それは、ほんの気まぐれだった。
今日は本丸の大掃除の日で、倉庫の清掃を手伝うと言う名目を作り上げて普段大典太がいる倉庫に入ったのはいいけれど、肝心の想い人は誰かに呼ばれているのかこの倉庫にはいなかった。清掃を割り振っていた主からはここを大典太と掃除をするようにと言われているからいずれは帰ってくるだろうけれど、肩透かしを食らった気分だ。
残念気に吐いた息に水心子ははっ、と背筋を伸ばして首を振る。残念がっている場合ではない、一人でも掃除をするべきだと気を引き締めると手に持った雑巾とはたきをぎゅうと握りしめた。
「まずは、はたきだな」
水心子は脚立を探して辺りを見回した。悔しいけれど水心子の身長は刀剣男士の中では低い方である。童の姿をした短刀らを除けば前から数えた方が早いほど。己の姿は青年というより少年といっても差し支えないほどで、幼さを誤魔化すために口元を隠しても隠しきれてはいないようだった。
目当てのものが見つかって水心子はそちらに駆け寄れば、己の身長よりも高いそれに思わず圧倒された。明かりの少ない部屋の中で壁に立てかけられている高さのある脚立。刀剣男士であるので持ち上げることは容易いだろうがバランスを崩してしまうかもしれない。下の段から腕を回して持ち上げたら天井に当たってしまうだろうか。
少し逡巡してから、よし、と気合いを入れるように握り拳を作ると脚立の足を埋めている箱をどかし始めた。
しばらく片しているとやがて扉が音を立てながら開かれるのがわかった。差し込む光が人の影を真っ直ぐに倉庫の奥に伸ばしてくるので、水心子も誰が入ってきたのかをすぐに理解して箱を抱えながら振り向く。
「……あんたか」
「すまない、勝手に始めている」
「構わない、俺も手伝おう」
大典太はのそりと足を向けたので水心子の心臓が少し跳ねた。彼が近付くだけで嬉しくて緊張してしまうなんて、生娘じゃあるまいに。はしゃぐ心を水心子はぎゅっと目を伏せて首を振って持ち上げたままの箱を抱え直した。
「……と、とっ」
ついふらついて、足元にあった箱々を蹴ってしまう。
途端、がたりと大きな音がして水心子はその方へ顔を上げて。目を見開いた。
あ、これは巻き込まれる。
脚立が倒れてくる。水心子の視界いっぱいに倒れてくるそれはゆっくりと襲い掛かろうとして、頭はただその事実を認識するしかなくて。
「水心子!」
その声が、腕を掴む大きな手の温かさがやけにはっきりと感じて、やがて。身体を力強く引っ張られたと思いきや、ぎゅうと抱きしめられる。すぐ横でがしゃん、と大きく倒れる音が聞こえてきて、水心子はぱちくりと目を瞬かせた。
「……おい、大丈夫か」
「あ、ああ……」
何が起きたのか実感が湧かない。目の前に降りかかってきた現実がどこか遠くの出来事のような。
「すまない、大典太光世。助かった……」
ようやく現実を理解して水心子は今更に心臓が早鐘を打つのがわかった。大きな脚立がこの身体に倒れてきたらいくら刀剣男士といえど怪我の一つや二つはしていただろう。
ちゃんと目を合わせて謝罪をせねばと顔をあげようとすると、大典太の長い腕の水心子を抱きしめる力が強くなった。顔の側面、耳の辺りが彼の胸に押し付けられる形となってしまう。
「……怪我は」
淡々と。その声はいつもと変わらない、淡々とした声。それでも耳に聞こえてくる彼の鼓動は取り乱したように激しく脈打っていて。
「……」
緑の目を丸くして、水心子は何も言葉に出来ずに大典太を見上げてしまう。大典太は何も言葉にしない彼に対して訝しげに眉を寄せて、水心子の髪を撫でつけた。
「どこか痛むのか」
「あ、いや!怪我はしていない、本当だ!」
動かしにくい首を緩く振れば大典太は安心したように目尻を緩めて、そのまま水心子の頬を撫でる。その手に水心子も柔く笑みを浮かべた。
ああ、らしくないようで彼らしい。暖かくて優しくて、あまり表情が変わらなくともその心の臓は確かに水心子を大切にしてくれているのだと伝えてくれる。
「助けてくれてありがとう、心配をかけてすまなかった」
へにゃりと笑えば、大典太も安心できたのか、そうか、と一言呟いて腕の力を緩めた。緩んだ腕の中で体勢を整えようと大典太の膝の上で座り直そうとすれば、水心子の顎を掴まれる。
それに抵抗することなく大典太を見やればゆっくりと彼の顔が近付いてくるのが見えて、水心子はそっと目を閉じるのだった。
あとで二人で倉庫内を片付け始めるものの、夕食を食いっぱぐれかけたのはまた別の話。