大人になったら教えてあげる長い髪、バニラのコロン。紫色の瞳。ころころと変わる表情。きらきら光るように見える光。鬱陶しくてたまらない。ああ、やっぱり俺は──この男が、嫌いなのだ。

「松田くんは優秀なのになんで俺の授業だけ課題出してこないの？他の科目は出してるっぽいけど」
「あんたが鬱陶しいから」
誰もいない教室、この男と二人っきり。黒板に書かれた説明概要は、困り顔で書きかけで消された。松田は授業内容自体は理解しており、そんなものなくてもわかるからだ。
教卓の上、肘をついた男。柔らかくこちらを見る視線に心音が高鳴って胸焼けがする。顔が次第に赤まり、放課後の野球部やサッカー部の掛け声など、もう聞こえなくて、それなのに教師の息遣いはよく聞こえた。
「そんなに見んなよ」
「いや、理解してるんだなあって。課題は面倒なだけ？」
「知るかよ」
課題を出さなくなったのは萩原が担当になってからだった。理由なんて明確だ。初めて見た瞬間から、心音が止まらず。瞳を合わせられず、ときおり手は震える、視線が向けられると緊張すらする。これほどの嫌悪感は初めてで、本当にうんざりなのだ。課題を出さないのはそんな気持ちなのに出せるか、というものだった。
──本当に嫌いなら、居残りなんてしないようにすれば二人っきりにもならないよ。
ふと、同級生の優しい黒髪の男の声を思い出した。隣の席の降谷の幼馴染の、やわらかに、それでいて制した声。うるせえ、それでも俺は居残ってでも課題をやりたくないのだ。
「松田くんさ、居残りダルいなら、授業中に仕上げてもいいよ、寝てるでしょ。俺的には他の先生に怒られるから困っちまうんだけど」
「俺の素行態度が悪いのは萩センのせいだって？」
「そこまでじゃねえけど、前の物理の由美先生の話は聞いてたんでしょ？」
由美先生。産休で休んだ、明るい物理教師。おもしろい視点から行う授業は確かに聞き飽きなかった。
……といっても、萩原の授業が面白くないわけではない。物理という嫌煙される科目を顔と話術、細やかな配慮で興味を惹かせる。わからない人間にわかりやすく。解る人間には更なる物理の海へと入らせる。物理をこよなく愛していると言っても過言ではない柔らかな声。それが、松田にとっては、……何故か苦痛でたまらなかった。寝たふりをして、たまにチラチラと横目で追い、しっかりと聞いているのだからそれを萩原は知らないのだろう。
「松田くんは成績良いんだからもっと物理に興味を抱いてくれるといいのにな」
苦笑して告げられる声。じくじくと湧き上がる吐き気と不快感。
「先生って物理ほんとに好きだな」
「大好きだよ」
微笑む姿。苛ついて力が込められるシャーペンは、シャー芯が折れてしまった。課題はあと少しだというのに、筆が乗らず進まない。答えは、とっくにわかっている。此れを書いてしまえば終わるこの時間が、妙に嫌で堪らない。不快感がこみ上げ、松田は呟いた。
「俺、先生のこと嫌いだわ」
「そう？先生は松田くんのこと好きよ？」
どくんと高鳴るおかしな心臓、動悸は止まらず発作は収まらない。ああ、うんざりだ！
萩原の柔らかな表情が、松田全体をまんべんなく見つめて花のように微笑む。じりじりと熱くなる顔に松田は目を逸らす。
萩原は大切そうに、ことさら破顔した。その顔すら、松田にとっては憎らしい。
「松田くんは、先生のこと、結構好きだと思うけどな」
「あ？その理由は何なんだよ」
逸らした目も、すぐさま戻る子供らしい一面。萩原は、この少年が好きだ。自分の知らない感情を、自分の知る気持ちと言葉でしか告げられない不器用な男。それ以外は器用な男。走り書きの答えはあっていたが、萩原は字が汚いとペケをした。あと、5分だけ一緒にいたくて。
先程の問いかけの答えを聞きたいのか、松田は萩原を睨んでくるものだから苦笑零しながらそうっと彼の耳元で優しく囁いた。
「大人になったら教えてあげる」