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    2021年11月28日公開のぐだ→綱のお話のサンプルです。
    現代の日本に戻ったぐだくんと、ヒトとなったサラリーマンの綱。
    こちらはPDFにて無料配布します。

    OMOIDE IN YOUR HEAD冬の澄んだ空に浮かぶ美しい三日月につい見惚れ、ぼんやりしていたこちらも悪かったのだが。向かいから来た青年と、勢いよくぶつかってしまった。
    鞄が手から滑り落ちる。今日は端末を持って帰っておらず、よかった。
    「ごめんなさいっ、大丈夫ですか……」
    礼儀正しい若者だ。大学生くらいのその青年は、素早い身のこなしで俺の鞄を拾い上げると、こちらへ渡そうと手を伸ばし、そして何故かそこで固まってしまった。
    「……何か」
    「………………綱、さん……」
    怪訝な俺の顔は、さらに怪訝さを増すこととなった。

    渡辺綱、というこの名は、平安時代に名を馳せた武者から付けられたものだ。あまり気に入っているものではない。だいたい聞き直されるため、非常に面倒であった。
    俺は大学時代に自転車で自損事故を起こし、それまでの記憶をほとんど失ってしまった。覚えていたのは己の名前と、母親がわりの女性、血のつながらない弟のことだけだった。卒業後は会社員となり、こうして十数年ばかり勤続している。
    日々、それほど心の動くことはない。それでも、それなりに平穏に暮らしている。休みの日には趣味の菓子作りに集中しているくらいか。一人では食べきれず、初めは母と弟にくれていたのだが、「毎週毎週……もういらねえ」と言われてからは職場へ持っていくようになった。幸いこちらは喜んで食べてもらえている。
    俺は今の生活に満足していた。だから、それを乱さないでほしかった。突然ぶつかっただけの初対面の青年にいきなり名を呼ばれるなど、そんな驚きは俺の人生に必要ない。誰かと間違えているのか、しかしこんな珍しい名が被ることはそうそうないだろう。
    「オレのこと、分かる? 覚えてる?」
    「……いや。申し訳ないが」
    答えると、青年は落胆した。もしかして、事故で抜け落ちた記憶の中にいる人物だろうか。
    「君とはどういう関係だろうか」
    「オレはあなたの主で……あなたの恋人でした」
    今時の若者が言うところの、厨二病というものだろうか。まともに関わってはいけない人種かもしれない。俺には主君という存在がいた覚えも、恋人がいた覚えもない。いくら俺に記憶のない時期があるからといって、そんな現実離れした過去があるはずもない。
    しかし、相手は俺の名を知っているのだ。どういうことなのか、混乱してしまった。
    「綱さん、本当に……何も覚えてないんだね」
    悲しげに俯く青年を放って立ち去ることもできたはずだった。しかし。
    「……後日でよければ、話を聞かせてくれないだろうか」
    俺は青年に連絡先を渡していた。彼がどうして俺を知っているのか気になるということも理由だったが、それ以上に――彼の声が、どこか心地よいものだったからだ。

    『驚かせてしまってごめんなさい』
    帰宅すると、携帯にメッセージが届いていた。先ほどの不思議な青年からだ。
    『オレは藤丸立香といいます』
    やはり聞き覚えのない名だった。
    さて、なんと返信をしたものか。彼はすでに俺を知っているから、名乗るのも今更だろう。
    『今週の土曜は空いているか?』
    指は勝手に動いた。こちらから約束を取り付けるなど、危険はないのかと頭の中の冷静な部分が問う。大丈夫だろう、こちらはいい歳の男だ。それに、まっすぐ真摯に俺を見つめる目をした彼が、俺に危害を加えるとはどうしても思えなかった。
    『はい。大丈夫です』
    また連絡する、と返信し、携帯を置いた。しばらくののち、画面に表示されていた言葉はこうだった。
    『あなたのその優しいところ、何も変わっていないです』

    藤丸君とのことは、誰に言うわけでもない。平日は淡々と日々を送っていた。
    一日に一度ほど、『おはようございます』と彼からメッセージが届くくらいで、それ以上のことは何もない。
    金曜の朝に、約束通り彼に連絡を入れた。待ち合わせの時間と場所を伝えると、すぐに了解したとの返信が。
    その直後に、弟からもメッセージが入った。明日が休みになったから、食事に行かないかとの誘いだった。あいつはバイク店で働いているから、普段の週末は稼ぎどきだ。しかし、今週はたまたま店長が留守になるらしく、土曜に休みが入ったのだという。
    『悪い。先約がある』
    『なんだ? デートか?』
    今まで、生まれてこの方、縁のなかった言葉だ。しかし、あながち間違いでもない。何しろ明日会おうとしている相手は、俺の恋人だったと名乗る人物なのだから。ただ、それを正直に伝えてしまうと『兄ィが?! ウソだろ?! 地球が滅亡すんのか?!』と弟が騒いで面倒なことになるので、仕事の付き合いで出かけるのだということにしておいた。
    (デート……か)
    少し、めかし込んで行った方がいいのだろうか。とはいえ、俺は服のことなど何も知らない。クローゼットには、着られる最低限のものしかない。帰りに何か見つくろっていくか……こんなことを考えている時点で、藤丸君にずいぶん引きずられているのだろう。向こうは恋人を自称しているが、こちらは何も知らないのだから、無理に合わせることなどない。
    しかし結局、俺は新しいシャツとズボンを手に、帰路へ着くことになっていた。
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