無題イデア・シュラウドが死んだ。
世紀の大発明家にして、かの大財閥ジュピター家の傍流、シュラウド家の党首の死は、全世界の高級紙(クオリティペーパー)から大衆紙(タブロイド)まで、あらゆる紙面を賑わせた。享年73歳だった。
生前のシュラウド氏のプライベートは、その多くが謎に包まれていた。
世界中の数々の物理学の学術賞を総なめにしながらも、その授賞式には一回たりと顔を出したことはなかった。しかし、それを誰も不思議がらない。彼が大層な人嫌いであり、滅多に顔を出さないというのは社交界では周知の事実だったからだ。醜男なのでは?などという失礼極まりない噂が立ったこともあったが、それはすぐに立ち消えた。唯一報道陣に寄越されたポートレートは、彼の美貌を余すことなく写しとっていたからだ。
華々しい経歴と端正な容姿、高貴な出自を持つ彼に、大衆が好奇の目を向けるのは避けられないことだった。彼は常に多くの記者に追われ、パパラッチたちに見張られていた。かくいう僕も、彼の隠された顔を暴こうと奔走する記者の一人だった。
しかしそれでも、シュラウド氏のプライベートはほとんど明るみに出ず、ついに臨終の瞬間を迎えた。年老いて、もはや治る見込みのない病魔に侵された彼は、ついぞ生家から出ることなく、その生涯を終えた。その際に、彼は小さな声でこう言い遺した。
「アイリスを君に贈る」
彼の死の数日後には、この言葉が再びあらゆるメディアを賑わせた。
一体、この言葉は何を指すのか?
記者たちの憶測の多くは以下の二つだった。
一、天才科学者である彼が手がけた、何十億と資産価値の見込まれる遺作か。
ニ、生涯独身を貫いたという彼の、隠された恋人か。
記者達は躍起になり、この言葉の意味を知ろうと奔走した。これは科学雑誌「NEBULA」ネビュラ の記者である私が方々を走り回り、彼にゆかりのある人物たちを訪ね、彼についての事柄を聞き取り、それを書き起こしたものである。
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????の証言
あの人と僕は、多分全く別の星に生まれたのです。そうでもないと、説明がつかない。
まるでコインの裏表のように、神様が対になるように僕たちをあつらえたようだと思った。それほど、イデア・シュラウドと僕の生き方はあまりにも正反対だったのです。
まだ学生の時分に、彼は良く言っていました。
「変えられないことに足掻くのは時間の無駄だ」
僕にはそれは変えられないことだとは思わない。しかし、彼は驚くほど見切りの早い男でした。常人が思いつつかないような正確さと迅速さで、その未来を見通していた。
「未来のことなんて、手元にある情報で概算値を予測すればおおよそのことは測定できる。フェルミ推定、君だって知っているだろう?」
しかし、僕には彼の見ているものを見ることはできなかった。知っていることと、それが実現できることは違う。僕には、彼に追いつくだけの足はなかった。それが、いつも悲しくて。僕たちの距離は少しずつ開いていきました。
相手を理解できないことを悲しんでいるのは、僕だけではありませんでした。彼の瞳の奥にも、僕と同じような孤独が沈んでいるのを、僕は気がついていました。
その寂しげな瞳に惹かれて、僕は彼を愛し始めたのです。
彼が四年生にあがり実習が増え、なかなか部活動にも顔を出さなくなったある日、僕はこれからの話を切り出しました。
「あなた程の才能がおありなら、どんな分野からも引く手数多でしょうに」
皮肉に聞こえたなら仕方がありません。僕は凡庸な男ですから、彼のような才能に溢れた人間を多少なりとも羨む気持ちがあった。
しかし、本心はそこではない。
僕は彼の未来を思って、その可能性を讃賞したのです。そして、ほんの少し夢を見ていました。その彼の無数の可能性を秘めた未来の傍に、僕も寄り添うことができたら、と。
「それを家業に縛り付けておくのは、あまりに忍びない」
だから、僕と一緒に一旗あげませんか。なぁに、損はさせません。
そう軽口をつなげました。誰にでも言っているじゃないかと、笑い飛ばしてくれて構わなかった。それが本心だと悟られるのには、僕はまだ若すぎて恥ずかしかったのです。
しかし、彼は低めた声で震えるようにこう言いました。
「君に何がわかるんだよ……」
彼の声は、感情の昂りを必死で抑えているような、静かな怒りを孕んでいました。それで僕は自分が彼の触れられたくない、柔らかいところを土足で踏み荒らしたのだと理解しました。しかし、その時にはもう遅かった。
彼は野生の獣のように髪を逆立てて、自分を呪う言葉を吐き散らしていました。
「僕は一生あの島から逃れられないし、オルトにしたことも許せない!僕の未来に希望なんてあるわけがないだろ!!」
僕は違うと言いたかった。
彼の未来は僕が欲してやまないものが秘められている。
しかし、耳を塞いで聴こうとしない人間にそれを言って、何の意味があるでしょうか。イデアさん、あなたが耳を貸してくれるだけでいい。それだけで、僕はいくらでもあなたの素晴らしさを耳元で囁いてあげるのに。
努力も未来も、自分だけの力ではどうにもならないということは、この歳になれば当然理解しています。当時も若造だったとはいえ、僕はそれをわかっていた。それでも、その未来に賭けることこそ、僕が何より愛してやまないものだった。そのために足掻くことが、僕は好きだったのです。
「君は、自分をミンチにする機械に飛び込んでいくのが好きなの?
そんなこと、家畜だってしない」
イデアさんはその僕の生き方を否定しました。
信じられないほど鋭利な言葉で、僕がいかに間違っているかを、のべつ間も無く暴き立てた。けれど、僕はそれを怒れなかった。
ただ、悲しかった。
彼が僕に皮肉を言うその顔は、恐怖に怯えていたからです。僕が宝物のように抱いている未来を、彼は何より恐れていた。もうこれ以上傷つくたくないと叫んでいました。
あまりにも、僕たちは正反対だったのです。
いつかこうなることを、僕はどこかで恐れていました。僕はやっと観念して、自分達のあり方を受け入れました。
彼の孤独な瞳は変わっていませんでした。僕が愛し始めた日からずっと、彼はその才能と感受性ゆえに深く傷ついていて、それを変わらず僕は愛おしいと思いました。
彼と今別れようという、この時でさえ。
あとはもう、どちらから別れを切り出すかと言うことだけが問題でした。
僕から別れを告げて、彼はこくりと頷いた。
自分の口からこんな風に別れを口にすることになるなんて。僕は嗚咽しそうになるのを必死で堪えました。
あまりに苦しくて悲しくて、空が裂けて地が割れて、今日にも世界が壊れるかと思った。
しかし、実際はそうはならなかった。僕たちは夕日に赤々と染まる部室で、静かに向かい合って座っていた。別れの言葉を交わした後、僕がイデアさんを残して部室を去り、自室で着替え、シャワーを浴びて眠りについても、いつものように朝がやってきた。
それだけです。
本当に静かな終わりでした。
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★ 科学雑誌「NEBULA」ネビュラ 工学部門担当記者 デビッド・アイゼンバーグによるイデア・シュラウドに関する所感
天才科学者イデア・シュラウドの生涯というものは、生涯にとった特許の数と長者番付の順位から鑑みても、実に簡素なものである。
氏はシュラウド家という由緒正しい名家の嫡男であり、彼ら一族が代々住まうという嘆きの島で生まれた。
彼は生涯嘆きの島で過ごしたが、その人生でたった四年間だけ例外があった。彼は16歳から19歳までの四年間を、NRCという魔法士養成のための寄宿学校ですごした。
卒業後は彼は再び生家に戻ると、代々世襲されてきた家業に従事した。その傍ら夥しい数の発明品を世に送り出し、一躍時代の寵児になった。
しかし、そんな中でも彼は頑なにメディアには露出せず(もしくは、もしかしたらメディアに出られない事情があったのかもしれないが)、その姿を公の場に表すことはなかった。
私が入手できた範囲での学生時代の記録では、彼には弟を模した非常に高性能の魔導ヒューマノイドを常に傍に置いていたらしいということくらいだ。亡き弟の形代を発明し、傍に置く若きマッドサイエンティスト、といういかにも大衆が好みそうなドラマチックでセンセーショナルな話題だ。多くのゴシップ記者たちが、屍肉に群がる蠅どものように、その詳細を暴こうと躍起になった。しかし当のシュラウド一族は、その莫大な財力と各業界への影響力を盾に、外部の干渉を一切許さなかった。
そこで私は、シュラウド家の息のかかっていない、彼らと交流のあった人物を片っ端から当たっていった。そこで特に目ぼしい話が聞けなければ、インタビューをした人物に、次に情報を知っていそうな知人を紹介させる。そうやってしらみつぶしに情報を追っていったのである。