眠れない夜がある。
特に何か懸念するような物事がある訳でも、面倒な依頼人への腹立たしさがある訳でも無く、ただ眠ろうと瞼を落として少しした後、どこか覚えた違和感に瞼を緩やかに上げてしまうような夜だ。そうしてそんな事をしている間に沸々と湧き上がる深夜特有の感情の波に囚われたり些細な事が気になって、今度は眠ろうと思っても眠れない夜が今夜だった。
月光に照らされて窓に嵌められたステンドグラスが鈍く床に色を映す。部屋を舞う微小な埃が光に反射し、作りかけの模型たちの上でキラキラと輝いていた。その僅かな輝きさえ今は煩わしく、カーヴェはもぞりと身体を動かして枕に顔を埋める。大抵の場合こうして無理矢理にでも視界を暗くしていれば、いずれ気付かない間に眠りに落ちる事が出来るかそのまま朝になっているのだが、今日は時間の経過が体感随分と緩やかでいつまで経ってもその気配すらも訪れはしなかった。
酒を飲めば楽に眠りに落ちる事が出来るのかもしれないが…。あれはほんの数週間程前の話だっただろうか、とカーヴェは記憶を巡らせる。今日と同じような眠れない日に、強制的に眠りに落ちようと部屋に置いていたセール品の安酒を飲み干した後酷く気持ち悪くなってトイレに篭る羽目になった事があった。明日の仕事の為に必死に眠ろうとしての行動だったのにも関わらず、何故こんな事にと青い顔で項垂れて身体の反応に従って背中を震わせてごぷりと吐いて。その挙句アルハイゼンに見つかって小言を言われたのはまだまだ記憶に新しい。具合の悪い人間に対してどうしてそうくどくどと説教を垂れる事が出来るんだと頭の片隅で思いながらも、アルハイゼンがそういう男である事は昔から散々身をもって理解している事で。
その時のような、あの不機嫌そうな寝惚け眼を見て再び腹立たしい思いをするくらいならこのまま夜を明かした方が良い事は明白だった。
ごろん。と大きく寝返りを打って壁側を向いたカーヴェは、今度は目を瞑って家の外の音に耳を傾けた。
聖樹に住む鳥達の鳴き声が聞こえない今、代わりを務めるのは虫の音だった。鳥達の囀りに比べれば随分と小さく細やかで昼間でも気にも止めないような音だが、こういう時でないと気に止める事も出来ないだろう。虫の音は一見同じように聴こえるが、聴き分けて行けば鳥達以上に様々な種類があり、虫である事に違いは無いものの、その姿形の違いもこの目で見てみたいと思う程に興味深く思えた。
虫の音の間にあるのは聖樹の葉が擦れる音。アビディアの森の木々達の騒めき。ゴオっと時折大きな音を立てて、ガラスをカタカタと振動させながら吹き抜ける風。その風に揺られた街灯の電球が、柱に当たってカンカンと硬い音を立てる音──。
どうやら、今日は普段に比べて風の強い夜らしい。教令院から与えられた頑丈で欠陥の無い素晴らしい住まいがギィと音を立てながら軋むのを耳にし、本能的にか一抹の不安を覚えたが、カーヴェがどこからどう見ても欠陥の無かった家だ。そう簡単に駄目になる訳が無いと息を吐き、薄く開き始めていた目を再びきゅっと閉じる。
遠くで動物が鳴き、何処かの家にあるらしい鈴がチリンチリンと音を立てて鳴る音が聞こえる。鈴の付いた家などあっただろうか、とあまりの暇を持て余したカーヴェは頭の中に普段のシティの風景を思い浮かべて少しの間考えてみたが、結局そんな家を思い出すことは出来なかった。
どのくらい時間が経過しただろうか。矢張り寝付くことが出来ずパチリと瞼を上げたカーヴェは、ベッドのサイドテーブル上に目をやった。もう一睡も出来ていなくとも、朝が近くなっているのではないかと思ったのだ。しかしその思いとは裏腹に時計の針は一時間程しか経過しておらず、目を向けた瞬間にまるでカーヴェを嘲笑うかのように長い方の針がカチッと動く程度だった。
「くそ、いい加減にしてくれ…」
心の底からそんな言葉を吐き出しながら、少し身体を浮かせて位置を変え、再び頭を枕に沈める。別に、普段のように一人で自室に籠って何枚も何枚もクライアントの意向に沿うような案を出し、模型を作るだけであれば眠れずに明日を迎えても問題無いのだが、明日は新しいクライアントとの打ち合わせが入っていた。最近受けていた仕事が一つ終わり、新しい仕事を取ったのだ。その打ち合わせが明日なのだが。
「はぁ……」
カーヴェが溜息を吐く。
心機一転、新しい気持ちで仕事をしたいというのが本音だった。何か温かい物でも飲めば、眠くなるだろうか。
カーヴェが上半身を起こした瞬間。ギシ、と床の木が軋む音がした後、自室とリビングを隔てる扉に軽やかなノック音があった。
眠れない夜がある。
自分より2つ年上の先輩が、自分の与えた部屋で夜な夜な模型を叩き回す音が家中に響く夜だ。そんな夜はヘッドホンをしてどうにか眠るのだが、…今日ばかりは何があった訳でもなくただ目が冴えて眠れなかった。
日中の運動量が足りなかっただろうかと、もぞりと寝返りを打ちながらアルハイゼンは今日の昼間を思い出してみたが、運動量は何時もと変わらない筈だった。寧ろ、面倒で頑固な学者の対応で想定より無駄に労力を使ったくらいだ。
「チッ」
軽く舌打ちをしたアルハイゼンはもぞりと身体を動かして枕に更に頭を委ね、きゅっと目を閉じる。
明日も仕事がある。寝不足のまま行う仕事はとても非効率で、望ましいものでは無い。頭ではそう理解はしていても、眠る事が出来ない。目を瞑って、眼球はいつも何処を見ていたのか。どんな速さで呼吸をしていたのか。そもそも、横向きで寝ていたのか、それとも正面だったか。普通にしていた事が、一度意識してしまうとこれまでが異常だったかのように記憶から零れ落ちて訳が分からなくなってしまう。
こういった時、焦るのは悪手だ。そう分かってはいるものの、存在する筈の記憶が意識するとまるで最初から記憶に無かったかのように溶けてしまうのだから、焦ってしまうのも当然と言えば当然なのかもしれない。
もぞり。
再び寝返りを打ち、枕に頭を置き直す。布と布の擦れる音が静かな室内に響く。カチ…カチ…と音を立てるカーヴェお手製の時計の音さえ煩わしい。ヘッドホンをしたままブランケットの中で身体を丸くしてみるが、今度は自分の脈の打つ音が五月蠅くて仕方が無かった。
…昔も、こんな事があった筈だ。
ふとそんな事を思い出し、記憶を手繰り寄せる。それは、まだアルハイゼンの祖母が生きていた頃の話だ。
何が原因だったかは覚えていないが、その日の幼いアルハイゼンはなかなか寝付く事が出来ず、仕方が無いので本を読み続けていたのだ。いつも眠る時間をとうに過ぎ、時計の針が真上を過ぎて右に動き始めた頃、アルハイゼンの祖母がアルハイゼンの部屋にまだ明かりが灯っているのを見て様子を見に部屋を訪れたのだ。
アルハイゼンが眠れない事を伝えると祖母は少し微笑んで、キッチンからホットミルクを持って来た。有難くカップを受け取ったアルハイゼンは、ゆっくりとそれを飲み干してほっと息を吐く。これまで飲んだことのあるものより少し甘いそのホットミルクのお陰なのか、穏やかな笑顔で手を握っていてくれた祖母のお陰なのか、やがてアルハイゼンは目を閉じて眠りに付いた。
あの温かさが、側に欲しい。
そんな思いで、アルハイゼンはするりと自分のベッドを抜け出した。
「アルハイゼンか?」
扉に向かって問いかけると、ドアノブが動いた後ギィと音を立てて扉が開かれた。扉の向こうには、予想通りアルハイゼンが立っていた。こんな夜中に何の用だ、と問いかける間もなく、アルハイゼンが一歩足を踏み出して勝手に部屋の中に侵入する。
「あ、おいっ!そこの模型に気をつけろよ」
「…眠れない」
カーヴェの忠告を気にも留めずにそう呟いたアルハイゼンは、突然の事に困惑するカーヴェの腰に手を回し、そのままベッドに押し倒して横になった。一つの大きな枕の上で、向かい合わせになった二人の目線が瞬きをしてパチリと合う。
「なんなんだよ」
寝ぼけ眼のアルハイゼンに対し、不機嫌そうな目をしたカーヴェがアルハイゼンの真意を探ろうと問いかけるが、アルハイゼンは穏やかに目を瞑り言葉一つ返さない。
「眠れないのは君だけじゃないんだぞ!おい、聞いてるのか?」
寝返りを打って忌々しいアルハイゼンの顔から目を背け、カーヴェはベッドを抜け出そうと藻掻いたがアルハイゼンの腕がぎゅっとカーヴェの腰を掴んで離さない。軽く浮き上がったカーヴェの頭が、再び枕へ落ちる。
「アルハイゼン!」
そうアルハイゼンの名前を呼ぶと、アルハイゼンはカーヴェの身体を更に自分に引き寄せ、髪に顔を埋めた。呼吸が首筋に当たって擽ったい。するり、とアルハイゼンの素足がカーヴェの足首に絡みつく。
「温かいな…」
ぽそりとそんな声が聞こえた後、カーヴェの耳に入るのは規則的な呼吸だけだった。
此方は眠れないというのに後ろで気持ち良く寝やがって、と沸々とアルハイゼンに対して腹が立ち始めるが、そうは言ってもここからアルハイゼンを彼の自室に戻すのは一苦労だ。
諦めて大人しく横になったままのカーヴェは、目を瞑ってまた外の音に耳を傾けた。だが、既に虫は居なくなってしまったのか先程のような音は聞こえない。代わりに聞こえるのは後ろからの規則的な呼吸と、とくとくと自分のものでは無い脈の打つ音だった。
その音はとても温かく緩やかで、やがてゆっくりとカーヴェを包み込んで暗闇へ落ちて行った。
翌朝、クライアントとの会話で「そういえば今日、アルハイゼンさんも寝坊したそうですよ!揃って寝坊なんて、お二方本当に仲が良いんですね!」などと世間話をされて青い顔をしたカーヴェが居たのだとか。