OMOIDE IN MY HEAD朝の目覚めは、いつもそう悪くはない。
今朝もいつもと同じように五時に起床した。やや早い時刻だが、体がもう、この時間に起きるようになってしまっている。
出社までの時間をゆっくり使って、歯を磨き、顔を洗い、朝食を摂る。八時になる少し前に家を出て、駅まで歩き、決まった時刻の電車で会社へと向かう。それが、俺の日々のルーティンだった。
「渡辺さん……あっ、ええと、綱さんの方です。これお願いしてもいいですか?」
「分かりました。やっておきます」
「ありがとうございます!」
「綱さん、ツールのパスワードがロックしちゃったんですけど……」
「解除します、お待ちください」
「すみません! 助かります」
大学を出て新卒で入社したここで、俺は総務部に配属されて長い、らしい。らしい、というのは、俺にはある時期より以前の記憶がないからだ。
二年ほど前、俺は自転車で事故に遭ったようだ。夜道で側溝に落ちたのだという。幸いなことに通行人に救助されたが、頭を打ち、それまでの人生のほとんどの記憶を失ってしまった。事故の経緯も後から人に聞いた話だ。かろうじて覚えていたのは、「渡辺綱」という己の名前と、母親がわりの女性のこと、血のつながらない弟のことだけだった。
俺のこの名は、平安時代を生きた武者にちなんで付けられたものだと、おそらく思う。真相を確かめようにも、名づけた者はもうこの世にはいない、らしい。その辺りのことも、きれいにさっぱりと忘れてしまった。ついでに、仕事のことも全て頭から抜けてしまったのだ。この二年、また一から覚え直しだったが、今では人の手助けができるまでには回復した。
(もうこんな時間か)
昼休憩を告げるチャイムが鳴る。自分のやること、頼まれごと、仕事はいくらでもあり、集中しているとあっという間だ。
会社の食堂で定食にするか、近くの蕎麦屋へ行くか。後者ならばカレーうどんが食べたいが、今日のシャツは白だ。カレーうどんと決めた日は黄土色のシャツを着てくるべきだ、などと思いながら、足は食堂へ向かっていた。
ここでは、たくさんの社員が昼の時間を過ごしている。今日はメンチカツ定食に行列ができているようだ。俺はそれを横目に、鯖の塩焼き定食を供する窓口へ。自宅では魚料理は難しい。こうして口にできるときに食べておくべきだ、と思った。
定食の乗ったトレーを手に、空いている席へ。いただきます、と誰に聞かせるでもなく呟いたとき、声が聞こえた。
(隣、いいかな?)
隣を見るが、誰もいない。ここはさまざまな社員の集う場所だ、誰かの会話が聞こえていたとしてもおかしくはない。しかし、あんなにはっきりと、まるで俺に聞かせでもするかのように聞こえるものだろうか。それに、その声はーーどこか聞き馴染みのあるものだった。
***
普段、夢を見ることは少ない。いや、それは正しくないか。人間、夢は見ているらしいが、忘れてしまっているらしいという。俺は夢を覚えていることは少ないのだが、今朝方の夢はやけに頭にこびりついた。
真っ白な部屋で、俺は誰かと手を握り合っていた。その人物にはもやがかかっており、誰なのかは分からない。
俺はその人物に向かって、必死に何かを訴えようとしていたが、口がうまく動かない。焦れば焦るほどに舌がもつれる。相手はどうやら微笑んでいるというのが、気配で分かった。俺が何を言いたかったのか、相手の返事はなんだったのか。夢はそこでふと途切れ、気づけば時計は四時五十五分を指していた。
あんな現実離れした光景、フィクションの影響だろうか。俺は映画やドラマの類は嗜まないから、通勤中に横目で見た広告でも頭に残っていたのだろうか。あの部屋はどこで、相手は誰で、俺は何を訴えたかったのだろうか。思い起こそうとするが、何ひとつ思い出すことができない。
おそらく無意識のうちに何かに影響されたのだろう。それに起きてしまった今、夢のことなど考えても仕方がない。深く気にしないことにした。
毎朝のルーティンを終え、会社へ。相変わらず次から次へと仕事が湧いてくる。すぐに済むものから、やや時間の必要なものまで。今日は部の人間の情報をシステムへ登録するという、なかなかに集中力のいる仕事があった。名前とメールアドレスをひとつひとつ手で打ち込まなければならず、終わった頃には頭がすっかりくたびれていた。
隣の席の同僚がくれた菓子をつまみ、一息つく。ふと、今朝の夢のことを思い出した。突然鮮明に、俺が言わんとしていた言葉が浮かんできたのだ。
『次に出会ったときも、あなたにはまた俺を愛してほしい』
ずいぶんと熱烈な言葉だと思った。夢の中の俺は、この一言を伝えるのに必死だった。それほどまでに相手に執心していたのだろうか。生まれてこの方、そのような相手には出会ったことがないというのにーーもしや、事故で抜け落ちた記憶の中に、そんな人物がいたのだろうか。それにしてはずいぶん相手は冷たいものだ。俺が自転車で側溝に落ちたのに見舞いにも来ないなんて、そんなことがあるだろうか。こちらはそれ以来、恐ろしくて自転車には乗れなくなってしまったというのに。そんな薄情な人間がいてたまるか。
そう考えるとやはり、俺の実体験に基づくものではないようだ。何かしらの創作物に影響を受けている可能性が大きい。近頃テレビで見たのは朝と夜のビジネスニュースだけだが、確かその中で、近日公開の映画について特集していた。きっと、そこからの連想だろうと結論づける。
「綱さん、休憩中に申し訳ないんですが、明日届く端末に貼るシール作成をお願いしてもいいですか? 機械の使い方、分かる者がいなくて」
「……はい、大丈夫です」
仕事はまだ終わってはいない。一息も入れたことだし、定時まで頑張ろう。