【イベント限定公開】ひかりのさき それは糸というよりは自分をがんじがらめに縛る鎖に似ている。
預言に紡がれた言葉は自分の目の前に一本の糸となって現れる。その、たった一本の糸を手繰るように辿っていけば、たどり着いたそこは正しい未来なのだという。
出会うべき人も、行くべき場所も、するべきことも、その一本の糸の先にある。そして死ぬべき未来も。
だから、そこから抜け出したくはないかという声に頷いてしまった。だから自分はその目の前にあるすべての糸をバッサリと断ち切った。自分が望むべき未来を手繰り寄せるために。
今まで自分につながっていたはずの糸はどこにもない。
そして、その自分の運命新しく決める糸はまだ、見えない。
『あなたが私の預言に記されていた運命の人なのですね』
物語の中の二人は見つめあってそっとキスをする。
そうして二人は幸せになりました。
「……運命の人、か」
ルークは自室のベッドに転がってその文字をそっと指で辿った。
ナタリアの持ってくるおすすめの本というのはこういう展開が多いなと思いながらも、それを読み進めておかないとナタリアが拗ねるので、ルークはいつだって頑張って渡された本を読む。外からいつも来てくれる人はナタリアだけだったからだ。文字がよく読めなかったころから、フォニック文字ならば大体読めるようになった今でも、ナタリアの一番のおすすめの本はこんな感じだ。外の世界を知らないルークにはそれでも本の中の世界は少しだけ眩しく見えた。
王子様とお姫様の話もあれば羊飼いと村娘の場合もある。けれど共通しているのが、それが恋物語であり最後にはハッピーエンドを迎えることだ。預言に記されていた運命の相手と出会って幸せになる物語。
実際には誰が預言に示された結婚する相手かということは幼いころには詠んではくれない。結婚しようと決めた二人が教会へ行けばその時に真偽を伝えてくれるらしい。だから、ルークとナタリアは婚約者だけれども、最終的に成人してから二人でその真偽を確かめに行くまでは結婚はできないし、もしかしたら預言の相手ではないといわれる可能性だってある。そういう話も読んだことがある。
ルークは、だったらどうする? とはナタリアに問いかけたことはなかった。だったら要らないと言われるのが怖かったし、約束すら思い出せない自分がナタリアの預言の相手でない、かもしれないからだ。
見えればいいのに。お話の中のようにこの左手の薬指から繋がっているという、運命の赤い糸が自分の指から延びる先を。
それがどうして赤い糸なのかは知らない。情熱的だと言われるからか、それが体中を駆け巡る血の色であるからか。
ルークは手元の本をぱたりと閉じた。考えたって仕方がない。あと数年もすれば成人するし、外にも出られる。そうすれば自分の未来なんてわかってしまう。預言は揺るがないものなのだから焦る必要もないのだ。そう思って本を机の上に置こうとしたその時、何かちらりとしたものが視界をかすめた。
本の間からきらりと光るものが見える。本からはみ出た長い、赤い、それは、いつの間にか挟まったのか自分の髪だった。つまんで引けばするりとその本の間から抜け落ちる。
赤い、糸のような一本の。
それはなんとなくだった。さっきまでそんなことを考えていたから、左手の薬指の根元にそれをぐるぐると何度か巻きつけた。ルークの髪は長い。それだけでは余るそれはまるでどこかに向かっているように長く垂れて、ちょうど毛先の色が薄くなっているところで光に霞んで消えたように見えた。
その先に誰かいるのか。それともそこで消えてしまっているのか。
そう考えたのは一瞬で、何を馬鹿なことをしているんだと軽く手を振れば、左手にはもうすでに何もなかった。巻き付けていたそれも風に乗ってどこかに飛んでいったのかどこにも見えない。
運命があるのならば、たぶんそんなことをしなくても見えるのだろう。その時ルークはどうしてかそう思っていた。
運命の赤い糸はいまだ、見えない。
繁華街から少し離れれば、マルクトの首都であるグランコクマと言っても橋の下に流れている水音が聞こえるかと思うほど静かなたたずまいを見せる。昼間よりはもちろん減っているが、人が少ないわけではない。街灯の明かりに照らされた今だってアッシュの歩いている橋の上にも行きかう人も馬車も通り過ぎていく。ただ、バチカルやケセドニアとは違う、街中に水路が張り巡らされ、橋を繋いだその先に建物があるという街の構造上音がとどまらずに通り抜けていくのだろう。橋の上ならなおさら、水路に沿って流れる緩やかな風が頬を撫でて、少しだけ肌寒い。
辺りはすっかり暗くなってしまったが時間はまだそれほど遅くはない。犬の散歩をしている人もいれば、吐息がかかるほどに近くで何かを話しているのだろう恋人同士が歩いていたり、子供が母親の手を引いてどこかへ向かっていたりもする。太陽は完全に沈みきってしまって、空には星が瞬いているが、街灯の明かりが水面に反射してゆらゆらと揺れる光が街中を覆っていて、幻想的に美しい街並みが広がっていた。
夜のグランコクマで水路脇の散歩道が雰囲気があっていいとか言っていたのは誰だろうか。そんな話をするのはギンジくらいしかアッシュの周りにいない。一体そんなものは誰が望むシチュエーションなのだと思ったし、だれに勧めてるんだと反論したかったがなんとなくにやにやされそうでアッシュはその時は聞かなかったふりをしたのだと思う。その時脳裏に浮かんだのが、もちろん自分一人でそこを歩く姿ではないから、もう一人、自分の隣にいるのは。
もちろん今のアッシュの隣には誰もいない。今思い浮かんだ映像だってすべてはただの妄想だ。そんな風に歩いたことなんて、今まで一度もなかった。二人の関係はそんなものではなかったし、多分これからもないかもしれない。
そう、ルークとは。
アッシュは長い橋を渡りきるとその先一つ目の十字路の角で足を止めた。店の軒先の横に大きな木が一本立っている。目の前には十字路の中心に大きな街灯が明かりをともしていて、幾人かがそこで立ち止まっているのは街灯に取り付けられた精巧な大きな時計を見上げているからだ。夜でも明るく、大きな通りに面したその場所は待ち合わせによく利用される場所で、アッシュが足を止めたのもそのためだった。ただ、あんな明るい場所にはいけないけれども。
アッシュは時計を見上げる。時間も場所も一方的に指定したのはアッシュのほうだ。この世界でただ一人、いつでもどこにいたとしても言葉を交わすことのできる相手がいるというのは誰にも理解できない感情だろう。それがただ二人だけに与えられた特権だというのならばアッシュはこの奇跡に少しだけは感謝している。
ルークは、来るだろう。今までこうやって呼び出してルークが来なかったことはなかった。一度はそうと知らず呼べば、風邪で熱を出しているというのに目の前に現れたことがあってその時はさすがに宿に送還した。アッシュはルークがたとえ一方的なアッシュからの言葉だったとしても自分との約束を違えないことを知っていたし、その根本はルークがアッシュのことを特別に思っているからだということを確信していた。
それはうぬぼれなどではなかった。
けれどその特別というのは、どういう特別なのか。もしかしたら、と考えたところで他人の考えることだ答えなどでない。
アッシュは再び時計を見上げた。指定した時間まではまだ、ある。
アッシュは木にもたれかかると軽く目を閉じた。
普段見る世界は、誰もが見ている色のついた世界だ。ただ、少し見る角度を変えるだけでその世界は一変する。それは目に見えるものではなかったけれども、アッシュには多分それが見えているのだろう。第一から第七までの音素が世界を覆っている。様々な音素を含有している人はそれらが混ざり合った色になって目を閉じたアッシュの視界に映るのだ。人だけではない、全ての音素が色をまとってそこにある。これがアッシュだけが見える世界なのか、だれでも見れるものなのかは分からない。ただ、音素だけの世界が見えたからといって特に何ができるか、というものでもなかったから公言していないだけだ。見える世界は広い。普通の視界とは根本的に違うはるか遠くまで見える、とアッシュは思っていた。けれどもたった七つの音素が混ざり合っただけのそれでは人か物かの区別すらただの人であるアッシュには付けることはできない。どこまで遠くが見渡せたとしても、機械でもない生身でそれを処理することはできなかった。
ただ一つをのぞいては。
ふわりとアッシュの前に光る何かが揺らめく。それは金の細い糸のようなものだった。そっと目を開ければいつもの色のついた世界にその光る糸だけが目の前に揺れて、それは確かにアッシュの手の上につながってそこで消えていた。それは実際には目の前にあるものでもなかったし、触れられるものでもないはずだった。けれどもアッシュが意思をもってその糸に手をかければ感覚はないけれどもアッシュの手に収まっているようにも見える。ゆるく手に巻き付けてその先にあるものを引き寄せるつもりでに引けばその糸はぴんと張ってまっすぐにその糸の先を示すのだ。それがどんなに遠い場所にあったとしてもアッシュにはそれがわかる。そして近ければその存在をはっきりと掴みとることすらできるのだ。
それはアッシュの前方、およそ二百メートル。
指定した時間はもう過ぎている。いまだ現れていないルークを心配することはなかった。
なぜならば、今。
「アッシュ! ごめん」
短く切られた赤い髪を揺らしながら、ルークが角を曲がってアッシュに手を振った。まるであつらえたようなタイミングだと思わない。だって、あつらえたのだから。
アッシュは遅い、と口にしようとしてそれをやめた。ルークが角を曲がって一直線にアッシュのところまで来ると思っていたのにそこで足を止めたからだ。その原因もわかっている。
「お兄ちゃんは、あのお兄ちゃんをさがしてたの?」
ルークの隣に立つ少女が首をかしげながらアッシュを指さした。
「いや、俺ははぐれてたわけじゃないんだけど……」
「そっくりなのにさがしてないの?」
「ちゃんとね、ここで会おうねって決めてたから会えるんだ。どう? お母さんとどこかで約束しなかった? ここで待っててねって」
「うん?」
ルークの足元には見知らぬ少女が手を引かれて立っている。ふわふわもこもことしたコートを着ているその子供はおおよそ旅行か何かでグランコクマに来たのだろう。そして。
「何拾ってきてんだ、お前」
「でもだって! こんな小さいのに一人で泣きそうな顔で花壇にちまっと腰かけてたんたぜ。ほっとけないだろ」
つまりルークが連れているその子供は迷子らしい。くりっとした目に見上げられて、アッシュは一瞬たじろぐ。子供が悪いわけでもない、そんな子供をほおっておかなかったルークが悪いわけでもない。ただアッシュは子供の扱いには慣れていない。ルークは子供同士波長が合うのかもしれないがアッシュは違う。こういう時どういう態度をとっていいのかアッシュにはわからなかった。困っているのだろう、助けなければという気持ちはある。けれどルークのように手を出せるかといえばアッシュはしないだろう。
「親が探してるかもしれねぇだろ。元いた場所で待たせたほうがいいんじゃねぇか」
迷った時には誰か探してくれる人がいるのならば動かないほうがいい。それは子供でも大人でも同じことだ。ましてや街中である。人通りがないわけでもない。自分たちが何とかせずとも親は簡単に見つかるだろうとアッシュは思っていた。けれどルークは首を横に振って困ったような顔をした。
「……それが、船を追いかけて橋を何個か渡った……らしい」
ちがうもんお母さんを探してたら見つからないだけだもん、と言いながらも不安げな少女を見下ろしながらアッシュもルークがわざわざこの子供を連れていた意味がなんとなく分かる。グランコクマは水の街で、水路に渡された橋が無数にある。そのどれも似たような佇まいをしているから、初めてこの街を歩くのであればどの橋を渡ったかなどは分からなくなることも多い。特に子供ならばなおさら。元の場所と全く違うところにいる可能性のほうが高そうだ。
「それは、見つからないな」
「……だからさ、とりあえず一つ向こうの角に軍の詰所があるだろ? そこにつれてって保護してもらおうかと思って。だからアッシュ、ちょっと待ってて」
街の警備はマルクト軍が担っている。迷子などの保護もやってくれるだろう。多分それが正しいのだと思う。けれど、アッシュには分かっていたことがある。
「それでもどうせ親が見つかるまでお前も探すんだろ」
そう告げればルークはふっと目をそらせて、そらせたということは図星ということだ。なんとなくアッシュもそうじゃないかなと思ってはいたのだ。
「あ……うん、ごめん、やっぱ待ってなくていいよ、ごめん」
思った通り、ルークが一度つかんだその手を中途半端にするわけがないことをアッシュは知っていた。そして、アッシュと迷子の子供を天秤にかけた末にアッシュのことが後回しにされるであろうことも。
「話があるならあとで回線でもいいし、……後でいいならお前んとこ行くし」
もうきっと何を言うかまで決めていたのだろう、目を合わせずに口早にそういうルークの次の言葉を言わせないよう、アッシュは静かに口を開いた。
「……誰がそこまで待つと言った」
「そ、そうだよな。俺、ッ別に……」
一瞬開いた瞳は焦りの色しか見えなかった。自分で言っておいて何をそんなに焦っているのかアッシュは一瞬悩んで、ああそうかと理解したのも一瞬だった。
頭を押しつぶすように乱暴に片手でつかむと乱暴にその髪をかき混ぜる。悲鳴のような声が上がるが無視だ。これはアッシュを理解しようとしないルークへの仕置きなのだから。
「お前を待つ時間があるならさっさとこの迷子をどうにかしたほうが早いだろ。待つつもりもないし、お前を置いて帰ったりしねぇよ」
「え?」
さっきの子供の様に目を丸くして視線を上げたルークにアッシュはあきれるだけだ。いったいルークはアッシュのことを何だと思っているのか。人並みに他人を思いやる気持ちくらい持っているし、いつでもルークの行動に怒っているわけでもない。確かにルークに怒ったり苛立つことは多いけれども、いつもではない。たぶん。そんなに驚かれることを言った覚えもない……はずだ。
「アッシュ、探してくれるのか?」
「今日はお前と会う以外の予定もない、お前だけでは分からないが多分すぐ見つかるだろ」
その言葉には絶対の確信があったからそういったのに、ルークは何を言っているのかという目で見てくる。分からないのか、と思ったがそういえばルークにはわからないのだろう。
「すぐ見つかるかは分からないけど……アッシュ?」
アッシュはルークのことはひとまず置いて、とりあえずここまで連れてこられてしまった子供の前に腰をかがめて目を合わす。
「どこにいたか覚えているか?」
「あのね、水がキラキラしてたの、それでねお魚とね猫がね」
楽しかったのだろうということだけそのキラキラとした瞳でわかるが、そのほかはさっぱりだ。多分年齢が同じくらいだろうルークなら分かるのだろうと目をやればそらされた。ルークも多分この攻撃を受けて、うまくかわせなかったのだろう。確かに何もわからないしヒントすらくれそうにない。普通に探すならば困難だろう。
「だからさ、とりあえずアッシュに説明してからマルクト軍のところへ連れて行こうかなって」
少女はお母さんどこに行ったのかなと不安げな表情はしているけれども落ち着いている。だが何を話しかけても行った場所や泊まっているホテルなどの情報は出てこなかった。どうやらずっと続く水路がとてもお気に召しているらしいことしか分からない。
少しでも情報があれば少なくともルークはアッシュのところに来ずに子供の親を探していただろうから、アッシュとしてはよかったのか悪かったのか。そんなことはどちらでもよかった。とりあえずこの先の話だ。
アッシュは子供から情報を引き出すのをあきらめるとゆっくりと立ち上がり辺りを見回した。
夜の街が音素灯に照らされて浮かび上がっている。けれどアッシュがゆっくりと瞬きをすればその世界に違う色が重なった。
「あっちか」
視線を向けたのはルークの背後にあるそれほど大きくはない橋、のその向こう岸。あちら側にもいくつかの店が並んでいたはずだ。
「え? マルクト軍に保護してもらうんだろ?」
それはルークが向かおうとしていた場所とは真逆の方向でもあった。
「ああ、行ってこい。そっちにも親から情報が入っているかもしれないからな」
「アッシュは? どうするんだ」
「この子を保護したのが向こう岸の通りだろう。そのあたりからさらに北側を探してみる」
見つけた、というのは表現としておかしいだろう。けれどアッシュには当てがある、といったほうが正しいだろうか。
一度目を閉じて、再び目を開ければ普段とは違った世界がアッシュに見えた。いつもの世界と、音素でできた世界が重なり合ってその情報量に目を閉じたくなるほどだ。その両方は見えている、と言っても全然種類の違うものであるから重なった向こう側が見えない、というものでもない。それは重なっているのではない、両方が同時にアッシュに見えているのだ。だから、アッシュはあまり音素の世界を見ることは好きではなかったし、特に必要ともしていなければ意識することもない。ただ、今はそれを見る必要があっただけ。
アッシュの目の前にふわりと浮かぶ光る糸がある。それはさっきも見えたアッシュとルークを繋ぐ音素の糸だ。つながっている、というのは比喩ではない。確かにアッシュとルークは何かしらの音素でつながっている。その糸のように見えるものは普段はアッシュの見える少し先で消えたようにその先は見えないのだが、それはただ音素という存在がアッシュの中で感知できる範囲を可視にしただけのものであり、実際にはその先につながっているのだろうし、アッシュの見えない何かもそこにはあるのだろう。アッシュはほかの人よりも少しだけ見えるだけ。音素集合体なんかならば、世界はただの音素の塊で、アッシュたち人間の見えている世界など見えていないのかもしれない。そう思っても不思議はなかった。
このつながっているように見える糸でさえ、繋がっている、というアッシュの認識が可視化されただけのものなのかもしれない。それでも、いつだってこの糸の先にルークはいたし、手繰ればルークにも伝わる。
ただ、その繋がっている、という何かは別段アッシュとルーク二人だけに用意されているものではなかった。
自分の手の平に視線を落とす。まぶしいほどの金の糸はそこからまっすぐにルークへと向かっている。けれどアッシュに絡まる糸はそれ一つではなかった。よく目を凝らさなければ見えないほどのいつくかの光がキラキラと光ってどこかへとのびている。近くを歩く人にも、もちろんルークにも。アッシュはそれを、俗にいう人の縁のようなものなのだろうと勝手に思っていた。実際に触れれば温かいと思うのはそれに伴う音素の移動があるからだ。触れなくとも心が動く、大勢の人の中でもその人を見分けられる。そんなつながりが、音素の世界では本当につながっているだけの話で、アッシュとルークの間のそれがはっきりと見えるのはつながりが強いか、自分の何かはただよく見えるだけか、ほかの誰かがこんな景色を見たというのは聞いたことがないので比べようもない。
ただ、アッシュにはそれが見える。
だから、見えた。
迷子のはずの少女をじっと見つめれば彼女から延びるかすかな軌跡を見つけることはそう難しくなかった。手のひらで掬うようにそれに触れればすっと遠くまでその糸が伸びるのが見えた。一度視認してしまえばその軌跡を見失うことはない。アッシュの音素に触れたことによってその糸はアッシュとも繋がったからだ。だから迷子本人はもう必要なかったからルークの目的通りマルクト軍へ保護してもらえばいい。
アッシュはただ、その糸を引いてその先にいるはずの人物に子供がどこにいるか伝えればいいだけなのだから。
「アッシュ?」
ルークがそんなアッシュを不思議そうに見つめている。そうだろう、どうにかするといったのにルークからしてみれば何をしている様子も見えないのだから。説明すればわかるのだろうか、ルークはアッシュのレプリカなのだからもしかしたら同じ世界が見えるかもしれないという思いはあった。
同じ世界を共有するという響きには惹かれるものがある。けれども、いつでもつながった糸を引かれるのも面倒だし、理解できないと言われるのも癪だ。世界に二人だけの特別であることは確かにアッシュの中でルークを独占する理由でもあったし、喜びでもあった。それが違うと言われてしまえばどうなるだろうかでアッシュはこのことを告げるかどうか少し考える。
別にルークに知られるのはかまわない。もしルークがアッシュと同じようにそれを利用できるならば、ルークは話しかけてくるだろうか。なんとなく、話しかけては来ないような気がした。ルークは変なところで遠慮がちに消極的だ。多分アッシュはそうなったら面倒だと言ったりもするだろうし、今までのように一方的に回線を切ったりするだろう。それは性分なのだし、だからと言ってルークのことを嫌ってやっているわけでもない。
今だってそうだ。ルークに対していまいちどんな態度で接したらいいかつかみかねている。別にそれほど大した事でもないだろう。ルークとの時間を確保するために見知らぬ子供の親を探しているなんて。呼びつけたのは自分だ。優先されるのはアッシュであるべきだし、さっさと解決する手段があるのだからそうするだけだ。
「少なくともこの子供がいたのはこの辺りじゃねぇことは確かだ。この先の橋にいたんだったら向こう側だろ。こっち側に子供を探しているような様子がないんだから向こうで探してる可能性があるだろ」
「そう……だな」
けれど、自分が特異なことは分かっている。誰がいるかもわからないこんなところで説明を求められても困るし、疑問に思われなくて答えなくていいならそれに越したこともない。
納得したのかそうでないのか、ルークは子供の前にしゃがみこんで頭をぽんと撫でた。
「行ったことある店があったら言えよ?」
どうやらルークはアッシュについてくるらしかった。マルクト軍のほうへ行ってもらってもアッシュとしては別にかまわなかったのは事実だ。アッシュは少女から伸びる糸をとらえた。あとはそれをたどるだけなのだ。けれどルークが来るならそれでもいい。さっさと保護者に子供を引き渡すことができるだけだ。
ルークのその言葉に子供は大きく頷くがわかっているのかどうかは定かではない。けれど大きく振った手から伸びる糸はゆるく揺れている。それは何かを探しているようにも見えた。ルークはそれが見えるはずもないのに、その光ののびる少女の右手を繋いで小さく笑った。
その時、光が少しだけ強くなった気がした。その色はルークとアッシュの間にあるそれに似ている、と思ったのはルークからもその子供に向けて柔らかな光の糸を揺らしているからだ。アッシュはその目の前に揺れている糸に触れかけて、手を止めた。
触れたかったわけではなかった。逆だ。その柔らかに光る糸なんて切れてしまえばいいと思ったのだ。
ルークから伸びる光はそれだけではなかったけれども、今はアッシュとの糸の次にキラキラと光って見えてなんとなく面白くなかっただけだ。
アッシュはそれを見ないようにルークたちの前に立って、予定通り少女から延びるか細い糸を手繰るように歩いていく。橋を一つ越えればいくつかの商店が並ぶ通りに出た。その道の向こう側にも橋があるが糸が向かっているのは街の中心に向けた大通りの方角だ。水路沿いに歩いて少ししたところをその糸は曲がって見えなくなっている。ルークならば触れるだけで居場所も距離もわかるその感覚は他人のそれには全くない。ただつながっているそれが見えるだけ。この先にいるのが保護者かどうかもわからない。ただ、全く知らない人のところには繋がっていないから知る人のもとにたどり着けばいい今回のこんなことにでも使う以外の方法はないものだ。
糸の向かう先へと迷うことなく足を進めるアッシュの後ろから二つの足音が付いてくる。
「アッシュ、どこまで行くんだ?」
「……別に、こいつの話だったらこっちだろうと思っただけだ」
「ふうん、そう」
疑っているのか、アッシュを盲信しているのかよくわからない返事をしたルークも足を止めることなくアッシュの後ろをついてきて時折子供と何か話している。アッシュとしてもこんな予定にないことをさっさと終わらせたいのでよそ見もしない。常識的に考えて迷子の親を探すのに誰かに話を聞くわけでもなくただ何かに向かって歩いていくことは変だとわかっているが、無駄なことをしたくなかっただけだ。子供は多分アッシュの行動の不可解さは分からない。ルークは変だと思っているかもしれなかったが、気づかれても別にかまわない。絶対に隠し通さねばならないことでもなかったからだ。
その時、糸がぴんと張ったのが見えた。まっすぐ延びるその糸の先にも道行く人が何人もいてそれが誰につながっているのかは見えない。けれどそこに誰かいるのかだけは確かなのだ。アッシュはルークの肩を軽く引けば何事かとルークはアッシュに向かう。つられて子供もルークを見上げアッシュを見上げてそのアッシュの視線に誘導されるように遠くへと視線を移した。
「おかあさん!」
子供の声に振り向く人影が一つ。
間違いなく少女から伸びた光がつながった先はその振り向いた女性で。駆けていくことどもと、彼女が子供をぎゅっと抱きしめるまでを二人はじっと見ていた。ルークがふわりと笑ってアッシュを見る。
「よかったな」
「ああ」
交わすのは一言だけ。けれども、アッシュの向かった先に探している人物がいたことだけは確かで。早く見つかるに越したことはない事件なのだから手段なんてどうでもいいはずだった。
アッシュはただ、時間が惜しかっただけ。ルークは早く探してあげたかっただけ。利害が一致したに過ぎない。
これはルークのためではない、自分のためにしたことだ。
無邪気に手を振る子供と、何度も頭を下げる母親からやっと解放されて、二人は夜のグランコクマを並んで歩く。
「アッシュ、知ってた……わけないよな。何で分かったんだ?」
さっきは子供の手を引いてアッシュの後ろにいたルークが、今は真横に並んで顔を覗き込んでくるのをアッシュは当然だと思う。どうして見も知らない子供のためにルークのために作った時間を奪われねばならないのか。アッシュは非常に心が狭かった。予定を狂わされるのも嫌いだし、自分よりも優先すべきものがルークにあるというのも癪だ。だからやっとルークの意識がアッシュに向いたことに当然と思いながらほっとした。
時間は待ち合わせた時間から一刻ほど過ぎて、道行く人も若干少なくなったように思う。ルークと落ち合うのが目的だったアッシュは特に行くところを決めていたわけではなく、なるべく人のいないところへと足を向けていった結果、ルークと会う前に見た淡い光に照らされた水路脇の遊歩道へたどり着いてしまったのはただの偶然だ。暗いといっても自分で明かりを持たなくとも歩くことは困難ではない。けれども少し離れればそこにいるのが誰か、というのは分からない。あまり目立ちたくないアッシュが夜に行動するのはそのためであり、暗さはむしろ好都合だ。
橋の下の少し暗くなっているところで立ち止まれば、ルークはその手前の少し明るいところで足を止めて何だとアッシュを見ている。
さっきの行動も偶然ということにしておくには、やはり初めからアッシュの行動は怪しいだろうとは思っていた。さすがにルークも気が付くだろう。アッシュのことを何も知らない他人ならまだしも、隣にいるのがルークならば。
「ああ、それは見えるからな」
聞かれたということは気が付いていないのだろう。特に隠していたわけでもないが言ったこともなかった。知られたくないと強く思っていたわけでもないが、積極的に知ってほしいことでもなかった。だからなるべく当たり前のように軽く返す。
「見える?」
「俺とおまえがフォンスロットでつながっているだろう。それは音素でつながっているからだ。その音素が見える、それだけだ」
「え? 俺らほんとにつながってたの?」
アッシュの想像していた返事と違うものが来た。まずは音素が見えることを疑問に思うべきでないか。けれどルークは何かきょろきょろと周りを見回したたり、左手を閉じたり開いたりして、ああ、これは多分繋がっているという糸でも探しているのだろう。
「ない、けど」
ひらひらと手を振るルークのその手を虫でも払うかのようにぱしりと叩き落とす。
「そう簡単に見えるか」
そういってやると明らかに落胆した顔をアッシュに向ける。
「でも、本当に繋がってるんだ……あ、でも見えたってことは俺たち以外も、繋がってる人がいるってことか?」
たとえば回線で会話できたりとか、などとつぶやいているところを見るともともとのアッシュとルークにの間にあるものも何も理解していないらしいことだけわかる。
「別におかしくねぇだろ。元々人間同士の間には何かしらの音素でつながっていて、間柄が近ければそれが強い。そういうもんだとしたら、俺たちのだって何もないところからつないだわけじゃない、ほかのやつらより完全同位体だからつながりが強いからそれを強化させて会話とかができるようになっただけだ。普通はそこまでできないから俺たちの間は特別なんだろ」
ルークはふうん、と言いながらも何か不満げな表情を見せた。
「……俺たちだけじゃないんだな」
ルークならば他の誰かとも繋がっているのだと知れば喜ぶのだと思っていたがそうでもなさそうだ。そういえば会話をするときはいつも痛いと言っていたからもしかしてルークにとっては歓迎すべきことでもなかったのかもしれない。アッシュとつながっていることも。そう考えれば少しだけイラつく。
「話までできるなんて俺たちだけだろ。他の奴らの繋がってる音素なんてほとんどみえねぇよ」
だから俺たちが特別なんだ観念しろと言わずとも届いただろうか。他の奴らとのつながりなんて音素にしてみれば微かなもので、こんなにはっきりと見える二人の間の光る糸はただ二人だけのものだ。決して切れない鎖のようなものなのだから嫌でもそれはずっと二人を繋いでいるのだからルークが何と思おうともそれはそこにある。簡単に切れてしまうようなそのあたりのつながりではないのだ。
「じゃあさっきの子は?」
「お前が手を繋いでたから、まだはっきりどこかにつながってる音素が見えたんだ。どこにつながってるとかは分からないが、あの頃の子供なら親くらいにしか繋がってねぇだろ」
あの子供の親の居場所を知っていたわけではなかった、けれどどちらにいるかがわかった。ただそれだけの話だ。多分見つかるだろう、くらいのほぼ行き当たりばったりの偶然にも近い結果だった。
「それって音機関のコードみたいに? どっからどこへとか……」
「実際にあるもんじゃねえんだからここにあるとか言えるか」
見えるのもそう見える気がするだけで触れたと思うのも確証はない。ここにあるんだと指差して示せるようなものでもないのだ。
「……そうだよな、普通音素見えないもんな……」
見たかったのかルークはむっと黙り込んで何かを考えているようだ。
「……見えないぞ」
黙っていると思ったら何か試していたらしい。中身はアッシュと一緒なはずなのだから頑張ればできると思うのだが、すぐにできてしまっても困る。
「訓練が足りないんだろ。俺は譜術が使えるがお前は使えない、その差だ」
「ほんとにそうか? 帰ったらジェイドに聞くぞ、音素が見えるかって」
アッシュは少し考えて、まさかと悩む。まさか本当に自分だけこんなものが見えているのだとしたら、あの眼鏡は楽しそうに追及してくるに違いない。いや、ジェイドならこのくらいはできるだろう、譜眼も持っているのだ、こんなことくらい朝飯前、のはず。いや、ローレライの同位体だからこそ、やっぱり人より音素集合体のほうに感覚が近いとか……ないよな。アッシュ自身は超振動が使えること以外はいたって普通の常識人だと思っていた。ということは自分が普通でないことは自覚しているのだ。ルークもそうなのだがその自覚があるかどうかは……不明だ。
「あの眼鏡が見えないって言ったらお前は信じないのか」
「いや、お前が見えるっていうんだったらあるんだろ? 俺が見えないだけで」
さも当たり前のように言われて、そこではじめてアッシュはルークにそれがないと否定される未来を想像していたのだと知った。自分が異質なことを自覚しているアッシュは他人に理解されない感覚があるということは知っていて、理解されないことが前提で行動することも多かった。ルークは理解はしていないかもしれない、だがすんなりと受け入れられるそれは意外に新鮮だった。
アッシュだって音素で人がつながっているだなんて話を聞いたことがない。ただ自分に見えるからそれが当たり前だっただけだ。見えないものは理解できないかもしれない。それでもルークはアッシュの言うことをそのまま信じた。それは一歩間違えれば危うい。たとえば、この金色で繋がっている糸は絶対に切れなくて運命を共にする色だと告げれば。ルークはその嘘にどんな顔をするだろうか。
「あ、そういえばなんか回線つながってないのにアッシュに呼ばれてる感じするなーって思うときあるんだけど、それってその繋がった糸と関係あるんだ?」
「さあな、俺はそれを感じたことがないからわからん」
無駄なところで聡いルークにアッシュはぞんざいに答える。そうだ、と答えてもよかったのだが、ルークを呼ぶために話をすることもできるのにただ糸を引いただけという、気を引きたいみたいな行動をしているのがばれるのが嫌なだけだ。引いたその先にルークがいるということはアッシュもわかっていたけれども、ルークがそれをちゃんと感じ取っていたというのは初耳だ。糸と言ってもアッシュにそう見えるだけでただの音素のつながりだ。どこかに巻き付いているわけでもないそれを引いたところで感覚があるわけもないと思っていたのだ。
繋がっている、その事実だけでよかった、はずだった。別にそれ以上の何かではない。誰しもが持っているそのつながりの一つであるだけ。
さっきもルークに言ったようにそこに特別なものなど何もないのだ。
そうだ、特別でも何でもない。誰しもが音素の糸でつながっている。
アッシュとルークの間にあるつながりも特別なんかではないのだ。
ルークから伸びる糸だってアッシュに向かう一本だけではない。その糸を見たってルークの中での優先順位など分かりはしないのに、どうしても自分が一番だと思ってしまうのはただ自分がそうあってほしいと思っているからだけだ。
こんなもの見えなければ、ただ完全同位体だからフォンスロットの回線が開けて会話ができたりするだけ、それは特別な関係だと思っていられたのに。
「繋がってるって言われても見えないのに不思議だよな」
ルークは手のひらを反したり空に向けて掲げたりいろいろしているがそんなことで見えるわけはない。けれどアッシュの視界の中ではゆらゆらとずっと金の糸が揺れているのだ。
「……そういえばさ、その色って何色してる?」
おずおずと、けれどその瞳は興味にきらめいている。何にでも興味を抱く子供のようだと思いながら、特に隠すことでもないから簡単に答える。
「本来音素に色なんてねぇんだ。第一音素が青だと思うのも第二音素が赤く見えるのも俺たちが勝手に思っているからそう見えるだけで音素がどう混ざり合ったって色の区別はつかないものだ」
「でも、アッシュには見えるんだよな、俺とアッシュを繋いでるその……糸が」
今だって目を凝らせばそこにあるのがわかる。なんとなくそれをつかまえてぐるりと指に巻き付けるのはそれがあることを確認したかったからだ。それでも触れた感触もどこにもないのだが。
「光って見える……しいて言えば、金か。多分完全同位体だからだろ他の糸よりはっきり光って見えるから、金に見えるな」
見えた通りを言ってやったのに、なぜかルークは満足するどころか落胆の表情を見せる。色がどうだろうと関係ないだろうに、不思議だ。音素なんだからそれが強ければ光って見えるのも当然ではないか。
「……いや、もしかしたらって思っただけだし。そうだよな、そんな都合のいいことあるわけないもんな」
「なんだ、はっきり言え」
「だから、その繋がってるっていう糸が赤い色だったらすごいよなってだけだし! ……別に、なんだっていいけど、なんだよ」
赤かったらどうだっていうのだ。髪の色が赤いからか。そう思って、アッシュは記憶のどこかに引っかかるものを覚えたがすぐに出てこない。多分どうでもいいことなのだろう。その引っ掛かりもすぐに忘れてしまう。
「繋がっているのが嫌なのか」
「そんなこと言ってないだろ、それに切れないんだったら一緒だし。切れないんだよな?」
「さあ、ほかの音素の糸は切れるみたいだが、俺とおまえの間だからつながりがなくなる、ということは考えられないだろうな。やってみるか」
そういって何かを救い上げるように手を動かせば、ルークはどきりとした様子で首を振ってその手に自分の手を重ねてくる。
「切ったら俺とのつながりなくなっちゃうってことだろ! 駄目だって」
その表情が必死に見えてアッシュはからだの奥がざわりとする。ルークから会話できるものでもない、いつだってアッシュの一方通行のそんなつながりなのに、ひどい頭痛もするらしいそれに対してそんな表情で止めるのは正直気分がよかった。ルークからはどんな意味かでは必要とされている。
「お前が俺のレプリカなのは変わんねぇだろ。多分切れたってただの音素なんだからすぐに繋がる」
試したことはないがルークとのつながりが消えることはないだろうことだけは事実なのだから事実でいいだろう。もし、ルークから切ろうとしてきたところで、切らせたりはしない。
「それでも、繋がんなかったらどうすんだよ。お前がいらないって言っただけで切れそうじゃん、それ」
アッシュの思っているのと逆のことをルークが言うのがおかしくてアッシュは思わず笑ってしまったのをルークがこっちは真剣なのにと怒るのが余計におかしい。
たとえば、二人の間の糸が切れるとしたら、絶対アッシュからではないルークからなのだと知っているのはアッシュだけだからだ。
ルークとアッシュの間にあるそれは切れない。けれども、そのほかの繋がりだったならば。
「そうだな、要らないと思ったなら切れるな」
「え?」
それは昔の話だったのだが、ルークが目に見えて動きを止めたのでアッシュは自分の言葉が足りなかったことを反省した。
「お前とのは切れないぞ」
「……うん、どちらかっていうと繋がってるほうが便利だもんな。切ったら連絡できないし、アッシュは多分そんなに困らないんだろうけど」
あまり表情が芳しくないし、何か誤解があるような気もしないでもないがルークの言うことも事実だし、ルークからならば切れるかもしれないことを知られればアッシュが必要なくなったその時に切られるかもしれない恐怖を味わうのは自分のほうなので黙る。
誰にも言わないし、誰にも言ったことがないことがある。アッシュには昔からこの音素の糸が見えていた。だから、どんなにこの現象を理論づけたとしても結果、こんな世界を目にしているのは自分たった一人だけかもしれない。それはそれでいい。ただ、アッシュは知っている。
目の前ですべての繋がった糸が消えた瞬間があったことを。それは幻だったのかもしれないし、ただアッシュが一時的に見えなかっただけかもしれなかった。
けれど、アッシュはその時一度すべてを失ったと思ったのだ。
それは忘れもしない、アッシュが「アッシュ」になった瞬間だ。
自分からすべてを切ったと思った。けれどそれは本当にアッシュが必要ないと思って切ったものではなかった。すべての「ルーク」であった痕跡を消さなければ預言から逃げられないと思った。それは自分が思ったのか気化された言葉なのか今では判別することもできない。ただ、切らなければと思った。そして全ての糸を断ち切った。
新たに生まれ変わった「アッシュ」につながる一番初めの糸は、たぶんヴァンになるのだろうと思っていた。誰かにつながっていたはずの糸はすべて力なく地面に落ちてその先は見えない、はずだった。けれども。
全て断ち切ったはずのその糸の一つが金に光っていた。
たった一本だけ、その光はまだ弱かった。いつだって切れそうなその光だけ、もう一度切るつもりで力を込めたのに、その糸は柔らかく光るだけだった。
それは。
「お前のは切ったって切れねぇ」
もし、切れてしまったらなんて考えたこともない。切りたいと願ったあの時ですら切れなかったのだ。ましてや、どうやってつながるのかさえ分からないのだ。レプリカだから繋がっている? いや、たぶんそれは違う。繋がっていてほしいからきっとつながっているのだ。そのつながり通り、一方的に。
ほかのだれのつながりを切ることができてもルークとのそれだけが切れないというのは、昔はただレプリカだからだろうと思っていた。今は、それだけではないことを知っている。
見えれば、きっとその確証めいたものに満足するのだろうか。
ルークを縛り付けられるような、そんなものでもないのに。
それはただのアッシュ自身がルークとのつながりを求めているだけの、運命とかそういったものではないのだ。
「やっぱり切ろうとしたんじゃん。切れなかったからいいけど!」
「切れないんだからいいだろ」
「俺的にはよくないの! 糸みたいなので繋がってるって、たぶんレプリカだからだろうけどそれでもなんか運命的だとか見えないけどお前とつながってることが安心するだとか、いろいろあるだろ。お前いっつも一人で危ないことしてそうだし、俺もナタリアもみんなも心配してるんだからな!」
そう言い切ってふいと横を向くルークはどうやら照れているようにも見えた。切れない糸でつながっているのは運命というよりもただの必然だ。完全同位体だから全く同じ音素振動数の二つが繋がっているのは当たり前で、切ろうとしても切れないのも。それを運命とか感情とかで処理しようとすれば相手のことが気になって仕方がないという答えにしかならない。アッシュはそう割り切ったし、だから繋がっていてもきれなくてもどうでもいい。ルークは、ルークにとっては繋がっていることはうれしいことなのだろうか。切られたくないとそういうのならばそうなのだろう。ならばしばらくはルークから切りたいと願うことはなさそうだとアッシュも内心ほっとしていた。
その理由は、ルークの言った通りだけの話かもしれないけれども。
それでも、繋がっていられるのならばそれでいい。
「時々はこうやって会話に活用してるだろうが」
「俺から見えたり話せたりしないんじゃその恩恵はあんまりないんだけど……まあいいや。アッシュとつながってるからこうやって会えるんだしな」
だいぶ遅くなったなーとルークがつぶやく。
そういえばここに来てからもしばらく時間が経ってしまって多少肌寒く感じる。緩やかな夜の風がルークの短い髪を撫でて揺れている。
そしてアッシュの目の前に同じように揺れる金の糸がある。
誰にも見えないその糸は確かにルークのその手に絡みついている。金の色だと思ったその糸はルークに近づくごとに色を変えて、その手に絡みついた色をアッシュはそれがルークの色なのだと理解していた。それは柔らかな光の色の赤。明るいその音素の色はその糸の先がどこにあるのか分からないほどルークの中になじんで消える。
さっきルークに色を聞かれたことを思い出す。アッシュに届くその時には淡く光る金の糸なのに、ルークのその手元はルークの色をしている。色などそれほど気にしたこともなかったが改めて思えば確かに色はあるようだ。今ならその問いに赤い糸だと答えるかもしれなかった。
この距離でも引けば反応するのだろうかとふと思って糸を手繰り寄せるように力を籠めれば光る水面を眺めていたルークが何かにひかれたようにふっと振り向く。
「アッシュ?」
それがどんな感じがするものなのかはわからない。けれどアッシュ自身もいつも手ごたえがあるし、ルークもこうやって反応するのだから、その糸は確かに繋がっているのだろう。そうだ、今日はこうやってルークと会うつもりだったのだ。
「お前は何でここにいるんだ」
「え? だってお前が呼び出したんだろ。明後日までグランコクマにいるって言ったら待ち合わせの場所と時間勝手に指定してさ」
「だったらその場所で合流したはずなのにここにいるのは」
「……俺が迷子を拾ってきたから……?」
直前の行動さえ忘れたのか疑問符をつけられても答えようがない。アッシュが問いたいのはその理由ではない。
「お前は俺と会うために来たんだろう」
「……遅れたし、勝手なことしたのは、ごめん。でも俺の都合なんて聞かずに呼び出したのはお前だし、迷子だってほっとけないだろ」
違う、考えてほしいのはそのことではないのだ。ここにアッシュとルークが二人でいる意味をちゃんと自覚してほしいだけだ。はっきりといえばわかるのだろう。けれど今それを言う雰囲気ではないし、強制したいわけでもない。
「何か予定はあるのかとは聞いた」
「……なかったよ。お前と違って俺一人でできることなんてほとんどないし、それにアッシュに呼ばれたら、来るよ俺は」
「お前は……」
じっと見つめられる。けれど見つめ返したところでそこからアッシュの望むような雰囲気が湧き上がってくることはないのだ。
呼び出した理由が分かっていないとは思わなかった。初めてでもない、それほど珍しいことでもない。ただ、アッシュとルークと同じ場所にいて時間の余裕があるのがわかればアッシュはルークを呼び出して、一晩過ごす、それだけだ。
いつからこんなことになったのか、その日がいつだったかは覚えているがどうしてこうなったかはそれほど鮮明な記憶はない。いつでもルークと会話することのできるその便利な機能は、ルークと連絡を取るためでなくルークの仲間や彼らが滞在している場所での伝言やお使いといった用途によく使っていた。
たとえば薬屋に目当ての物は置いてあるか、あるなら取り置きしてもらうとか、その街にある資料を取りに行けだとか、アッシュが一人であるが故の雑用が多かった。必要であれば会うし、必要なければ会わない。それだけの関係だったはずだ。
けれどあの日は今のように夜も更けていたし、けれどアッシュは夜のほうが動くのに都合がよいとルークを呼び出して、その時は何かを受け取ろうとしたのだろうか、確か雨が降っていたのだ。アッシュが向かえるなら行ったほうが早いのだが、なんせルークの仲間たちの誰かにつかまるといろんな意味で生きた心地がしなくなるので、たぶん文句を言われているのだろうがアッシュは自分の借りたホテルの部屋に呼び出したのだ。そこで話をしたのか、口論になったのか、何の会話をしたのかは覚えていない。ただものすごくイラついて、ルークはルークでもう帰るというのを捕まえて押し付けて、逃がさないと思った、そこまでは記憶にある。ただ、その後のことも記憶にはあるのだ。
その時の感情が思い出せないだけで。
押し倒した時のルークの驚いたような表情も、触れた肌の感触も、漏れたその声も覚えている。その直前まで、アッシュはルークのことをそういう性的な視線で見たことはなかった、と思うし、ましてや感情で押し倒すなどということを考えたこともなかった。けれどそのあとに覚えた感情は確かに、ルークのことは好きなのだというものだったと思う。わざわざ嫌いな奴に嫌がらせ目的で手を出すような趣味はアッシュにはない。ただのはけ口だというのならば、別に同性の自分のレプリカを選ぶ必要もない。アッシュが手を出してしまったのはそれがルークだったからだ。ということは望んでルークに手を伸ばしたのだろう。
そう思ってしまえば、ルークに触れたいという気持ちを特に我慢するつもりはなかった。ルークはどう思っているのかは聞いたことはないが、初めのあの時から、ルークはアッシュに対して何でとは問いはしたが嫌だとは言わなかったしはっきりとした抵抗もなかった。レプリカとしての引け目が絶対にないとは言わない。けれどもそれ以外のことはルークはアッシュに反論もしたし、拒否もするし、なのにその一点に関してはどちらもないのだから受け入れられているのだとアッシュが勝手に思っていても仕方がなかった。
今日もそのつもりで呼び出したし、ルークもそのつもりだったはずだ。そこに緊張感もなければ、少し離れたところで並んで歩いているような恋人同士のそれもない。
アッシュはルークがほしいからその体を抱き寄せた。ルークの気持ちを聞いたことはない。聞いて否定的な答えが返ってくればこの関係は終わってしまうからだ。アッシュが手を伸ばす、それをルークが拒否しない。それだけで次の約束もなければ交わす言葉もない。
体だけ、というのとは違う。少なくともアッシュからはルークのことがほしいという気持ちがあるし、ルークの気持ちだって聞いていないだけだ。
けれど、たぶんそうなのだろうと思う要因も一つだけあるのだ。
背後にはキラキラと光る夜景がある。辺りは静かで、そこそこ暗くてルークとアッシュ以外の人影もない。
あつらえたような、と思わないでもなかった。
それを口に出して言おうなどとは思っていなかった。ただ、ルークは自分のもので、それだけでよかった。そうだと感じれる瞬間は好ましいものだったし、たぶんこれが好きだという感情なのだろう。けれどもそれはアッシュの想像していたものとは違っていただけだ。愛しいと思うよりもそのほかの自分のレプリカであるという覆らない事実と、ただ憎んでいただけの長い時間も、思い通りにいかないいらだちも、ただルークが自分のものであるのだという感情もそれがどこから来て、全部ルークにたどり着いてしまうその前にごちゃまぜに混ざり合って、いったいどんな理由でルークを手に入れたいのか、ただ支配したいのか、ただ慈しみたいのか、憐れみたいのか、理由なんてどれもアッシュの心にはっきりと存在して分からなくなる。言葉でなんて言い表せない。
ただルークは自分のもので、アッシュに残ったのはそれだけだ。
多分この気持ちを覗かれたら、ルークは逃げるのだろう。それでも逃げないでほしいと思うのはただのアッシュの願望だ。
目の前にゆらゆらと揺れている金の糸を引く。それが引き金になったのかどうなのかは分からない。ルークが小さくアッシュの名をつぶやいてアッシュの腕にそっと触れた。
「わかってるよ、俺がここにいる理由。俺も、お前が呼んでくれるの待ってたから」
一歩アッシュに近寄れば、ほのかな明かりの中でもその表情ははっきりと見える。
「アッシュとは話はできるけどなかなか会えないし、アッシュが呼んでくれないと居場所もわからないし、だからアッシュと会えるのに俺帰ったりしないし」
「……わかってんならいい」
こんなことは初めてではないのに、こういう時にどういう言葉をかければ正解なのかがわからない。早く二人きりになりたいとか、今すでに二人きりといえばそうだ。ヤリたいだとかそんな直球もどうか、アッシュはそれだけが目的……ではないと思っている。確かに目的ではあるけれどもその先の、ルークを独占できる時間がほしいのも本音ではあるのだ。したくないわけではない。それが最終目的の体だけが目当てではないのだというのが最後の矜持だからだ。
「だって、俺アッシュのこと好きだもん。当たり前だろ」
ふわりと笑って、そう言うルークに、だからアッシュは許されていると思いたくなってしまうのだ。
この言葉は違うとアッシュは知っていたからだ。
ルークは時折アッシュに向かってそういう。好きだというのは偽りではないのだろう。けれどアッシュの求めているものとは違った、それだけ。
こんな夜中のいい景色の、視線が絡みあった二人のうちの一人が好きだという。雰囲気だけで語るなら間違いないというのだろう。
ルークの頬に触れれば少し冷たいのは夜風に濡れたせいか、アッシュも手冷たいよと触れ返すその手はほのかに温かかった。
「アッシュもそろそろ寒いだろ? 宿どこ取って……」
頬に寄せた手をそのままにルークを引き寄せる。ルークは驚いたように目を丸くしてアッシュの名を紡ぐ。アッシュとしてはそんな突然の行動ではないと思ったし、ここまで来て驚かれるほうが心外だ。ルークの態度に期待なんてしていない。ただ、アッシュがしたいと思っただから行動した、それだけだった。
一気に顔が近づく。
触れると思ったその時、その唇に触れるのは柔らかい感触ではなく、硬い何か。至近距離に確かにルークはいた。けれどもそのルークと自分を阻むのは。
「なんだこの手は」
「だ……駄目、なんだって!」
それはアッシュとルークの間に割り込むように差し入れられた手のひら、ですらないグローブの硬い皮の感触で、阻まれた、と言って差し支えないだろう。それは偶然ではなかった。アッシュは自分の口をふさぐそれをべりっとはがそうとするがルークが抵抗する。
その行動は誰が見てもはっきりと、アッシュがキスするのを阻止されたと思うだろう。アッシュ自身はどうしてここで拒否されるのかがいつも理解できない。
「今そういう雰囲気だっただろうが」
時間もシチュエーションも、そして会話の流れもアッシュはどこも間違えていないはずだと思っていた。こういうのは雰囲気で流していろいろな気まずさや恥ずかしさをどこかへ追いやるものだと思っていた。そうでなければ面と向かって真顔でお前とヤリたいとかアッシュが言えるはずもなかった。だから今までも言わずに流してきたはずだ。
「前も言っただろ、お前とはできないんだって」
そんな言葉を前も聞いた。その時はその前にこう言われたはずだ。「キスは好きな人とするんだろ? だから……」目元を赤くして、けれどそんなことを言われたら誰だって思うだろう。
自分はルークにとってその相手ではないのだ、と。
その時のことを思い出して、アッシュはやり場のない何かを体の奥に感じて、アッシュの口をふさいだままの手を思い切り引きはがしてその手ごと力いっぱい引き寄せた。ふいとそらされたルークの顔はそのままアッシュの肩口へとうずめられる。そこにルークの抵抗はなかった。けれども抱きしめ返されたりもしない。
「……ただの癖だ、あきらめろ」
「そういうのをやめたほうがいいと思うって言ってるんだけど」
今日も拒否された。今まで一度だってルークに口づけたことはなかった。全て拒否され阻まれたからだ。それ以上のことは拒否もしないのに。一つだけルークは口づけられることを厭う。
そのただ一点で分かってしまうのだ。この気持ちはアッシュの一方通行で、ルークはただアッシュを赦しているだけなのだと。アッシュの本来いるべき場所を奪ったレプリカで、けれどアッシュのことは嫌いではない。だからアッシュにできることは何でもする。ルークの行動原理なんて多分こんなものだ。
特別、などではないのだ。どんなに切れない糸でつながっていようとも、ある意味アッシュはルークの特別な存在ではあってもそれは被験者とレプリカの関係のみで、普通の感情から来る「特別」の位置にアッシュはいない。
知っていて、それでもアッシュはいつも試してしまう。
「減るもんじゃねぇだろ。いつも雰囲気ぶち壊しやがって」
「俺にそんなもの期待してないだろ、そんなこと言いながらいつも最後までやるくせに」
「……譲歩してんだよ」
ルークが唇を差し出す相手がだれか、考えても腹が立つし、知ったところでいらつくだけだから聞きもしないし気にしないふりだけしている。自分より優先される人物がいるかもしれないというのにそれを知りたくないのだ。多分ルークの手から伸びた光の先にその誰かがいる。アッシュがその気になればその先を見極めることは可能だろう。ただ、認めたくないだけだ。知らなければ今、ルークの目の前にいるのはアッシュだし、唇以外を赦してくれているのもそうだ。せめて今の関係を、と思ってしまうのはそれほどにルークに執着してしまっているせいだ。どんな意味であれアッシュはルークの唯一であり絶対ではあるはずなのだ。つながった糸だってアッシュとの間のそれが一番輝いて見える。一番結びつきが強いのはアッシュのはずだ。
それでも。
何をもっても、たった一つの現実だけはかわらないのだ。
ルークはアッシュの口から手を放しながら、慎重に一歩離れる。そんな距離大したことはないはずだし、結局あとでくっつくのだから関係ないはずだが、その距離が大事らしい。それがアッシュとルークの間に線を引かれている気がして、アッシュはさらに追い打ちをかけられた気分になる。
「俺の持ってるものはアッシュに全部渡してもいいんだ」
ルークがそういう。けれど全部なんて、アッシュの望むものは何も渡そうとする気はないくせに。
嫌われていないのは知っている。むしろ好かれているのだと思うのも気のせいではない。けれども、ルークの言うキスをするに値する好きな人とやらは自分ではないらしい。それだけが今確定している事実で。今日も拒否されて、待っていても手に入るようなものでもない。
欲しいのは。
横目で見えるその唇が小さく動いて、何かをつぶやいたようだが聞こえなかった。ルークのガードなんてそれほど大したものではない。奪おうと思えばその唇などいつでも奪える。けれども、欲しいのはそれではないこともアッシュは知っていた。
「でも、お前の物をほしいなんて言わないから、俺のこと必要としてくれたら、俺の持ってるものは渡すから」
何度、そんなことを言われても欲しいのは、一つしかない。
けれどそれは奪ったところで手に入らないものだ。
触れられない、そのことがアッシュにとっては苦痛でしかなかった。この苛立ちをどこに向けていいかがわからなくて、アッシュは目を伏せたルークに目を落とす。見えるのは短く切られてしまった朱い髪とその間から覗く白い首筋だけ。唇以外ならばどこに触れてもルークは拒否しないのだ。ルークがそういった、ならばいいだろう。
アッシュがその白い首筋に手を這わせると少しだけルークがびくりと震えた。そして何かを言われるよりも先にアッシュは苛立ちとそのほかのいろいろな感情をごちゃまぜにしたままその首筋に歯を立てた。
窓の外は暗かった。ほのかな月明かりが窓から差し込んで窓際にあるベッドは少しだけ白く浮かんだように見える。
静かだった。
それも当然だ。ここはバチカルの最上階に近い場所で、街の喧騒などは全く届かない場所だからだ。夜中でもざわざわとした街中の宿ではそのざわめきにイラついたこともあったが、逆に何もない静かな空間を手に入れてしばらくはそのあまりの静けさに逆に不安になったものだ。
だから、というわけでもない。
アッシュの休むべきベッドにもう一人の存在があることは。
奇跡としか言いようのないくらい、なぜかこの世界に戻ってきたときにはたった一人だと思っていたのに、気が付けば二人だった。訳も分からぬまま世界に降り立ったルークが何が起こっているのかどうしようと悲壮な顔をするので放置する以前にアッシュ自身も同じことを考えていたけれども顔に出さなかっただけなので、仕方ないなというわざとらしい言葉とともにバチカルへと戻ることになったのだ。どこへ行くべきかは迷ったが、一度は死んでしまったアッシュがそのまま神託の盾騎士団へ戻るのも混乱の元だろうとおもい、一番何があってもどうにかしてくれる権力のある場所へ向かったというのは建前だ。アッシュがバチカルへ向かいたかったというわけではなかった。けれどルークが戻るべき場所はそこだし、アッシュはルークとともにいるべきだと思った、それだけだ。特に何かすべきこともなくしたいこともなく、けれどできることはあったからいまだバチカルにいる。
対外的には行方不明だったことになっていた二人は大々的にバチカルに戻ってきたことを公表されたし、二人が実は存在していなかった二年の間にばらまかれた無責任な英雄譚のせいで有名になってしまって、今のところ被験者とそのレプリカが良好的な関係を築けるのだという実に分かりやすい広告塔としてうまく使われているようだ。二年間の空白を埋めるためにいろいろなところに行ったり呼び出されたりするのはむしろ都合がよかった。
そんな感じで数か月、以前の二人の関係など知る由もない周囲の求めるまま良好な関係を演じてきた。
実際はどうなのだろう。
エルドラントのあのときまで二人の間にはわだかまりがありまくったし、アッシュは確かに好意を抱いていたけれどもそれだって純粋なそれだけの感情ではなかった。ルークの言動には苛立ちを覚えることも多かったし、あの最後まで二人の間のすべてが分かり合えたかどうかなんて分からない。
今だって、ルークの考えていることなんてわかるのはほんの少しのことだけだ。
嫌われてはいないと思う。好かれているとも思う。今思い返してみればあの時の自分がルークに好かれる要素などほとんどなかったように思う。レプリカであるのはルークが選んだことでもないし、バチカルを出ることを最終的に選んだのも自分だし、ルークに勝手に期待して失望したのも、生き急いでいると思うほどにあせっていたのも、大爆発もそれは勝手に自分がそう思い込んでいただけの話だった。けれどあの時はそう思っていたし、あの時の自分にはあの行動しかできなかったのも事実だ。
それから自分は変わっただろうか。自分自身は変わったようには思わなかった。命の危険は去ったし、世界の危機も脱した。焦ることは何もなく、そしてアッシュとルークがあの時走り続けなければいけなかったそんな未来は今はどこにもない。あの時は同じ方向を向いて走っているはずなのにどうもかみ合わなかった二人が、けれど同じ方向を向いていたからこそ話すこともあったしぶつかることもあったのだ。今はそれがない。だから何を話していいかも、どういう未来を目指したいかもわからなかった。
多分、普段のふたりの会話は普通の家族としてや身近な友人に対するそれと変わらないのだろう。
それは、何か話さなければいけないことを話していないだけ、とも感じることはあった。
バチカルに戻ってからしばらく、ルークの友人たちはそれぞれのいるべき場所に戻った。ナタリアは近くにいるが、ずっとそばにいるわけでもない。この数か月一番ルークの近くにいたのはアッシュだった。アッシュがそう感じていたように、空白の二年間に対する恐れも、自分たちがもし受け入れられなかったらだとか、これからどうするかといった不安はルークも持っていたはずだ。
それが特異であるがゆえに、だれからも理解されないとしたら。世界でただ一人お互いだけがそれを理解できる、ただそれだけのことにアッシュは安堵したし、ルークはどうだろうか。
ルークは特に用もないのにアッシュの部屋へ入ってくることがあった。それは今日のような静かな夜に多い。たわいもない話をする時もあれば、勝手に人のベッドに転がってごろごろしているときもある。ただ黙って外を眺めているときもある。
「静かすぎて、一人でいたくないんだ」
そういうルークの気持ちは分かる。アッシュもこの静けさがたまらなく嫌になるときもあった。そういうときにはルークがそばにいて、この世界にたった一人でないことにほっとするのだ。
そして、ルークの一番そばにいるのが自分であることを思うのだ。
預言はなくなった。預言に定められた運命の相手というのももう存在しないのだろう。本当にそんなものが繋がっていたかなんてことはアッシュも分からない。人ひとりにつながっている音素の糸は限りなくある。その中で一つを見つけることなんてアッシュにはできないしそれかどうかもわからない。実際に赤い色をした音素の糸なんて見たこともない。
いや、一度だけ、ルークのをの手にからまる音素の糸がルークの色だと思った時があったはずだ。けれどアッシュが見るルークの音素は基本的にはまぶしく明るい色、金に見えることが多い。それはアッシュがルークをまぶしく思っているからに違いなかった。見える音素の色なんてその時々で違う。運命の糸を赤だと評した人がその音素の糸を見たのかどうかは分からない。見えたのかもしれないし、繋がっていればいいという希望だったのかもしれない。
繋がっていればいい、その気持ちはアッシュにもわかる。繋がっていればどんなことがあってもいつかはそこにたどり着ける希望があるからだ。
アッシュとルークの間には、以前は繋がっていたような便利な回線はもうない。あれはフォンスロットを操作してつながりやすくした人工的なもので、今はいつも近くにいるしもともとそんな機能は普通の人にはついていない、なくても問題のないものなのだ。それをさみしいと思うのはむしろ贅沢だ。それにそんなものはなくても、いまだアッシュとルークは輝く光の糸でつながっているのは間違いないのだ。
目を凝らせば闇の中に浮かび上がる柔らかな金の光が二人を繋いでいるのが見える。アッシュは時折こうやって本当につながっているかの確認をする。そうでなければ同じものを目指しているのでもない二人が繋がっている証拠などどこにもない気がするからだ。
「……ん」
別にその糸を引いたわけでもなかったが、ルークが小さく身じろぎした。はっきりと起きたわけではなさそうだがうっすらと開いた瞳が部屋の中をさまよって、最後にアッシュに目を止めた。その瞬間二人の間の糸が少し揺らめいて、またルークは目を閉じた。まるでつながっていることを確認したかのような、ルークにはそれは見えないのだ、けれどもそんな気がしただけだ。
以前につながっている糸の話をしてからルークとその話をしたことはない。ルークにとっては見えないものだからどうでもいい話なのだろうと思う。たとえばそれがルークにも見えたり、赤色をしていて二人の間につながっているものならば違ったのかもしれない。
生憎音素には色はなく、アッシュは感覚的に金色だと思うだけ。結局アッシュ以外にこの音素の世界を垣間見た人に出会ったこともないからそれが本当かどうかすらわからない。ジェイドでも見えたことはないというのだ。これがただのアッシュの妄想だったとしてもおかしくない。
いや、妄想ならばこのルークとつながった色が赤い色であるべきだった。巷で伝説のように噂されている運命の人を繋ぐ赤い糸ならば、運命なんだからあきらめろとルークを思い切り抱きしめられるのに、ここまでが妄想だ。
この光の糸は、そんな運命を決めるものではなかった。けれど二人を繋いでいるものではある。見えるのが自分だけならそうだと言い切ってもいいのではないかと一瞬思ったがむなしいのでやめた。
ベッドで寝息を立てているルークは再び目を開けそうな様子はない。人の寝台で気持ちよく寝られるのもどうかと思ったが、もうルークがそこにいるのにアッシュは慣れてしまっていた。
二人でこの世界に戻ってきて、バチカルに戻って、けれどそこですぐに新たな生活と新たな二人の関係が築けることはなかった。二人の感覚上は二年たっていたとしてもエルドラントで命を落としたその続きだ。共に生きる選択肢を選んだだけで、根本的なところは変わっているはずもなかった。むしろ、離れていたあの時よりも二人だけでルークの仲間たちもそばにいない状態は、ルークとの距離が縮まる方向にしか行かなかった。
今まで二人だけの空間にいた場合には話をするだけなんてことはなかった。むしろ大した会話もないままにベッドに押し倒しているほうが多かったように思う。そういう関係しかとってこなかったツケがいまだ。
以前と同じようないわゆる体だけの関係がずるずると続いている、それが現状である。アッシュはルークに触れたい、ルークは拒否しない。以前と全く同じ状況のまま。唇に触れられないのももちろんそのままだ。
別にこの関係でいいとはアッシュも思っていなかったが、ルークはずっとそばにいるし、どこかに行ってしまうようなそぶりもない。むしろルークからアッシュの部屋にやってくるのだ。ルークに望まれていると思ってもおかしくない状況で。
アッシュがやはりどうしても納得できないのは決して触れることのできない唇だけだ。
思い切って聞いたのは二週間ほど前のことだ。どこか行きたいところはないのかと、そうルークに聞けばいろんな場所を指折り数えて「アッシュと行きたいな」と告げたその笑顔に、好かれていないと思うほうが間違いだ。
多分始まりが悪かったのだ、ということはわかっている。ルークがアッシュとの関係はこんなものだと思い込んでしまっているのも一つ。アッシュがいまだ思いを告げていないのも最大の原因だということも。
いまさらどんな顔をして告げればいいのだ。今ルークを独占できてうれしいとか、どこにもいかないでほしいとか、好きだとか。
自分だけのものだと思ったし、特別だと思ったし、欲にまみれすぎてむしろルークに見せたくないほどだ。
本当に、いっそこの左手同士で本当に赤い糸ででも繋がっていたらそれを理由にできるのに。さっきの妄想が再び脳内に侵入してきてアッシュはむっと眉を寄せた。
目の前にはルークの白い左手がある。もちろん運命の赤い糸なんてどこにも存在しない。存在するのは音素の光る何かだけ。それは運命といえばそうなのだろう、レプリカと被験者とそれが完全同位体だからどうしてもきれなかっただけ。確かにルークは運命の相手ではあったが俗にいう「運命の相手」に該当するかは……分からない。
赤ければいいのだろう。そう思っても音素の色が変わるわけもない。目についた赤は自分の紅い髪だけ。
アッシュは黙って肩に流れた髪の一本を引き抜くとそっとルークの手を取ってその薬指にぐるぐると巻きつけてやった。
「……アッシュ?」
手が軽く握り返されて、ルークの翠の瞳がうっすらと開く。手に触れて何かよからぬことをしていればさすがのルークでも起きるだろう。
「寝ないの?」
「お前が俺のベッド占領してるんだろうが」
「……いつものことじゃん。押しやってでも上に乗ってでも寝れば?」
そう半ば寝ぼけた様子で言いながらもベッドの奥へともぞもぞと移動していく様子はそうだ、ミノムシのようだとも思ったが途端に雰囲気が消えるので脳内から消し去った。
「アッシュ」
「なんだ」
移動を途中であきらめたのか寝台の真ん中でもそりとルークが顔を出す。左手はいまだアッシュにとらわれたままだからそれを奪い返すつもりなのか、また柔らかく手を握り返された。
「三回目だ」
「何がだ」
「ん、これ」
そういっても見えるのは毛布から出た顔とアッシュが掴んだままの左手だけだ。けれどまたゆるりと握り返されて、アッシュはそこにふと目を落とす。
そこにあるのはアッシュの赤い髪がぐるぐると巻きつけられたルークの左手だけ。運命の糸があったならこんなに執拗に巻かれていたりはしないだろうに、これはアッシュの髪が長かったから、だけでもないアッシュの願望だ。絡みついて離れなければいいのだと思った、それだけ。
「左手の薬指からは赤い糸が出てて、それが運命の人の左手に繋がってるって、そんなおとぎ話があるだろ? 俺の手にそれが見えたのが三回目」
ルークにも音素が見えたのかと思いどきりとする。自分の繋がっている先が見えたのならば、アッシュでない誰かとつながっていることも見えたり、もしかしたらアッシュよりも強い光がルークには見えてしまっているかもしれない。そんなことを思って一瞬焦る。
けれどルークは小さく笑ってその手をアッシュの目の前にかざした。
「まあ切れてるけど」
それはそうだろう。ただ髪を巻きつけただけなのだから当たり前だ。だが少しだけほっとする。何かが本当に見えていたわけではないのかと。
「三回目は今で、一回目は小さいころにこんな話があるんだって自分の髪を巻きつけたらさ、あの時俺の髪先のほうが色が抜けたようになってて途中で見えなくなったみたいになって、やばい俺の先には誰もいないって思ったんだよな」
なあとルークがアッシュに小さく呼びかける声がする。ルークは何の話をしていただろうか、指に巻き付いた赤い糸の話、のはずだった。けれど一度目と三度目があって二度目の話がないのはどうしてだろうか。いやもしかして、アッシュはルークがまっすぐにアッシュを見ているのに気が付いて、確信してしまう。
「アッシュは何であの時も今もこんなことしたんだ?」
あの時、が正しくいつだったかは覚えていない。けれどこんな静かな夜だったと思う。いつも通りにルークにキスを拒否されて、ルークの運命を変えてやろうとか思ったんだろう今日と似たようなことをした、気がする。あの時は寝ているルークの手にちょうど自分の髪がまとわりついていた。多分その前にアッシュの髪の毛でも掴んだのだろう。ルークは掴みやすいからとよくアッシュの髪を引っ張るからだ。都合よくそこにあったからその赤い糸に見立てた髪をゆるく巻いて、けれどその時は自分は何をしているのだとそのまま手に絡まったことにしてほおっておいたのだ。朝にはきっととれているだろうから。
あの時のことを今日思い出して同じことをしたのでは決してなかった。けれど考えることは同じなのだろう。ただの赤い糸でなくて、自分自身でルークを縛りたかった、それにちょうどいいものがあっただけ。
「……起きてたのか」
「さあ、夢だと思ってたけど、起きてたのかな、なあアッシュ」
夢だと言いながらも答えを催促してくるルークは起きているのか、やっぱり寝ていると言い張るのか。
「運命の赤い糸なんてただのおとぎ話で、現実にはそんなものはないし見えないはずだ」
「うん」
「見えたらわかりやすいかと思っただけだ」
ルークの繋がっている先がアッシュだと思いたかっただけだ。運命とかそういうものが実際にあるかどうかなんてわからないけれども、あるならばルークとがいいと思うほどには。
「見えるよ」
ルークが手を上げればそこには途中で切れた赤い糸が揺れている。その先なんてあるはずもない。むしろなければ、このままずるずるとアッシュと二人でいることになるのだろうくらいにしか思わない。けれどそれが望んだ答えではないことも知っている。
「ただ巻き付いただけだろ」
「うん、これアッシュだから」
ルークがごろりと転がってアッシュに触れるくらいの距離になる。
「この髪の毛の元にいたのはアッシュだろ? だからアッシュなんだってこの赤い糸の向こう」
目の前で赤い髪の毛がゆらゆらと揺れる。それはアッシュの髪だ。確かにそこに先があったとすればアッシュにたどり着くのだろう。
「お前は……いいのか」
「え? だって俺アッシュのことすきだって、言ったよな?」
アッシュは体験したことがないが、これが思いが通じた瞬間だというのだろうか。それ以外にありえないとアッシュはこの時思った。少し眠かったと思った事さえ忘れてルークの手を思わずつかんで、アッシュの横で転がったままのルークを逃がさないようにその腕で閉じ込める。
ルークは少し目を丸くして、それから小さく笑った。
「アッシュ?」
自分を呼ぶ声に引かれるようにそのまま顔を伏せて、今度こそ触れられると思った。
その唇に。
だが、その雰囲気を一期に押し流すように、いつもの手の平の感触がアッシュを襲う。どうしてだ、今度こそ間違いない雰囲気だったはずだ。
「駄目だよ、キスは好きな人とするもんなんだって」
けれど、いつもよりもその口調は軽い気がした。有無を言わせずアッシュを押しとどめるようなそれは、ない。だが雰囲気をぶち壊されたアッシュは仕方なく身を起すと、けれどルークをその腕に囲ったまま不機嫌な顔は隠さない。今アッシュは絶対に不条理な仕打ちを受けていると思う。
「それは誰に言われたんだ」
「……昔、ナタリアが持ってきてた本に書いてあった。……笑うなよ、わかってんだよそれがこだわるほどのものでもないって。でも外のことなんて何にも知らなかったから、そう思い込んだものはなかなか抜けないの! それに、」
イラッと来てまたぐっと顔を近づければいつもの通り手で口をふさがれる。けれどそれはアッシュの想定内だった。雰囲気の変わったさっき、それでも拒否されるのがどうしてなのかを考えていた。ルークはアッシュのことが好きだといった。それなのにキスを阻止したのは。阻止されたのはルークではなくアッシュで。
「こんなに顔が近づいたらどきどきするだろ、やっぱりなんか特別なんだって思ったんだよ」
よく考えれば、ルークはいつもアッシュの口をふさいできた。自分の唇を守るのであれば自分の口をふさぐほうが早いし確実なはずなのに。
どうしてあの時は気が付かなかったのか、分からないことがわからない。こんなにわかりやすくいつもルークは言っていたではないか。アッシュのものはいらない、と。
「特別なんだからアッシュは俺とじゃなくてちゃんと好きな人とキスしないといけないんだって、思って……」
ルークが守っていたのは、アッシュの。
「そうか」
わかったからこそ、この場から退く必要などないことは明確なのに、どうしてルークはアッシュを押しのけようとするのか疑問だ。
「だから!」
「うるせぇ、俺はお前とキスしたい、わかったか」
分かるか、とほざく口をアッシュは今度こそ本気で奪いにかかった。
今度こそ、阻止されないことを願って。
運命の糸なんて自分で作ればいいだけのことだったのだ。