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    リルノベリスト

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    リルノベリスト

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    良い話に終わってますが音楽外およびセカイ外での穂波は鬱です

    惑うまま、でも君と前へ追加楽曲『限りなく灰色へ』『演劇』惑うまま、でも君と前へ
    ──……この感情奪って去ってよ ドロドロになってしまう前に……!

    外からハッキリと聞こえた少年のソプラノに、テントを飛び出して見上げた穂波は呆然とした。コードを組む練習に作って、いつか使えるだろうかと放っておいた旋律が、まるで誰かの想いのように叫ばれている。まるでそれは、穂波自身の想いのように。……そのことに、ひどく、傷付いた。滅多に吹かないセカイの風が、髪を揺らして頬を撫ぜた。

    レンのあの歌声が再び脳裏によぎり、穂波ははっとして頭を振った。

    「穂波ー、なんか体調悪そうじゃない? 大丈夫?」
    「てか最近音楽に熱中しすぎだって! たまにはうちらとだべろーよ」
    「あ……」

    うん、と曖昧に笑って入学以来の仲良しなクラスメイトたちと机をくっつける。昼休み、楽譜を広げたりイヤホンを繋いだりしないのはずいぶん久しぶりな気がした。お弁当を広げれば、おかずの交換が始まる。彼女たちは穂波の作った卵焼きをいつも美味しいと言ってくれる。そういえば、お弁当に卵焼きを人より多めに入れるようになったのはこの子たちのためだったっけ。なんだか久しぶりにそれを思い出した。
    音楽の代わりに友達の声を聴きながら過ごす休み時間、不思議といつも感じている他人の声への不快感は感じなかった。彼女たちとは、もう惰性で付き合っているわけではないからだろうか。怯えることも、負い目も、臆病者の自分を受け入れてくれた彼女たちには遠慮することがもう何もない。……瑞希のようだなとふと思う。彼女も年相応のおそろしい性格なのに、怯える必要を感じない。それはきっと、あの時の言葉があったから。

    ──……わたしには黙って寧々ちゃんとみのりちゃんと仲良くなるし、……だからわたしは、瑞希ちゃんのこと女の子だと思ってたし、思ってる。
    ──ボクのことをきちんと知った上で『女の子』って名前を付けてくれた、大事な友達泣かされて、黙って見てられるわけないじゃん!!

    瑞希が事実として女の子になりたいのかどうか、穂波はまだ知らない。にも拘わらず勝手なことを言ってしまって瑞希は気にしていないだろうかと内心ずっと心配だった。けれども大切な思い出として扱ってくれているのならば、彼女のことは女の子だと思ったままでいよう、と今はそう思える。

    「そういえば穂波さー、結局うちらと音楽ばっかだけど友達できた?」
    「え……えへへ、実は全然……」
    「ちょ、無神経すぎでしょ! まったく、ごめんね穂波」
    「いいよー、やっぱり今更声かけたりできないんだよね……」
    「あー、分かる。四月とかじゃないと固定グループできちゃうもんね、私らみたいに」

    怖かったはずの「他の友達」の話題も笑って流せる。ああ、無理に罪悪感など抱かなくてもいいのかもしれない。友達が少なくてもいいじゃないか。それだけ自分の優しさとやらを使う相手がいないということだ。優しさが人を傷付けるというのなら、自分の意思で数少ない友人とだけ仲良く語らっている今で十分ではないだろうか。

    「あ、けどあれだよね。A組の可愛い子とさ、一年の方の日野森さんとかとは話してるじゃん? 良かったね」

    わ、と驚いた気持ちで、食べ物をごくりと飲み込みながら口元に手を当てた。……一年の方、なんて言われるくらい志歩が雫とともに有名になっているのだと思ったら、それはとても喜ばしいことだと思った。

    「ふふ、そうだね。うん、良かったと思う」
    「A組といえば黒髪の……星乃さん? あの怖そうな子は大丈夫? いつも不機嫌そうだけど……」
    「……うん、一歌ちゃんとだけは、ぎこちないんだ。でもわたしのせいだからね、時間をかけて仲直りしたいなって思えるくらいには前向きだよ」
    「あー、また自分のせいとか言ってるー」
    「まだまだ目が離せませんなー!」
    「あはは、ごめんって」

    その昼休みはまるでほっと一息つける曲のようだった。でもどうしてだろう、楽しさの裏に張り付いている息苦しさも消えないままだ。以前いつかサークルでみんなと一緒に聴いた時にはありきたりな感想を探すのに精一杯だった『ハロ/ハワユ』のように。
    帰ったらさっき思いついたニ長調から落ちサビでニ単調、ラスサビでホ長調に転調する展開を試してみたいな。今日はいい日だ、と思いながらなんとなく自分の後ろに夕日のようにたなびいていたのは、先ほど話の流れで出たみのりのことだった。

    「そういえば花里さんとも仲良くない? ちょっと意外だけど、あの子が友達なら意外とすぐ友達100人できるかもね」
    「あはは! こないだ先生が誰か呼ぶくらいの声量で穂波呼びに来たのはウケたよね!」

    廊下を歩み行く自分の前から、さあっと涼しい風が吹いた。……穂波は、今のみのりのことを友達だとは思っていない。
    何故かは、分からない。けれどもとにかく彼女のことを対等な立場の人間だとは思えなかった。それがもしかしたら彼女を「救われるべき人間」だと思っているからかもしれないと思うと、そう考える自分がどうにも疎ましくてたまらない。

    一人で決めて、一人でカイトに協力を仰ぎ、赴くままにステージというひとつの芸術を作り上げた彼女は、もはや救われたいだけのお子様ではない。そんな彼女を瑞希も寧々も認めているような気がする。……自分だけが、彼女を守るべき、愛すべき子供として大切にしたがっている。
    だからこそ、ショックだった。

    ──あたしだけ見て愛を伝えて!

    みのりがとっくに、自分と同じ程度には、既に一人の人間として立ち直っていたことが。猪突猛進、考えなし、直情的、……そんなものはいくらでも後から長所になり得ること。花里みのりは今、春に芽吹く若葉なのだ。一度枯れ落ちて腐った実から、再び種が双葉を出している。これからどんな成長をするのか、それは誰にも分からない。

    「……気持ち悪いな……」

    今日はいい日だ、と思ったばかりだったのに。最近、ずっとそうだった。少し良いことがあってもすぐに気分が沈んでしまう。日によってはミクの鋭い瞳を思い返し、一体彼女が何と思っているのか勝手に妄想してその凄惨さに泣いてしまう。そして凄惨なんて言葉の安っぽさたるやと嘲笑したくなるほどにベッドの中に身を沈める、あるいは音楽に心を沈める。眠りと音楽だけが救いだった。

    胸の奥に溜まる重い感覚とだるさに窓辺へよりかかり、溜息を吐いた。そういえば、前にもここで同じように溜息を吐いたことがあったっけ。その時は、憂鬱を察したえむが話しかけてくれたのである。放課後のえむはすぐさまフェニランへ飛んで行ってしまうから、今日はもう話しかけられることはないけれど。

    「日野森さん! 昨日のライブ最後まで見たよ~! めっちゃかっこよかったね!」
    「え、昨日の有料配信? そっか、ありがとう、頑張った甲斐があったよ」
    「いやいや、チケット代アイドルにしてはすごい安かったし、こっちこそ感謝だよ!」

    糸に引かれるかのように、自然と顔がそちらへと向く。名前も知らない誰かと、よく知っているつもりだった幼馴染。

    「かっこいいって言ってもらえるのは嬉しいな。何か見づらいところとかなかった? カメラ越しだとライトの強さとかも変わってるだろうけど、私たちそういうの素人だからさ」
    「え? うーん、特に眩しいとかはなかったと思うけど……あ、でも、ステージが大きいからかな、カメラ遠くて表情が見えにくかったんだよね」
    「あー、なるほど……オッケー、次回の参考にするよ、ありがとう」
    「でもトークタイムはすごい良かったよ! 隅っこの奏ちゃんに杏ちゃんが構ってるとこまでバッチリ!」
    「はは、カメラマンがアイドルマニアだから……そういうとこは分かってるんだろうね」

    鞄を背負ったそのクラスメイトが手を振って教室を出ていくそれに手を振り返し、志歩はふとこちらを見た。今気が付いたという風の何気ない視線に、ごくりと、何も飲み込めないはずなのに何か緊張めいたものを胃の中に閉じ込めた。
    日野森志歩はそんな風に気軽に話しかけてもらえるような女ではなかった。一匹狼、孤高のベーシスト。自分と同じでひとりぼっちになってしまった可哀相な女の子。……決して、決してそのまま仲間でいてほしいと願っていたわけではなかった。幸せになってほしいと思っていた。そのためなら置いていかれたって仕方がないとさえ思っていたはずだった。でも、ああ、でも、せめて変わるのなら、みのりが憧れていた可愛いアイドルにすっかり生まれ変わって、まったく知らない人になってほしかったのだ。

    「うらやましい、なぁ……」

    かつては嫌われた自分のままで、やり方を変えれば認めてもらえるだなんて。……自分は、無理矢理自分に首輪を嵌めて過ごしてきて、結局のところイジメのことは人に常に付きまとう醜さだから、今更その首輪を取ってみたところでどうしたらいいのか分からない。
    いいや、本当は分かっている。望月穂波という幼馴染の枷から解放された志歩は、そして咲希は、それぞれの仲間たちとともに輝けている。初めからそう、自分さえいなければよかったのだ。

    「穂波、今から帰るところ?」

    だからこれからは、関わらないでほしい。どうしてだろう、なんて考える必要もなかった。誰も、自分にかかわるべきではない。

    「うん、帰りに楽器屋さんで楽譜を買いに寄るつもりなんだ」
    「あ、だったら一緒に行っていい? 新しい弦を買うつもりだったんだよね」
    「え……う、うん、いいよ」

    関わってほしくはないけれど、だからといって一緒にいたくないとは思わない。二律背反の感情が混ざり合った感覚が今も消えない。みのりちゃんは、と訊くと、帰ったんじゃない、と返ってきた。そっか、と笑った自分の態度は、きちんとごく普通の女子高生の顔をしているだろうか。上手くやれていればいいのだけれど。失敗したら、今度こそ消えてなくなるより他がない。

    「えへへ、志歩ちゃんとこうやって一緒に歩くの、久しぶりだよね」
    「だね、私もレッスンとかでゆっくり帰ることも少なくなったし」
    「志歩ちゃん、すっかり人気者になっちゃったね。なんか寂しいな」
    「冗談でしょ、トップには程遠いよ」

    相変わらずだね、と自分が笑う。今、笑うタイミングとしては間違っていなかっただろうか。彼女の信念に基づく向上心を軽んじたと勘違いされていないか。

    「そっちはどう? みのりと、良い友達にはなれた?」

    ──もう、大丈夫なんだね。
    ──うん。良い友達ができたの。これからわたしも、良い友達になりたい。

    「……どうかな。なれてるといいんだけど」
    「サークルで一緒なんだっけ? でも、みのりはたまに穂波の話するよ」
    「えっ、そうなの? ていうか、みのりちゃんは志歩ちゃんと話するの?」
    「え、うん。ライブ見たとか配信聞いたとか、なんか奏のファンみたい。奏は噓吐かないアイドルだからなんだってさ。それ私に直接言えるのも良い度胸してるけどね」
    「……あはは、みのりちゃんの『嘘』っていうのも結構偏見がある気がするからね……」

    志歩は休趣味の動画も何度か見ているらしかった。コメントやSNSで「休趣」や「趣味人」などまだ点在するだけの視聴者たちがそれぞれ口々に呼ぶ略称で自分たちの話を呟いている。そのことを穂波は知っていた。エゴサして感想を眺めるのはひどく落ち着くのである。たとえそれが褒め言葉でも厳しい批評でも一律に。
    分かっている。……分かってる。今のわたしが本当にこわいのは、ただ嫌われることじゃなくて、……。

    楽器屋でJ-POPの楽譜集を買い、今までとは違う音を出せるようになりたいからとフワット・ワウンド弦を選ぶと言う志歩に弦ごとの音の違いなんてものがあるのかと感心する。編曲担当の瑞希に教えてやったら糧になるかもしれない。
    そこでふと、思う。今は歌詞、作曲、編曲、振り付け、それぞれに担当が分かれている。けれども早々に、みのりは演出・舞台美術・カメラ担当のカイトとともに演出の領分に足を踏み入れた。現実から逃げ出した先の、理想しか見えない世界に生きる彼女だからこそできることだろう。そして、名前を付けなかったBメロまでのあの音楽。

    ──……これでよかったのか? どこで間違えた?

    自分勝手に、自分だけが救われる世界の中で踊っている。それでもきっと分かっているのだ。
    彼女はきっとアイドルになる。たとえ職業にはならずとも、誰かの救いにきっとなる。……なら、自分はどうしようか。救われる側に身を置いて待つだけなんて耐えられない。


    ────────────────


    不意に寧々から内密に連絡が来たのは、とある日の昼休みだった。

    『今って時間ある? セカイで一緒にお弁当食べない?』

    もしかしたら瑞希もいるのかもしれない。もしかしたらあの関わり合いを避け気味なバーチャル・シンガーたちも、食事にはつられて親睦を深められるかもしれない。……けれど。教室の外がにわかに騒がしくなり始め、渦中の人物と目が合った瞬間、寧々の誘いを受ける選択肢は消えてしまった。

    「穂波ちゃ~ん」
    「え、雫先輩……?」
    「穂波ちゃん、よかったらお昼ご一緒しない?」
    「……はい! 志歩ちゃんじゃなくていいんですか?」
    「ええ、しぃちゃんね、最近は軽音部の子と仲良くなったんですって。ちょうど委員会のこともあるし、だったら穂波ちゃんを誘おうと思って!」

    嬉しいです。……言って、驚いた。自分の中に「嬉しい」という感情が何一つなかったから。今、仲間よりも目先の人間との平穏を選んでしまった自分の流されっぷりと、平然と笑って嘘を吐いた自分への困惑が生まれた。

    「穂波ちゃん? なんだか疲れてるみたい、大丈夫?」
    「あ、ええ、全然大丈夫ですよ。先にバイト先に返信しちゃっていいですか?」

    快い雫の返事ににこりと微笑み返し、たぷたぷとスマホの画面を軽く叩く。

    『ごめん、先に用事があって……明日でもよければ一緒に食べたいな』

    ああ、今。たった今、完全な嘘吐きになった。
    心で繋がっていると信じてくれる、自分と同じようにどこか臆病さを抱えた少女に。昔から顔を合わせてきた、誰もに愛を振り撒いてなお爽やかでいられる憧れの人に。同時に嘘を吐いてその場しのぎを完遂した。ほとんど無意識に、それができるようになってしまっていたのだ、いつの間にか。

    「……穂波ちゃん」
    「……? はい」
    「い……いえ、何でもないわ、やっぱり大丈夫」

    何かを隠され、そしておそらくは罪悪感を抱かせた。あるいは恐怖だろうか。そのことにじくじくと胸が痛む。だから、それを解消するためだけに動きたいと、願ってしまった。もうどうにでもなればいいんだ。ひたすらに、演じよう。そうすればきっと友達も増えるし、自分勝手なあの子たちの「良い友達」になれるだろう。
    大切に背負っていたランドセルの思い出は、今捨てた。ふっと、ひどく動きやすくなった。


    ────────────────


    それから妙に、雑音が減ったような気がした。雫とも平和で気の良い後輩のように笑って話し合えたし、クラスメイトにも遠慮なく大きな声で話しかけられる。おどおどしながら話しかけられるのは不信感を抱かせるから、気軽に「何ー?」と言えるような雰囲気を作る。あれほど自分を抑えることに苦しさを感じていたというのに、一度自分を出すことの難しさを知ると、こうやって生きる方がよっぽど簡単だ。……でも、それじゃあ、隅に追いやっているこのわたしはどうしよう?

    「あ、寧々ちゃん。昨日はごめんね、せっかく誘ってくれたのに」
    「ううん、ゆっくり話す機会が欲しかっただけだから。それよりこっちこそ、授業が長引いちゃって……」

    小さなお弁当箱を提げて駆けてきた頼れるリーダーは、穂波の横にある大判の本を見るとぱちくりと目を瞬かせた。

    「楽譜? やっぱり穂波も勉強してるんだね」
    「うん。有名な曲を聴きながら楽譜を見るとね、コード進行が同じものとか結構あって面白いんだ。こういう変化を付けたらこんな印象が出る、ここで進行に急転換を付けたら印象深くて思わず聴いちゃうメロディになる、とか」
    「ふふ、そっか。でもよかった、穂波が曲作りを楽しいと思ってくれてるなら」

    首を、傾ける。愛想よく笑ったまま。さらりと前髪が額を滑った。

    「みんなと一緒にできて、それが誰かの助けになるかもしれないんだもん。気合も入っちゃうよ」
    「だったら、次の曲は穂波をメインにしたいね」
    「わたし? えー、できるかなぁ、そんな大役」
    「まだまだ無名だけど、みんな名前を覚えてくれるからね、ちゃんとキャラクター性を大事にして踊りたいと思って。どう? 今度の曲は穂波の曲から始めてみない?」

    それぞれ違う制服を身に纏う二人は肩を並べてワンダーランドを練り歩き、アトラクションの足元にあるテラステーブルに腰を落ち着けた。歌詞や舞台のイメージなしに曲を作るのかぁ、と心の中でその意味を転がして、弁当を包むクロスを解いた。はらりと布がテーブルに広がる。

    ──あたしだけ見て愛を伝えて!

    ふと思い出したのはみのりとレンの重なったその音楽。メロディ自体は研究の過程で作った渾身の作品だった。そしてその歌詞も、まるで自分が作ったかのように深く心に突き刺さる。まるで、傷付けられてしまったかのように。

    「……できるかなぁ、わたしから始めるなんて」
    「もちろん向き不向きはあるし、無理強いはしないよ。だけど……穂波には、必要だと思うんだ、そういう機会」

    レンに歌われた、見透かされたあの気持ちは封印しなければ。そう思っていた矢先の寧々の言葉に、穂波は何の演技でもなく首を傾げた。
    寧々が小首を傾げる。傾けた顔からそっとこちらを見上げるその瞳は、元が湿っぽいだけに鋭く見える。怒りを隠さなくなった彼女だからこそ、彼女の瞳が怖かった。その顔の一端にでも、もしも傷付いた悲哀が見えたら、どうしよう。……大丈夫、笑っていよう。怯えていないふりをしよう。

    そうして待っていたら、寧々は申し訳なさそうに微笑んだ。……疑ってしまった。こんな慈愛を向けてくれる優しい仲間を、今、自分は怒るかもと疑った!
    もう、何が正しいのか分からない。自分は何もかもを間違えている。頭の中の思考でさえ、無意識下の感情でさえ。

    何かを言いかけた寧々の声を遮って、少年の声がその場を支配した。

    「レオ、それにパピヨン」

    ぱっと振り向く寧々の髪がなびいた。その呼び方をするのは、ネット上のハンドルネームを「コードネーム」と呼んだ彼しかいない。

    「レン」
    「レンくん、こんにちは」
    「ああ、二人揃って何を……それは、食事か?」
    「ご飯ってそんな物珍しい反応される……? 食べてみる?」
    「いや、僕には生命維持は必要ないからな、わざわざ分け与えてくれなくて大丈夫だよ」

    機械的な物言いに寧々と穂波は顔を見合わせた。どこまでもヒーローになりきろうとするセカイの存在は、主役とそれ以外という確たる線を引こうとしてしまうものらしい。

    「生命維持って……まぁ間違ってはいないけどね」
    「レンくん、この卵焼きとか、いつも友達に美味しいって言ってもらえるんだ、どうかな?」
    「え、いや、だから……」
    「『美味しい』っていうのはね、ただ栄養を取るのとは違うんだよ。幸せを繋ぐためのものなの」

    ぱち、とレンの大きな青い瞳が瞬く。少し前にリンの同じ顔を見たことがある。ここには作曲練習のためによく来るから、穂波はミク以外のバーチャル・シンガーと会う機会が他よりも少し多い。先日も持ち込んだお菓子に対してリンが同じような反応をしたのである。そんなんで生き延びられるの、と。そして興味を持ってそれを食べた彼女は、ぱっと目を見開いて驚き戸惑ってからふにゃりと笑ったのである。
    レンも穂波の言葉に興味を持ったと見え、それならばと差し出されるままに口を開けた。ぱくりと食べた瞬間、口の中に広がる甘味に驚いたように目を見開き、咀嚼する間はずっとどういう顔をしたらいいのか分からないらしく戸惑っていた。けれども悪いものではまったくないということは、その直後の気を緩めたような笑みで分かった。きっとそうなると確信に近い予感があったから、穂波は臆せず笑みを零した。その横顔を見つめるのは、目を細める寧々の視線。

    「……これは、なるほど、これが……食事というものも、守るべき民衆の幸福なんだな」
    「ふふ、大袈裟だよ」
    「レン、じゃあこっちのミートボールも食べてみる?」

    箸につままれたトマト煮を差し出され、レンは一瞬和らいだ顔を見せたものの、ハッとしてむんと胸を張った。

    「う……い、いや! ヒーローだけが施しを受けるわけにはいかないのでな、それは自分の栄養と幸せにしてくれ!」
    「ふふっ、じゃあ、今度来るときは全員分のアップルパイを持ってくるね」

    律儀なんだ、と感心するやら呆れるやら呟いて寧々はぱくりとそのままミートボールを口にした。振り切るように背を向けたレンだったが、ふと思い出したように振り向き、穂波を見た。

    「っと、そうだ。せっかく来てくれたからな、レオに話があるんだ」
    「え、わたし?」
    「……わたし、同席しない方が良い?」

    レンは少しだけ考え、穂波の顔をちらと見てから「そうしてくれると助かる」と頷いた。みのり曰く「笑ってるのはほぼ演技」らしい彼の苦笑するような顔つきを見て、何のための演技なのだろう、と穂波はぼんやり考えていた。ここには、好かれる必要のある人なんていないのに。


    ──────────────────


    「…………」

    翌々日。週末になり、穂波は朝早くに家を出て、お気に入りのアップルパイが売っている店へと向かった。寧々ちゃんと、みのりちゃんと、瑞希ちゃんと、それからレンくんとリンちゃんにカイトさん、ルカさんと……一応、ミクちゃんにも、渡せるかな。自分も入れて、全部で九つ。そう考えながら、そうっと、慎重に道を歩いていた。

    ──レオ、君はいつまで臆病者のままなんだ? 救われてくれない子は、ヒーローといえどもどうにもならないよ。

    それが一昨日レンに言われたこと。唯一の救いは、彼がそれを哀しそうに言わなかったことである。怒ったように眉を寄せていたのにはドキリとしたけれど、続いた言葉に、それは心配がうまくいかないことを不服に感じているのだと分かったから、まだトラウマよりかはマシだった。いわく、君自身の、僕が歌ってしまった曲を聴いて、君は何も感じなかったのか?

    「……レオ、かぁ……」

    ただのネット上でだけ便宜上名乗るハンドルネームだと思っていた。だからこそ、もはや感傷以上の価値はないあの流星群の思い出をその名にしたのだ。だが、ヒーローショーの主人公たろうとするレンには我らがサークルのコードネームがいたく響いてしまったらしい。そしてまた、寧々たちの感情に揺さぶられる見知らぬ誰かも。

    『レオちゃん他の子と比べて表情かたい……頑張れ!』
    『Amiaと並ぶときのレオが良い。どことは言わんが体つきが映える』
    『何人かレオ狙いの変態がいるな……』

    本当に曲が届いているかは一考の余地があるが、それはそれとして、ともかくどうも視聴者は踊っている演者本人を見ているらしいのである。希望と救いを届けるための、世界観を作るためのステージだったけれど、今の穂波には視線に晒される断頭台でしかなかった。

    それから、レンはこうとも言った。

    「それに、いつまでもこれじゃあ、ミクさんが可哀相だ……」
    「え……? どういうこと……?」
    「……いや。だが、こればかりは僕にはどうにもできない、君たちがきちんと収まるべきところへ収まるしかないのだろうな」

    ひょっとしたら、ミクにも事情があるのかもしれない。考えてみれば、みのりが怖がりも避けもせずに積極的に寄るのだから、もしかすれば本質はそう恐ろしい女の本性のようなものではないのかもしれない。……あんまり期待すると、後が怖いから「もしかすれば」。

    週末の朝ということもあっていくらかの客でにぎわっていたが、きちんと焼きたてが買える時間を把握している穂波に隙は無い。いつも通りサクサクのアップルパイが店頭に並ぶのを待ち、店員の元気な呼び声が聞こえればすぐにトレーとトングを持ってそちらへ向かう。全員分の九つ、それと今食べる用の一つ、家で冷やしておく用の五つを山積みにし、ついでに喉が渇いたからパックジュースをひとつ持ってレジへ向かった。いつもありがとうございますとの元気な声に照れ笑いを返し、大きな紙袋を持って店を出る。すぐそこを、綺麗な黒髪が通りがかった。

    「あっ、えっ……」
    「……? あ、穂波」

    一歌だった。隣に咲希も志歩も友達もいない、しかし思えば最近の彼女はずっとそうだった。遠くから見るばかりだが、昼休みに咲希と弁当を食べるのをたまに見かける以外にはいつも一人である。もしかしたら似た者同士かな、なんて考えは、見に行ったライブの凄然なまでの歌声に消し飛んだけれど。
    一歌は穂波の手に持たれたアップルパイひとつと片手に抱えたアップルパイのはみ出す紙袋を一瞥すると、は、と馬鹿にするように笑った。

    「何それ、パシリ?」
    「そ、そういうわけじゃ……ただ、今日サークルの子たちと会うから、みんなの分を……」
    「まだ誰かと友達ごっこやってるんだ? やめときなよ、何も捨てられない優柔不断なんて信用してくれる人いないんだから。どうせまたいつか裏切られて終わりだよ」

    何も、言い返せなかった。学校の友人もサークルの仲間も、セカイの冷たい子でさえも、そして愛し始めた音楽も、すべてと共存して笑って生きていこうとする自分。……それと、人への慈愛を捨ててプロバンドマンを目指す一歌と。どちらの方が正しいかなんて明白ではないか。少なくとも、穂波にはそう思える。

    「……一歌ちゃんも、食べる? 多めに買ったから」
    「ん。……はい」
    「え?」
    「何『え』って。好きでしょ穂波、だからお礼に半分返す」

    躊躇いなく割られたパイの断面がてらてらと光りながらこちらを向いている。無邪気な瞳のようなそれに逆らえず、ありがとう、と戸惑いながらも言って受け取ってしまった。

    「別に。穂波に借り作りたくないだけだし」
    「う、うん……」
    「あのさ、前にも言ったけど、私が冷たいのは穂波関係ないから。傷付くのがバカバカしいだけ、穂波もやめれば?」
    「え? や、やめるって、何を……」
    「優しいフリ」

    じゃあね、アップルパイありがと。食べながら歩み去っていく颯爽とした後ろ姿を見送りながら、穂波が出せた言葉は何もなかった。

    「……一歌ちゃんには、分かっちゃうのかなぁ……」

    自分の優しさが、今はただの付和雷同であること。……最近は家族の前でも友達の前でも緊張して意識する間も無かった味が、今日はきちんと甘く美味しいと感じた。ひどく、安心した。

    抱えた紙袋がぐしゃりと音を立てる。自分だってこうなりたくてなったわけじゃない。こんな、「友達のため」の行動が、決して気に入られるための行動ではないと言い切れないような自分になど。


    ────────────────


    「えーっ!? いいの!? ありがとー穂波!」
    「へー、あっぷるぱい?っていうの? 不思議な形してんだね。食べていい?」
    「うん。せっかく音楽の話するんだったらリラックスして話したいと思って」
    「わたしティーパック持ってきたから、お湯沸かそうお湯」
    「えー寧々ちゃん準備良い~! わたしドッグフードしかないよー」
    「いや何で?」
    「なんかポケットに入ってた!」
    「美味しー!! ルカ、食べさせたげる。ほら口開けな、あーん」
    「ありが……もご、ちょ、む、リン、雑……!」
    「哀、やめておけ。逆さ吊りのままなんだからDollishが喉を詰まらせるよ」
    「はいはァい、じゃあレンにパース」
    「まったく……すまないな、口を開けてくれるか、Dollish」
    「ふふふ……頼れるナイトで助かるわ~……」
    「ヒーローだ」
    「お湯沸いたよ、みんな紅茶大丈夫?」
    「今家からミルクと砂糖持ってきた!」
    「きゃー! 瑞希くんさすがー!!」

    盛り上がる仲間たちの一歩外でニコニコしながら、穂波は彼女たちの楽しそうなお喋りを眺めるに徹していた。口を開くと緊張してしまうし、どうしても顔色を窺ってしまうから、黙っている方がいい。みんなが楽しそうなのは自分の与えたものがキッカケだ、という事実は沈黙の劣等感を薄くしてくれる。

    (ミクちゃんの分もあるんだけど……いない、のかな……?)

    きちんと順を追って仲良くなりたいけれど、できることなら金輪際会わない方がいいような気もする。おそるおそる辺りを見回していると、みのりに呼ばれてくるくる回るコーヒーカップのひとつに座らされた。近場に大人数で座れるところがここしかなかったらしい。ゆったりと移動するそこにあのさして仲の良くなさそうなリンとレンが一緒に収まっているのはなんだか微笑ましかった。

    「でも寧々、すごいバッチリタイミングで紅茶とケトルなんて持ってきてたね?」
    「ああ、うん、こないだここで穂波とお昼にしたときレンに持ってくるって言ってたからね」
    「え? なんだ、穂波も寧々とランチデートしたことあるの?」

    きっと瑞希には何のつもりでもなかったのであろう呆気ない語調に、心臓を掴まれたかのようにドキッとした。瑞希にとって寧々が三人の中で一番最初の、一番正しい理解者であることは知っている。

    「なーんだ、ボクだけかと思ってたのにー」
    「みんな学校では会わないし、最近はあんまり外にも遊びに行ってないし……様子が見たかったから」
    「ふ……パピヨンは面倒見がいいんだ」
    「な~んでアンタが得意げなワケ?」
    「ふふ、やっぱり寧々ちゃんがリーダーだね」
    「だとしても、わたしたち『休日、趣味人同士で。』の座長はカイトさんだからね。さ、それで次の動画の話なんだけど」

    配られたあたたかい紅茶を口に含み、こくりと飲み下す。穂波はひっそりと押し殺した息を吐いた。……どうしようかと思ったのだ。寧々と二人でお昼を過ごしたことが瑞希にバレて、もしも恨まれでもしようものなら。ぐ、と唇を噛みしめる。同じカップ内に座っていたみのりがきょとんと首を傾げて「穂波ちゃん?」と不思議そうに名前を呼んだ。

    ふと、ハッとして顔を上げる。みのりの声にではない、感じた視線に。

    救う云々の前に再生数が無いと。カバーを考えてて。そんな真面目な話の渦中で、不意に穂波は勢い余るくらいに後ろを振り返った。ひとえに向かいにいたみのりの視線が不自然に上がったから。
    すぐ後ろに、目的の姿があった。向けられるいわれのない蔑みの目で、フェンスに手をかける彼女が立っている。……コーヒーカップがあんまりゆっくり回るから、近付いてきていたことに気が付かなかったのである。あからさまな侮蔑の目にも、立ち向かえるだろうか、所詮自分自身ではない偽りの笑顔なら。

    「ミクちゃん! ミクちゃんも来てくれたんだね」
    「……皆さん集まるとは珍しいのですわね」

    ひょいと軽々しく胸の高さまであるフェンスを飛び越えた彼女は、話しかけた穂波の横をすっと通り過ぎてカイトの隣に座った。空気が凍り付く。

    「それほど食事というものは楽しくて? でしたらひとついただけますこと?」
    「あ、ああ……ミク、穂波ちゃんが買ってきてくれたんだよ、ミクの分まで」

    残りひとつだったアップルパイを差し出され、カイトのそれをじっと見下ろし、ちらと穂波を一瞥だけした。

    「そうでしたか。お気遣いには感謝しますわ」

    あ、と穂波から声が漏れる。笑顔でやり過ごそうとしたこちらが、馬鹿みたいだ。それでも俯いた顔から、笑った表情はとれなかった。

    コーヒーカップを踏み砕く勢いで立ち上がったのは、瑞希の隣にいた、寧々だった。

    「ね、寧々……?」
    「……あんた、そんな態度取るために顔出したわけ……!?」

    ゆっくりと、硬い靴の踵でアトラクションの鉄を踏みしめる。逃げも隠れもしないミクは、無表情のまま静かに立ち上がった。感情と理性の錘を足首に引きずりながら、寧々は彼女の眼前に立った。

    ──穂波とみのりはどうですか。あの子たちにも救いの手を……。

    一度は、信じようと思った。だがもう知ったことじゃない。

    「どっか行って……! もうわたしたちの前に顔を出さないで!!」
    「悪いのはその子だわ。分からないのなら教えてあげましょうか」

    ふわりと彼女たちの髪が揺れる。一方は煮え滾る怒髪天のように、一方は孤独に風と遊ぶように。

    「寧々もみのりも瑞希も、お友達を心の底から信じて手を取り合おうとしているのに、その子だけがいつまでも一線を引いている。苦しくないの? あなたたち、大切なお友達に信用されていないのよ。裏切られるかもって、疑っているのよ?」
    「う、あ……や、やめて、ミクちゃ……」
    「だから何!? こっちだって自分が信用されるような人間だと思ってない!」
    「……え……」

    頭に血の昇った寧々はこちらなど一瞥もしないけれど、穂波は確かに彼女の横顔を見つめていた。鋭く吊り上がった目には瑞希もみのりも口を挟めない。それがなお穂波の不安を煽った。ミクの言ったことは、なにひとつ、なにひとつ間違ってはいない。……自分は、大切な仲間たちを、とうに裏切り続けていたのだろう。
    ビリビリと緊張がその場を張り詰めさせている。先に声をあげたのは寧々たちの味方だった。

    「ミクさん、今のは君に落ち度があると思うぞ」
    「マジないわ~、冷める~。てか途中から入ってきて何様?」

    ぴょこんとリンが跳ねて寧々の隣から改めて顔を出す。駆け付けたヒーローのように、レンの背で結ばないリボンがはためいた。

    「……つまらない言い合い、寝ちゃおうかしら」
    「ル、ルカー……一人だけ逃げるなんてボクが許さないぞー」
    「穂波ちゃん、大丈夫ー? お砂糖たっぷりの紅茶飲む? 甘くておいしいよ」
    「あ、ありがとう、みのりちゃん……」

    みのりが笑顔で差し出してきたカップを慎重な手つきで受け取り、押しつぶされそうな圧力を押し返してなんとか腕を動かし、そっと口をつける。いつも糸に引きずられてようよう体を動かしているルカはこのような感覚なのだろうか。腕がピリピリと痺れるかのようだった。
    甘味の曖昧なそれを飲み込みながら、おそるおそる、にらみ合いを続ける彼女たちの方へと目を動かす。汚辱に満ちた視線と目が合って、思わず掠れた悲鳴を漏らしてしまった。

    「そうやって、甘やかされるばかりで……変わる勇気もないくせに……!」
    「ミク!! あんたこそいい加減に……!!」

    寧々がとうとう彼女の肩を掴んだ。ミクが目を見開く。そこに見えた悲痛な叫びのようなものに、実はほんの少し怯んでしまったのだけれど、それを顔に出すよりも前に寧々の動きは止められてしまった。
    ミクの肩を掴むその手を、さも優しそうに押し返した、カイトの仕草によってである。

    「……カイトさん……?」
    「……そうだね。ミクも言い過ぎた。頭を冷やさせてこよう」
    「あッれ~? 我らが座長さんは反乱分子の味方なんですかァ?」

    わざと対立を煽ろうとするリンの言い方にも、レンは今度こそ何も言わなかった。
    カイトが寧々の手を掴んだ理由、……寧々や瑞希、穂波たちも、リンと同じ気持ちだったのである。何故寧々をたしなめるようなことをするのか。何故、ミクとともにあるような言葉を選んだのか。無論、穂波はミクを決して「反乱分子」だなどとは思っていない。けれど。

    カイトはリンの追い打ちには苦しそうに顔を歪めた。しかし寄り添うように肩に手を添えた彼女の毅然とした横顔を見下ろしたかと思うと、唇を引き結んだ。その瞬間、はらりと額から離れた前髪が顔に影を落とす。顔を上げ、彼は無感情かのような目を一番近くにいた寧々に向けた。

    「僕は、いなくなったみんなの座長だ。君たちのお目付け役になった覚えはないよ」
    「なっ……!?」
    「……はっ、そういうこと言っちゃうんだ、カイトさんって」

    冷めた紅茶をそのままに、瑞希がその場で声を上げた。

    「なんかよそよそしさ抜けない気はしてたけど? つまり何? 結局、一緒にいるボクらより、心のどっかで司先輩引きずってんだね」
    「……! それは違う、とっくに……」
    「は? じゃあ何なのさ。ていうか、一応ミクにとっては穂波も『想いの持ち主』ってやつなんじゃないの? それ平気で傷付けて逆ギレしてる奴の味方なんかしてカイトさんに何の得があるって言うんだよ」

    分からない。カイトとミクが、一体何に怒ったり傷付いたりしているのか。どうしたらいいか、分からない。
    けれども確かに分かっていたはずなのだ。寧々と瑞希は少なくとも、穂波のために怒ってくれているのだと。
    それなのに、動けなかった。ティーカップをソーサーに戻すのに精一杯で、気まぐれにルカがスイッチを押して動きを止めたアトラクションの上でただ、どこを見たらいいのかさえ分からないままじっと息を殺していた。そんな自分が情けなくて、恥ずかしくて、穂波は初めて明確に「完璧」を望んだ。もしも今、完璧に演技のできる、そう、いつかステージで見た朝比奈まふゆのような生粋の演者であったなら、きっと今こんな争いを生まずに済んだのに。

    「……──だって」
    「は? 何? 聞こえないんだけど」

    なにかぼそりと口にしたミクは、寧々の刺々しい声を向けられ、ぎゅうと胸元を握り締めた。

    「……ボクだって」

    その場にいる人間がみな目を見開く。それは確かにミクの言葉だったのである。

    「ボクだって、痛いのよ……! どうしてこんな想いばかりしなくてはならないの? ボクはあなたたちの信じあう心に呼ばれたの。信じきれていないあなたたちの前にいると、ひどく苦しくなる……」
    「……じゃあ、本当に、わたしのせい……」
    「……もう、いいわ。ごめんあそばせ、顔など出して」

    クロスを翻し、ミクはカツカツと赤いブーツの底を鳴らしながらその場を立ち去った。カイトも、迷うことなく。寸前に向けられた鋭い男の目つきが、果たして本当に睨んでいたのか、穂波には分からなかった。こころなしか、それは助けを求めて縋る瞳だったような気もしたのである。

    「は……はぁ? 何だよ……ミクも、自分を出せなくて苦しかったってこと……?」

    ミクも、と言ったその言葉に寧々は押し黙った。瑞希のかつて自分を秘めていた態度、どうでもいい常識を気にされるのが嫌で行かなくなった学校、ふらふら気ままに生きるようになった日常。……確かに、自分たちのミクだったのだろう。

    「ま、だからって許せる理由にはならないけどさ……」
    「……カイトさん、助けてーって言ってたね」
    「え?」
    「ずっと『やめて』『助けて』って言ってたみたいだったよ?」

    みのりが大切に食べていたアップルパイの最後のひとかけらを口に放り込んだ。寧々と瑞希が顔を見合わせる。元より、カイトのことは信頼していた。瑞希にとっても寧々にとっても、ステージで歌うという夢を見せてくれた人だから。売り言葉に買い言葉で引きずってるのかなんて言ってしまったけれど、忘れろなんて言うつもりはない。……ミクが穂波たちのことで胸を痛めるたびに、カイトも自分の想いの持ち主のことで胸を痛めた記憶が蘇るのではないだろうか。瑞希は唇を噛んだ。ああ、酷なことを言った。

    レンのリボンをリンが引く。後ろへ引かれてバランスを崩しかけた彼は一瞥とともに睨んだが、リンの不服そうな、真剣のように鋭い光を宿した瞳を見て程なくして頷いた。
    正直なところ、レンは彼女のことが最初嫌いだった。寧々の奥底から目覚めた想いを宿したヒーローにとって、たった一人、唯一無二の主人公でいられない「片割れ」という存在は邪魔で仕方がない。その上同じタイミングでセカイに呼ばれてしまったというのだから敵わない。だからわざわざ彼女たちの前に現れるタイミングをずらしたのである。だが、少しスッとした。同じことで怒れるのならそれは仲間だ。

    「レオ、気に病む必要などないよ。身勝手だと言うのならお互い様だ。春も、よくあれらの本音に気が付いたな」
    「よ~しよし、こわい思いしたねェ、みのりちゃん、穂波ちゃん。ガラじゃァないけどパァッとショーでもしようか?」
    「だ……大丈夫、大丈夫だよ……」
    「Amia、そちらも大丈夫か? あまり引きずらず……」

    カンッ。
    どこかから、まるでスピーカーを通したかのような高らかに響いたその一音。一瞬にしてその場が鎮まった。青ざめたままだった穂波は神経過敏なまま肩を強張らせる。ほんの少し、どこか、ミクの足音と似ていたから。だが違う。ミクはこんな自分の存在を誇示するかのようにヒールを鳴らしはしない。

    「あら!」

    そして足音よりも高らかに響いた声は、喉を開いてしっかりと発声される深みのある声だった。

    「どうやらなんだか良くない雰囲気が漂っているわ~~~♪」
    「え、な、何、歌……?」
    「だけど、そんなときこそ~、笑顔で歌声を伝える~~~それがわ・た・し・の~……!」
    「……この声って」
    「美学!! なのだから~~~……♪」
    「あら、あそこだわ。こっちに来ている、楽しそうね」

    アカペラのままでもミュージカルのオーケストラが聞こえてきそうな楽しそうな、かつ揺らぎのない歌声である。宙吊りの視界でいちはやくそれを見つけたルカの声と伸ばした腕の先へ視線を向け、穂波はその鮮やかさに目を瞠った。どんなカラフルな色の中でもひときわ目立つ、原色の赤だった。

    「あ、メイコ。来たんだ」

    リンの言葉と同じタイミングで、踊る彼女が瞼を上げる。脚を動かし、腰を捻るたびに彼女の真っ赤なスリットスカートがはらりと舞い踊っていた。電柱に手をかけ、くるりと回ってこちらへ手を振った。

    「みんな、お揃いね~~~!! 満を持してのMEIKOの出番、待っていてくれたかしら~~~~?」
    「マドモアゼル、今はそういう空気ではないから早く来てくれないか」
    「え? 何? 聞こえないわ!」
    「早く来いと言ったんだ!!」
    「まぁ、せっかち!」

    叫ぶように呆れたと思えば、彼女は赤いスカートを翻し、惜しげもなく晒した細く白い脚でハイヒールを高らかにカツカツと自慢げに鳴らしながら歩んできた。その脚に絡みつく金装飾の薔薇の花が、また一段と鮮やかである。
    コーヒーカップのフェンスを越えるだけの一呼吸でさえ見事な片手宙返りを決める彼女に、レンは腕を組んだまま苛立ちを鎮めるように眉間にしわを寄せて目を瞑った。すたっとその場に立ったメイコは全員の顔をぐるりと見回し、満足げな笑みをその顔に湛えた。奇抜な登場とあまりにも堂々とした態度に呆気に取られる瑞希たちにも構わず、彼女は再び大きく息を吸った。

    「♪私は~~~メイーコーというわ~~~、あたらしいなかーま~に、加えてもらえるかしら~~~? リーダーはどなた?」
    「……あっ、えっ、多分、わたし……?」
    「まぁ! 緑のカワイイおんなの子~~~……♪ お~し~え~て~、あなたのお名前はー?」
    「え、えっと……これ、多分フラット付いてる……? く、くさなーぎ~~、のー、寧々よ~~~♪」
    「きゃ~☆ お歌の~~寧々ちゃんね~~~」
    「……リズム取れなくて変な『の』入れちゃった……何、いつの時代の人? 恥ずかしい……消えたい……」
    「だ、大丈夫だよ寧々ちゃん、全然自然に聞こえたよ……!」
    「即興で合わせられるなんて寧々ちゃんすごーい! ミュージカルの人同士でピッタリだね!」
    「メイコ! 気は取り直して自己紹介するよ! ボクは暁山瑞希、こっちがみのりと穂波ね!」

    パァッと明るい笑顔が振り向く。ああ、やはり、無邪気な人は安心する。そんな自分が穂波はやはり疎ましくもあり、そんな彼女が愛おしくもあった。

    「こ、こんにちは……メイコさん」
    「こんにちわっ! ネットアイドルの卵、花里みのりですっ! 特技はダンス、それと愛嬌!」
    「愛嬌って特技……?」
    「素敵! なら、私の歌についてこられるかしら? そうね例えばセカイの理や~、あなたがこの場で歌える理由~……さぁ、教えて! その、曇りなき、うた~~~ご~えで~~~♪」

    メイコはみのりの手を引いてコーヒーカップの外へと出ていく。自由なそのはしゃぎっぷりにレンの苛立ちがまた募る。その様子を後ろで悠々見ていたリンとルカは一緒になって呆れた顔をした。
    お互いに手を取り合ってフェンスを出た、そのはずが、……みのりは早速足を止め、メイコに置いていかれてしまった。彼女はなおもステップを踏み、大きな布を振り回すかのように優雅に踊り続けていた。

    「あ、あれ? えーとえーっと……歌う、理由は、あ、アイドルになりたいからなんだけど……」
    「大丈夫、リズムに乗って……」
    「……チッ! メイコ、いい加減にしないか!!」
    「……あら、怒られちゃった」

    驚くほどの舌打ちをした彼はツカツカとメイコの側へ寄り、たしなめるように彼女を見上げた。メイコはどうどうと両手を見せてそれを宥め返す。

    「今、そんな空気ではないと先ほど言ったばかりだろう! こちらはレオのことで手一杯なんだ!」
    「? レオ?」
    「あ、その、わたしです……ご、ごめんね、レンくん。またわたしのことで怒らせちゃって……」

    怒りの表れたる龍の瞳がキッと穂波を睨みつける。体の発育に置いていかれたままのいたいけな心がきゅっと竦み上がる。

    「違う!! 君のことで怒っているのではない、君のために怒っているんだ!」
    「……え。あ、うん、ありがとう……」
    「おーこーられた──~~……そ~んなあなたにこそ、思いきり歌ってほし~い~……♪」
    「はぁ……本当にバカバカしい、何故こんな奴がこのセカイのメイコなんだ……」
    「つーかさァ、めーちゃんそれ何のために歌ってんの?」
    「……? 何のためって?」
    「演技ってのはさ、アタシは子供怖がらせないためにやるんだよ。観客がいること前提でしょ。さっきからすごい楽しそうで何よりだけど、メイコ誰楽しませたくてやってんのか分かんない」

    メイコはぱちくりと丸い目を瞬かせ、改めて全員の顔を見渡した。なんとなく納得したように緩く腕を組み、唇に指を添えた。アイドルに、ショーキャストに、ピエロ、ヒーロー。なんとなく分かるそれらを口元でつぶやくと、ほんの少し寂しそうな笑顔をしてみのりに向き直った。

    「あなたが歌えなかったのは、音楽に慣れていないからか、上手な嘘が吐けないから」
    「え?」

    みのりはあどけない表情ばかりだった顔に緊張を走らせた。どうして、見抜かれたのだろう。アイドルになりたいのは今やほとんど嘘なのだと。今はただ、みんなと笑顔で一緒にいたいだけだと。夢があるフリをしていたいだけ。

    メイコはそれだけ言うと、再び穏やかにリンへと目を向けた。まるで我が子でも見つめるかのような視線にリンは居心地悪そうにふいと視線を逸らす。……レンはふっと組んでいた腕を解いた。なんとなく、一足先にメイコの答えが聞こえたような気がした。

    「答えはもう出ているでしょう? 私が楽しい! 私は私を楽しませている!」

    怒りばかりの宿る瞳を瞼の下へ伏せ、生まれ変わったような気持ちで目の前の景色を視界に映す。そうだったな。演技は、なりたい自分になるために、自分のためにするものだ。だから自分はここへ来たばかりの頃、みのりの前で苛立ちや不快感を隠して笑顔でいてみせたのではないか。観客などいなくても、目の前のたった一人のために。誰もいなくても、ここにいるたった一人のために。

    「……そう、だよね。歌は、好きで歌ってるんだもんね」
    「……! ええ! やっぱり寧々ちゃんとは気が合いそうだわ!」
    「じゃあ寧々、今のメイコの『上手な嘘が吐けなくて歌えない』っていうのは?」
    「……うーん……」

    首を捻る寧々の傍からそっとレンが離れ、穂波の座るコーヒーカップの入り口で傅いた。差し出される手のひらにきょとりと穂波が目を丸くする。やっぱりナイトじゃない、とルカが面白そうに呟いてふらりと揺れた。青緑の目、そこにある憤怒以外の真剣さに強張りは緩み、穂波はその手にそうっと自分の手を重ねてみた。
    レンはにこりと微笑み、その手を引いてメイコのところへと連れて行った。あら、と嬉しそうなメイコの微笑が穂波をほっとあたためる。そしてレンが口にしたのは、先の瑞希の疑問への答え。

    「簡単だ。音楽とは、自己表現なのだから」
    「? 不思議~~~♪ 敵が~突然~味方になぁる~~~そんなこともある~~~♪」
    「ゆえに、歌えるのは誰かの『本当の自分』、欠片でも確かにあるような想いだけ」
    「correct! 偽りの自分を魅せたいなら、必要よ、研究、訓練、それから覚悟……♪」

    レンは、穂波を押し出すように手を放した。代わりに穂波の両手を包みこんだのは、数多の現実に触れてきていそうな大人の手。
    背後からレンが問う。歌う覚悟はあるか、レオ。……ああ、その名前。思い出は捨てて未来へ進む幼馴染たちの代わりに、一心に背負うと決めた自分の名前。誰かを支えることができたのなら、誰かを救うことができたのなら、ようやく自分はその名に誇れる自分になれると思っていた。
    まだ、その段階に自分はいない。本心どころか物を言っていい人間でさえないと思っている。ただ期待されたことをこなせるようになり、人形のように美しく立っていられるようになれればそれでいい。そのための努力。

    何より、……何よりも。

    「……怯えているのね、可哀相」
    「あ……す、すみません、わたし……」
    「♪──……世界は誰かの理不尽と、誰かの我侭でできている」

    静かな歌声に、知らず下がっていた顔を上げる。皆驚いていた。つい今しがたまでの彼女とはまるで違う、細々とした歌声である。思わず、つながれた手をきゅっと握り返す。「押し付けられた酷い役も みんな必死で演じている」……弱い、けれどもじりじりと焼けるような熱さを持ったその歌声に、各々が衣装に触れた。ルカは腕を縛るその糸を。レンは攻撃性そのものである腿の短剣を。リンは、改めて何に触れたわけでもないけれど、やる気なく後頭部で組んでいた手を人知れず握りしめた。もしかして、メイコも。
    しかし誰もの予想に反して、メイコは途端に明るく声を上げた。同時に、ぐんと穂波の腕が引かれる。彼女の勝手なダンスに巻き込まれる。

    「けど、『まだ』『どうせ』『なのに』、でも、『ただ』『もしも』『だって』、それもショー~~~~~♪ すーべーて、わたしの~~~あーなたの~慈しめる気持・ち・な・の! でしょ?」
    「う……歌っても、いいんですか、わたしでも……?」
    「よくなくたって歌うのよ! 語れると思ったときが語り時!」

    弱気でも、後ろ向きでも、そんな言葉でも吐いていいのだろうか。自分は、それを語れるだろうか、ここで。そろりと視線を横へと向ける。真剣なレンの顔つきと、それから、……ふと、みのりと目が合った。いつでも何かにワクワクしたりいじけたり、ころころ変わる表情は、今もワクワクと期待に満ちている。その顔に、嗚呼、見覚えがあったのだ。一緒に歌詞を付けたあの時の。

    ──ボクと友達になろう、穂波。思ったことを言い合える友達だ。
    ──だから何!? こっちだって自分が信用されるような人間だと思ってない!

    ……そう。そうだった。お互い、同じだったもんね。わたしが勝手に、みんな遠くに行っちゃうんだって思い込んでただけだったんだ。
    何も変わらないかもしれない。現実に帰ればきっと自分は誰もの顔色を窺って何も言えなくなる。それでも、このセカイでなら自分の何をも許してくれるみんながいる! 穂波の脚が動く。爪先が地面を擦った。息を吸う。直感で察したみのりがスマホの音楽プレイヤーアプリを起動させた。レンがはっと息を止め、そうか、と笑う。

    「才能なんてないから ここでずっと泣いているんだろう……」

    その先が分からない。レンが歌ってくれたその気持ち、力強いサビはよくよく覚えているというのに。無情にも流れ続ける音楽に取り残され、穂波はどぎまぎする心臓に負けて動けなくなりかけた。だが、その手を取ってくれる者がいる。駆け寄ってきてくれた寧々が、リンと頷き合い、曲調に合わせた歌詞のないコーラスを重ねる。編曲されていない音楽にリボンがかかった。しゅるりと糸を引っ込めたルカが地面に墜落し、かと思えばメイコの肩をパンと叩いて踊りに誘う。瑞希はレンと肩を並べて見守っていた。彼女たちの信頼と安堵に胸を打たれているうちに、知っているサビを迎えていた。思いきりの呼吸と声と気持ちは、みのりと綺麗に重なった。

    「♪──くすんでしまったの灰色に こんな才能なんて借り物!」

    その通りだよ。わたし、「レオ」への褒め言葉を見ても、結局寧々ちゃんたちがいなきゃ曲ひとつも作れないんだからって卑屈になってるんだ。それでもみんなの喜ぶ顔が嬉しくって、必死でみんなのためのお人形さんを演じてた。笑うときすら周りを気にする癖はいつからだったっけ。でも、でもね、もし叶うなら。

    「あたしだけ見て愛を伝えて!」

    こんな喪失感なんて埋めてしまえるように、一人で全部できたらいいと思っている。メロディだけでなくキラキラした編曲もこなして、表現したいものを表現した歌詞を付けて。ああ、才能もないくせになんて傲慢。それでも語るぐらいは許してほしい。ねえ、だって、許してくれるでしょう? 無意識にルカたちに合わせて小気味良いステップを踏んでいた足とともに、ふわりと動かしていた手が仲間たちをいざなうように指す。恐れていたものはここにはなかった。期待していた笑顔がある。ああ、ここはワンダーランドだった!

    「……わたし、ミクちゃんに謝ってくる。今なら向き合えると思うんだ」

    みな任せて送り出してくれた。瑞希だけは不安だから見張りに行くと一緒に来てくれた。本当は少し不安だったから、助かった。


    ────────────────


    「ミクちゃん」
    「……穂波」

    彼女がいたのはコーヒーカップからは見えない、いつものメリーゴーランドだった。彼女らの身体能力でも駆使せねば登れないそこを見上げ、穂波は真剣な目を向けた。ミクが動揺したように肩を揺らし、その柵の上に立つ。爪先で細い足場に立ち、片手を天井について支える、思えば彼女はいつも四人揃った際そうやって遠くからでも見える高いところから見守ってくれていた。

    「……先ほどの歌、聞こえましたわ。けれど謝りませんことよ、ボクはボクの矜持を通しただけですもの」
    「うん、いいよ。わたしはあなたの冷たさを許すよ。だからミクちゃんにも、わたしの間違いを許してほしいの」

    瑞希が驚きの目を向ける。まさか謝る前に許し合うなど、そんなことが可能だったのかという驚きである。何より、穂波が自分を「相手を許す立場」に置いたこと。そこにどれだけの勇気を使ったことだろう。彼女の張りつめるような表情を、隣でじっと見つめた。それほどにまで、重くミクに向き合っているのである。瑞希はふっと彼女の方へと視線を投げた。自分と同じ一人称を使う彼女を。

    「間違い……」
    「え? 何ー?」
    「ていうか降りてきなよ! いつまで上から見下ろしてるつもり?」
    「……受け止めて、くださいますか。穂波」
    「えっ……」

    メリーゴーランドの高さを改めて見る。悠に十メートルはあるであろうその距離から、人一人分、支えられるだろうか。……瑞希ちゃん、と声をかける。いけるかなぁ、と彼女は軽く笑ってミクに手を振り身構えた。……一緒に受け止める体勢に入る二人を見下ろして、初めてミクは心の底から笑顔になった。

    「ふふ、冗談ですわ、さすがにね」

    言うが早いか、ミクはその場を飛び降りた。

    「ネネロボ」

    あっ、と瑞希が声を上げた。どこからか素早く飛んできたネネロボがミクを受け止め、その背に乗せたままゆっくりと下降してくる。行き場をなくした手をうろつかせる穂波の目の前で、トンと打った爪先はそのまま体を穂波へと飛び込ませた。

    「わわっ……! ミ、ミクちゃん……?」
    「感謝いたしますわ……ありがとう、穂波。ようやくボクを救ってくれた」

    見開いた目は、たやすく慈愛に染まって笑んだ。……瑞希も、その言葉を聞いてようやく彼女を許す気になった。救われたと思ってくれるのなら嬉しい。趣味人同士の性なのだ。カイトはまた、一人で聞き覚えのないあの歌を歌っているのだろうか。思案に浸る瑞希の横で、穂波はそっと、ミクの肩を抱き返した。


    追加楽曲『限りなく灰色へ』  望月穂波・草薙寧々・花里みのり・鏡音レン・暁山瑞希
    『演劇』  望月穂波・MEIKO・暁山瑞希・草薙寧々・花里みのり
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