君の胸に抱かれたい(途中まで) 秋のはじめの気配が漂う十月、仙台のほうから高校時代の同級生ふたりの結婚を知らせるハガキが、玉田俊二の住む東京のアパートに風のようにふらりと届いた。
「へぇー。鈴木と仲林のヤツ、今度結婚するんだってよ! あいつら、ずっと付き合ってたもんな」
ポストから出してきたハガキを目の前でヒラヒラさせながら、玉田は大きな声をあげた。彼らは宮本大のクラスメートでもある。そのふたりはどうやら高校生の時から付き合っていたらしい。
「えっ そんなコト、全然知らなかったべ」
ふたりが付き合っていることを、大はまったくと言っていいほど知らなかった。
「おまえって、そういうの結構疎いトコあるよな。オレたちのクラスだと他にも……たとえば、小林と多井も付き合ってたぞ」
「ええっ、ホントか それも全然知らなかったっちゃ。アイツら、いつも教室の後ろのほうでケンカしてたし。うーむ……」
かつてのクラスメイトたちの意外な展開におもわず唸る大(深い付き合いの彼女いない歴イコール年齢)に
「世の中の男と女は、まぁ大体、そういうふうに出来ているものなのだよ」
と、玉田(彼女いない歴イコール年齢)は何かを知ったように諭した。
「しっかし、すげーなぁ」
「ほんと、オトナって感じ~だべ」
「東京に出てきたオレたちには、カノジョすらいないってのになぁ」
あーぁ。輝かしい、花のキャンパスライフってのはいったいどこに行っちまったんだよ? とガックリ肩を落とす玉田の嘆きに、大は「うッ……」とおもわず口ごもった。
ーー大は、沢辺雪祈と関係を持ったことを玉田に秘密にしていた。バンド初心者の彼にバラすことでこれ以上負担を掛けたくなかったし、高校からの親友に対してどこか気恥ずかしかったということもある。大自身は「別に言ってもいいっちゃ」と思っていたが、主に雪祈のほうが「絶対イヤです。特に、玉田のヤツにはぜーったい内緒だからな」と、釘を刺すほど気にしていたのだった。
「ん、メッセ来たぞ。瑞原?」
高校の同級生だった瑞原から、別口で玉田にメッセージが届いた。
『例のハガキ見た? 鈴木と仲林ちゃんはおめでた なんだって! やったね』
……どうやら彼らはいわゆるデキ婚、おめでた婚というヤツらしい。
「ちゃんと責任、取るんだな。あいつらは」
「やっぱり、すごいべー」
真面目なふたりはかつての同級生の決意に対してますます感心を深めるのだった。
――しかし、デキ婚ということは「それなりのオトナの行為」というものを経た結果なのでありまして。
「責任、かぁ……」
テナーサックスの自主練習場という名の、大きな運河にかかる橋桁の下でいつものように熱心に練習しながら大はひとり呟いた。同級生から受けた恋の情熱に心がおおきく煽られて、ふとしたことが頭に浮かぶ。
(あれっ。もしかして雪祈はオレのこと、本当はそこまで好きじゃない……のか?)
今更だけど、そういえば大には雪祈から『好きだ』とか、もしくはそれに類する愛の言葉を呟かれた記憶も特になかった。
あやしい雰囲気に呑まれて有耶無耶に身体だけの関係を持ってしまったけれど、まだふたつの身体を深く繋げるまでには至ってはいない。いまのところはお互いの熱を吐き出すだけの自慰的な、良くないタチの悪戯レベルの行為だけで彼らの関係は終わっていた。
ーーただのバンド仲間だった雪祈への気持ちが、いつから恋しく慕う気持ちに変わったのか、大はもうハッキリとは覚えていないけれど。あの雨の日にジャズクラブで存在感のあるピアノを弾いていた雪祈の姿をはじめて観た時、心の奥底でもう一目惚れしてしまっていたから『一緒に演らないか』と勢い余って頼んでしまったのかもしれない……などと今では考えるのだった。
そんなふうに、大は雪祈に対して普段は他人には抱かない程度の大きな愛情(と劣情)は持っていたし、もっと関係性が進んでも良いとは思っていた。いやむしろ進めてほしいんだべ。というくらいには。
「エヘヘ……」
照れくささに赤く頬を染めながら大自身はそう思っていたが、あいつ、雪祈のほうはさて、どう考えているのだろうか。他人なのでわからない。なんでもだいたい表情に出てしまう大と違って、クールな彼は感情をあまり表に出すタイプではないし。でも、たまに夜の閨の中で素直になったり照れたりする時の雪祈を可愛らしいところもあるなあ。と大はとても好ましく思っているけれど。
「オレたちって、付き合ってるんじゃなくて、ただのカラダだけの関係なんだべか?」
あんなことやこんなこと、シラフな昼間ではとても口に出して言えないことまでしているというのに。それでも……。大の頭の中で疑問という名の黒い雲がモクモク広がっていく。練習に戻り、いっぱいテナーを吹きながら考えてみたが、はみ出す黒い感情につられて音色も迷走してしまって、戦車のようにグイグイ圧倒的に進むいつもの調子がちっとも出なくなってしまった。上京して一年と数ヶ月間この水辺などで練習を続けた結果、最近ではテナーの音の調子がいい日には通りすがりの散歩者やアマチュアランナーが時々チップ替わりに大の足元に新品のペットボトル飲料を置いていくことがあり、大はそれを勝手に『お供え』と名付けて有難く頂戴していたが、今日はその影も無かった。
「雪祈のやつが最後までヤらないのって、オレとはしょせんお遊びというか、そういうことだったりしたりするのか?」
うーん……。意外なところで大は巨大な迷宮に足を踏み入れてしまった。休憩と称して木貼りのベンチに座り込んで腕組みをして、本日の練習時間のタイムリミットが迫るまで大はひとりで考えつづけた。
「……ちょっと、ストップ!」
いつものジャズバーでの午後の練習中。ピアノの方向から出た苛立ち混じりの声が、三人の演奏を突然止めた。
「何やってるんだ、大! そこの音、バッチリ外れてるじゃないか。ここも、さっきのサビのところも間違ってたし。たるんでるぞ」
「あ、悪かったべ……。つい、」
雲のように広がってしまった心配事はなかなか消えなくて。ここ数日間夜もよく眠れなかった大は、テイクツーでの三人の練習中にもミスを連発して雪祈から怒鳴られる始末だった。
「いつもならもっと上手く吹けるはずだろ。おまえさぁ……その調子で本気でやってるつもりなのか? あと四ヶ月で、年末にはオレたちはあのソーブルーに立つんだぞ!」
なんか最近、ちょっとおかしいぞ。厳しい態度でつかつかと大に近づいてきた雪祈の、白いこめかみに青い筋がぴくぴく立っている。顔が整っている分、彼が怒ると余計に怖い。
「そ、そんなことない……。お、オレはいつだって、本気だべ」
浮ついた心を指摘されて、カッとなった大は売り言葉に買い言葉でテイクツーのドアから勢いよく飛び出してしまった。でもちゃっかりサックスだけは持ち出してきたので偉い。
「あーぁ、やっちまったべ……。オレのバカ、バカ」
でも今更謝るためにテイクツーまでまた戻るのも癪に障ったし、それに、この原因はそもそも雪祈のヤツがハッキリしないせいでもあるのだ。大はモヤモヤしながらサックスケースのハンドルをギュッと握った。
数時間後、いつも練習場にしている運河の水際に行った大が自主練習テナーを吹き終えた頃、ケースの中に置きっぱなしにしていたスマホのメッセージ着信が点滅していたことに気づいた。……雪祈からだった。メッセージを見るのはいまはイヤだなと予感しつつ、大はアプリの画面を開いた。
そこには
『なにか不満があるなら、オレに相談してくれないか』
と書いてあった。
「そ、相談……。まさか雪祈本人にこんなことを相談なんて、で、できるわけねーべ」
橋の下でおもわず身体をのけぞらせた大は、ぐぬぬ……と呻いた。
(うーん、やっぱりモヤモヤするべ。それに、練習にも影響が出ちまうのはさすがに良くないよなぁ)
夜間のバイト先のチェーン回転寿司店で多少体を動かしても気晴らしにはならず、大の頭の中は相変わらずこじれていた。小声でブツブツ呟きながらテーブルの皿を大が片付けていると
「大くん、なんか元気なさそうだな? 顔が曇ってる様子だけど」
「板さん……。そういうの、やっぱり分かっちゃいますかね。はは……」
回転寿司店の正社員の板さんが、肩を落としながらノロノロ働くバイトの大に回転レーンの向こうから話しかけてきた。板さんの本名は板野さんなのだが、なんとなく店の全員が「板さん」と呼んでいる。江戸っ子っぽく、いつもきっぷのいい板さんは腕前の良い職人なのだが、借金を返すために深夜帯で働いている(と本人は言っていた)。髪を短く切り揃えたクルーカットで、休憩時間にはバックヤードの奥で細身の紙タバコをフーッとふかす姿がいつもサマになっている板さんは今まで色々あったらしく、人生経験も豊富そうだ。タバコに関しては『電子じゃあ、なんか吸った気にならねえんだよ。だからオレは紙派だね』とか言っていたっけ。
「実はオレ、カレs…いや、恋人的な相手とどうも上手く行ってなくて。正直、困っています」
狭いバックヤードで。休憩時間に大の悩みを聞いた板さんは、いきなり大の左腕を両腕でグイと掴み取った。
「えっ! 何ですか、急に」
「……オレが今、考えてること。わかるか?」
「い、いやぁ……。全然わからないッスね」
大は首をぶんぶん振った。
(な、なんすか突然 )
こうみえて板さんは立派な女性なので、彼女のたわわな胸の厚みが大の腕にぷにっと当たる。正直、決して悪い感触ではなかったので、大はドギマギした。
「すぐ側にいても恋人だって、やっぱり他人だから。気持ちとかそういうのは、ちゃんと言葉にしなきゃ分からないモノなんだよ。大くんも、君のパートナーに正直に伝えてみなよ」
板さんは大にそう諭した。
そういえば、前に高校のクラスメートから借りて読んだ漫画の作中でも、ピンク色の丸いタコ型宇宙人が『ちゃんとコトバにして伝えなきゃダメだッピ!』とか大事な場面のセリフで言ってたよなぁ、と大はぼんやり思い出した。板さんも、タコ型宇宙人も、オレとは違って、みんな、大人だ……。
「『自分の気持ち、口に出して正直に伝えてみなよ』か……」
バイトの帰り道。大が暗い夜空を見上げながら呟くと、空を駆ける飛行機の信号灯が瞬きするみたいにチカチカ光った。
* * *
日差しが傾いて随分暗くなったある日の夕方。数日ぶりに三軒茶屋駅の改札を抜けて、大は駅から徒歩二十分の道のりを歩いた。あのモヤモヤはまだ捨てられなかったけれど、大のなかではこの狭いアパートに足を運ぶのがもうすっかり癖になっていたのだった。
「大、何か飲むか?」
客人をもてなすために雪祈はシンクのほうに足を近づけた。
「じゃあ、コーヒーで……」
「今日はコーヒーでいいのか? 最近はチューハイばかりだったのに」
「や、やっぱりチューハイでお願いします……」
シラフでちゃんと話したいと思って一旦コーヒーを頼んだけれど、ふたりの関係の事を訊くにあたって、さすがにこんなのシラフでできるような話じゃないべ。と大は考え直したのだった。
(ええーい、もう、どうにでもなれっちゃ)
大はチューハイの入ったグラスをグイっと呷った。
軽いアルコールを入れることが、この部屋でふたりが艶(いろ)っぽい行為を始めるための暗黙の了解みたくなっていた。ベッドに腰掛ける大のすぐ隣に身体を密着させるように座った雪祈が、大の腰に手を廻して、臍のあたりをゆっくり触る。伸びてきた甘い手を止めるように、大は雪祈の手首を押さえた。
「?」
「えーと。今日は……そうじゃなくて、」
「んー。大ちゃんは、こんなふうに触られるの嫌いだったかな」
フフンとにやつきながら雪祈は触るのを止めなかった。
「そうじゃなくて。あの、あのさぁ……」
「何が? もっと違うやり方のほうがイイ、とか?」
「……オレって、おまえのただのセフレなワケ?」
思い切って、やっと心の裡を打ち明けたものの、さすがにこんなことをハッキリとは言い出せなくて、大の口もモゴモゴした。
「…………は???」
大の口から飛び出した聞き慣れない単語に、雪祈の耳がピクついた。部屋に漂う甘いムードがスッ……と音もなく消える。
「いや、だから、その。オレっておまえの、ただの、欲望を解消するための、せ、セックスフレンドってヤツなのかな。って思って……」
大の疑問の言葉を聞いて一瞬で茫然と白くなった雪祈の顔が、みるみるうちに赤く染まっていった。--阿修羅のような、激しい怒りの籠もった赤色に。
「おまえのことが好きじゃなかったら、わざわざオレが、こんな……こんなことまでするわけないだろ!」
オレのことを舐めてるのか、バカ! プライドの高い雪祈は立ち上がって、大きな声で怒鳴った。腰の横にまっすぐ拳を固めてぶるぶる怒っているけれど、雨が降る直前の大気のようにいますぐ泣き出しそうな顔をしていた。赤くなった目の縁に、熱が溜まっている。
「……悪いけど、今日はもう帰ってくれ。ちょっと頭、冷やすわ……」
よろけるように雪祈はベッドにドスンと腰を下ろして、手で顔を覆った。その表情は、大からは見えない。
このシチュエーションには大は覚えがあった。はじめて雪祈に自分のテナーの音を聴かせた時と同じだった。あの日、自分は先にテイクツーから去ってしまったけれど、後でアキコさんから『雪祈くんは、あなたのテナーの音からたくさんの努力を感じて泣いていたのよ。繊細な子なのね』とこっそり聞かされた。もちろんあの時とは立場が違うけれど、どちらも不意に雪祈の気を高ぶらせてしまったことは確かだった。プライドの高い人間にむやみに衝撃を与えるのは絶対禁物なのだ。
三軒茶屋の古いアパートの窓の外はひどい雨模様になっていた。遠くでは雷もぴかぴか光っている。しかし、もう雪祈から傘を借りるわけにはいかなくて。逃げるように部屋の外に出た大は、ずぶ濡れになりながら玉田の家に帰ることにした。
(あぁぁ、オレってほんとバカだべ……バカ、バカ、大馬鹿者だ)
雪祈にあんなに悲しい顔をさせてしまった。強い雨と後悔が、愚かな大の身体に罰を与えるかのように容赦なく叩く。
ああいうことは直接聞くことではなくて、遠回りしてそれとなく愛の有無を確かめるべきだったのだ。それに、あの沢辺雪祈がどうでもいい存在の他人に夜に身体を開いて秘密を見せ合うようなことをするはずがなかった。……彼がそういう男だということを大は知っていたのに、自分の臆病な心が彼を信じきれていなかったのだ。
口は悪くても手に余る優しさと、エベレストより高いプライドと繊細さが同居している、静かで熱い男を本心から怒らせてしまった。激しい雨に加えて、熱い雨が大の頬を濡らした。
ほうほうの体で玉田の家に帰りついた大はもう何も考えたくなくて、シャワーを浴びるとソファにドサッと倒れ込んで泥のように眠りこんだ。
謝って謝りたおして、この身体だけの関係は止めても、土下座してでもせめてこのバンド活動だけは続けさせてもらいたかった。「そんなのは都合が良すぎるだろう」とまた雪祈には怒鳴られるだろうか、それとも。バンドも何もかも、もうダメなのかもしれない。ぜんぶ自分が台無しにしてしまったのだ。―とにかく、雪祈に合わせる顔がもうない。大はどうしようもない自分の愚かさと向かい合った。
自分の気持ちが落ち着くまでしばらくテイクツーに通うのは止めて、大はいつもの運河の橋桁の下などでの自主練習に集中することにした。玉田には「雪祈とちょっと喧嘩しちまったから、しばらく顔を合わせたくない」と言い訳した。実は仲間同士のただの喧嘩ではなくて、事態はもっとややこしかったけれど。玉田に嘘をついてしまった後ろめたさもあり、大が玉田の家にいる時間もいくらか少なくなった。バイトの時間を増やして、懐はすこし豊かになったけれど大の心はちっとも満たされなかった。
* * *
その日の運河の河岸は、まだ秋だというのに耳元にヒューヒュー音が聞こえるくらいにやけに冷たい風が舞っていて、孤独にテナーを吹く大の体に強く当たった。
(はぁ……。ひとりで吹くのって、こんなに寂しいんだべな……)
ここ数日間独りきりでひたすら練習し続けている大は、灰色にふるえる寒空を見上げた。こころなしか、吐く息も白く見える気がした。
「オレがテイクツーに行かなくなって何日経ったっけ、えーっと」
改めて数えてみるとそれは両手の指の本数をすこし超えていて、予想していたよりも多い数に大はおおきなため息を吐いた。上京するまでは毎日地元の広瀬川沿いで、雨の日には汚いトンネルの中で、ひとりで練習していたって別に全然平気、へっちゃらだったはずなのに、はじめてバンドを組んだジャズ仲間の玉田の力強く成長したドラムや、雪祈の繊細で華麗なピアノと今すぐにでもこのテナーの音を合わせたいと大は強く願った。こんな沈んだ気分のままじゃ、とてもジャズにはならない。
(でも、これがバカなオレへの罰なんだろうな)
ズキン、と大の心はまたひどく傷んで、おもわず目が潤んだ。
「……なんだ。こいつはまたひどい音になってるじゃないか」
大が目を潤ませかけたちょうどその時。河川敷の低木の茂みの影から、橋の下の練習場にフラリと背の高い影が現れた。心なしか、彼の目の下には薄い隈ができていた。
「まぁ、主にオレのせいなんだろうけど」
突然現れた雪祈の姿を見て、大の瞳がぎゅっと開いた。胸の鼓動のBPMがやけに早く走ってしまって止まらない。
「えっ、雪祈……。どうしてここに来たんだべ?」
「おまえとのこと、ずっと気になってて……。ちょっとここ、座っていいか」
後ろにある、木で覆われたベンチに腰掛けた雪祈は、大に何か一曲吹いてくれないかと頼んできた。
「曲は……なんでもいいわ、任せる」
「じゃあ、」
大は、以前この橋の下で玉田に聴かせたこともあるパッヘルベルのカノンを演奏した。
(雪祈……。いったい、何考えてるんだべ?)
半ば困惑しながらも、大はカノンを演奏しきって。何も言わずに雪祈はそれを聴き終えた。
「遠くから聴こえたおまえのさっきのひどい演奏よりは、今のカノンは良くなってたよ」
「そうか? オレも、自分で言うのは何だけど、最近ではいちばんよく吹けたと思ったべ」
テナーを吹き終えた大は雪祈のすぐ隣に駆け寄ってベンチに座った。彼に褒められてとても嬉しかったし、実際に演奏もここ数日のひどいスランプの中では上手く行ったことも確かだった。
運河の向こう側では小型の船がゆっくりと行き交っていて、時々汽笛の音も聞こえる。天気もようやく回復してきて、空を映した水面は光を照り返してきらきら輝いていた。いつもの見慣れた景色だけれど、今日の大にはどこか眩しく見えた。しばらく無言だったふたりの間で、雪祈が口火を切った。
「今日はおまえに、ちゃんと謝らなきゃいけないと思ってここに来たんだ。あの時……無理やり部屋を追い出してすまなかった」
「オレのほうこそ、めちゃくちゃ言ってしまって悪かったべ。あんな……こと」
「……臆病だったんだ、オレも」
手元に落ちていた小石を雪祈は拾って河にシュッ、と投げた。静かな水際にポチャンと音が響いてすぐ消える。
「おまえとオレの……ふたりの位置をハッキリさせてしまったら、この曖昧な身体だけの関係は終わってしまうかもしれないと思ってた。本当のオレは、ひどくズルいヤツなんだ。だから、ずっと曖昧な立場のままでいたかったんだ」
そこまで言って雪祈はふぅ……とため息を付き、一瞬視線を下にずらしてから改めて大の方に向き合った。
「でもそれじゃおまえのことを傷つけてしまったし、ダメだったんだ。さっき遠くからおまえのテナーが聴こえた時は、まるで世界の終わりの音かと思ったよ」
オレのここ数日のピアノの音とタメ張れるくらいには酷かったな。と雪祈は嘆いた。
「玉田から『喧嘩したのなら素直になれ、大のやつと向き合ってちゃんと話し合ってこい』と怒られてさ。あいつ、さっさと仲直りしてこい、また前みたいに早く三人で練習したいんだ、オレたち二十歳になるまでもうそんなに時間がないんだぞ! だって」
さっきもまた玉田から電話が掛かってきたんだ。あいつ、知ってたけどなかなかしつこい性格だよな。雪祈は軽く口角を上げた。
「オレもテイクツーには行かずにしばらく家でずっと練習してたんだけど、玉田のやつ『おまえらが居ないうちにオレのドラム、アート・ブレイキーよりも上手くなっちゃったから早く聴きに来いよ!』って電話掛けてきてさ。さすがにそれはないだろうと思ったけど、せっかくだから玉田の腕を上げたドラムを確かめたいんだ」
雪祈は大のほうにゆっくり右手を伸ばして
「おまえも、よかったらこれから一緒に、テイクツーに行かないか?」
そして、
「こんなオレでよければ、恋人として付き合ってください」
と頭を下げた。
「そんなの。オレがダメ、って断ると思うのか?」
差し出された雪祈の右手をギュッと大は握って。そして、肌寒い河岸でふたりは強く抱き合った。雪祈の身体の厚みと、ムスクの薄い香りを放つ体温がとても温かい。広い背中を撫でながら、いまはこれ以外もう何もいらないと大は心の底から強く思った。
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