと、兄のことを忘れようと急いでいる。故人は偲ぶものだ。決して、立ち分かれる必要性はないのに。本川は、すっかり千鶴のことがよくわからなくなってきていた。彼女の名前を呼ぼうとして口を開いて、そして閉じなおす。本川は、千鶴の名前を呼んだことがない。橋本は彼女のことを何と呼んでいたのだろう。
「……なあ」
「何?」
「橋本さんのこと、どう思ってた?」
じっとその目を見つめる。大ぶりで、それでいて色味だけは橋本にそっくりな瞳だ。それが今、本川の視線に耐えかねてひどく揺れている。口が上手くないと言いながらも、いつもよく回っている口が、今この時だけは本当に下手くそに操作されていた。そんなの、と小さな呟きが落とされる。
「そんなの、アタシが……!」
はっと正気に戻ったように口元を抑えて、言葉を飲み下すのを目の当たりにした。瞬間、本川はひどい後悔に見舞われる。踏み込みすぎたのだ。今のは、自分に求められていた動きではない。これは自分の領分ではない。けれど、それじゃあ誰が彼女の本心を聞くのだろう。兄のことを話せるというだけで嬉しそうにしていた千鶴の気持ちは、どこに。
「……ごめん、ちょっと急ぎすぎたな」
「違う、の。その……こっちこそ、ごめんなさい」
本川は静かに首を横に振る。千鶴はきちんと線引きを明示していた。そこを軽々しく超えようとしたのは本川の方でしかない。
「でも、ゆっくりでいいからさ。そういうの、話してくれたら嬉しいよ、俺は」
「……」
「ちゃんと付き合うから、いつまででも」
不安と不信と当惑が入り混じった瞳がこちらを見ていた。理解できないと言わんばかりの瞳だ。千鶴が小さな声でアンタは、と零す。アンタ、アタシのこと好きなの。想定外のその質問に、本川は思わずここしばらくで一番大きな音で「えっ!」と叫んでしまった。閑静な住宅街に響き渡ったそれにさすがに気恥ずかしさを覚える。
「いや、本気でちゃいますけど……」
「そこまでしっかり否定されると普通にムカつくわね」
「理不尽すぎるやろ。どないしたらええねん」
「まあ確かに好きって言われても困るんだけど」
じゃあなんでそんなこと聞くねん、とツッコミを入れると千鶴は嬉しそうに笑った。何をそんな喜ぶことが、そう思いながら本川は彼女の言葉に耳を傾ける。気づけば肩は並んでいて、少しだけ安堵した。自分より幾分も低い位置にある頭を視界の端に捉えながら歩く。
「お人好しね、アンタは」
「別に……そんなんじゃないよ」
「好きでもない女のためにこんなところにまで来ちゃって」
「結構怒ってる?」
別に友達としては、と常套句を口にしかけたところで止まる。友達、なのだろうか。この奇妙な縁を何と呼んでいいのか本川にはよくわからなかった。まあせいぜい知り合いというのが相応しいような気も、考えれば考えるほどにしてくる。
「……俺ら、友達?」
「そこ否定したらアタシ、めっちゃ嫌な奴じゃない?」
「確かにちょっと聞き方ずるかったな」
「いや別にいいわよ友達で」
アンタのこと、アタシも結構気に入ってるから。千鶴はもごもごとそう言って、それからバツの悪そうに眉を寄せて押し黙った。我ながら気色悪いこと言ったわ、と不服そうにいう感性は非情に理解できる。本川も、こう形式ばって好意を伝える流れというのは苦手なほうだ。気持ちはもちろんうれしいのだが、それ以上にこう、こそばゆい感覚がどうにも起こってしまう。
「……水族館ついたから、すべて水に流して楽しみましょう」
「……せやな」
微妙にぎくしゃくとしながらいそいそとチケットを手に持って並ぶ。楽しみやな。何気なく口に出したその一言に、千鶴はしたり顔で「面白いわよ、ここ」と微笑んだ。
薄暗い天上の元、寒色の光がぼんやりと水槽を照らしている。入ってすぐの大水槽には派手な色も奇抜な形も持ち合わせていない魚が、個を気にすることなくただただ悠々とその体を水に晒していた。小さな海。分厚い硝子に区切られた限りある世界。それでいて中の魚たちは満ち足りているように見える。隔離された空間に宿る社会は、いつだって独自の幸福の形を持っているのだ。鰭が、尾が、水をかいて流れを生む。ただそれに逆らうことなく、魚たちは幸せの在り様に身を任せる。
「……大きな水槽」
「な。めっちゃでかい」
「前来た時から随分変わってると思ったけど、ここは同じね」
千鶴がふらふらと水槽に近づいて、ゆっくりとその境目に触れる。見ている本川にまで硝子が持つ冷たさが伝搬してきそうだった。前来たときって、何年前くらい。落ち着いた雰囲気に飲まれるようにして小声で聞くと、千鶴は僅かに瞳を伏せて「アタシが高校一年生のとき」と呟いた。
「入学祝いにね。お兄ちゃんに無理言って付き合ってもらったの」
「別に無理言わんでも付き合ってくれたやろ」
「……ううん。自分はこういうところに来ちゃいけない人間だから、って」
だから後にも先にも、二人で遊びに出かけたのはここだけ。何かを懐かしむように彼女は自分の背よりもずっと大きい水槽を見上げる。魚の腹ばかりが見えるそこに、彼女は何を描いているのだろうか。本川も倣うようにして視線をあげるが、一つだってわかりはしなかった。
「……魚、好きなん?」
「食べるのは好きよ」
「わかるけどそうじゃないねん」
「別に、そこまで好きじゃないわ。魚も、水族館も」
つつ、と鱗をなぞる様にして硝子を撫ぜた。まあ落ち着いてるし、嫌いでもないけど。千鶴はそう言ってから緩く口を結んだ。何かを考えるような素振り。話すことを迷っているような、そんな躊躇い。少しの沈黙の間、大きな魚がこちらを微塵も気にすることなく横切っていった。こちら側の方が暗いから、魚たちに人間が視認しにくい仕組みになっているのだと、昔誰かが言っていた気がする。
「それでもここに拘るのは……もっと昔に一度だけ、家族四人で来たから」
「かぞく、って」
「そう。アタシとお兄ちゃんがまだ、家族だった時の話」
「今も、家族やろ」
「……どうでしょうね」
本当に今も家族なら、あの頃に戻りたいなんて思わないんじゃない? そう千鶴は自嘲気味に笑って水槽に背を向けた。魚も千鶴も互いのことを視認しなくなって、二つの社会は完全に分断される。なんと言っていいのかわからなくなる本川に、千鶴は微笑んで「アンタは?」と尋ねた。アンタは魚、好きなの。そう続ける彼女の瞳は、ただ本川だけに注がれているはずなのに、全く視線を感じなかった。
「好きやよ。魚も水族館も」
「へえ。意外ね」
「魚は、足るを知ってるから」
そういう風に俺も生きたいなって思う。嘘をつく理由もなくて、正直に思いの丈を述べた。必死に羽ばたくこともない、足を動かして遠くへ行くこともない。ただその身一つを揺らして、硝子詰めの水中だろうと限りない海の中だろうとただ、悠々と波に呑まれて波を作る彼らは理想的に思えるのだ。人間だってそうだろう。どれだけ足搔いたって人は何も変わらないし変えられない。それなら、それを受け入れるほうがずっと幸せだ。
「足るを知る者は富む、……足るを知るのが、一番難しいのにね」
「まあだからこそよな。簡単じゃないからそこを目指すわけで」
「今の状況に……自分に満足したり、アンタはできるの?」
「うぅん……どうやろう。欲が無いとはさすがに言えんけど」
かと言って大きく何かに駆り立てられることもない。今すぐに変わらなくちゃいけないだとか、強く不満を感じるだとか、そういったことは本川にはあまりなかった。さとり世代、なんていう嫌な言葉が頭をよぎる。まあ実際本川はそう言う、ある種ひねた現代風の若者なのかもしれない。ふらふらと生きているだけで、足るを知っていると言うのは余りにも烏滸がましいような気がするが、それでも本川が今の自分を嫌いじゃないと言うのは事実だ。周りの人間にも恵まれて、幸せだと思う。そういう気持ちを込めて答えると、千鶴は何とも言えない表情をして「そっか」と呟いた。
「アンタは、すごいのね」
「別に……俺はなんも考えてないだけ」
「そういう風に生きられるのだってすごいことよ」
「今の自分が、嫌いなん?」
「ええ、大嫌い」
だからアタシは変わりたいし戻りたいのよ。千鶴はくっとリップの塗られた下唇を緩く噛むと、悔しそうに本川の顔を見上げた。羨ましい。そんな感情がはっきりと見て取れる。何度かむけられたことのある目だ。
(……早坂)
大阪にいたころ何度も見た顔を思い出す。彼は時折そういう風にして本川のことを覗き込んでいた。真面目な彼が自分に抱いていた感情を、本当は知っていた。知っていて、気づかないふりをしていた。指摘したら、友人でいられなくなるような気がしていたから。大切だったから話せないことが他にもたくさんあって、多分早坂にそれでまたヤキモキさせてしまっていて、あの時の自分は今よりずっと、息をしづらかったような気がする。そしてもっと、彼に苦しい呼吸を強いていた。本川はなんにでも努力ができるひたむきな彼が好きだったのに、彼は要領の良さを求めてばかりいて。……あんな目で、自分を見上げてばかりで。
「俺は、今のそのままも良いと思うよ」
「アンタが良くても、アタシが好きになれなきゃ意味ないでしょ」
「まあ、それはそうやねんけどさ。変わってから伝えても意味ないやん」
あの時同じ言葉を早坂に伝えられていたなら、もっと早くに彼のわだかまりは溶けていただろうか。そんなことを考えて、やっぱり違うなと思い直した。伝えられなかったから今があるのだ。今の早坂との関係も本川はすごく大切に思っている。それなのにあの時どうこうしていたらを考えるのは不誠実だろう。例えもっといい関係性になれる可能性があったのだとしても、それは結局無意味なのだ。違う道なんてない。選ぶ余地なんてない。だからこそ大切にしていかなくてはならない。今も、過去も。千鶴は怪訝な顔をして「そういうの、誰にでも言ってるの?」と聞く。言われへんかったから今言ってるんやで。そう口にして大水槽の前を離れると千鶴は理解不能と言わんばかりに溜息をついた。
「さっき水族館好きって言ってたけど、よく行ってるの? 大阪にも大きい水族館あるわよね」
「あー、何回か行ったことあるで。……まああんま良い思い出ないけど」
大阪湾に面しているその巨大施設は、本川も幾度か足を運んだことがある。一人ではなく有り体に言えばデートで。もちろんそれは楽しかったのだが、どうしてもあの空間に付随する思い出は苦いもののほうが印象強いというのが事実である。それ聞いてもいいやつ、と千鶴が好奇心交じりで尋ねてくるのに苦笑しながら、まあ別に隠すようなことでもないし、と答えた。
「あそこで別れ話されたんよな」
「へえ。興味本位で聞くけど、なんで振られたの? 浮気?」
「されてへんし、せぇへんわ」
ふらふらと暗い廊下で無意識に歩みを進めていると、ぱっと開けた場所に出る。ふれあいコーナーと銘打たれた底には、小さな水槽にナマコやらヒトデやらが住まっていて、それらを触れるようになっているらしかった。そう言えば大阪の方はサメやらエイやら触れるのだったな、と本川は懐かしく思う。あの時も彼女とぬめぬめとした魚体を触ったのだ。そんな素振りなど微塵も見せずに、楽しそうに笑っていた顔ばかりが思い出される。見ていたつもりで、何も見えていなかったということだろうか。
「私のこと好きじゃないんやろ、って」
「あー、言われそうね」
「割と傷つくからやめてぇや」
「実際好きじゃなかったの?」
「いや……好きやった、つもりやってんけどなぁ」
そう言うのって画一的なわけじゃないやん。もごもごと言い訳をしながら腕を捲る本川を、千鶴は「それは言い訳ね」と一蹴する。酷い言われようだ。悲しくなりながらもナマコを触るべく水の中へ手を突っ込めば、刺すような冷たさが皮膚へと伝わった。水にまで非難されているようである。
「どうせ告白されたから何となくで付き合ってたんでしょ」
「……よくお分かりで」
「そりゃあ不安にもなるわよ」
「いやでもな、俺はちゃんと大事に思っててんで。一緒にいて楽しかった、し……」
何を言っているのだろう、と少し恥ずかしくなって口をつぐむ。千鶴は依然として呆れたような顔をしていた。だからその大事に思ってた、っていうのが相手の子の求めてたものと違うかったんでしょ。恐る恐るナマコに触れようとしている本川の手元を覗き込みながら呟く千鶴の顔は、水面にも硝子にも映っていなかった。相手が求めてたもの、というのは何なのだろう。本川は本当に好意を持って彼女に接していたのだ。確かに受け身で始まった交際ではあったけれども、それでも、一緒に過ごしていて楽しい相手だった。それじゃあ、足りないのだろうか。いけないのだろうか。
「友情の延長線上だったんじゃないの、アンタのは」
「……それやと、違うん」
「違うわよ、全然」
「俺にはそれがようわからん」
当たり前に好意にはいろいろ種類があるのだとされている。けれどもそこの線引きというのは本川の知る限りずっと曖昧だ。不文律的に前提化しているそれに、未だにうまく適応できない。家族愛だとか友愛だとか、それよりも一等上だと言われる恋愛感情を、本川は分類分け出来たことがないのだ。正直何でもいいじゃないかとすら思う。それでも関係性に相手が拘るというならそれに付き合うくらいの分別はあって、だからこそ応じられたら答えるのだ。仲がいい相手なら、別に性別関係なく告白を了承するような気がする。断る理由もないから、というだけで。
「全部、一緒やろ。好きとか嫌いとかさぁ、貴賤付けるほうがおかしいって」
「貴賤ってわけじゃないけど……なんかこう、あるじゃない。ぐちゃぐちゃっとしたのが」
「えぇ……?」
「一緒にいて楽しいだけじゃなくて、もっと……」
千鶴はそう言って複雑そうな顔をした。ナマコ触りながらなんて話してんのよ、と吐き捨てるように言われると、本川もまあ確かになという気になってくる。もっとフニフニとしているのかと思っていたが意外と固い。変な生き物、と呟いて水槽から腕を引けば、ナマコはまた床へとへばりついていった。
「ナマコからすれば、人間のほうがよっぽど変なんでしょうね。意味の分かんない機能ばっかりつけて」
「確かにな。繁殖するだけなら別に恋愛感情なんかない方がええわけやし」
「そしたらアンタも悩まなくて済んだのに、残念だったわね」
「まあなぁ」
でも自分なんかそういうのを楽しむ方なんじゃないん。そう手を洗いながら千鶴に尋ねると、彼女は「いいえ」と短く首を横に振る。そういうのに振り回されるのって、しんどいじゃない。何でもないように切り捨てる姿は、なかなかに清々しい。けれどそれと同時に、やっぱり振り回されてたことあるんや、という納得をも本川に生んだ。興味本位で聞くけど、と先ほど突きつけられた枕詞を差し向けると、千鶴は露骨に嫌そうな顔をする。
「振り回された経験がおありで」
「……そういうのはちょっと、事務所通してもらって」
「自分は聞いといてそれかい」
「わ、悪かったわよ」
「まあ別に無理して話せとは言わんけど」
セクハラになるし、と渋い顔をして呟く本川に、別にそこまで言わないわよ、と千鶴は眉を下げる。それに、本当は話せるようなことなんて何もないから。そう困ったように笑っているのは、あからさまに誤魔化しだった。本当に、とは聞けない。先ほどゆっくり待つと言った手前、急かすような真似は避けたかった。どんな話題であっても、だ。申し訳なさそうにしている繊細な少女に「別にええよ」と明るく声かけて、それから雰囲気を振り切るように後方を指さす。
「それよりカピバラ触っていい? ホームページで見て気になってて」
「なんかわしゃわしゃしてるわよ、あれ」
「まあ固そうやもんなぁなんか。鬼天竺鼠いうくらいやし」
「あれってそんな名前なの……?」
別料金を払ってカピバラのために用意された空間に入る。もそもそと草を食んでいる様子を見ていると、なんだかこちらがひどく生き急いでいるように感じられた。カピバラ時間が流れている。そんなしょうもないことを呟くと、隣にいた千鶴が堪えられなかったらしく笑いだす。でかいな、としゃがみ込んでじりじり近づいても、彼らは一切の反応を見せなかった。
「意外とおっきいわよね。アタシも初めて見たときびっくりしたの」
「前も触ったんや」
「昔からあるのよこのコーナー」
そう言って千鶴はゆるゆるとその背中を撫ぜる。入場時にもらった乾草を与えると黙々と吸い込んでいく様は、時間の経過を微塵も感じさせなかった。同じカピバラ触っとったら面白いな。そんなふざけたことを言う本川に、あるかもね、と全く期待していない声色で千鶴は相槌を打つ。
「……お兄ちゃんが触ってた子もいるかしら」
「なんか特徴とか覚えてないん」
「カピバラってみんな同じ顔じゃないの」
「じゃあこいつってことにしとこう」
餌を与えていたカピバラを指さす。千鶴は呆れたように「何よそれ」と笑って、それでも律義にその背に手を伸ばした。
(そんな顔、するんや)
そんなに嬉しそうにするのか。たかだか適当に選んだだけのカピバラなのに、そんなにも愛おしそうな顔をして。そんな小さな思い出一つにすらしがみついて噛みしめているくせに、忘れようとするのか。本川はみぞおちのあたりがぐっと締め付けられたような気がした。振り回されるのが、しんどいから。そんな言葉が耳奥で反響していく。
(……しんどいから、忘れようとするんか)
些細な思い出一つ一つに感情を刺激される。そんなの制御できるわけがない。本川は千鶴が先日と比べて兄の話を控えめにしている理由が少しわかったような気がした。話せば話すほど、とめどなく溢れてくるのだ。口にすれば、それは波になって自分自身すら揺らしてしまう。だから、話したがらないのだ。
海が開けている。その透き通った青さは大阪のそれと似ても似つかず、それでいてそれらはどこかで必ず交わっているのだと言うのだから、変な話だと思う。境界線もない、ただそこにあるだけのものを区別するというのはきっと、ひどく無謀だ。水族館を出て少し歩いたところにある高台に、一人立つ千鶴を見てそんなことを思った。
「救助の船はまだ来おへんよ。瓶流してへんねんから」
「……しないわよ。身投げなんて」
ゆっくりと振り返る。決してもう高いとは言えない位置に輝いている太陽が、逆光となって彼女を照らす。強すぎる光は後ろ暗いものを持つ人間の心に差し入って、その影をさらに濃くしてしまう。何もわかってやれなくても、せめて隣で同じものを見てやるべきか。本川はそう判断して、千鶴が背にしているフェンスに腕をかけた。千鶴も同じようにしてそこに体重をかけて、見上げる。読んだのね。小鳥のような声が海に零れて、波になる。
「読んだ。読んで……自分の感想を、聞いてみたいなって思った」
「アタシ? さあね。なんて思ったのかしら」
もう長いこと読んでないから忘れちゃったわ、と千鶴はおどけるように笑った。傷ついた顔。諦めた顔。そんな小さな嘘一つにすら苦しめられるくせに、それでも強がるのをやめられない。痛いほど理解できる。本当の自分を見せるのは、怖い。本川だって、そうなのだ。そうだから、他人が自分を誤解しても、それを解かない。本当の自分を認識されて嫌われる方が、ずっと、恐ろしい。
「どうやったらさ、信じてもらえるんかな」
「……疑ってなんて」
「別にさ、俺じゃなくてもええねんけどさ」
橋本さんのこと、俺じゃなくて話せる人、おる。我ながらずるい聞き方だと思った。案の定返答はない。黙って俯いているばかりの彼女にせめて何らかの色を見出したくて、本川は少しだけ屈んでその顔を見上げた。ただただ唇を噛み締めてじっと、何かに耐えているような。
「俺はただ、自分を出せる場所があってほしいだけなんよ」
「……」
「どんなこと言われてもさ、否定したりせえへんから」
言葉というのは難しいものだなと思う。どう頑張っても真っすぐに伝わる気がしない。自分を離れて相手に取り入れるまでに、幾重のフィルターを通って歪められてしまう。それでも形にしなければ存在しないのだ。誰もいない森で倒れた木は音を出せないから。だから歪められても、間違った形で伝わってしまっても、思うところがあるなら言葉にするべきなのだ。
「……もっかい、聞こうか」
橋本さんのこと、どう思ってた。小さな唇がわなわなと震えて、それでも何か言わんと喉が動く。激流が走っている。彼女の中で感情の波が今決壊して溢れださんとしているのを、本川は肌で感じていた。こんなに海が近いのに波の音は聞こえない。揺れる肩、濡れる瞳。どこまでも弱々しく潰れてしまいそうなそれから、心臓を潰すような大波が吐き出されるそれは、告解じみて本川に届いた。
「アタシも海になれたらよかった」
砂浜が靴をずぶずぶと飲んでいく。それを意にも介さないようにしてすいすいと歩んでいく千鶴は、どこまでも軽やかだった。さっきまでと同じ人間とは思われへんアクティブさやな、と本川は口に出さずして思う。思いの丈を口にして、彼女の心は何か変わっただろうか。
「海に還るってこと? そんなん何にもならんやろ」
「なるわよ。少なくとも体は捨てられるから」
そうしたら、許されるでしょう。千鶴はそう言って波打ち際ではなくずっと遠く、水平線上をじっと眺めた。船一つない大海原に、今にも日は沈まんとしている。海面がその光を飲んでしまえば夜がやってくるのだ。夜は何も照らさない。
「今だって、許されてないわけじゃないやろ」
「許されないわよ」
「法律ではセーフらしいで」
「婚姻できない時点で許されてないとも言えるんじゃない」
罰されないと言うだけで、認められているわけでもない。それは結局消極的な否定なのだろうか。反論できずに押し黙る本川と対照的に、千鶴はずっと一人で話している。その行動的な様子を見ていると、なんだか今から本当に海に溶け込んでいってしまうようで、ひどく不安になった。
「それに結局、アタシが許せないの」
「……」
「お兄ちゃんを困らせるような気持ちを捨てられない自分が、たまらなく嫌い」
「……そんなん、しゃあないよ。自分が望んだことじゃないやん」
「望んだことじゃなくても、アタシの感情だから」
だからアタシに責任があるのよ、と千鶴は小さく砂粒を蹴った。わかりやすくカップルみたいに水の掛け合いでもする。そうおどけすらする。本当にそれをしたいのは、本川ではないだろうに。黙って首を横に振って否定を示せば、千鶴はつまらなそうにもう一度足元を蹴った。幾粒もあるそれは、水面に沈んで海になる。
「瓶詰地獄を読んだ時にね、あぁやっぱり、って思ったの」
「それは」
「やっぱり、ダメなことなんだって。苦しかったけどちょっと安心した」
「……アヤコと自分では、違うやろ」
「どちらかといえばアタシが共感したのは太郎の方」
衝動を罪だと割り切れて、死を選べる太郎が羨ましかったの。その一言に思わず本川は千鶴の手首を掴む。無意識下のその行動に自分でも処理できずに固まっていると、先に驚きから逃れた千鶴は苦笑して「アタシは死なないわよ」と言った。そんな度胸ないから。自嘲気味に呟かれたそれに、本川は腹の底がぐっと冷える思いがする。そんな度胸無くていいよ、とかけた言葉は震えていた。
「変な話よね。アタシより先に、お兄ちゃんが死ぬなんて」
「そうかな」
「死ぬべきだったのはアタシで、死にたかったのもアタシで、それなのにお兄ちゃんが死んで、アタシ、悲しいとか辛いとかよりも先にあぁ良かったって、思って……」
「……」
「安心したの、もうこれでばれないんだって。ばれなかったんだって。最低よね。詰ってくれていいから」
「そんな……詰られへんよ……」
細い手首だけで繋がれている。離すべきだと分かっていたけれど離せなかった。強い自己否定ばかりが彼女の中を渦巻いている。ずっと一人で抱え込んできたそれが、本川が開けた小さな穴から凄まじい勢いで流れ出ているのだ。行先のない思いをただ、本川は認めてやることしかできない。あまつさえ批難することだなんて、とても。
「どうしたらよかったの? どうしたらアタシ、普通の妹になれたの?」
「……それは、無理やよ」
橋本のことを好きにならなかった千鶴は、それは千鶴じゃない。彼女が橋本千鶴という人格を持つ以上、それは逃れられないことなのだ。他でもない彼女の兄が教えてくれたことだ。ゆっくりと、言い含めるように伝える。極力彼の言葉そのままに、曲がることなく伝わるように。千鶴はただじっと、耐えるようにしてそれを聞いていた。これは罰じゃないのに。
「自分のこと、嫌いかもしれんけどさ。そこ含めての自分を、橋本さんはちゃんと好きやったと思うよ」
「……お兄ちゃんは、アタシのこと、何とも思ってなかった」
「そんなことない」
「アンタに何が……!」
「知ってるよ」
橋本は多分本当に千鶴のことを大事に思っていたのだ。それが千鶴のものと同じではなかったとしても、確かに。本川はそれを知っている。彼の背中に触れたときのあの感触を思い出す。背面に埋められた絵柄。長寿の象徴。彼が好きだと言った、その鳥の羽を思い出す。
「あの人が背中に入れたんは、鶴やったよ」
「……え?」
「鶴が好きやからって。俺はそれを聞いたとき意外に思ったけど」
あれ、自分の名前やったからじゃないん。その言葉で千鶴の体のこわばりが一気に解けたのが分かった。崩れ落ちるようにしてこちらに雪崩れ込んでくる。それを本川は抱きかかえるようにして受け止めて、小さく息をついた。橋本がこんな風にしてやったことはあったのだろうか。あってくれたらいいと思う。兄として本当に愛していたのなら、どんな形であれ伝えてやるべきだったのだ。そうすれば千鶴だってここまで思い詰めることはなかったかもしれないのに。否。
(……伝えられへんかったんやろうな)
千鶴のためを思って、彼は極力冷たくしていたに違いないのだ。社会から外れたところにいる人間を慕っていていいことだなんて一つもないのだと考えていたのか。それは余りにも悲しいことだと思った。一つだって伝わりやしない。自分の服にしがみつきながら千鶴は泣いていた。泣けて良かった。……兄の思いを伝えられて、よかった。
「アンタ、本当にアタシのこと好きじゃないの?」
「……地獄みたいな質問に執着するん止めてくれへん?」
「いや、普通にすごいなと思って」
善人だし暇人なのね、とくすくす笑って千鶴は本川の背を叩く。駅のプラットフォームには驚くほど電車が来ない。人も少ない。ただただ意味のないアナウンスと、鳥の声だけがあたりに響いている。もうすっかり日は沈んでしまった。
「お兄ちゃんが最後に会ったのが、アンタでよかった」
「そう言ってもらえてナニヨリデス」
「あら、褒めてるのよ?」
そんなことはわかっている。わかっているから照れるし気まずいのだ。本川は元来褒められるのがあまり得意ではない。千鶴がそれをわかっていて可笑しそうにしているのも腹立たしい。かといってこちらから褒め返すのも気持ちが悪いし、結局本川は何も言えないのだ。早く電車来んかな、とやきもきしながら時計を眺める。次発まであと十分くらいあった。
「……お兄ちゃんのことね、まだ多分しばらく引き摺ると思う」
「まあ、しゃあないんとちゃう」
「だから、どうしようもなくなったら、また連絡させて」
千鶴は胸の前で緩く指を交差させて、申し訳なさそうに言った。本川は少し迷ってから、別に、と呟く。別にどうしようもなくならんくても、連絡したらええやん。どうしても不貞腐れたようになってしまうのが悔しかったが、何となく顔を見て言うのは耐えられなかった。
「……友達なんやろ」
「……」
「おいちょっとなんか言えや」
「い、いや……ふふっ、ごめんなさい。ちょっと、お、面白くて……」
「お前もう二度と連絡すんな」
堪えきれないと言わんばかりに肩を震わせて笑っている千鶴に、本川は気恥ずかしさと腹立たしさと悔しさとで感情がぐちゃぐちゃだった。怒ってやろうとパクパクと口を開閉して、結局強く出れない自分にも腹が立つ。まあ笑えるくらい精神状態が回復したのだと自分を納得させることにした。
「なんていうか、シャイなのね。アタシの名前を呼ばないのもそのせい?」
「えっ、いや。名字被るから呼ばれへんやん。だから」
「まあ確かにちゃん付けって柄でもないしね」
いいわよ、千鶴で。二本しか備わっていない線路の真ん中で、その声は響く。
「お兄ちゃんと同じ呼び方、特別にさせてあげるわ」
感謝してよね、とにっこり微笑む。その誇るような顔を本川はひどく嬉しく思った。千鶴、と小さくつぶやく。千の鶴。あの男が愛した鶴。いい名前だと思った。大切にしてやりたいと思った。瞳を閉じて、もう一度その名を呼ぶ。瞼の裏には、鮮やかに彼の背の鶴が羽ばたいていた。