Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    ( ˙👅˙ )

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 🍁 🍠 ♨ 🍵
    POIPOI 53

    ( ˙👅˙ )

    ☆quiet follow

    ##星

    星の御子③ ようやく峰を越えた。
     分水嶺を越えたということはつまり、ファーガス地方へと足を踏み入れたということになる。
     ベレスは動かないはずの心臓がどくりと脈打つのを感じて、馬を操る手綱から片手を放して胸に当てた。衣類越しに指先が握るのは、首から下げた鎖の先で揺れる、小さな指輪だ。透明な作りのその中では、金糸がほのかに輝いていることだろう。
    (こんな形で、来るなんて)
     今では旧きと呼ばれる、かつてあった騎士の国。
    (あの子の国……)
     心の乱れを落ち着けたくて、ベレスは息を吐いたあと深く吸った。吸い込んだ空気には馬や荷馬車が巻き上げる土埃に交じり、針葉樹のすっとした香りが混じっている。もしも今が冬なら、巻き上げられる乾いた土埃などなく、きんと冷え込む雪景色が一面に広がっているはずだ。輝く白銀と雪をかぶって陰を濃くさせた樹木が広がる影絵のような世界。その世界に満ちる冷たく清冽な空気に交じってこそ、この香りは引き立つのだろう。
     何度目だろうか、その光景と香りを想像して、ベレスはほんの少しすんと鼻をすすった。
    「ベレス……?」
     普通の呼吸と変わらないようにしたつもりだったのに、鞍の前に座る少女は気が付いたようで、振り返って心配げに見上げてくる。
    「なんでもない……ほら、前を向いて。周りの様子もちゃんと見るんだよ」
    「うん」
     朗らかな声で頷いて少女はベレスに言われた通り前を見た。きらきらと輝く碧い目はちゃんと周囲の様子も窺っていて、いささか首も動いていて警戒の様子がわかり易すぎるけれど、傭兵としてのベレスの教えもちゃんと守っているようだ。その素直な様子にベレスは微笑ましく笑い、ふと眉を顰めた。
     十年と少し前、ベレスが胸に抱えてガルグマクから逃れたあの小さな赤子は、今では鞍の後ろに座るベレスの口元を金色のほつれ毛がくすぐるほどに背丈も伸びて大きくなっている。まだ身体は薄いが、この子の父親の体躯を考えれば、あと数年もすればベレスの背丈も超えてしまうかもしれない。
    (その頃、私たちはどんな生活をしているだろう)
     ひとところに腰を落ち着けているだろうか。それとも今までのように傭兵をしながら、世界を旅しているだろうか。
    (この子にもいつか、好きな人ができるかもしれないし)
     自分と、彼のように。
     ベレスはきゅうと胸を締め付けられ、咄嗟に息を詰めた。
     自分たちのような思いはしてほしくはないから、いつかその時がきたら、潔く手を放すつもりではいる。大切な子ではあるけれど、この子はこの子の人生を生きてほしいと願ってやまないのが親心だ。と同時に、もっと長く一緒にいたい親心も同時にあった。
    亡き父もこんな気持ちで自分を誰かに預けることなく手許で育て、傭兵団に置いていたのだろうか。尋ねたらいったいどんな答えを返してくれただろうかと、在りし日の父の面影に思いを馳せながら、ベレスは気を張って周囲の警戒をする少女に囁いた。
    「……もし、次の冬にこの近くにいたなら、もう一度ここに来てみようか」
    「いいの?」
     少女が驚いたように言いながらばっと振り向いた。目は大きく見開かれていて、そんなに奇妙なことを言っただろうかとベレスは少し居心地悪くなる。
    「前を見て。……もしもの、話しだよ」
    「うん。でも、ベレスがそんなこと言うの初めてだから」
    「そうだった? 仕事のないときは時期を見てどこかに行くというのは、何度かあったと思うけれど」
    「そうだけど、でも、ベレスは行けないと言っていた中央とは別に、ファーガスには一度アドラステアの方から少しだけ入ったことはあったけれど、あまり近寄りたがらないようだったから」
    「ああ……」
     どうやら見透かされていたらしい。ベレスは苦笑いした。
    「昔は仕事でなんどもファーガスには行っていたんだよ。当時はなににも無頓着で、気にしていなかったけれど」
    「今は気にしなければいけないことばかりだものね。ベレスってば、いったいどれだけのお店で食材を食べつくしてお尋ね者になっちゃったの」
    「うーん……覚えてないなあ」
     ベレスに付き合って軽口をたたく少女におもわず苦笑が漏れる。実際少女があまりに小さくて仕事ができなかった頃、悩んだ末に飲食店でのそういった催しに参加した結果、そうなってしまったこともあったのだ。記憶力のよい少女は今でもときおりその時のことを口にしてはベレスをからかうし、店先で催しの広告を見つけると、参加してはどうだと薦めてくる。ベレスも少女も安価でお腹いっぱい食べられるし、話の種にもできるから一石二鳥。ついでに言えば少女曰く、ベレスの食べっぷりが実に気持ちがよくて楽しくなるから見たくなる、というのもあるらしい。
    「ファーガスだとなにが有名? 美味しかったものはある?」
     興味津津に尋ねてくる少女に、ベレスはそうだなと記憶を探る。美味しかったもの。美味しいと言っていたもの。思い返すのは、壁にたくさんの蝋燭が揺れる大きな食堂。使い込まれて艶々と黒い、長い長い木の机の上に並べてみなで囲んだ食事は、記憶のなかで温かな湯気をくゆらせている。
    「ゴーティエチーズグラタンとか、美味しかったかな。ちょっと癖があるけれど、あっさりした乾酪がたっぷり使われていて、具材は鶏肉とかも入っていて、おいしかった覚えがあるよ」
    「へえ、今でも食べられるかな」
    「……食べられるといいね」
     少女が食べたい、と言い切らないのは、かつてフォドラ中を戦火が嘗め尽くしたことを理解しているからだ。大陸のあちこちでその傷跡を実際に目の当たりにし、その爪痕の深さも、断絶されたものが数多くあることも知っている。この旅は、それを見る旅でもあるのだから。
    「よう、ずいぶん楽しそうにお喋りしているが、そろそろ気を引き締めてくれや」
     前にいたはずの護衛頭にふいに話しかけられ、鞍の前に座る少女がぴょんと肩を跳ね上げた。それが周囲の様子を見れていなかったのだと弁明しようもないほど言い表していて、金の髪を揺らして恥じ入るように少女が俯く。そんな少女に前を見るよう叱りつつ、ベレスは男に応えた。
    「ああ、気を付けるよ」
    「……なあ、やっぱりその嬢ちゃんは、荷馬車に乗せた方がいいんじゃないか?」
    「乗せない」
    「だが戦闘になったら、嬢ちゃんはどうするんだ。守ったり逃がしている余裕なんぞ、戦場にはないぞ」
    「戦闘になったときこそ、手勢が必要でしょう?」
     男が目を見開いた。まさか、と呟く声に、ベレスは笑った。
    「まだまだ腕は甘いけれど、この子は剣も槍も使えるよ」
     自分のことが話されている緊張にこわばらせた顔で、少女は瞳だけを男に向けてかすかに頷く。男は信じらないと、いぶかし気に少女を見た。
     確かにこの少女が腰に佩いた剣は使い込まれているし、待合の間に棒を振るって稽古しているのも見た。意外と身のこなしが素早く、そして見た目のわりに膂力の強さに驚いたものだ。だが、ベレスの言葉は嘘だろう。なぜなら、人目を引く少女の輝く瞳は、人を斬ったり殺したことのある者の目をしていなかった。それでもベレスは、この娘は戦えるという。いずれ人を斬れるように、この真っ白な手を赤く染めるように、そう育てているという。
    「いいのか、嬢ちゃん」
     その手で人を殺せるのかと唸るように問われ、少女は大きな目で男を見つめ返すと、強くうなずいた。
    「……構わない。私はずっと、ベレスといっしょに生きてきたから」
     そうか、とため息をこぼした男は、顔を上げた。厳しい目つきの護衛頭としての顔をしていた。戦争が終わり平和が訪れているはずの世になったにも関わらず、そういう生き方をしなければいけない若者が生まれ続けている。まだ、そういう過渡期だということなのだ。そう割り切るしかない。
    「……じきに下りの峠になる。つづら折りだ。気を引き締めろ」
    「ああ、わかった」
     頷くベレスと少女から離れ、気をつけろ、と言葉を残して男はもといた配置に戻っていった。
    「……戦うの?」
    「この場は私がね。あなたが戦うのは、そうしないと生き延びられないとき」
    「よかった……」
     少女の力んでいた全身から力が抜けていくのを体で感じながら、ベレスは手綱を繰った。いざというときの覚悟はしているだろうが、やはり人を殺めたくはないのだろう。それだけ厳しい環境に身をさらしたことも、激しい感情に駆られたこともないから当然だ。
    (これからだって、そんなことはさせたくない)
     それが正しいことかどうか、ベレスにはわからない。この生業を続けていけばいずれ遠からずその日が来るだろうが、その日を迎えていいのかもわからないで今日まで生きている。できればこれからもそうであってほしいと、この子の手は清らかなままであってほしいと、ベレスは願いながら前を見た。
     護衛頭の男が気を引き締めろと言っていた地点に、商隊の先頭がさしかかろうとしていた。



    令和4年6月16日
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works