旅の夜 1 ◇
J○XA主催のシンポジウムに登壇するため、新田零次は相棒、真壁ケンジと共に久々に日本を訪れた。
帰国早々、古巣の筑波でミーティングに参加して、その後も分刻みのスケジュールで新聞や雑誌の取材をこなす。移動の疲れでついつい漏れる生あくびを、二人は笑ってそっと気遣いあった。
今回、シンポジウムの開催地に選ばれた小さな町は、広大な汽水湖を抱く星空の美しいところだった。
『小惑星に生命の源を求めて』
そう銘打たれたシンポジウムの特別ゲストにふさわしく、零次とケンジは近い将来、小惑星への有人探査の旅に発つ。人類史上初の壮大で勇敢な試みに、アサインされた二人の志は崇高で明るい。
眉目秀麗でクールな零次と、朗らかで凛としたケンジのコンビ——NASA選り抜きの日本人宇宙飛行士への興味は熱く、質疑応答の場面では二人が語りあうたびにホールが沸いた。ちなみに、フリートークで触れたのは、月面滞在中の南波兄弟、特に兄・六太の裏話。二人だから知る六太宇宙飛行士の頬笑ましいエピソードが、客席の和やかな笑いを誘った。
閉会後の打ち上げでも、うまい魚をつまみに宇宙開発の話に花が咲いた。零次も宿泊先のホテルへ着くころには、地酒が醸すほろ酔いの心地よさに包まれた。
今夜零次たちが泊まるのは、格式の高さで群を抜く汽水湖沿いのリゾートホテルだ。
遅いチェックインを済ませ、零次はケンジと連れ立ってエレベーターに乗り込んだ。上昇するガラス張りのエレベーターから、漆黒に沈む湖と夜空が臨める。零次が昼間タクシーから眺めたのは、陽光の粒が水面に躍るきらびやかで美しい湖だった。夜を迎えひっそりと息を潜める暗闇の風景は、まばゆい陽光の代わりにほの白い半月をたずさえた。
明日になったら、ケンジと湖の周辺を探索してみたい。デートにも似た甘ずっぱい妄想に浸る零次は、ガラス越しのケンジの表情を盗み見た。
ガラスの鏡面が映すケンジは、疲れのにじむ優しい頬笑みを浮かべていた。隣に立つ零次の顔にも、隠しきれない旅の疲れがにじんでいる。我ながらひどい顔だと思いながら、零次はケンジにかける言葉を探した。
本当ならこの後はそれぞれの部屋で、ゆっくり休養を取るべきだと零次も重々承知している。でも、待ちに待ったこの夜を、離れて過ごすことも考えづらい。
今回の一時帰国が決まってから今日まで、零次は宿泊先でのケンジとの一夜に、甘い妄想を募らせてきたのだ。おかげで辛い訓練も意欲的に頑張れたし、一人寝の侘しさも紛らわすことができた。
『願わくば、朝まで二人で濃密な時間を過ごしたい……!』
喉まで出かかっているくせに、これがどうしても言葉にできない。
これまでそれなりに女性を口説いてきたけれど、今この瞬間が一番緊張していると零次は思う。指差し確認で部屋へ誘う段取りを踏まなければ、ド直球の男の本音がまろび出てしまいそうで自分でも怖い。
ケンジが引かない紳士的な誘い文句を探る零次は、近づく最上階の表示を見上げて覚悟を決めた。
「ケンさん。その……!」
乾いた唇を開いた刹那、チン!と無情な音が鳴る。すっと開いたドアを前に、零次はなす術もなくケンジと佇んだ。
「…………」
「…………」
停止したエレベーター内に短い沈黙が流れて、続けてアナウンスの音声が昇降を促す。
スーツケースの持ち手を握り締めて言葉を探す零次を、傍らに寄り添うケンジが紅い目許で見あげた。乾杯程度の飲酒だったが、彼もまた少し酔っている。
「着いちゃったね。降りよう、レイ君」
困ったように頬笑む、その凛々しい眼差しにも心を奪われる。
スーツケースを引いて一歩踏み出したケンジは、情けなく頷く零次の腕を、軽くクイっと引っ張った。
「僕も……」
それは、かすかに哀愁を帯びた告白だった。
「僕も同じ気持ちだから、レイ君と」
振り向きざま、ケンジは苦しげに眉根を寄せて、零次を深く慕う心情を吐露した。
耳や頬の紅潮は酔いの仕業だけではないのだと、控えめに零次を引っ張る手のひらの熱が物語った。
◇
「いろいろ考えちまって、素直に一緒にいたいって言えなくて、ごめん……」
ケンジを部屋に招き入れ、零次は勇気を奮いきれなかった先刻の臆病さを詫びた。
ようやく訪れた二人きりの夢の時間……。部屋のドアを施錠して、直後に吸い寄せられるように抱き合った。
零次はすっぽりと両腕におさまる背中を撫でながら、唇をすり寄せた耳許に熱っぽい呼気を吹き込んだ。
「肝心なこと、ケンさんに言わさせて、本当ごめん。男らしくなかった」
「ううん、そんなこと——」
鼓膜をかすめる低音の揺らぎに、ケンジの腰から力が抜ける。
「そんなこと、ない……」
小さな喘ぎを飲み込んで、ケンジは抱きとめる零次へと瞳を凝らした。絡みあう視線すらケンジを犯してしまいそうで、零次は思わずたじろいだ。
けれどケンジは、意志の強い瞳を零次に向ける。対峙しても揺るがない眼差しは、息を飲む貴さで零次を射った。
ああ、また……。
ケンジの前ではもう何も隠せない。すべて見破られている。
気持ちだって、秘密だって。飢えて震える卑しさだって——。
この数年、零次は誰より長くケンジと時間を共にした。互いに心を許し合い、文字通り二人で支え合ってきた。我ながらポーカーフェイスだと思っていたけれど、いつからか、零次の本心はすっかりケンジに見透かされるようになった。それもまた、パートナーとして心地がよかった。
「レイ君が遠慮してるの、わかったから……。
僕からだって、たまには誘いたい」
「……」
「こんな特別な夜だからね、別々には過ごせないよ」
「うん……」
ケンジがこの夜を尊んでくれることが、零次と同じ気持ちでいてくれたことが、舞いあがってしまいそうに嬉しかった。
「ケンさん、ありがとう」
「ううん……」
ケンジのおでこにひとすじ垂れた髪の房をよけて、唇で丸いおでこやハの字を描く太い眉をついばむ。
こうして彼に触れるだけでも、鼓動が急いて息が苦しい……。要はドキドキしているのだ、とても。
くすぐったさを堪えて、懸命に顎を上向けるケンジが愛おしい。彼が至高すぎるせいで、腰を抱く力加減にも躊躇する。
零次は鼻先へ唇をすべらせ、伏せた睫毛にけぶる瞳を覗き込んだ。
「好きだよ」
無垢な告白に肩をすくめ、ケンジが恥ずかしそうに喉を鳴らした。
「僕も。
二人きりになんて、宇宙の果てにでも行かない限り、なれないんだって思ってた」
冗談とも本音ともつかない柔らかな音色が、切ない余韻で零次の心に波紋を作る。
「ケンさん、宇宙の果ては冷たくて孤独だよ」
「うん、だけど、レイ君と一緒だったら怖くない……」
て、ダメかな?
くすっと哀しげな笑みで小首を傾いだケンジを、零次は咄嗟に強く抱き寄せた。
「ダメだよ」
できるだけ、優しい語気で戒めの言葉を口にした。
本当は、そう思ってくれるだけでいい。
自分とだったらどこへでも行ける、力強くそう頷いてくれるだけで、一途さに暮れた月日がどれほどか救われるだろう。この数年で強固につながった精神のザイルを意識すると、込みあげる恍惚と歓喜に鼓動が速った。
だけど、ケンジには待っている人たちがいる——日の目を見ない我が身をわきまえているから、贅沢は言わない。
「俺となら、ってケンさんが思ってくれるだけで嬉しいよ」
「うん……」
「だけど、ケンさんはユキさんたちの大切な人だから、そんな孤独な想いはさせられないよ」
「——」
愛しているから、ケンジには温かな日の光の中で笑っていて欲しい。心から本気で愛したぶん、これからの一生をかけてケンジの幸福を願えると思う。
自分が障壁になりえる前にと、腹の底では身を引く覚悟が静かに固まっている。いつか来るその日を受け入れながらも、今はまだ、今だけは、ケンジの体温に甘えて没頭していたい。
ひたすらに抱き締める両腕の強さに困惑したのか、水面に顔を出すようにケンジが上向く。
「へんなこと言って、ごめん。ごめんね、レイ君」
上擦った声で謝るケンジの後頭部を守るように包んで、零次は彼から見えないように、ジンと熱くなる目頭を覆った。