crush3*1青海の節も半ばに差し掛かろうとしていた。山頂に座すだけに麓と比べれば大修道院の空気はひんやりと涼しいが、天に近いゆえに陽射しは強い。夏に近づき汗ばむ日も増えてきたためか、厳粛な黒地の制服から軽やかな薄香色を地とした夏服に切り替えた士官学校生の姿がちらほらと見られるようになっている。
そんな気候に抗い、頑なに黒い制服を着続けていた生徒がその日、皆と同じく夏服を纏って教室に現れると、室内はどこかほっとしたような空気が流れた。彼は前節の課題以降もほとんど休むことなく出席していたが、喪に服して俯き黒い制服を脱ごうとはしなかったのだ。そんな彼が軽やかな夏服に袖を通したということは、前に進むべく顔を上げたということだろう。
一足早く夏服に袖を通していた暑がりの級友たちや担任教師はあえてそれに言及することはなかったが、強い決意を若草色の双眸に宿した彼の変化を温かく見守り受け入れたのだった。
「先生、殿下」
そして昼時。午前の授業が終わり、食堂へと急ぐ生徒たちで人影がまばらになった教室で、片付けをしていた教師とそれを手伝う級長のもとに件の生徒がやってきた。少年らしい幼げな顔立ちにはやはりまだ憔悴の影が消えないが、その表情は以前と比べて引き締まり、随分大人びた雰囲気があった。二週間前の一件で、大人にならざるをえなかったのだろう。
「ご心配をおかけしてすみませんでした。僕はもう大丈夫です」
「そうか。だが無理はするなよ」
ディミトリと、ディミトリの言葉に同意するようにこくりと頷くベレスを順に見てから、嬉しげなもののまだ強張った笑顔を浮かべたアッシュが、いささか声を落として続けた。
「ありがとうございます。それから、特別授業の参加を認めてくださったことも」
「……え?」
きょとんとしたベレスをよそに、ディミトリは素早く尋ねた。
「アッシュ、その件は誰から言われた」
「シルヴァンです。特別授業に関しては、自分が先生と殿下から一任されているから誘いに来たと」
「あいつ」
低く唸ったディミトリの厳しい眼光が素早く教室内を巡り、どういうわけかまだ残っていたシルヴァンを捉えて睨みつける。荒くれ者でも逃げ出しそうなきつい視線を受けても、へらへらと笑う様子からして、どうやら当の本人は事の成り行きを見守っているつもりらしかった。もっとも、おもしろ半分の可能性も否めないけれども。
頭上で交わされる無言の攻防に気づかぬまま、アッシュは礼儀正しく胸に手を当て頭を下げた。
「僕、頑張ります。もうロナート様を手伝うことはできなくなりましたけど、教えていただいたことを活かせるようにここにいるうちに色々学んでいきたいです。よろしくお願いします。お昼なのに時間を頂いてすみませんでした。失礼します」
アッシュは礼をして足早に去っていったが、ベレスはかける言葉がすぐには見つからなくて伸ばした手が行き場を失い宙を掻くだけだったし、ディミトリには彼を止めるよりもすることがあった。当人も分かっているのだろう。困惑するベレスと怒るディミトリの前に、両手を後頭部で組んでにやにやと笑いながら歩み寄ってきた。
「……どういうつもりだ、シルヴァン」
「どういうもなにも。お二人同様、あいつも今日から授業に参加するってことですよ」
「シルヴァン」
「ほら、普段はアレですけど、情報交換といった話をすることがないわけでもない。魔導具を使うからには最低限魔力は必要ですが、成績に関してもあいつなら参加しても大丈夫でしょう。拒否したとしても秘密を他人に話すこともないでしょうし、あいつらも異論はなさそうだと思って誘ったんですよ」
それに、とシルヴァンは続けた。
「下手に夢を見続けているよりは現実を見て目を覚ましてやった方が本人のためになると思いましたので」
「あいつはもう充分現実を見せつけられているだろう」
「貴族の現実は知らないでしょう。だから頑張るなんて言えるんでしょうよ」
毒のある言葉にディミトリな眉を顰めた。それを分かっていながら、シルヴァンは笑う。
「嫌なら断ればいいだけのことです。入ってしまえば抜け出せませんが、交わることなく目を背け耳を塞いでいればいい。そうやって拒否したり断ったりのらりくらりと躱している貴族だって実際いるわけですしね。どうするか決めるのは、あいつ自身ですよ」
夕方が楽しみですね。無言で睨んでくるディミトリにそう言って、シルヴァンは、踵を返して教室を出ていった。
落ち着かない心地のままいつもと変わらない日課を過ごし、とうとうやってきた夕刻。
放課を心待ちにして鐘が鳴るなり足早に教室を出ていく生徒もいれば、のんびりと会話を楽しむ生徒たちもいた。そういった姿も疎らになり、やがてベレスが鍵をかうよと声をかければ、残った生徒たちもはーいと答えて外に出ていく。残ったのはベレスとディミトリ。シルヴァンとフェリクスとイングリット。それから、きょろきょろとしきりになにかを探して視線をさまよわせるアッシュだ。
ベレスは無言でディミトリと視線を交わした。ディミトリは重々しく頷き返してきた。
珍しく落ち着きがないが、ここにいるとうことはアッシュの決意は変わらないのだろう。ならばもう止めることはできない。真実を知った彼がどうするかは、シルヴァンが言ったとおり、アッシュ自身の判断にゆだねるしかなかった。
「それじゃあ、鍵をかうよ――」
「ま、待ってください!」
ベレスが半端に開いていた扉を閉めようとした刹那、ガタンとやかましく椅子を鳴らしてアッシュが立ち上がった。
「すみません、少しだけ、授業を始めるのを少しだけ待ってください! すぐに戻りますから!」
そう言いながら、アッシュはあっという間に扉の隙間をすり抜けて外へと駆け出して行った。あとに残された面々は、ぽかんとしたり呆れたり険しい顔つきだったりで、半端に開いた扉を呆気にとられてみていた。
「……ええと、どうしようか」
「いいんじゃないですか。あいつのいう通り戻ってくるまで待ってあげましょうよ」
「けれど、それじゃあ殿下をお待たせすることになるわ」
「俺のことは気にしなくていい。不参加ということでいいんじゃないか」
「いやいや、すぐに戻るって言うんですし待ちましょうよ」
困り果てたベレスが思わず誰ともなしに尋ねると、閉めるが優勢の答えが返ってきた。けれどもシルヴァンが待ったをかけるから結論が出ない。フェリクスはというと不機嫌そうな舌打ちをしたきり、自分の席で腕を組んで目を閉じて一切の情報を締め出し、我関せずだ。
フェリクスのそんな様子には慣れているから、小さなため息をついてイングリットはディミトリへと視線を移した。
「それにしても、殿下が参加してくださるとは思いませんでした。いつも最初にいるだけで、すぐに帰られてしまいますから」
「いや、出席するだけで参加はしないぞ」
苦笑いとともに返された言葉に、イングリットは少なからず驚いた。
「そう、なのですか……」
「何を言っている。途中退席はできんぞ」
黙って聞いていたフェリクスに唸るように忠告され、ディミトリが頷く。
「わかっているさ。出席はするが参加はしない。見学と言った方が正しいな」
「ちっ、趣味の悪い」
付き合ってられん、というように顔を背けたフェリクスに肩をすくめながら、シルヴァンが笑う。
「まあまあ。俺は殿下の参加より、先生が来てくれた方がよっぽど嬉しいですねえ」
突然呼ばれて、ベレスはぱちりと瞬きをした。
「知ってました? 先生てば男子生徒の間でも噂の的なんですよ。そんな先生のお相手を務められるなんて――いってててて」
「言っておくがなシルヴァン、俺の参加はお前が先生に不埒な真似をしないか監視するためでもあるからな」
ディミトリは淡々と地を這うような声で告げると、掴んでいたシルヴァンの手首をぱっと放した。掴まれた手首にくっきり凹んで残る白い指痕と、赤黒くうっ血した手のひらをぶらぶらと振りながら、シルヴァンは歪んだ顔で唇を尖らせて言葉を絞り出した。
「……殿下が睨みつけてたら先生のお相手できないじゃないですか」
「するなと言っているんだ」
「は? 正気で言ってるんですかあんた」
愕然とするシルヴァンと彼を眼力だけで殺せそうな目つきで睨みつけるディミトリから視線を外し、イングリットが確認するように尋ねる。
「それでは先生も、見学だけなさるということですか?」
「うん、そうだね」
頷くのとほとんど同時に石畳をかける足音と息を切らした声が聞こえてきて、ベレスは引っかかるものを覚えてそちらに意識を向けた。
足音の数が多い。かすかに聞こえてくる声も複数ある。もしや忘れ物をした生徒がいて、慌てて連れとともに回収に来たのだろうか。ベレスが扉を揺らして外を伺おうとすると、駆け寄ってくる声が慌てふためいた。
「わー、待って、閉めないでください! ほら、二人も急いで!」
明るく弾む声と同時に少年が、数歩遅れて少女が閉まる扉の隙間から教室内へと駆け込んできた。
「ふう、間に合いましたぁ」
「よかったぁ……あれ? ほら、メーチェも早く早く」
膝に手を当てて肩で息をするアッシュと同じく、肩で息をしながら振り返ったアネットが外に向けて手招きをする。
「ねえ、待ってちょうだい、アン」
息を切らしたおっとりとした声が、ようやくたどり着いた扉の外で逡巡していた。そこに誰がいるかは姿を見なくても分かる。ベレスはどういうことか、どうしたものか分からず、判断を仰ごうとディミトリに視線を向けた。
視線の先で、ディミトリもイングリットもぎょっとした表情を浮かべていた。フェリクスも顔をしかめていなか、唯一シルヴァンだけはにやにやと笑みを浮かべている。こうなることを知っていたのかもしれない。
「アッシュ、なぜ彼女たちがここに?」
それでもいち早く平静を装ったディミトリが尋ねると、アッシュは「はい」と元気よく答えた。
「ちょうど参加者を増やしたいと考えていたところで、せっかくだから僕がいいと思う人を誘ってくれとシルヴァンに言われて。僕が言うのもおこがましいですが、真面目で向上心が強いと思う人たちを誘いました」
シルヴァン、と地を這う声に呼ばれ、ことの張本人は悪びれもなくへらりと笑った。
「だってずっと同じ面子じゃつまらないじゃないですか。殿下と先生もやーっと参加してくれると楽しみにしてたのに、蓋を開けてみたら見学しかしないって言いますし」
「だからといってなにも知らない者をだな」
「秘密を守ることを誓いさえすれば離脱も可能なんですから、そんな難しく考えなくてもいいんじゃないですかねえ」
険悪になる空気に、「あの!」と少女の声が割って入った。
「特別授業のことは噂で知ってからずっと気になってて、でもあたしじゃとても基準に満たないと諦めてたんですけどアッシュが誘ってくれて。あたし、もっと色々学びたいんです。よろしくお願いします! あ、メーチェは遠慮してたんですけれどせっかくの機会なんだしと無理やり誘いました」
ぐい、と室内へと引き込まれたメルセデスが、困り果てたように眉尻を下げていた
「けれどアン、やっぱりわたし達は止したほうがいいと思うのよ」
「もう、メーチェったらそればっかり。遠慮するのはいいけどこんな機会ないんだよ? もっと勉強できるんだよ? もし合わないと感じたらやめていいって言うんだし、話だけでも聞いてみようよ」
「そうねえ。けれど、困ったわ……」
引き込もうとするアネットと立ち止まり逡巡するメルセデスのやり取りに目を細めたシルヴァンは頭の後ろで両手を組みながら、二人のやり取りに苦笑するアッシュに尋ねた。
「それでアッシュ、お前が誘ったのはこれで全員かい?」
「はい、僕を含めて四人です。よろしくお願いいたします」
「四人……?」
もしや自分も含まれているのかとアッシュの方を振り返ったベレスは、その視線を遮るように入ってきた人影に目を見開いた。のっそりと入ってきたとびきり大きな人影は、呆気にとられるベレスに代わり自ら扉を閉める。
これにはイングリットが眦を吊り上げた。
「なぜ彼がここにいるんです」
「すみません、怒らないでくださいイングリット。彼も僕が誘ったんです」
「だからといって、よくも身の程をわきまえず参加しようなどと」
「やめないかイングリット。……ドゥドゥー、なぜおまえがここに」
噛みつかんばかりの剣幕の幼馴染をたしなめ、ディミトリは困惑しながら尋ねた。
「特別授業では、知識と技能の習得や鍛錬に励むと聞きました。殿下のお役に立つなら、それらを身に付けたいと思いました」
いかにも彼らしく訥々と返されたひどく真面目な答えに、ディミトリはこめかみを押さえた。
「……おい猪、やつになにも教えてはいないのか」
「言えるわけがないだろう」
首を横に振りながらの返答に、フェリクスは呆れたように舌打ちをした。
「己の従僕に必要な教育も施さないとは。呆れた主人だな」
「フェリクス、殿下を愚弄するな」
重く唸り睨みつけてくるドゥドゥ-を、フェリクスは冷たく一瞥した。
「無知ゆえの言葉だな。考えようによっては主であるにも関わらず必要な教育をしなかったこいつこそが、お前を愚弄しているともいえるのだが。……まあいい、俺は知らん。勝手にしろ」
「ちょっと、フェリクス」
「俺はドゥドゥーの参加に賛成ですよ。どうなるか見てみたいし。殿下はどうです?」
匙を投げたフェリクスを咎めるイングリットをよそ目に、シルヴァンは愉快げな声音で尋ねる。どうと訊かれても、答えは一つしかないというのに。
「俺は……反対だ」
「ま、あんたはそう言いますよねえ」
「殿下……」
役に立ちたいという想いまで拒まれたようで、ドゥドゥーは大きな体躯のがっしりした肩をがっくりと落とした。そんな同輩の姿を励ましながら、アッシュとアネットが嘆願する。
「お願いします殿下、ドゥドゥーも一緒に参加させてください」
「あたしからもお願いします」
「そうは言ってもだな……」
それらを後押ししたのは、思いがけない人物だった。
「……おい猪。飼い犬のしつけには責任を持て」
「フェリクス!?」
声を重ねて驚くディミトリとイングリットが続けてなにか言うより早く、フェリクスはおもむろに立ち上がると手近な席へと移動する。シルヴァンが愉快そうに声を立てて笑った。
「お。これで決まりだな。殿下と先生、その四人。いやあ賑やかになるなあ」
「笑いごとじゃないでしょう! 私は嫌です。認められません。ドゥドゥー、早くここから立ち去りなさい。ちょっとシルヴァン、放して」
「はいはい。ちょっとこれ食べていろ、な? 世話は頼んだぜ、フェリクス」
「ちっ」
シルヴァンはイングリットをフェリクスの長椅子の隣にひょいと抱えて運び座らせると、なにかを口いっぱいに押し込み言葉を奪う。そんなシルヴァンを見上げて睨みつけながら抗議するイングリットの目を、後ろから頭を抱え込むようにして腕を伸ばしたフェリクスが手のひらでぞんざいに塞いだ。もごもごとこもって言葉にならない抗議の声を唸りながら、イングリットは目を塞ぐフェリクスの手を引き剥がそうと腕や手の甲を叩いたり引っ掻いたりともがいている。
「おいフェリクス、加減をしないか。シルヴァンも、口に入れたものを出してやれ」
「ふん。こいつがこの程度で萎れると思っているのか。しっかり食っているぞ」
子供時代のじゃれあいに似て、けれどもそんな無邪気さでは成り立っていないことを悟ってディミトリは戸惑いながら声をかけたが、フェリクスは一瞥したきりで取り付く島もない。
「ただの干しイチジクですよ。食べずに吐き出すなんてしたらもったいないんじゃないですかね。なあ、イングリット」
言われてみれば、フェリクスの手から逃れようともがいていたイングリットの抵抗は小さくなり、今はひたすらもごもごと咀嚼して呑み込むことに集中しているようだった。ただいかんせん口も閉じられないほどいっぱいに放り込まれたものだから、なかなかてこずっているようだけれども。
彼らの人なりや関係性に最初は面食らったものの数節を過ごすうちに慣れていた平民組たちも、いつもとはことなる成り行きに戸惑っていた。空気がざわめいているのに気づかないはずもないのに、振り返ったシルヴァンは立てた人差し指を唇に当てて声を発さないよう伝えた後、まるで何事もなかったかのような笑顔で、あっけに取られている新参者たちにおどけたように声をかけた。
「ほら、出ていくやつは出て行って、話が振り出しに戻ってほしくないやつは席についたついた。おっと誰か、鍵の確認をしてくれよ」
ディミトリがはっと視線を向けたころには、戸惑いつつもこの機を逃したくない新規参加者たちは手近な席に腰を下ろしていた。最後にがたがたと閂を揺らして不備がないことを確認した一人が、早足で石床を蹴立てて席について腰を下ろす。幾人かは動揺はしているようだが、それ以上にここで新たな知識や技術を得られることに期待し、疑いなど微塵も抱いていないようだった。
「ほら殿下も」
「だが」
「言ったでしょう。知りたいって言ってんだから教えてやればいいんです。知ったことをどうするかはあいつら次第。ま、あられもないことろを見られるのは慣れないうちは恥ずかしいでしょうが」
「いや、俺は」
「あんた、何のために参加するんです? 見学なんて本気で言ってるんです? まあそういう趣味なら何も言いませんけれど、いい加減に腹くくりましょうよ。絶対に胤を残さなきゃいけないあんたには避けられない道なんですから」
静かに忍び寄っていたシルヴァンがディミトリの肩を叩く。そして両肩に手を添えるとぐいと後方に圧をかけると、シルヴァンが思っていた以上にあっけなくディミトリは椅子に腰を下ろした。
「先生もどうぞ」
「わかった」
頷いたベレスが、ディミトリの隣に素直に腰掛けた。
これで準備は整った。
シルヴァンは俯き加減で表情の見えない、膝の上でこぶしを握るディミトリから視線をはがして通路の反対側へと視線を向けた。それから教室内をぐるりと見まわす。
通路の反対側には最前から一列空けて仏頂面のフェリクスと抵抗に疲れたのか大人しく咀嚼するイングリット、数列離れた後方席にそわそわと落ち着かないアッシュが座る。その隣の壁側のほの暗い席に視線をやり片方の口端を上げて嗤ったシルヴァンは視線を戻して、通路をまたいだ同列の席に目を輝かせるアネットと困り顔のメルセデスが一つの机と長椅子に並んで座っているのを見届ける。
満足げにぐるりと教室内を見回したシルヴァンは最後に、いつもの最前列に座るディミトリと、その隣に座るベレスを見やった。
「それじゃあ先生と殿下、始めましょうか。お言葉だけいただければあとは俺が進行していきますんでご安心を」
バチッと片目を瞑って見せたシルヴァンに観念したのか、ため息を一つついてディミトリが立ち上がり皆の方に振り向いた。きつく握られていたこぶしは、今は力なくやんわりと開かれていた。
「ここに集められたものは、みな将来有望とみなされた者たちだ。これから行われることに意に沿わないことがあったとしても、それに対する今後のふるまいは各自の将来はもちろん、学級、家名、国の名誉にも関わるから、心してほしい」
進行役のシルヴァンに、先生、とこっそりと囁かれて、ベレスは一歩進み出てディミトリの隣に並び、手にした書面を読み上げた。
「最初にこの授業の説明をするよ。これは特別選抜授業と呼ばれていて、有力貴族を中心に構成され、より広い人脈を築きより親睦を深めるために平民からも成績優秀と認められれば選ばれて受けられる授業だ。授業内容や時間は参加者によって任意に決められ開催される。授業内容は、参加者以外には口外してはいけない。これといった罰則などは定められていないけれど、このことは必ず守ってほしい。いいね」
一息ついたベレスの続きを、ディミトリが引き継ぐ。
「だがあいにく、俺も先生もこの授業に関わってこなかったから状況は把握していない。だから詳しい説明はこのあと、かねてから参加して慣れているシルヴァンにしてもらうことになる」
ひらひらと手を振るシルヴァンから視線を切り、ディミトリは祈るような気持ちで平民の四名に視線を向けた。
「繰り返すが、今なら引き返すこともできる。辞退したければ咎めるものはいないから、立ち去ってくれて構わない」
けれど誰一人立ち去るものはいない。ディミトリはやや声に落胆を滲ませながら、そうかと呟いた。
「……では、決して誰にも口外しないことを誓ってくれ。シルヴァン、頼む」
「承知しました。じゃあみんな、まずはこれを見てくれ」
一礼して顔を上げたシルヴァンの手には、いつの間にかこぶしほどの大きさの、まろやかな乳白色の石が乗っていた。
「シルヴァン、それは?」
「宝石にしては大きいけど、鉱石かなにかなのかな?」
「鉱石と原石の違いってなんでしたっけ」
「たしか鉱石のなかでも宝石のもとになる石が原石じゃなかった?」
興味津々に話し出した年少者たちに落ち着けと身振りで伝えたシルヴァンが、ベレスの前に石を差し出す。
「まずは先生から触れてください」
石とシルヴァンの顔を交互に見て、ベレスは首を傾けた。
「触れるだけでいいの?」
「ええ。少し変な感じがするかもしれませんけど、それはあとで説明しますね」
「わかった」
頷いたベレスは、シルヴァンに手を重ねるようにして石に触れた。つるりとした質感の印象通り滑らかな手触りで、シルヴァンの手のひらの熱が伝わったのか、じんわりと温かかい。そしてどういうわけか、触れた瞬間に手から腕にかけて重怠くなるような感覚が広がって、ベレスは怪訝そうに眉をひそめた。
「もういいですよ。次は殿下です」
「……ああ」
ディミトリが触れ、次は後方の席に座るアネットとメルセデスが触れる。
「あら? なんだかさっぱりした気がするわ」
「そうだね。なんだろう、不思議」
踵を返し、通路を挟んだ側アッシュの方にも石を差し出す。アネットとメルセデスは触れた手の感覚に首を傾げていたが、アッシュの方はどこかぐったりとした様子になった。
「あの、シルヴァン。その石はなんなんですか?」
アッシュが痛みをこらえるように腕をさすりながら、シルヴァンの背中に問いかける。女生徒に比べ、男子生徒は石に触れた手に違和感を覚えている様子だった。
「すぐに話すさ」
最後にシルヴァンは、フェリクスとイングリットに乳白色の石を差し出した。フェリクスはイングリットの目を塞いでいない方の、抵抗するイングリット手を掴んだ手の甲でぞんざいに触れた。
なんとなく皆シルヴァンの手に手を重ねるように石に触れていたが、とにかく石に触れさえすればいいのだから、手のひらを乗せる必要はない。それこそ、額でも頬でも足でもどこでもいいのだ。
最後にフェリクスが掴んだイングリットの手を石に乗せると、やがてけほ、と小さく咳をしたイングリットの身体が、くたりとフェリクスにもたれかかった。
「あの、イングリットは大丈夫なんですか? 医務室に連れて行った方が……」
濡れた唇から溢れる一筋も拭う気力もない様子のイングリットを見かねて、アッシュが心配気に声を上げる。普段ベレスが使う教卓に石を置いたシルヴァンは振り返った。
「大丈夫だって。さて、この石についてだが、触れたときに違和感を覚えただろうが別に悪いものじゃない。これでもこの青獅子学級に、脈々と受け継がれてきた伝統ある魔石だ」
「魔石? じゃあ変な感じがしたのは、あたしのなかの魔力がその魔石に反応したからってこと?」
「さすがアネット、察しがいいな。この石は、触れたものを清めるほかに、魔力を半分吸い取る力があるのさ。イングリットのこれも、その影響だな」
「ねえ、清めるっていうのは、悪しきものを祓うってことじゃないのよね?」
「文字通り清らかにするってことさ。風呂上りみたいにさっぱりしただろ」
「うんうん、すごく気持ちいいよ」
「あの、魔力を半分って……ええとでも、僕……とアネットたちでは影響が違うみたいなんですけれど」
疲れた様子のアッシュが、「変な感じ」の一言で済ませたアネットとメルセデスの方を見ながら困惑しながら尋ねる。
「アッシュ、魔道の授業を思い出してよ。魔力の源は生命であり、生命は五元素から成る。五元素は魔力によって表され、よって魔力の過剰な行使は生命を削る、だよ」
「ええとつまり、僕の魔力の足りない分の生命力を吸われたってことですか? でも、吸われるのはその人の魔力の半分なんですよね……?」
首をかしげるアッシュに、シルヴァンが笑う。
「魔力が入った器と生命力が入った器を想像してみればいい。それはいつも同量の水で満たされていて、均衡が保たれている。けれど石に吸い取られて減った魔力を補うために、生命力の器からどっと水が流れ込んでくる。アッシュはその流れ込む勢いが強すぎて、身体に負担がかかっているようなもんんさ。対して魔道の扱いに長けているアネットもメルセデスも、そのあたりの調整に慣れているから体への負担が少ない。そんなところだよ」
「はあ……なるほど。じゃあ、特別授業は魔道に特化した授業ってことなんでしょうか。だったら僕、魔道は苦手なので頑張りたいです」
「半分正解、だな」
疲れをにじませながらも意欲を見せるアッシュに笑いかけるシルヴァンに、アネットが首を傾げた。
「半分? あ、やっぱり武術とかの実技もあるってこと?」
「……ねえアン、わたしたちはやっぱりよした方がいいと思うの。あえて貴族が主催する勉強会に出なくたって、自習したり先生方に質問したりして学ぶことはできるわ」
「あたしは、その方法じゃ学べないことも学びたいの」
「でもねアン」
「……ま、石の説明の続きをするぜ」
囁くメルセデスを遮って、シルヴァンは朗々とよく響く声で続けた。
この石は授業の終わりに発動させて室内の浄化を行うための魔力の貯蔵庫の役割をする。ただし発動させるためにはもう一度触れないといけないので、授業終わりまで体力や魔力を最低限残しておかなければならない。魔力発動で浄化できる範囲の対象は自分のみ。ただし潜在魔力が多ければ、周囲の補填もできる。体液が混ざっている場合も魔力が多ければ一緒くたに浄化できる。ちなみにあえて魔力を使わない手もあるが掃除が大変。あと痕跡は消せないのであとあととっても恥ずかしい思いをするからそういう行為をするとき以外は心するように。
うんうんと頷いて聞いていたアネットもアッシュも、突然混ざってきたおかしな単語に困惑を隠し切れずに、きょとんとしながら言葉を反芻する。
「え、たいえき? こうい?」
「つまり、こういうことさ」
つかつかと歩を進め、いまだフェリクスに目隠しをされたままのイングリットの顎を掬うと、シルヴァンはためらいなく濡れた唇を奪った。
令和5年6月24日