BOY MEETS NUMBER FIVEオレがこの四月から通い始めた高校には、委員会の制度がある。学生の主体的な活動を促すとかなんとかで、クラスで選ばれた者が所属、活動する。
それはいい。問題は、その選出の仕方だ。自分から挙手した学生がその活動に加わることには何の疑念の余地もない。だが、「その日、たまたま家庭の事情で欠席した」という理由でその役目を押し付けられるのは納得がいかない。
放課後に図書室で窓口の当番をしろなどと、やりたがる者は少ないだろう。それはそうだろうが、当人の意向も聴かずに勝手にオレを図書委員に任命するなど、本当に、勘弁してほしいものだ。
しかし、頼まれれば断れないのがオレという人間だった。面倒だとは思いつつも、集まりには参加し、当番には図書室での仕事をこなしている。担任やクラスの者には不信感が残っているが、図書委員会の面々は何も悪くない。不誠実な態度を取っていては、彼ら彼女らが困ってしまうだろう。だから、せめて真面目に活動することにした。
今日は委員会の集まりに参加し、いつもよりも一時間ほど遅く帰路についている。オレの自宅は学校から電車で五駅ほどだ。駅のホームへと向かうと、見知った横顔を見つけた。
(渡辺さん……?)
同じ図書委員の、一つ上の先輩だ。当番でも二度ほど一緒になったことがある。彼の印象は、正直なところあまり良くはなかった。よく言えばクール、悪く言えば冷たい。身長もオレたちより高く、ちょっと怖い。笑ったところは見たことがない。とっつきにくい先輩だ。
気づかれても気まずい。見つからないように、少し離れたところで電車を待つ。もっとも、渡辺さんの耳にはイヤホンが見えたから、よほど彼の目の前にでもオレが飛び出さない限りは気づかれないだろうが。
(何を聴いてるんだろう)
それは少し気になった。浮世離れした印象のある渡辺さんにも、好きな音楽があるなど考えたこともなかった。きっと、テレビの音楽番組や一般メディアで取り上げられているものなどは彼にとってはノイズだろう。イメージとしては、たとえば……
(あ、やば)
いつの間にか電車が来ていて、発車を告げるメロディが流れていた。オレは慌てて電車へ飛び乗った。
自宅の最寄り駅で降車すると、渡辺さんが扉の近くに立っているのが見えた。彼は、まだ先へ行くようだ。
***
図書委員会の集まりが終わり、すぐに学校を出ると帰宅時間帯がぶつかるらしい。それから毎回、駅のホームで渡辺さんの姿を見ることとなった。
その度に思う。彼は、何を聴いているのだろうかと。
気にはなるものの、話しかけることはためらわれた。何しろとっつきにくい人だ。話しかけて睨まれたり、無視されたりしたら気まずい。むしろ、怖い。
しかし、こうも考える。それはオレの勝手な思い込みで、本当はおとなしい無口なだけの人なのではないかと。それこそ勝手な思い込みかもしれないが。
まあ、渡辺さんが本当はどんな人間かよりも気になるのは、何を聴いているのかということだ。どんな答えが返ってくるだろうかと夢想していた。オレの考えつく、何を聴いていても渡辺さんらしい。答え合わせがしたかった。
初めて見かけたときから数えて四回目の帰り道。オレは、思い切って渡辺さんに話しかけてみることにした。
いつもの時間の電車を待っている、周りよりも少し背の高い後ろ姿。耳にした黒い有線のイヤホンは、制服のズボンのポケットに繋がっているようだ。その先は携帯音楽プレイヤーだろうか。
近づくと、彼はなかなかに威圧感があった。身体から、人を拒むオーラが滲み出ている。やはりやめておこうかと後ずさりしかけたそのとき、不意に渡辺さんがこちらを向いた。
彼の視線に捕まってしまった。これは、もう逃げられない。
「こ、こんにちは……」
思わず、妙なことを口走ってしまった。さっきも委員会の集まりで同じ教室にいたばかりだというのに。
聞こえていたのか、渡辺さんは低い声で「……ああ」と返事をし、オレに鋭い視線をよこした。
怖い。しかし、このままでいる方がよほど気まずい。
「……いつも、何を聴いてるんですか」
勇気を振り絞って訊ねる。渡辺さんはイヤホンをしたまま、険しい顔のまま黙っていた。聞こえていなかったのだろうか。だとしても、もう一度訊ねるのは今以上の勇気が要る。ここは「じゃあ、お疲れ様です」とこの場を離れる方が賢明だろうか。そう考えていると、渡辺さんは渋々といったように口を開いた。
「……ナンバーファイブ」
告げられたのは一組のバンド名だった。それはーー
「……オレも、聴いてます。それ」
オレの返事に、渡辺さんは目を見開き、黒いイヤホンをもぎ取った。
***
ナンバーファイブは、二十年近く前に解散したバンドだ。わずか七年ほどの間に何枚かのアルバムを出し、時代を駆け抜けていった。その音楽は後進にも多大な影響を与えている。フォロワーを公言するバンドやミュージシャンも多い。が、一般的な知名度はさほど高くはない。現に、今までに聴いてるというクラスメイトに会ったことはなかった。
しかし、今日こうして出会ったのだ。クラスメイトではなく、同じ委員会の一つ年上の先輩だったが。
どの曲が好きか、どのアルバムが好きか、どのミュージックビデオが好きか、推しのメンバーは誰か……渡辺さんは早口で一気に訊ねた。
「ちょ、ちょっと待ってください、そんないっぺんに訊かれても答え切れません!」
「そうか、す、すまない……」
渡辺さんに連れられ、ホームのベンチに腰かけたオレたちは、何本もの電車をやり過ごして話をしていた。
先ほど訊かれたことにはひとつずつ丁寧に答えた。好きな曲は決め切れない。いくつも挙げると、渡辺さんは神妙な顔で頷いていた。推しのメンバーはその時によって変わる。いわゆる箱推しだと結論を出すと、渡辺さんは深く頷いていた。
「渡辺さん……は、どうですか」
「綱、でいい。あまり好きな名ではないのだが」
急に詰まった距離に驚くが、渡辺さん……綱さんは、こちらの驚きは意に介さずに話し出した。
「好きな曲は決められないな。君と同じだ。その時の季節や天気、自分の雰囲気によっても変わる……アルバムは、ライブ盤をよく聴くが、スタジオ盤も素晴らしい。映像も曲と同じだろうか。頭にぱっと浮かんだものを見たくなるな。俺も箱推しというやつだ。曲によってメンバーの際立ち方が異なるから、結局はそうならざるを得ない。ライブの映像は目が忙しいな」
当番や委員会の集まりのときの綱さんは、こんなに流れるように話す人ではなかった。よほど好きなのだろうということがよく伺える。彼もまた、独りでナンバーファイブの音楽を聴いていたのだろうか。あの、ひりつくような、鋭角のように尖った音を。確かに、このバンドを愛聴する人にはそういうタイプが多いようだ。ネットで検索すると、オレよりずっと年上の人たちが語っている。教室の隅でイヤホンを挿し、部屋で大音量で、どちらにせよ独り。青春と共にあったのはナンバーファイブの音楽だったと。
オレは彼らがほんの少し羨ましくなることもある。中学の頃はサッカー部で汗を流し、友達にも囲まれていた。客観的に見て、いわゆる「キラキラとした青春」だろう。独りぼっちに共感はできても、共鳴はできない。そんなオレがこのバンドの本質を理解することは、一生かかってもできないのではないかと思っている。
「藤丸君」
不意に、綱さんはオレの名を呼んだ。そういえば名乗ってもなかったが、覚えていてくれたようだ。珍しい苗字だから、頭に引っかかったのかもしれない。
「はい。なんでしょう?」
「いつも、なにで聴いている? 俺はあまり詳しくないが、近頃は携帯でも聴けるのだろう」
「そうですね。オレは全部サブスクです」
「フィジカルは」
CDやレコードのことだ。持っていない。若干の後ろめたさはある。いつかは揃えたいと思っているのだが、なかなか叶わない。
「……いえ」
「なら、うちに来い」
綱さんはおもむろに立ち上がった。今からということらしい。しかし、ずいぶん話し込み、もうすっかり暗くなっている。だいいち、こんな時間にお邪魔したのでは綱さんのおうちも迷惑だろう。
「あの、今日はもうこんな時間ですし……」
すると、綱さんはしゅんと肩を落とした。あからさまに気落ちする姿は新鮮だったが、悪いことをしてしまったなと思う。
「また時間のあるときに誘ってください。楽しみにしています」
「……分かった」
あれだけ怖いと思っていた人なのに、今はピンと立つ猫耳が見えるようだ。少し、かわいいと思ってしまった。
***
確かに、また誘ってくださいといったのはオレだ。
しかしだからといって、教室の前でじっと石のように待っているというのはいかがなものか。なんかデカい人が教室を睨んでいる、とクラスの中で怯える声が聞こえ、まさかと思って出てみると。
「藤丸君」
綱さんはオレの姿を認めると、それまでの無表情を和らげた。
「今日は時間はあるか?」
「はい、あります……」
級友たちの視線が背中に集まるのが分かる。とりあえず、早くこの場を離れたい。
「お邪魔させてください」
「分かった」
またしても綱さんは猫耳をピンと立てたように見えた。級友たちからは、どう見えているのだろうか。どうでもいいことではあるが。欠席裁判でオレを祀りあげた奴らのことなど。もっとも、それがなかったら綱さんと知り合うことはなかったわけだが。
綱さんの家はオレよりも少し先で、学校から八駅のところだった。
その道中もずっと話をしていた。盛り上がったのは、ナンバーファイブと出会ったきっかけの話だ。オレは父親のパソコンで動画を見ていたときにたまたま見つけた、ライブの映像だった。それまで流行りの曲しか知らなかった小学五年生のオレは、新しい世界を知ったのだった。こんなにも鋭角で、しかし重量をもって向かってくる音楽があるのだと。その頃パソコンは一日に一時間までと決められていたから、日々、サッカークラブの練習が終わるとまっすぐ自宅へ帰り、時間をいっぱいに使ってナンバーファイブの動画を漁っていた。
中学に上がると、入学祝いにと自分用の携帯端末を買い与えてもらった。勉強と部活を疎かにしない、という約束で。日々のするべきことをこなしながら、寝る間も惜しんで音楽に没頭していた。ナンバーファイブはもちろん、そのルーツとなったバンド、解散後にメンバーが携わっている音楽、影響を受けたフォロワーたち……気づいた頃には、学校でオレの音楽の話についてこられる者はいなくなっていた。
そんな話を、綱さんは頷きながら聴いていた。彼の出会いは、小学四年生の頃にたまたま見たテレビだったという。ナンバーファイブのメンバーは風貌が際立っているわけではない。どこにでもいそうな、普通のーー活動当時はーー青年たちだ。しかし、一度演奏が始まると、穏やかさは影をひそめる。激しく吼え、嵐のように迫り、刀のように鳴らし、地鳴りのように轟く。そのギャップにまずは驚いたという。そして、その音楽だ。大きな塊のようにドスンとぶつかってきたその音に、すっかり心を鷲掴みにされてしまったと。その晩は衝撃で眠れず、翌日は学校が終わった後、ランドセルを背負ったまま近くのCDショップへ駆けて行ったのだという。もともと口数が少なく、学校でも一人、教室の隅で大人しくしていた少年は、輪をかけて友達ができなかったと話した。
綱さんはとても嬉しかったのだろう。自分と同じものを愛聴している同世代の人間を見つけて。友達との接し方を知らない彼は、距離の詰め方も知らないのだ。いきなり教室を訪ねてきたのも仕方がない。
綱さんは、幼い頃に自分を引き取ってくれた母親がわりの女性と、三つ年下の、こちらも血の繋がりはない弟と暮らしているという。この時間、二人は不在のようだった。
部屋へ案内され、足を踏み入れるとーー天井まで届く本棚にたくさんのCDやアナログレコード、カセットテープがびっしりと並べられていた。この世の全ての音楽がここにあるかのような光景に、オレは思わず息を呑んだ。