ささろはじめてのささろ
ポケットから銀色の鍵を取り出して鍵穴にさす瞬間が人生で一番緊張する。と言ったら、おそらく白膠木簓を知るほとんどの人間が冗談だと笑うだろう。
どんな大舞台でも堂々と振る舞い、飄々とした笑みを絶やさない男が鍵くらいで。と。
けれど、廬笙と再び組めることが決まってから今日まで、彼の部屋へとつながる鍵を取り出す度に指先が震えてちりちりと痺れてしまう。
もしも自分が入れないよう鍵が取り替えられていたら、来ることを拒絶されたら、いつかのように自分の隣を重荷に感じて別離を告げられたら。
そんなことがよぎってしまうのだ。
特に、こんな雨の日には。
「はああああ。そういうの全部、あんときの通天閣で解消した思たんやけどなぁ」
しかも今日の私服がパーカーなのもいけない。雨が降るとわかっていたら、別の物を選ぶか衣装をそのまま買い取ってきたというのに。
通路を覆う屋根からこぼれる雨粒が、風に舞って簓へと降りそそぐ。近くまでマネージャーの車で送ってもらったため濡れてはいないけれど、早く中に入れてもらうに越したことはない。
わかってはいるのだ。
てのひらの鍵を弄びながら、重たい重たい吐息をこぼす。
重たい雲に覆われた空と黄昏色に染まる空気。外灯を反射して光る駐車場の水たまりは、雨粒を受け止めてその水面が揺れている。……いまの自分の気持ちみたいに。
とはいえ、いつまでもここで突っ立っているわけにもいかないだろう。どんなに気持ちが落ちていようが帰る選択肢だけはない。
ごくごく一般的な二階建てアパートの外通路で、意を決した簓はそっと鍵を差し込もうと腕を伸ばした。
「……ん?」
鍵穴に鍵が到達するよりも先にカチャリ解錠音がして、静かにドアが開かれる。
咄嗟に一歩身を引けば戸の隙間からぎょっとした廬笙の顔が覗いた。
「…………簓?」
「……おん、た、ただいまー?」
「お前の家ちゃうわボケ。」
秒で飛んできたツッコミが潜められているのは、隣家に配慮してのことだろう。
廬笙は簓を見て、手の中の鍵もみて、タイミングかちあったんやなと独り言のように呟くと、中に入るよう簓に促してくれた。
相変わらずのお人好しである。
けれど、鞄を肩に引っかけスマホを持つ彼の出で立ちはどう見ても。
「――どっか出かけるん?」
心臓が大きく跳ねた気がしたのは、盧笙が着ていたのが太さこそ違うものの、あの日を彷彿させるボーダーのシャツだったからだ。シャツの上からカーディガンを羽織ってはいるものの、雨と相まって記憶の隅をチクチクと刺してくる。
「せや、すまん簓――もがっ」
神妙な表情で出てきたのはあの日を彷彿させる謝罪からはじまる言葉で、聞きたくなくて咄嗟にてのひらで廬笙の口を押さえてしまった。自分で自分の行動に驚いて言い訳を探すけれど、普段必要以上に回る舌はこんなときに限って凍ったように動かない。
「もが、もがもが」
てのひらに、湿った吐息と唇の生々しい感触。
怒っていますと言わんばかりに寄せられた眉間のシワや跳ね上がった眉毛に、上手い言い訳も出せずもごついた音しか口から漏れ出ない。どうオチをつけるか悩んでいれば、盧笙の大きいくせに繊細な指先が簓の手首をがっちりと掴まえてきて、口を覆っていたてのひらを外されてしまった。
「って、なんやねんホンマに、これから出かける言うとるやろ」
「……スマン」
手首をつかまれ項垂れることしか出来ない簓に、ため息が返る。
「――塾帰りのうちの生徒がトラブルに巻き込まれて警察に保護されてん。話は後で聞くから留守番しといてくれや」
ぽんと頭にてのひらが乗せられて、遠慮斟酌のない力でかき回される。
「ちょお盧笙! 撫でてくれんは嬉しいけど加減してや……! ヌルサラのふわさらでつややかな髪の毛がハゲてまう」
「韻践むなボケ、なんや妙にしおらしいからちょうどええやろ」
「そうそう、ハゲて励ます……ってやかましわ!」
ぺんといい音がなるけれど痛くない衝撃が頭に響いて、への字口の盧笙がじとっとした目で簓を睨む。
「ちっとは調子戻ったようやな。ほんなら、行ってくるわ」
本当に急いでいたんだろう、それだけ言い置いて盧笙はあっさりと雨が降る外へと出ていってしまった。様子がおかしいことへの言及はあれど、その理由を聞くこともなく。
なぜなら彼は先生だから。
いつだって、どんなときだって、生徒を優先する。
そんな盧笙だからこそ、簓は彼が好きだった。
そしてそれは盧笙から簓への信頼でもある。
庇護すべき存在ではなく、隣に並び立って戦っていく相方であるということの。
「…………あいつホンマイケメンやな。俺をこれ以上惚れさせてどないすんねん」
めちゃくちゃにこねくり回された頭に触れてみれば、髪の毛はあちこちに跳ねてぐちゃぐちゃになっていた。けれどそれを手櫛で直そうとはせずに、簓は盧笙が出ていった扉の鍵をかけ、靴を脱いで揃え、室内へ入っていく。
勝手しったるその家は、家主がいなくたってその気配を色濃く残し、まだどこか影を引きずる簓をほっとさせてくれた。
気鬱になる雨の中でも、どうやらそれは変わらないらしい。
「さすが盧笙やな。セラピーとかやったらえらい儲かるんとちゃうか。……いや、アカンな。向こう六十年は俺の予約で埋めな」
俺に何年働かす気や! 隠居させえ!
そんなツッコミを予想してくつくつ喉を震わせる。
夕食の途中だったんだろう、リビングのテーブルには食べさしのうどんの丼が残っていた。
「……ほかっといたら伸びてまうし、しゃーないわな」
どかりと床に腰を落ち着けた簓は、甘めのつゆを吸って伸びかけたうどんを躊躇いなくすすりながらテレビの電源を入れる。
ちょうど自分が出演していた情報バラエティがやっていて、この場に盧笙がいないことを残念に思った。どうせならリアルタイムで彼の反応をみたかったから。
でも、まあ。
録画機器が起動してるので、帰ってきてからその機会を狙うのもありだろう。
そんな風に逐一盧笙を感じながらすごしていれば、心の奥底を不快に揺すったマイナスの感情はすっかり消え失せてしまっていた。
自宅にいたんじゃこうはいかない。
やはり、向こう百年ほどセラピーとして専属契約したいところだ。出来れば墓に入って以降も永劫に。
すっかり空になった丼をキッチンへ運び、洗って片付けてしまう。
食べてしまった夕飯の代わりになにを用意したものか。
どうせならフリフリのエプロンを身に付けて、お約束の新婚プレイを振りたい。今度真っ白レースのエプロンを買っておこう。なんなら盧笙に身につけてもらいたいくらいだ。
「……はー、俺、ホンマあいつのことしか考えとらんな」
しみじみ呟く声は、笑いが滲んでいた。
どこにいたって、誰と笑いあっていたって、ふとした瞬間簓の心は盧笙の方へ向かってしまう。
だってあんなに面白くて、格好よくて、可愛くて、どうしようもないくらい胸が騒いで心が踊る人間なんて、どこを探してもいなかったんだ。
簓のたった一人で唯一。
それを伝えたら、あの男は表情ひとつ変えず淡々と「重っ」と断じるのだろう。
それくらいならむしろご褒美だけれど、距離を置かれたら悲しいから言わない。
盧笙からもらえるものはなんでも嬉しいけれど、別離だけは無理だった。ごめんだとか悪いだなんて言葉は二度と聞きたくないくらいには。
うん、我ながら重い。激重だ。
自覚はある。
直す気はさっぱりないけれど。
「さぁって、一仕事終えて帰ってくる盧笙のためにヌルサラさんがご飯用意しといたりましょうかね」
「せんでええわ!」
手始めに台所にある食材を確認しようと冷蔵庫に手をかけたところで、なんとも力強いストップがかかった。
振り返れば腕を組んだ盧笙が、仁王立ちで屈む簓を見下ろしている。眼鏡越しとは言え相変わらずな眼力である。自分じゃなければちびって漏らしているかもしれない。
「お、盧笙戻ってたんか。それなら連絡のひとつでも入れてくれな。玄関で三つ指ついてご飯にする? お風呂にする? それともヌルサラ? 言うて迎えよう思てたのに」
「それも要らん。そもそもお前選んだらどうするつもりや」
それはもう、口では言えないようなことをたくさんしたいなとは思っている。言えないので言わないけれど。
「つーかお前ヒトの食いさしのうどん食うな。そない腹減ってんのやったら、俺んち来んと家帰るなりどっかで飯食うなりあるやろ。妙な気配まとわせて来よってからに」
教師然として放られる苦言をありがたく拝聴すれば、伸びきったうどん食いたないからお前の分も買ってもうたわ。なんて、牛丼チェーンの袋を示される。
食う! 一緒に食う! めっちゃ腹ペコやねん。なんて、挙手をすればまた呆れたような顔が簓を見下ろした。
けれど、なにも言わないことにしたらしい。
はたまた食欲を優先したのか。
先んじてリビングスペースのローテーブルに落ち着いた盧笙は、簓を待たずに牛丼をセッティングして食べはじめたので、その向かいに腰を落としていただきますと手を合わせた。
腹ペコだというのは、まあ方便だ。
それでも盧笙とテーブルを囲むのは好きだから、当たり前のように用意された食事はたとえ腹が破裂しても食べたい。
いつかの大食いメニューは早々にリタイアしたけどな。なんて、嘯きながら。
「ほんで、生徒は? 大丈夫やったん?」
甘辛い味付けの牛肉としなしなのタマネギを白米と共に掻き込みながら水を向ければ、口いっぱいにご飯を詰め込み頬を膨らませた盧笙がこくこくと頷く。
なんやこのかわええの。大概にせんと俺に襲われても文句言えんぞ。……襲わんけど。
胸のどこかがキュンと鳴る音を聴きながら、表情には出さずそうかと頷く。
自分くらいになると相方の一挙手一投足にかつてないほどときめきながら、ポーカーフェイスを作ることが出来るのだ。
ゆっくり、ときめきや痛みや苦味やなんかと一緒に牛丼を咀嚼する簓を尻目に、あっという間に平らげた盧笙は立ち上がると台所へ行ってしまう。
せっかく対面での食事が出来たのに、ちょっとだけ残念だ。
「茶ァ淹れるけどお前も飲むやろ?」
「おん」
前言撤回である。
嬉しい、優しい、大好き。
話していれば欲しいタイミングでツッコミをくれて、ふとしたときに温かな気遣いをくれて、時々とんでもないボケをかましてハラハラさせられる。
誰といても心が凪いでいる簓がこんなにも一喜一憂してしまうのは、いつだって盧笙が絡んだときだけだ。
それがわかったから、彼以外ダメだと思いしらされたから。
「ほんで、さっきのアレはなんだったんや」
「さっきの?」
「とぼけんな。人の口押さえてみたり、口から産まれたようなお前が妙に口ごもったり。なんもないとは言わさんぞ」
コツンと木製のテーブルを鳴らした重たい湯呑みが目の前に置かれた。湯気のたつそれに視線を落とした簓は時間稼ぎのつもりで牛丼をかきこむ。
…………うん、やはりうどんの後では苦しい。
「無理せんと残しぃ、お前そもそもそんな大食いキャラでもないやろ。白膠木簓改めてマルデササラにでもなるんか」
「あははー、上手いなぁ盧笙。さすが俺の相方や」
「なんもうまないねん。ええから白状せぇ」
簓の真正面に腰を落ち着けた盧笙からは、不退転の意思しか感じ取れなかった。それはそうだ。逆の立場であれば簓だってそうしている。
不穏な空気をそのままにしたって、ろくな結果は生まれない。あんな別れは二度とごめんだから。
「…………なんちゅうかなぁ、ちょいセンチメンタルな気持ちになっててん」
アンニュイにカーテン越しの暗い外へと視線を投げる。誰しも、いつも明るい太陽のように例えられる簓も、そんな日があるのだ。しらんけど。
そんな風に受け止められたらいいなと思ったのだ。
けれど、最愛の相方は当然誤魔化されてはくれなかった。
「ァ? そんなセンチメートルもない目ぇしてなに言うとるん?」
「誰の目がミリメートルや! いくら盧笙でも言うていいことと悪いことがあるで!」
反射で返して一笑い。
そのつもりでいたけれど、盧笙の表情はただただ真面目だった。
「まだ、俺が信用ならんか。お前から逃げへん。ずっと隣で戦う。そんな俺の覚悟はまだお前に届かへんのか?」
「っ」
真っ直ぐな言葉と声は、どこか痛みを孕んだ響きで真っ直ぐに簓を刺した。
「ちゃう! ……俺が、俺の気持ちの問題なんや。お前のことを信じとる、誰より、誰よりもや! けど、こんな雨の日は、お前が俺から去っていったときの記憶がフラッシュバックしてまうみたいで。……ホンマ情けないわ」
話す気なんてなかったのに、どうも今日の自分は調子が悪い。得意の口八丁だって盧笙の前では使えやしない。
「……簓、顔あげぇ」
乞われ、その通りにすれば吐息さえ触れそうな距離に端正な盧笙の顔があった。
ホンマこいつむちゃくちゃ綺麗な顔しとる。
羨望でもなんでもない事実として、簓は内心でごちた。
たとえ盧笙の外見がいまと百八十度違っていたって、中身が変わらなければ簓の好み百パーセントだろうことは想像に難くないけれど。
「って、ちょ、近ない?」
ちゅーできてまうで。なんて茶化すのに、盧笙はテーブルを乗り越えて表情ひとつ変えず更に距離を縮めてくる。
「え、まっ、さすがに俺もこのシチュでは望んでへんっていう――っあ痛……!」
キスされる。
なんて期待してみれば、頭突きが正解だったらしい。
脳天にガツンときた痛みに悶絶していれば、同じく床でのたうっている盧笙がいた。
「ってなんでや! お前までダメージくらってどないすんねん!」
「るっさいわボケカス! お前がそないなっとるんは俺の責任やろ、両成敗じゃボケ」
涙がにじんで赤くなった目元で言われて、自分の痛みよりやはり盧笙が痛そうな方が嫌だなと思ってしまった。
「……むちゃくちゃやろ」
でも、同じくらい嬉しいと思ってしまう自分もいる。
「なぁ、簓。過去はもう変えられんし、あのまま続けたとしても最悪なことになっとった。俺だけじゃなくお前の仕事にも悪い影響出たかもしらん。けどな、俺の罪は罪や。だからお前が妙にしおらしゅうなったら、俺が責任持ってなんとかせんといかんのや」
よく見ると、綺麗な形のおでこまで真っ赤になっているのに、それでも盧笙はぐっと拳を握ってそう言い切る。
「俺もしんどいときはお前に頼る、だからお前もしんどいときは俺に言い。その度また頭突いたる!」
「ってなんでやねん! 頭突きはおかしいやろ! この場合、相方への愛をこめたちゅーが正解やろが」
いいシーンのはずなのに、廬笙の主張はちょいちょいおかしい。
なんで落ち込んでる相方へ寄り添う手段が暴力へ転嫁してしまうのか。愛をくれと主張するこちらの意見はなんらおかしなことでないはずだ。
「いやお前、どこのプリンセス気取りや。俺かて王子様言うガラちゃうで」
いや、お前が煌びやかな城で正装したら、本場の王子も裸足で逃げ出す仕上がりになるやろ。
想像してみる。
めっちゃ似合うな。学校の行事でそういう衣装を着ることがあるなら、高画質カメラ持参で絶対に見に行きたい。文化祭とかでやらないだろうか。頼む廬笙の生徒たちこの顔面を有効活用してくれ。あ、でも自分以外が見るのは嫌だ。やっぱりなしなし。
そんな風に、一つ思いつけば立て続けに流れる思考にストップをかける。
いま最愛の相方が落ち込んだ自分に心を砕いてくれるターンなので、そこは全力で乗っかりたかった。
「……なんや、それ、王子様じゃなきゃ俺にちゅーするんは構わんみたいに聞こえるわ」
けれど、今日は本格的に調子が悪いらしい。
ぽろりと出た言葉は本音なんかじゃなくそうあって欲しい簓の願望だ。
自分を拒否しないで欲しいと、受け入れてこの先ずっと隣にいる権利を与えて欲しいと、再会してからずっとずっと肥大し続けていたものが声になって噴き出す。
だからといって気まずい雰囲気になるのは嫌で、どうにかこうにか笑いの方向へと持っていかねばと顔をあげた簓の意気込みは、あっさりと霧散してしまった。
「……盧笙、お前、顔真っ赤やぞ」
呆れたように自分をみているか、よくて無表情だろうと思っていた盧笙の顔は耳まで赤く染まっていた。
「えっ、どしたん? 突然発熱したんか? 救急車か、タクシーで病院行くか? もちろん診察室までこのヌルサラさんが付き添うたるで!」
「要らん! 張り切るなスマホを出すなしまえ!」
そんなの言われたって聞けない、はしゃがせろ、でないと、でないと――。
「ふざけとらんと、俺、変な期待してまう」
盧笙が、自分と同じ気持ちかもしれない。だなんて。
いま再び組んで活動して頻繁に会い来るようになって、隣にいられなかった期間どうやって正気を保っていたのかわからないくらい。
そのくらい、簓の感情のすべては廬笙に向かっているのに。
少しでもその可能性の片鱗をみせられたら、得意の口八丁でいくらでも丸め込んでしまおうとしてしまうから、そうはなりたくなくて、誠実でいたいから茶化して誤魔化していたのに。
「盧笙」
呼んで、床を這うように進んでテーブルを迂回し、盧笙のすぐそばへと寄る。揺れる夕焼け色の瞳がじっと簓を見据えてくるから、誘われてるような気持ちでそっと握り込まれたてのひらを包むように触れてみる。
「……簓、ふざけるのも」
「いまはふざけてへん。俺は確かに盧笙につっこまれるんが好きやけど、こんなふざけ方だけは絶対に出来ひん」
普段なら、大御所なんて呼ばれる人がいる現場であってもこんなに緊張はしない。いつだって頭は冷静にその場その場での最善手を選び出し、淀みなく言葉を紡いで笑いに昇華している。
それはいつかの別離から身につけたものだった。
なのに、どこか熱に浮かされたような盧笙を前にしたいまの自分の頭の中は真っ白で、彼に触れている指先は火傷しそうなほどに熱を持ち、チリチリと痺れるように痛んだ。
「好きや、盧笙、俺はお前が、好きなんや」
言葉にした瞬間、口にしてしまったな。なんて、感想が頭をよぎった。
伝えるつもりのなかった、でも、自分の中で膨れて溢れてどうにもならなかった想い。
「どうこうなりたいとかは……ないとは言えんけど、無理強いはしたくないねん。ただずっとお前のとなりにおりたい。それを許してほしい」
「よっし簓、歯ァ食いしばれ」
シリアスに頭を下げた自分に、返ってきたのはまさかのそんな言葉で、大人しく殴られたら傍にいさせてもらえるだろうか。なんて、打算が脳裏をよぎる。
その間をどう解釈したのか廬笙が簓の襟元を加減なくつかんで引っ張ってきた。
「え、ちょ、マジかろしょ……っ」
再びの強い衝撃を覚悟してみれば、触れたのは想像よりももっと優しくて柔らかな感触。鼻をくすぐった外と牛丼を纏った匂いはでも、廬笙本人のもので。
「………………どうせなら口にしてくれたらええのに」
髪の毛越しに触れたのは、間違いなく、きっと廬笙の唇だった。
そう思って言えば、耳まで真っ赤にした男前が目線を泳がせてうるさいと断じる。
「普段から人ん家合鍵で無断侵入するような男が、しょうもないことで躊躇すな! どーんといっとけボケ! 俺かてどうでもいい相手にここまで近い距離許さへん」
「それって……」
いいということだ。
きっと、簓の願いは受け入れられる。
「なあ、廬笙」
再び距離を縮めて、囁くように呼べば真っ赤な顔が気まずげに簓に向いた。
そうか、同じ気持ちなのだ。
思うと嬉しくてたまらなくなる。
「なあ、今度は俺から口にしてもええ?」
そっとてのひらを頬にすべらせれば、眼鏡のチェーンが揺れて手の甲に触れた。廬笙の体温が移ったそれはほのかに温かく感じて、それすら愛おしい。
返事はなかった。
でも、閉ざされた夕焼け色の瞳が答えなんだと解釈した簓は、そっと顔を近づけた。
END