近衛の耳はエビの耳リンクはゼルダ姫を両腕に抱き上げて、城の中を姫の自室に向かって歩いていた。
本日リンクは城で定期的に行われる、幾人かの貴族を招待した宴の護衛として職務についていたが、宴の途中で執政補佐官から緊急に呼び出された。
何でも、宴の最中に姫様に飲み物を渡す給仕が、間違えて姫様に果実酒を渡してしまったという事らしく。
知らずそれを飲んでしまった姫様が、酔ってしまわれたようだ、という話だった。
責任は姫にはないとは言え、主催者側である姫が酒に酔っぱらってしまったとは、あまり聞こえが良くない。
よって、姫様はご気分が優れないという事で宴を中座する事にするので、内密に姫様を自室まで送り届けよ。というのが、次にリンクに課せられた新たな指令だった。
他の兵士達はまだ、宴の護衛についている者が多く、普段よりさらに人気のない廊下を静かに、だが早足で通り過ぎる。
もちろん姫様を落とすなんて事は万が一にもないが、それでももしものためにと、しっかりと自分の首に腕を回させた姫様は、いつもよりも近い距離で、だがとても楽しそうにリンクに喋っていた。
何でも、今回の宴では珍しい食材が手に入ったらしく。
「エビフライ」というものがテーブルに並んだのだそうだ。それを一口齧れば、外はサクサク、中は熱々のフワフワ。「エビ」のジューシーな味が口中に広がる、それはそれは絶品の料理だったのだとか。
それがとても美味しかったのだと、ひたすらに姫様は熱弁していたのだが。しかし何とその「エビフライ」を一口食べた時に、とある貴族が姫様に話し掛けてきてしまい。それ以降「エビフライ」を再度食べる機会は訪れず、そしてこの酔っぱらってしまった事件が発生してしまった、という事らしい。
「エビフライ、美味しかったのに。もっと食べたかったです…」
抱き上げられているリンクの腕の中で、少しむくれ顔になって文句を言っている姫様が、とても可愛らしい。
もちろん今夜は宴の護衛であったリンクがその「エビフライ」を口にする機会などなかったが、そんなに姫様が食べたいものならば、今度お作りしてみようか…とふと思ってみる。だが、珍しい食材らしいから…どうやって手に入れようか。行きつけの城下町の食材屋とかに頼み込めば、手に入ったりしないかな…
そんな取り留めもない事を考えていると、姫様が突然、興奮した声で、妙な事を言い出した。
「リンク!何ですか、それ!?とてもおいしそ…いえ、かわいらしいです!!ちょっと齧ってみてもいいですか??」
「え…っ」
齧る?何を??
と言うか姫様、今おいしそうって、言いましたか…?
頭の中で巡りめぐった疑問が咄嗟には口から出ず、姫様の顔を見ようとしたその時。
その衝撃は突如として訪れた。
「かぷ…っ」
「!?!?」
体中に電流が走る。
突如として訪れた衝撃に、姫を抱えている腕がビクッと震え、急激に両腕から力が抜けそうになるが、歯をくいしばってとにかくそれを耐え。状況を把握しようと脳をフル活動させる。
まず、この痺れる感覚はどこから来るのか。
耳だ。
俄には信じ難いが、姫様が自分の耳を齧っている。
「ひっ、姫様っっ!?」
なぜ、どういうわけで、姫様が自分の耳を齧っているのか。
姫様が、うわ言のように「エビィ…」と言っているのが混乱する頭にも届いたので、どうやら、もしかして、姫様が自分の耳を、エビフライと間違えて齧っているらしい、というところまでは無事推測出来た。
しかし推測できたからと言って、だからどうするのか。
いつもならどんな状況に置かれても、冷静に判断を下せるリンクであったが、今回ばかりは状況が特殊すぎるし、しかもエビフライと間違えた姫様が常に自分の耳をあむあむと齧ってくるのに、どんな冷静な判断を下せというのか。
「ちょ…っ姫様!やめ…っおやめくださ、い…!」
必死になって抵抗してみるが、耳を姫様から遠ざけようとするも、ますます姫様がリンクの首にしがみついてきて離れないし、リンクは今姫を抱き上げているので、両腕が一切使えない。
まさか姫様を落とすわけにもいかないので、この体勢をどうする事もできない。
しかもここはまだ、城内の廊下だ。
人気がないとはいえ、どこで誰がいるかも分からない。
万が一にも、変な声をあげてしまうわけにも、いかない。
「っ……!」
この絶体絶命の状況でリンクができる事は、ただ一つ。
このままの体勢で、一切声を上げずに、姫様の私室まで突っ走る事だけだった。
ものすごい勢いで姫付きの近衛騎士が訪れたので、ゼルダの部屋の前に控えていた侍女は非常に驚いたが、その腕に姫様が抱き抱えられているのを見たので、納得した表情で部屋の扉を開いた。
姫様は眠っておられるようだったが、今宵の宴でお疲れになったのだろうと、特に侍女は気にも止めなかった。
ただ、姫様のお顔がとても満足したような寝顔であったのと。あの時お連れした近衛騎士殿の耳が、真っ赤に染まっていたのは、なぜだったのだろうと。
後々思い出して、彼女は首を傾げるのだった。
*
宴から数日後。
ゼルダは、いつもの時間にリンクが部屋にやって来ないので、私室で座って待っていた。
侍女からの伝言により、少し到着が遅れるとは聞いていたのだが、あの真面目なリンクが遅れるだなんて、何かあったのだろうかと、妙に気分が落ち着かない。
そんな風にそわそわとした時間を過ごしていると、やがて訪問者を告げる声が掛かる。
リンクだ。
「リンク!」
部屋に入ってくる姿を確認するなり、ゼルダは彼に駆け寄った。ひとまず、見た感じでは何かリンクに問題があったわけではなさそうなので、安心する。
「伺うのが遅くなってしまい、申し訳ございません」
駆け寄ってくる姫に、リンクは頭を垂れた。謝罪の言葉を口にする彼は、どうやらかなり急いでここに来たらしく、少しばかり息を切らせているみたいだ。
この後の今日の予定は、遺物調査のみである。大幅に出発が遅れれば支障も出てくるかもしれないが、彼が遅れてきたのは10分程度。公務などの時間指定されているものでもないから、そんなに急がなくとも大丈夫だったのに…と思っていたのだが。
どうやら少しばかり、様子は違っていたようだった。
「あら…リンク、その箱は…?」
よく見れば、リンクは小さな箱を、2つ抱えていた。
どちらも、籐で編まれた小ぶりの箱で、遺物調査の時などに最近リンクが彼お手製の昼食を用意してくれる時に、よく持ってくる箱だ。
「リンク!もしかして今日は、リンクの作ってくれたお料理ですか!?」
待たされた事など全く気にも止めない様子で、キラキラとした目でそう問い掛けてくる姫様に、少々の照れ臭さを感じながらも。リンクは持っていた箱を、姫様に差し出した。2つのうちの、1つだけを。
「はい、ぜひ姫様に召し上がっていただきたくて、お持ちしました。良かったら、どうぞ」
え、今…ですか?と、首を傾げる。
てっきり、遺物調査の時のお昼ご飯の話かと思っていたのだが。
しかしリンクは頷き、手にした1つの箱を、姫の私室にあるテーブルの上に置くと。中身を丁寧に広げていった。
瞬間、何やら美味しそうな香りが鼻をくすぐる。
律儀に、簡易の皿と、ナイフとフォークまで準備され、テーブルの上に綺麗に並べられたのは、数日前の宴で目にした、あの「エビフライ」だった。
「まぁ…!」
皿の上のエビフライは、まだ出来上がってそう時間は経っていなさそうだった。
息を切らし、急ぎ部屋まで来たリンクの方を向く。
「リンク!これ、もしかして…あなたが?」
「はい、姫様が食べたかったと仰っていたので…幸い材料も手に入ったので、作ってみました」
だから、普段決して遅刻などしないリンクが、珍しく遅れたのか。
しかし、なぜあの宴に出たエビフライを、自分が食べたかったとリンクが知っていたのか。
実は、あの宴の夜の事を、ゼルダはよく覚えていない。
気付いたら自分の部屋で寝ていて、後から実は渡された飲み物が果実酒だったため自分は酔ってしまい眠ってしまった事を知らされたのだ。
朝起きた時に侍女が、リンクがここまで連れてきてくれた事を教えてくれたから、その時にエビフライを食べたかったという会話を、リンクとしたのかもしれない。
「姫様、どうぞ温かいうちに、お召し上がりください」
「は、はいっ」
リンクに勧められて、慌てて手にフォークとナイフを持ち直す。
そしてリンクが自ら作ってくれたというエビフライに、慎重にナイフを入れる。
どんな風に、これを作ったのだろう…
朝から食堂の厨房を借りて、このエビを揚げたのだろうか。
リンクが実は料理が得意だという事は、最近になって知ったのだが。未だに、彼が一体どんな表情でそれらの料理を作るのか、全く想像ができないままでいる。
サクサクと、音を立てて中央から切り開かれるエビフライ。その、尻尾のついていない方を、ゼルダはフォークで突き刺し、パクリと口の中に入れた。
途端に広がる、ジューシーなエビの風味。
中はまだ熱々で
まさに、あの宴の夜に食べたエビフライそのもの。
まさかあの代物を、しかもリンクの手料理で食べる事ができるとは…!
「とってもおいしいです!リンク」
こちらに向けてくれた目はやはり、キラキラと輝いていて。興奮気味に感想を伝える姫様の様子に、リンクは僅かに微笑んだ。
「良かったです、姫様のお口に合って…」
作った料理を美味しいと言ってもらえて、純粋に喜ぶ彼は、とても可愛らしく見えて。
最初の一口を飲み込んでから、そんなリンクをぼんやりと見つめていたら、首を傾げられた。
「まだありますので、お好きなだけどうぞ」
リンクをじっと見ていたのが、おかわりを要求したように見えたのだろうか。食い意地が張っているように思われたのが、恥ずかしくなって。
俯いた先にあるエビフライを、食べる事に専念した。
リンクが用意したエビフライは、3匹。
ゼルダは全てのエビフライを平らげてしまった。
あまりにも、美味しくて。
やはり、食い意地が張っていると思われてしまっただろうか…
そんな事を考えながら、ゼルダは。
そう言えば…と、1つ疑問に思っていた事をリンクに聞いてみた。
「ところでリンク。もう1つの箱がありましたが、そちらは何ですか?」
確かリンクは、箱を2つ持ってきていた。
今食べたエビフライは、その1つめに入っていたもので。
あともう1つのものは…?
中身が気になり、空になったエビフライの箱の横にあった2個めの箱を覗こうとしてみる。が、それは彼自身の手で、スイ…とテーブルの上から取り除かれてしまった。
「これは…お昼ご飯までの、お楽しみです」
一体中身は何なのだろう…そう言われてしまうと、余計に気になる。
だがリンクの作ったものならきっと、美味しいものに違いない。
ゼルダはそう思い、彼に言われた通りおとなしく昼まで待つ事にした。
*
外は抜けるような青空。
遺物調査を始め、本の虫干しでも、何をするにももってこいな快晴。
例のごとく、あぁでもない、これでもない、ならばこれはどうか、と祠の調査に夢中になっていると。
休憩にしませんか?と、リンクに声を掛けられた。
いつもなら、今いいところなので、もう少し…と、根を詰めすぎる姫を心配する彼を、さらに困らせてしまったりするのだが。今日は違う。
今日は、リンクが持ってきてくれたお昼があるのだ。
しかも、朝方に「お昼ご飯までのお楽しみ」と、その場で中身を教えてもらえなかった代物だ。
ゼルダは早々に頭を切り替えて、リンクの方を振り返った。
「そうですね、休憩にしましょう。少しお腹が減ってきました」
リンクが広げてくれた布の上に腰を下ろすと、まずは飲み物を渡される。素直に渡されたものを受け取って中身を飲んでいると。
やがて目の前に、朝方見かけた箱が置かれ、広げられた。
「これは…?」
中に入っていたのは、リンクが作ってくれる昼食でもたまに見かける、サンドイッチ。
だがその白いパンの間に挟まっているものは…
「先ほどのエビの、サンドイッチです。このエビを仕入れてくれた食材屋に作り方を教えてもらったので、作ってみました」
「こんな風にパンに挟んでも、食べられるのですね…!」
「はい。揚げたてももちろん美味しいのですが、こうすれば冷めても美味しくいただけると聞いて、昼食にと持ってきました。姫様のお口に合うと、良いのですが」
「エビのサンドイッチ!ぜひ食べたいです!」
目を輝かせて言うと、リンクは少し口元を綻ばせて、サンドイッチを1つ渡してくれた。
お行儀が悪いかとは思ったが、いただきますと簡潔に述べて、早速サンドイッチにかぶりつく。
「美味しい…!すごく、美味しいです!」
一緒に挟まれた野菜と、卵だろうか…酸味の効いたソースが絶妙に口の中で広がって、食欲をそそる。
そして、エビ。
冷めていても固くはなく、プリプリとしていて、どこかコリコリしているその食感はやはりクセになる。
やはりエビは、冷めていても美味しい。
…冷めて、いても??
ゼルダはふと食べていた手を止めて、考え込んだ。
何となくだが、自分はこの食感を知っている気がする。
自分はエビというものを、この間の宴に出たものと、リンクが作ってくれたものしか食べた事がないはずだ。
つまり、熱々のエビは食べた事はあっても。冷めたエビを食べるのは今が初めてのはず。
なのになぜ、やはり冷めていても美味しいなどと、思ったのか。
冷めていても、固くならず。プリプリとしていて、どこかコリコリしているところがあって…
「姫様…?」
急に手が止まってしまって、何やら考え込んでしまったゼルダに、リンクが声を掛けてくる。
「どうされましたか…?やはり、お口に合いませんでしたか?」
自分でももちろん試食をして、いけると思ったから姫様との昼食にと持ってきたが。やはり姫様には、冷めたエビなどをお渡ししてはいけなかっただろうか…?などと思っていると。
姫様が、何やらポツリポツリと、考えていた事を言葉にして呟き出したので、リンクはとりあえず黙ってそれを聞く事にした。
「私、冷めたエビを今初めて食べたはず…でも私は、なぜだかこのプリプリとした柔らかい食感を知っている。確かに熱々ではないエビを、私はどこかで口にした。あれは、夢…だった?」
断片的な言葉を羅列し、うんうんと唸って、一生懸命にその時がいつだったのかと思い出そうとしている姫様。
しかし姫様が一体いつの事を言っているのか、瞬時に理解してしまったリンクは、一瞬のうちに顔が熱くなるのを感じた。
思い出すのは、宴の後に姫様を私室へと送っていた城内の廊下での記憶。
自分の耳を、エビと間違えてあむあむと齧られていた、姫様。
すぐに、姫様から顔を背け、横を向く。
だが、そんな事でごまかしきれるわけもなく。
それはすぐに、姫様に見咎められてしまった。
「リンク…?一体どうしたのですか??」
「…っ何でも、ありません…」
我ながら、ごまかし方が下手だとは思う。
しかしどうかこのまま流してくれと、心の中で懇願するが、洞察力が鋭い姫様はやはり、見逃してはくれないようだった。
「あなたがそんな顔をして、何でもないわけないですよね?リンク…何か知っているのですね?」
「……っ」
普通の人ならば、不信に思われながらも流されていたのかもしれない。だが、普段から表情をあまり崩す事はなく、冷静沈着なリンクが、顔はもちろんのこと、耳までを突然真っ赤に染め上げそっぽを向けば、それは何かあるのだと訝しく思われても仕方がない。
リンクが表情を変えなければ、あれは夢だったのかもしれないと姫様は思い、それで終わっていたかもしれないのに。何たる失態だろう。
しかし過ぎ去ってしまった事はもう、覆しようがない。仕方がなく、リンクは全ての経緯を姫に説明した。
姫様に洗いざらい説明し、その後どのようにして城に戻ってきたのかは、詳しく覚えていない。
とても気まずくて、あれからは終始お互い無言になってしまった。
ただ、説明を聞いた後、姫様は自分に負けないくらい真っ赤になって、「私…まさか、そんな事を…」と、信じられないといった表情で呟き、ただひたすらに謝られた。
気になさらないでくださいと言ったものの、あの姫様が、気にしないわけはないだろう。
あの宴の日の夜、姫様を部屋に送り、兵舎に帰ってから。夜も更けていたが着替えてすぐに訓練所に行き、ひたすらに剣を振り続けた。
もう何回腕を振り続けたか分からない頃にようやく頭が冴え、それでもなお翌日、もし姫様があの時のことを覚えていたらと。どんな顔でお会いすれば良いのか検討もつかず、そのまま朝を迎えたが。
幸いな事に姫様は、あの宴の後の事を全く覚えてはいなかった。
良かった、これで今まで通り接する事ができる。そう思ったのに。
ダメ元で頼んでみたエビの食材が手に入り、一口しか食べられなかった、もっと食べてみたかったと口にされていた姫様のために、用意したエビフライが。まさかこんな形で姫様の記憶を甦らせるなんて。
詰めが甘かったと、言わざるを得ない。
明日から、どういった顔でお会いしたらいいのか、分からない。
*
数日後。
リンクは、近衛服で姫様の研究室にいた。
本日はこれから、有力貴族達との会合。
会合までまだしばらく時間があり、その間に少し研究室で調べものをしたいというため、姫様はまだドレス姿ではなかったが。自分はそのまま会合に向かわれる姫様の護衛の任務に就くので、いつもの英傑服ではなく、近衛服というわけであった。
あれから、お互いあの事は口にする事はなく。
そのまま何となく、何事もなかったように毎日が過ぎていった。
姫様とて、酔っていたとはいえあのような羞恥は早く忘れたいだろうし、そもそも自分が姫様に勘づかせなければ、姫様本人はもちろんの事、永遠に誰にも知れる事のなかった案件なのだから。
姫様が忘れたいとお思いなら、自分はそれに準ずるべきだろう。
そう結論付けて、リンクはまた、ただひたすらに職務を遂行する日々を過ごした。
「姫様、そろそろお時間です」
熱心に研究書を読み耽る背に話しかける。
姫様は、はっとして顔を上げると。
「そうですね、うっかりしていました…」
と席を立った。
その時の姫様のお顔が、ほんのり赤いように思えて、姫様に問い掛ける。
「姫様、もしや熱があるのではないですか?」
「え…?」
全く自覚がないのか、姫様は驚いたようにこちらを見た。手袋を外し、その額に手を当ててみる。
「失礼します」
やはり…熱い。
熱の上がりかけかもしれないが、先日も泉での修行をなさっていたから、そのせいかもしれない。
ともかく、今日の会合はご欠席なさった方がいいだろう。姫様はいなくとも、陛下がいらっしゃるはずだから、進行に問題はないはずだ。
「姫様、やはり熱があります。今日はこのまま部屋にお戻りになって、休まれてください」
姫様は大丈夫です、と言っていたが有無を言わさず姫様の手を引き、部屋に戻る。
足取りはまだしっかりしていたが、何となくぼんやりとしている。
この後、姫様がドレスに着替えるため侍女が数人来る予定だったから、ちょうどいい。
姫様の事は侍女に任せて、自分は姫様が熱のため会合を欠席なさる事を、伝えに行けばいい。
「姫様、今から侍女長を呼んできますから、ここに大人しく座っていてくださいね」
姫様をベッドに座らせ、人を呼びに行くため、側を離れる事を伝える。姫様は素直にこくりと頷いたが、離れようとしていたリンクを引き止めて言った。
「リンク…そこのクローゼットに、寝衣が入っているので取って、テーブルの上に置いておいてくれませんか…?熱いので、着替えたいのです」
「…かしこまりました」
寝衣に着替えるなら侍女が来てからの方がいいのではないか…?とそう思ったが、熱が上がってきて暑いのだろうか。早く着替えたそうにしている姫様の言葉を承諾し、ベッドの天蓋のカーテンを引く。
そして自分は姫様の寝衣を探すため、クローゼットへと向かった。
リンクが熱があると言ったのは本当だったらしい。
着ていた服を少しずつ脱ぎながら、ゼルダはようやく自身の体の変化に気付く。
指摘された時は自覚がなく、大丈夫だと思っていたが、何だかだんだんと体が熱くなってきて、頭がぼんやりとしてきた。
侍女長を呼ぶためにリンクが退室しようとしたのを引き止めて、寝衣を探してほしいと頼んだのもそのためだ。
熱くて、早く服を脱いでしまいたい。
カーテンを引かれる前に、背を向けたリンクの近衛の帽子と黄金色の髪の間から、形の良い尖った耳がちらりと見えて、思い出してしまう。
数日前、あのリンクが顔を真っ赤にしながらも話してくれた事。
あまりにも恥ずかしい内容すぎて、その後話題にすら乗せられなかった話。
あれは、本当の事だったのだろうか…?
まさか、酔っていたとはいえ、自分がリンクの耳を…
しかし、あのリンクがそんなつまらない嘘をつくわけがなく。そうと考えれば、あの冷めたエビを食べた事がないのに食感を知っている、という自分の中での疑問にも説明がつく。
俄には信じられない事だったが、それはきっと本当の事だったのだろう。
しかしあの宴の夜の記憶は本当にばっさりと記憶が抜け落ちていて、言葉だけでの説明ではどうしても確信が持てない。
(確信…)
では、もう一度試してみたら?
ぼんやりとした頭で、とある名案を思い付く。
もう一度、リンクの耳を齧ってみたらいいのかもしれない。
そうすれば、曖昧な記憶の中にぼんやりと覚えているあの感触が、本当であったのかはっきりとするのではないだろうか。
思い立てばいても立ってもいられなくなって、ゼルダは天蓋のカーテンを開け、ふらりとベッドの外側へと出た。
向こう側でリンクがクローゼットの中から寝衣を探しているのが、ぼんやりと目に映った。
(姫様…?)
クローゼットを開けて中を確認していると、カーテンを開く音が聞こえた。
どこに行くのだろうか。もしや喉が乾いて…?
しまった。何と気が利かないのだろう。
熱が出始めているのなら、喉も乾くはずだ。
まずは水をお渡しするべきだった。
それにしても、お呼びくださったらすぐにお持ちするのに。熱のあるお体で歩かれて、もし倒れたりしたら…
そんな懸念が思い浮かび、寝衣を探すのを中断して姫様をベッドに戻そうか…と思っていたところに、水を取りに行くのかと思っていた姫様が、背後に立たれたのを気配で感じた。
「姫様…?」
本当に、どうしたのだろうか?
自分に用事があったのなら、呼べば来ると分かっているはずなのに。
体調が悪い中、わざわざ姫様の方から来られるとは。
用件を聞くため振り向こうとして、しかしリンクは固まった。
姫様が、とても近い。振り向こうとするならば、顔と顔が触れ合ってしまうほどに。
「姫、さ…!?」
不穏な空気を感じながらも、リンクは振り向かないまま、姫を呼んだ。
しかし、その言葉は最後まで紡げなかった。
突如全身を駆け巡る電流。
体から力が一気に失われるのを感じる。
この感覚を、知っている。
手足の力を奪おうとする、全身の痺れ。
これは全て、耳から来るものなのだと。
知っている。知っているけれども、なぜ…!?
「なに、を…姫、様…っ」
震えそうになる声で、必死に呼び掛ける。
後ろは、振り向けない。
なぜなら先ほど振り向こうとした時に、ちらりと見えてしまったから。
姫様の肩から白い肌が、覗いてしまっているのを。
恐らく、ベッドで脱いでいる途中で、こちらまで歩いてこられたのだ。
完全に目で確認する事は出来ないが、姫様は今中途半端に脱衣された状態だ。
そのような格好の姫様の姿を、万が一にでも瞼に焼き付けるわけにはいかない。
「ひめさ、ま…離してくださ、い…!」
近衛服の肩に手を添え、あむあむと耳を齧ってくる姫様を、振り払うわけにはいかない。
前方はクローゼットで遮られており、後ろにも振り返れない。
逃げ場はなく、ただ言葉で制止を呼び掛けるのみしかできず、他になす術もないまま永遠のような時がただ過ぎていく。
耳に触れる、唇と吐息が熱い。
この間酔っておられた時よりも、熱い。
やはり熱が上がってきておられるのだ…と、そんな現実逃避じみた事ばかりが頭に浮かぶ。
クローゼットから何とか探し出して引っ張り出した姫様の寝衣が、ただ意味もなく自分の手に持たれていて。
肝心の、この状況をどうすればいいのか?という答えは出ないまま、ぐずついていれば。
姫様は、こちらの食感を確かめるかのように、耳の少し固い軟骨の部分を、カリ…っと噛んだ。
「ふ……、っ」
噛み締めた唇の間から、吐息のようなものが漏れてしまう。
この間の城内の廊下よりかは、個室である分声を聞かれる可能性は少ないが。
しかしいつ、侍女が部屋に入ってきてもおかしくはない。声を上げられない状況は、変わらない。
姫様は急に熱が上がられて、今意識が混濁しているだけなのだと、頭の中では理解している。
しかし与えられる刺激に、腰から這い上がり全身に回る毒のような痺れを、とどめる事ができない。
密着し合った体から、体温の上がった姫様の熱を感じ取れるのも、多分いけない。
前回は姫様が酒に酔っておられたため、耳を食みながら途中で眠ってしまったから助かったが。
今回はその希望も、持てなさそうだった。
リンクの耳の食感を、下から上へと順番に辿って確認してくる姫様に、いよいよ腰が砕けそうになる。
「…っぁ、ひめ…さ、…ま」
手にした寝衣に、皺が寄ってしまう。
分かっていても、強く握りしめる拳を開く事はできない。
何とかして、姫様を止めなければいけない。
そんな至極全うな考えが頭の片隅によぎる反面。
いっそこのまま、好きにさせれば良いのではないか?という、危うい言葉が脳内を占領しようとする。
どのみち自分は、姫様が為される事を止める権利など持ち合わせてはいない。
ならば、姫様が満足されるまで、自分は姫様の行為を甘んじて受けていればいい。
血が滲みそうなほどに噛み締めた唇を緩め。
石のように固まった身体の力を抜いて。
与え続けられるこの愛撫にも似た行為に、身を委ねようとした。その時。
「姫様、そろそろお着替えの時間です」
トントンと叩かれる2回ノックの後に聞こえてきた侍女の声に、リンクの体はビクーッ!と反応した。
瞬間、目の端に映ったクローゼットの中のガウンのような上衣を引き抜き、些か雑に姫様の身体に巻き付けると。ガウンごと姫様の体を一気に横抱きにし、大股でベッドまで歩み、姫様をベッドの上にボスンッと乗せて、カーテンを引き。あっという間にリンクは、侍女が返事を待つ部屋の扉の前まで移動していた。
扉を開き、すれ違った侍女に手に持っていた姫様の寝衣を渡し、姫様が熱を出されたため、ドレスではなくこの寝衣に着替えられるのを手伝って欲しい。
自分はこの後にある会合に姫様が欠席される事を伝えに行くと、それだけを簡潔に告げて。
リンクはゼルダの部屋を、出た。
リンクの伝言を受けて姫様の様子を拝見すべく、ベッドまで行った侍女は。確かに真っ赤な顔をしてベッドに座り、ぼんやりと夢見心地でおられる姫様をそこに見つけた。
ガウンを纏っておられるのはなぜなのだろう…?と思ったが、恐らく熱の出始めで寒くて羽織っておられたのだろうと納得する。
お服を中途半端に脱いでおられるのも、自分でできる限りまでやろうとしたが、やはり無理で途中でやめたのだ、と理解した。
ただ、姫様がうわ言のように一言「夢ではなかった…」と呟いたのと。
今回は耳だけではなく、顔すらも真っ赤だった近衛騎士殿は一体どうされたのだろう…?と。
彼女は再び、首を傾げたのだった。