25時、ナイトコードで。
オリ曲の歌声良いしミク曲カバーしてほしい、という要求がちらほら賛同を得始めたのはそのコメントが来てそう時間が経ってからではなかった。
「んー……カバーねぇ?」
なるほど、「絶賛大ブレイク中」の看板を数年以上掲げ続けているバーチャル・シンガーたちの曲の歌ってみた動画なら、見知らぬグループのオリジナル曲よりも食指の動く者は多いだろう。ただ、やみくもにインプレッション数だけを気にして動くのは避けたい。寧々の提案だが、視聴者の心に残るため、キャラクター性は大切にしたいのである。既に他者からのイメージが固まっている既存曲であるならば、それなりにMVに気を遣わねば。……できることなら、この手でイラストを動かしたいものだ。かつて大好きだったアニメのMADを作っていたように。
何かアイディアが欲しかった。ついでにそろそろ出席しておかないと期末に一気に授業を受けないと間に合わなくなるから。学校に行く理由なんてそれくらい。寧々がいる、杏がいる、司先輩と類がいる、それらはすべて行かない選択肢を潰す理由である。
「……てかそもそもさぁ、次どうする? うちの演出家どっか行っちゃったんですけどー」
「うん……探し出して謝りたいけど、何から謝ったらいいか……」
「……しょーじき、信用失った気がするよ」
珍しく朝から顔を出した瑞希は夜更かしの疲れも相まってぐでぐでしていた。うん、と頷きながらぐでぐでしている瑞希の髪をくるくる指で弄ぶ寧々は、もはやクラスメイトの視線に怯えなかった。遠巻きにする方が悪いのだ。こちらに落ち度はない。
「まぁ、最近ちょっと、始動したばっかで詰め込み過ぎてたし……この辺で一回、前みたいにゆっくり過ごしながら考えない?」
「んー、そうだねえ」
アップルパイはみんなで食べたから、今度は瑞希お気に入りの最高にカワイイアフタヌーンティーを用意しようか。それと寧々の好きなシューティングゲームなんかをセカイに持ち込んで、みんなでやろう。きっとカイトは、それが聞こえないような遠くにいるままなのだろう。
ん、と瑞希が突っ伏していた寧々の机から体を起こす。教室の横を見覚えのある頭が通りがかったから。そういえば自分は、まだ作曲の師匠にこの親友を紹介していない。ピンと悪戯心に舌を出し、寧々を連れて彼の後ろへそうっと忍び寄った。そのまま、膝カックンでおどかしてやるつもりだった。忍び寄った真後ろで、彼の鼻歌が聞こえるまでは。
「……フフフーンフフーン、知恵の輪ほどきたーいよー」
「えっ……」
「あ? うわっ!? 近っ、何だよ……!」
「あ、彰人くん、何でその歌知ってんの!?」
「はあ……?」
ぱち、とその歌は聞こえなかった寧々が瞬きを繰り返す。ガッと一気に迫られてのけぞった彰人も怪訝に眉をひそめてやたら近い顔をまじまじ見つめ返す。今日もピンと調子のいいピンク色の睫毛よりも目を惹くのはまんまるになったその瞳。子供がクレヨンで描くポップな星のようなピンク色。学校で会うのは珍しいが、今日も調子は良さそうだ。彰人はその顔をぐいと押しのけ、何言ってんだお前、と呆れた目を向けた。
「今のって『セカイはまだー始まってすらいなーいぜー』ってやつだろ?」
「……え、それ……」
「ね! やっぱり……」
カイトさんがたまに歌ってるやつ、という言葉はすんでのところで飲み込んだが、ともかく彰人に驚き混じりの興味津々な目を向ける。弟子、というより彰人からすれば同じく作曲を勉強する友人のつもりではあるが、ともかくその瑞希と今初めて見た女子の視線を受け、彰人は何を当たり前のことをと口を開いた。
「うちの司と類の曲なんだから、嫌でも覚えるだろ」
「は……え、あっ、そー……いう、やつねー……」
「どういうやつ?」
「どういうやつだよ」
被ったツッコミに彰人と寧々は思わず顔を見合わせ、バチリと合った視線を気まずく思ってお互い反対へと目を逸らした。そろそろ名前くらい紹介してくれないだろうかとそれぞれが思う。暗に伝えようと寧々の小さな手が瑞希のカーディガンに伸びるも、再び彰人に迫ったそれは遠ざかり、細い指はあえなく空を切った。
「それ!! どこで聴ける!? CDとかある!?」
「あるよ、売ってる。近い、離れろ」
「それ、うちでカバー動画上げてもいい!? 非営利なんだけどどうかな!?」
寧々がぱっと目を丸くする。行き場のない手を仕方なく後ろで組み、思案とともに握ったり緩めたりを繰り返した。……大切な曲を、大切に歌ったら、カイトにもその想いが伝わるだろうか。あなたと同じものを愛したからここにいるんだよ、と。それとも彼の愛するものを横取りしたと恨まれやしないだろうか。それにしても、やはり人を救うことや注目されること以前に、やはり瑞希は音楽が好きなのだな。
寧々の懸念も当然知らず、彰人は瑞希の謎の熱意に圧され、うっかり真剣に考えてしまった。独自のガイドラインのようなものはないが、そこは類に相談すればいい。彰人に是非を断ずる理由はなかった。
「あー……じゃあ、とりあえず今日ウチに来るか? どうせ今日『勉強会』の予定だったしな」
「……!! ありがとう、彰人くん! やっぱり持つべきものは頼れる師匠だよー!」
「あーハイハイハイ」
抱きつかれる衝撃をぐるりと回って受け止めきり、再び目の合った寧々に彼はにこりと人の好い笑みを向けた。びくっと踏まれかけたネコのように寧々は背筋を伸ばした。
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「いやーしっかし、悪いね家にまで上げてもらっちゃって!」
他人様の家になど上がったことがないため、せめてもの分かる礼儀は通そうとキッチリ靴を揃えて置く瑞希を待ち、彰人は脇に抱えたブレザーと一緒に今着ていたパーカーも抱えた。それから自室へ案内がてら階段を登る。せっかく人の家にお邪魔し、しかも大好きな音楽の勉強会をするというのだから、と五時間目をサボって家で着替えてきた瑞希は私服だった。
「まあ、どうせお互い作った曲聴く予定はあったんだし、家のが集中できていいだろ。あとお前に物貸すとなくなるかもしれねえからな」
「前のペンダントはホンットゴメンって!! よく考えず服に縫い付けちゃってるとはボクもビックリ! お詫びに好きなの三つ買ってあげたんだし許してよー」
「いや別にそこまで根に持ってるわけでもねえけどよ……って、げっ……」
もうあと一歩で自分の部屋のドアノブを捻れる、という絶妙な距離で、隣の部屋のドアが開いた。無視するにも少し距離の開いた距離で、一人なら構わず部屋に入るものを今は騒がしい客を連れているものだから、げ、と漏らさずにはいられなかったのである。よくよく見知った制服姿に、お、と瑞希が彼の後ろから顔を出す。
「何? 家ですれ違うだけで『げ』って……えっ、あれっ?」
「あーっ! 彰人くんのお姉さん! お久しぶりですー!」
「瑞希ちゃんじゃない! え、嘘、彰人と知り合いだとは言ってたけど……!」
「あ? マジかよ、お前ら知り合いなのかよ……」
「何よその反応。まぁ、顔見知りっていうか、一応ね、一応」
「えーやだなぁお姉さん。これでもバンドマンとファンの間柄じゃないですかー」
「そりゃ知り合いでも何でもねえだろ……」
「ていうか、ファン自称してるのにいつまで私の扱い『お姉さん』なのよ。まいいわ、遅刻しちゃうから、私行くわね」
「おー」
「あーなるほど、今から学校なんですね。頑張ってくださーい!」
はいはい、と呆れたようでありながらも彼女は笑顔を返してくれた。満面の笑みを浮かべる瑞希をさっさと部屋に入れ、彰人はしかしきちんと感心してもいた。このお調子者は、ぐいぐい来る割にどうもきちんと相手に合わせた距離が保てるのだ。適度にからかい、適度に慰め、適度に本音らしいことを零してみたりする。あの他人嫌いな節のある姉が作り笑いをしないのだから、人に取り入る才能があるのだろう。あるいは、……あの噂のせいだろうか。ああやって人にコソコソされるから、せめて人から適度な距離を取ってもらえるようにと。
が、それは彰人にとってはどうでもいいことである。噂の真偽を確かめる気はないし、男だ女だと確定したところで瑞希の態度が変わることもなかろう。
脱いだシャツをベッドに放り、例の曲はラックに入ってる、と部屋着を漁りながら背後に向かって言う。りょーかい、と言ったかと思えば、瑞希はそのラックの中身をしげしげと眺めだした。
「ねー彰人くん、部屋漁っていい?」
「いいわけねーだろ」
「ざーんねーん……じゃあベッド下だけにしとくよー」
「何が『だけ』なんだよ!?」
「男の子の部屋来てベッド下は様式美でしょ! まぁボクの部屋は? 漁ったところでカワイイものしかないけど?」
オレだって何もねえ、と言おうとし、彰人はアッと声を上げて口を噤んだ。見られて困るものではないが、少しだけ後ろめたいものならばある。それは、今しがた顔を合わせたばかりの、姉の。
「……? 何これ、綺麗な絵だね。お、結構ある」
一枚はキャンバスのまま。そのほかは持ち込むのもかさばるから画布だけにして重ねておいてあった。埃被ってしまったそれを、彰人も久々に見た。
乾ききった絵の具がさらりとした匂いとなって鼻腔をくすぐる。水の中に立っている女の子を描いた一枚を広げ、瑞希は食い入るようにその少女の影を見つめた。絵画ではあまり見ない、真っ黒な陰影。それが失敗なのかわざとなのか、絵の知識がない瑞希には分からない。けれどもともかく、何にも染まらぬ色が水に揺らいでいるその表現が、何故かいたく胸を打った。
「あー……それは、アレだ……絵名の、せっかく描いたのに捨てたやつ」
「お姉さんの? お姉さん、絵描けるんだね」
「まぁな。すぐ捨てちまうんだけどよ」
「えーっ、もったいな!」
絵名の、それは間違いなく彼女の芸術だった。……冗談めかして言っているけれど、東雲絵名のファンなのは本当だ。自分のその言葉が少々広く浅い自覚があるだけに真剣に言えないのだが、あのバンドは一見ボーカルの歌が目立つものの絵名のドラムが良い。ただでさえ一打一打が丁寧なうえに、盛り上がるところでこれでもかというほど盛り上がる。おそらくあのバンドの中で、楽器という相棒と一心同体に楽しく踊っているという意味では彼女が一番だ。瑞希はそう思う。なんとなく、そう感じていた理由が分かった気がした。
「……力強い絵を描くんだね」
「だろ? それ言ってやったら喜ぶぜ」
「言ったら彰人くんが捨てたの拾い集めてるってバレるけど」
「げっ、それは勘弁だな……」
ぱちりと星が舞った。だろ、と言ったときの彰人の純朴な笑顔になんだか嬉しくなったのである。猫を被って距離を保つか辛辣に振る舞い距離を保つかばかりだけれど、きちんと彰人からも誰かに好意を表すことがあったのだ。なんとなく、よかった、と思った。師匠だとは言うけれど、つまりは友達なのだから。
その友達から借りて、いざ運命の曲を、と手に取ったCDをセットしながら、瑞希はパッケージの曲名を見た。
「どれ?」
「あー……これだ、3番」
「……『End World』ね、意外とカッコイイ系?」
「歌詞と歌以外はこっち担当だからな」
こっち、というのが何のことなのか、……再生してすぐに分かった。これは彰人の曲だ。分からない、他にも数人のアイディアが混じっているかもしれない。だが、確かに。
「……イメージと違う……」
確かにこれは、司と類のそれではないと思った。
バイオリンとピアノ、リズム隊はドラムのみ、少々のギターだけで構成された演奏だった。頼れる顔見知り二人の歌声にはほっとさせてくれるものがあるけれど、それでも愛する二人が歌っているのはショーステージではなかった。
これはカイトの愛したそれではない。美しいけれど、それだけだ。もっとキラキラした音が欲しい。もっと楽しそうに歌ってほしい。もっと、もっと。
「……アレンジしたきゃ好きにしろよ」
「へ? あ、いいの!? ありがと!」
「オレとお前のタイプが違うのは分かりきってるしな。お前らなら曲を軽くは扱わないだろ」
「……彰人くん、結構ボクのこと信用してくれてるんだ」
「あ? そりゃそうだろ、何回お前の音楽聴いてると思ってんだ」
当たり前のように音楽を性根として受け取る、そのある意味では危ういような言葉に呆気に取られた。けれども確かに、歌声や音色はすっと心に入ってくる。それこそが世界中に愛される音楽というジャンルの音楽たりえるところなのだろう。そうだね、ボクも友達みんなの歌を信じてる。
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ふわりと吹いた風に髪もまたふわりと持ちあがる。そろそろ、期日が近付いている。返事をしなければならない期限の日が。
「……宣伝大使……」
フェニックスワンダーランドに革命が起きたあの日以降、ずっとそのことで頭を悩ませている。ショーがたくさんできるのは良いことだが、テーマパークひとつ背負って演じるには、まだ我らがハピネススマイル×ワンダーランズは脆弱ではないだろうか。事実、是非ともやりたいと言っているのは王国を夢見るこはねだけであり、遥はワンダーステージでできれば十分だとしか言わない。えむはやりたい気持ちこそあれどやはり重荷ではないかと恐れている。
歩道橋を登り、ふと、おもむろに顔を上げた。美しい夕焼けを眺める。沈みゆく太陽が菫の花を焼くかのように網膜に光を焼き付ける。……思うところは、ある。
キャストの力が認められたのは、突き詰めれば他のステージとの協力あってこそである。特にフェニックスステージの力が。何よりも青龍院櫻子がいなければ開幕さえもありえなかった。話題性だってバーチャル・シンガーを使ったところが大きい。
けれど、地方に足を運び、フェニラン以外の場でも自分を魅せることができるのなら、それはスターへの一歩だろう。
「……パフォーマンス」
塗装が剥げた歩道橋の柵に指を掛ける。もし、遥がここにあるもので演出を組むなら。もし、えむが咄嗟に人目を惹こうとするのならきっと破天荒な。こはねならば躊躇わない。
思い立ったら、やった方が良い。まふゆは鞄からとある衣装を引っ張り出した。今日の練習で使ったばかりのダンス映えする女王様のマント。見た目の割に軽く、よく風に靡く。髪をほどき、それを羽織る。
その金装飾の豪奢なはためきが見えたのは、そこを通りがかった寧々だったのである。部活終わり、神高まで一緒に帰るために迎えに来たみのりを連れて。
「……え? 柵の上に立って……!?」
「えっ!? 危な──……」
この場所で一番高いその場所に凛と立つまふゆは、決して落ちないように軸足を定め、そっと爪先を動かし、喉を震わせ深みのある歌声を響かせた。声の届く限りの人たちが一斉に視線を向ける。
まふゆの足がそっと慎重に動き、伸びやかな歌声とともにくるりとターンした。細い足場の上で、まるで足のない亡霊のように踊っている。
「……朝比奈まふゆだ」
まず抱いた感想はそれだった。まさか飛び降りるのかと駆け出しかけた足もその場に釘付けになり、寧々は呆然と彼女の舞う姿を見上げていた。周囲の者たちもみな同じである。……パフォーマンスにしては人もいないし封鎖もしていない、何より命綱を付けていない。にも拘わらず、通報した方がいいのかと戸惑う者はごく少数で、それはきっと彼女があまりにも堂々としているから。その姿を寧々は知っている。その歌声を寧々は知っている。朝比奈まふゆだ。ワンダーステージの中心たる、あの。
「わあっ……! すごーい、かっこいいねえあの人……!」
「……うん、すごい」
歌声も、舞うマントの煌めきも、ゆったりとした足運びも、時折路上を見下ろす真っ黒な瞳も、どれもみな、綺麗だ。綺麗、だが。どうしてか素直に、見惚れることができない。じり、と踵を擦った自分の足元の感触に、その理由を悟った。
「……でも、怖いよ」
車通りのある歩道橋の、狭い柵でステップを踏むなんて。落ちたらどうしようと考えないのだろうか。……考えそうもないな。以前歌詞を付けさせてもらったメロディを思い出し、寧々は思わずくすりと頬を緩めた。ほとんど自嘲だった。我欲のために他人様の会社に革命を起こせるような女が、自分の命などを賭けのテーブルに乗せることを躊躇うものか。
しかし、怖いのはその行動だけではなかった。彼女の、ハッキリした発声でありながらも、そこに滲んでいる消え入りそうな絶望である。……あ、と声を上げる。同じ絶望を耳にした少女が、寧々とは違って躊躇いなくそのステージへ駆けあがっていく。そして階段を駆け上がったことで息も絶え絶えの細腕がまふゆの腕を引き、パフォーマンスの姿はフェンスの向こうに落ちた。
「っ……!! だ、……げほっ、ぜえ、はぁ……だい、じょうぶ……!?」
「……宵崎さん。宵崎さんの方が大丈夫ですか」
「ご……ごめん……華麗なダンスだったけど、落ちたらどうしようって、思って……」
ちらりとまふゆを見上げては目を伏せる、弱気な奏の顔をじっと見つめて、まふゆは小さく首を傾げた。静かに立ち上がり、身に着けていたマントを一度身体に巻き付け、勢いよくターンを決めた。ぶわりと広がるマントが夕日を弾いてキラキラ光る。
「──……♪」
「……!」
同じ曲。なのに、今の澱んだ絶望感を煙にして立ち昇らせるかのような歌声とはまるで違う。もっと柔らかい声音と、ふっと軽く飛んでその背を見送ってもらうかのような。
その声を聴いた瞬間、みのりが走り出した。掴まれた手首の痛みに一瞬眉をひそめ、みのり、と声をかける。会わなきゃ、と呟いたのだけが聞こえた。階段に蹴っ躓きそうになりながらもその長い襟足の髪を見つめてついていく。ダン、と最後の一段を同時に踏む。
「……? 草薙さん」
「へ? あ、ホントだ……草薙さん、それに花里さん。二人もいたんだね」
「お騒がせしました。……宵崎さんも草薙さんと知り合い?」
作曲関係で少し、と奏が答える。自分の知らないものに注意を向ける癖がついていないまふゆに一切視認されていないみのりは、それも構わず一直線にまふゆに向かっていった。
「あ、こら、みのり……!」
「朝比奈さんこそ……」
「私の方も作曲関係で、わあ」
どっ……と奏の目の前からまふゆの顔が消えた。突撃されて倒れ込んだまふゆは強か尻を打ち、いきなり何事かとみのりを睨みつつ、下敷きになってくれた分厚いマントを肩から外した。
「あのあの!! わたし、わたし、花里みのりって言います! お姉さんすごいですね!! お姉さんも誰かに救ってもらったことあるんですか!?」
「……?」
「みのり……!! すみません朝比奈さん、うちのが……」
「別にいい。ちょっと痛かっただけだから」
再び立ち上がり、まふゆは衣装を雑に鞄へと突っ込んだ。それを元通り制服姿で肩にかけると、歩道橋下で固まっている人々をちらと振り返り、みのりに向けてひねたような角度で小首を傾げた。
「救われたことだっけ。あるよ、多分ね。話したいことがあるならどこか入る?」
ぱっとみのりの表情が色めく。それをまふゆは妙に目を眇めて見つめていた。倦怠そうな態度は以前同じショーを計画した時も同じで、それだけにまふゆの本心が読めず、寧々は臆していた。けれども、こちらの様子を窺っている奏に「来たいなら宵崎さんも」と躊躇いなく差し出せるその手のひらの軽さが、やはり今日も羨ましかった。
まふゆが女子たちを引き連れて入ったのはファーストフード店だった。少し意外、と呟くと、ここが一番近かった、と淡白な声が帰ってくる。相変わらずだな、と肩をすくめた。そしてバーガーのみならず興味のままにジュースとポテトとナゲットとコーンを頼むみのりの後で、一番小さいバーガーだけを頼んで席に着いた。
「あれ、朝比奈さん、ポテトだけなんですね」
「あんまり複雑な味のものを食べたくない」
「ふーん……」
「それより、あの人は呼ばなくていいの」
「え?」
「前に私のファンだって言ってた人。草薙さんの友達なんでしょ」
「……あ、瑞希?」
「暁山さん、朝比奈さんのこと好きなの? ふふ、なんか知ってる人と知ってる人が繋がってて嬉しいな」
「ねー! やっぱり奏ちゃん良いアイドル!」
「えへへ、ありがとう……」
いつもライブには最前列を狙って来てくれるし、無理ないファンサ要求うちわを振ってくれる。そんな花里みのりのことを奏はアイドルとして気に入っていた。ステージまで届く声は、今の自分が間違っていないことを再確認させてくれるから。……そんな彼女と、彼女の仲間たちは、今「誰かを救えるような音楽」を目指しているらしい。
なんだか少し、苦しいな。かつての自分と同じ道を辿ろうとしているのではないかと、奏はそんな薄ら寒い気持ちを隠してストローを吸った。
「私、元々食べ物の味が分からなかったの」
「えっ?」
「元々、って言っていいかは分からないけど……まぁ、あんまり覚えてないし、そういうことにしておくね。食べ物も飲み物も味がしなくて、何を見ても聞いても何も感じなくて、悲しい気持ちも楽しい気持ちも分からなかった」
唐突に始まったその語りが果たしてまふゆ自身のものであるのかさえ分からなかった。ただ寧々も奏も呆気に取られ、ジュースを持ったまま彼女の顔を見つめて固まってしまっていた。
「このまま何も分からないままずっと生きていくのかなって焦りだけがあって……じゃあもういいかなって思って、死のうとしたんだけど」
「えっ……」
「ギリギリのところでね、えむに話しかけられたんだ。あの子は私を見送ろうとしたけど、何でかな、かえってまだできることがあるかもしれないって勇気が湧いたんだ。それが一番最初。えむに命を救われた」
「あ……さっきの、みのりの……?」
「……? うん。何の話だと思ったの?」
「あ、いや……」
まふゆは首を傾げた。彼女のあらゆる事象に鈍いところもその過去ゆえなのだろうかと思えども、やはり心が感じられない独特の威圧感は消えない。しかしやはり、相変わらずだ。寧々も奏も、顔を見合わせて苦笑した。遠いアイドル、遠い作曲者と、今だけは通じ合えているような気がする。
幸せな人を描けなかった自分の物語を、無理にでもハッピーエンドにしてくれるこはねに救われた。何も感じていないだけの自分を見習って、冷たい仮面を被って友達になってくれた遥にきっと救われていた。それから、夢を思い出させてくれた司と類に、救われた。そしてショーを見て笑顔になってくれる観客に、救われている。
……よかった、と思った。ともに作らせてもらったあのショーを目の前で見た身として、素直にそう思った。奏もみのりもなんとなく嬉しそうで、話し終えたまふゆはそんな三人を不思議そうに眺めていた。
奇しくも瑞希が到着したのはその話がすべて終わり、寧々たちからも自分たちの活動の経緯を掻い摘んで説明し終えた頃のことだった。場所自体はさほど遠くはないものの、例の曲のイメージを関係者とすり合わせるのだけはどうしても切り上げたくなくて、結局いつも通りの時間だけ「勉強会」を済ませてから来たのである。すっかり話し込んでいた彼女らのもとに到着した瑞希は、席へ来るや否や「わ」と声を上げて動かなくなってしまった。
「……暁山さん?」
「はわ……」
「あ! 朝比奈先輩と奏ちゃん、推しを二人も前にしてパンクしてるんだ! 分かる分かる!」
「分かるんだ」
「……初めまして。座ったら? 瑞希」
「どぇっ!? ど、どっ、どっひゃー……!!」
「そんなテンプレ本当に言うことあるんだ」
「ま、ままままふゆちゃ、なん、何で名前でっ……!?」
「ファンサ」
「ありがとうございます!!」
「ちょ、瑞希うるさい。早くポテトか何か注文してきて」
飲食店に居座る最低限のマナーを守るべく改めてカウンターに向かった瑞希を見送ると、も、としけたナゲットを口に放り込み、寧々は通路側に座るみのりの脇を小突いた。
「ん?」
「代わって場所」
「え、何で?」
「瑞希が座れないでしょ。みのりの隣は気にしちゃうだろうし」
「いいよぉ別に」
「あんたが『くん』って呼ぶからじゃん」
中途半端に残してお腹いっぱいだと言うみのりと素早く位置を変える寧々を見て、向かいで二人は顔を見合わせ、首を傾げた。しかし奏が何故と訊こうとし、その前にまふゆと「裏では仲悪いのかも」とひそやかに交わしてしまえば裏表というものを理解したい奏には、自分たちで折り合いをつけているらしい彼女たちに踏み込むことはできなかった。
それから妙に、黙ったままの時間が続いてしまった。今の行動を怪しまれただろうかと瑞希のために口を噤む。その横で、きょと、と目を丸くしたみのりは、唐突に身を乗り出してまふゆに話しかけた。
「ねえっ! 好きなこと分からなかったって言ってましたけど、じゃあ何してたんですか?」
「……それは、去年より前はってこと?」
「はい!」
「分からない」
「え? 何で?」
「何も考えずに生きてたから。何も考えないと記憶には残らないみたい」
「へえ、そうなんだ! なんかすごーい!」
「あなたは違うの?」
え、と言うと同時に、乗り出していた手が机の平面を握ろうとしていた。笑顔のまま目だけを見開いて固まってしまった横顔に、思うところはあるのだろうと、そう思わずにはいられない。寧々は思わず目を逸らしてしまった。仲間は守るべきだけれど、朝比奈まふゆには激情などを抱いたところで仕方がないのである。だったらもう、それ以外に術は知らない。とりあえず、……。
「あなたは何も考えてないように見えるんだけど」
「そんなことないですよー! 奏ちゃんに会えて嬉しいなーとか救われるってどういうことなんだろーとか、考えられますよ!」
「あなた、夢はある?」
「……えっ? ゆめ……?」
「私には、私の手で広い世界に笑顔を届けるっていうのがあるよ。私が笑わなくても。宵崎さんは?」
「わたし?」
「あるでしょ、YUME YUME JUMP!なんて言うくらいなんだから」
「うん。わたしは……大事な人に、大事な友達と歌うところを見てもらうこと、だね」
薄い表情ばかりのままだけれど、奏は奥底に毅然と立つものを滲ませて言い切った。微かに、まふゆが笑ったような気がした。
思わず俯いてしまった。夢、と言われて、寧々には咄嗟に浮かぶものがあった。あったけれど、それは決して叶わないからと捨てたはずのものであって、未練がましい自分の本質が見えたようでやるせなくなったのである。それができないからここにいるのに、まだこんなものを持っている。
わ、と声が聞こえた。一斉に振り向くと、山盛りのポテトだけトレーに乗せて戻ってきた瑞希、……その隣に、もう一人いた。大人しい茶髪が僅かに動き、パッチリした目が奏を見て瞬きをしている。みのりが初めての顔にぱちりと目を瞬かせる。寧々は、あ、と口元に手をやった。見覚えのある顔だった。
「え、ちょ、何で注文しに行って人増やしてくるの?」
「いやーたまたま外通りかかってたからつい……あ、この人友達のお姉さん! バンドマンなんだよー、さ、座ってくださいよお姉さん」
「いや、どうすればいいのよ知らない人だらけで……って、言いたかったんだけど……あの、宵崎奏さんですか? フェアリー系アイドルの!」
「ん……? そ、そのコンセプトは名乗った覚えないけど、YUME YUME JUMP!の奏です……」
「しかも隣の、も、もしかして朝比奈さんですか……!? わ、私すっごいファンで……」
「そうなんだ、ありがとう。ここ座る?」
「えっ、いいんですか!? ありがとうございます!」
「……朝比奈さんって意外とサービス良いタイプなんですね」
「ああ、うん、ファンサはした方がいいって遥が言ってたから」
「へ、へえ……」
その様子ではファンサされた側の気持ちなど微塵も分かっていないのだろう。優しいような残酷なような、先ほどまでの話を何と思っているのか変わらずにこにこしている隣のみのりのことも含め、寧々は何とも言えない気持ちで溜息を吐いた。それにしても、アイドルや大手テーマパークのキャストというのは知名度がすごいな。そう思った矢先のことだった。
「ふふっ、引っ張られてきてよかったわ。しかもパピヨンちゃんに会えるなんて嬉しい!」
「え……」
「一緒にいると瑞希ちゃんもちゃんとAmiaって感じするね」
「え~何それ、ボクはボクなんですけど~」
「あ、あの……えーっと……東雲さんは私たちのこと知ってる、んですか……?」
きょとりと彼女は目を丸くした。そして照れくさそうに破顔する。以前にも一度だけ会ったことはあるけれど、その時はまだユニット活動は初めておらず、それどころの状態でさえなかった。
「そういえばずっと名前言い忘れてたわね。私、東雲絵名です。そりゃあね、私の青春/friendsのメンバー、レオちゃんの幼馴染二人だもん」
「あ、そっか……」
「それに……」
そうして絵名はマイペースにジュースを飲んでいるみのりを見た。
「愛莉が気にしてるしね、約束すっぽかしっぱなしのみのりちゃん」
「……?」
「ダンス練習、自分からお願いしてきたのにある時急に来なくなったってご立腹よ」
「……? ……あっ!!」
「ま、良いカッコしたがりだから? 前に会ったときも何も言われなかったんじゃない?」
「はい! 完全に忘れてました!」
「みのりー……明日学校でちゃんと謝りに行くんだよ?」
「は~い……」
「ていうか、今日これどういうメンツなの? 座ってからで何だけど、私入ってきちゃって本当に大丈夫だった?」
その言葉に、最初から集まっていた四人が顔を見合わせる。どういうメンツ、と訊かれると別段どういうメンツでもない。成り行きかな、と奏が零すと、絵名はますます訳が分からなそうに苦笑した。
その横顔を見つめていたのはまふゆである。さりげなく一度奏に立たせてまで絵名を自分と奏の間に誘った彼女は、二人の「ファン」なるものを不思議な気持ちで眺めていた。
「……絵名は、何で私のファンなの?」
「えっ!? な、何でって……えっと、最初に見たのはメンバーに誘われていったナイトショーで、ライトアップ綺麗で映えるな~くらいの気持ちだったんですけど、いざ始まったら音楽がすごい好きだったんです。音もキラキラしてて超綺麗だし……」
歌詞も素直でいいなって。……絵名は、確かに寧々を見てそう付け加えた。
「あのショーのエンドロールに書かれてた『草薙』さんってパピヨンちゃんでしょ? 私、休趣味の動画より前からあなたの音楽知ってたんだよ」
「あ、ありがとうござい──」
「それと、ナイトショー何回か見て分かったんだけどさ、あのショー、一回だけパピヨンちゃんの歌流れてるよね」
「……!」
「あれも好き」
「……あ、ありがとうございます……!」
四人掛けに座る六人の真ん中で、寧々は素直に頭を下げた。ふ、と向かいで彼女が笑ったのが分かった。なんだか少し気恥ずかしい。けれどさっき感じた劣等感は一瞬にして消し飛んでしまった。今なら素直に言えるだろう。わたしの夢は歌姫です、と。
ふ、と友情に微笑んだ瑞希を「そんな顔もできるのね」と絵名がからかった。ほとんど無自覚だったけれどきっと寧々を慈しむ気持ちが出ていたのだろうと察した瑞希は慌てて取り繕う。何言ってるんですかもう。我関せずとまふゆがひたすらポテトを食べている。みのりもいっぱいのお腹にちびちびジュースを送っていた。Lサイズにしなきゃよかった。
「そういえば、レオちゃんだけいないのね。まぁ成り行きって言うなら仕方ないかもだけど」
「あ、実はさっき呼んだんですけど、もうすぐバイトらしくて来れないって」
「え? あっ」
「ん? 奏ちゃん、どしたの?」
「そ、そうだった……わたしそろそろ帰らないと、家事代行サービスお願いしてて……」
「ありゃ、そうなんだ、もっとお話したかった~……またね、絶対ライブ見に行くから!」
「うん、いつもありがとう、あき…………瑞希、ちゃん?」
アイドルがファンを呼び捨てにするのはどうかと取ってつけたちゃん付けにも、瑞希は顔を輝かせた。なにせ奏の親しげな敬称などどこで聴けるものでもないのだ。それが自分の名前で初めてされているのである。まさか喜ばないという道理があるだろうか。またね、と店の周囲を振り向かせるほどの大声で別れの挨拶を繰り返す瑞希に、恥ずかしそうに縮こまる奏は出口へ小走りに行きながら小さく手を振り返してくれた。はぁ、と瑞希から余韻に浸った溜息が漏れる。はぁ、と寧々から呆れの溜息が零れる。
「まったく、恥ずかしいんだから……」
「絵名、もうひとつ訊きたいことがあるんだけど」
「はい?」
「夢はある?」
「……夢?」
「さっきそういう話をしてたから。私にはスター、奏にはアイドルって夢があるんだって。草薙さんは?」
「……! わ、わたしは、歌姫になりたいです」
ぱっと隣で瑞希が振り向いた。あんまり驚いたものだからサイドテールが大袈裟に揺れる。……そうか。その夢を、もう諦めたとは言わないのだな。なんとなく、安心した。
「夢……夢、ね。ええ、あるわ」
「はい、はい! プロドラマーですか!? 一歌ちゃんって子たちストイックで有名ですもんね!」
「クイズじゃないのよ、もう……残念、違うわ」
「えー、ウソー、絶対みんなでプロになることだと思ったのに」
頭を捻るみのりをよそに、瑞希はポテトを食べつつ今日のことを思い出していた。絵名のことで、人知れないことを今日知った。
「……もしかしてなんですけど、絵を描く……画家とか、ですか?」
おずおずと、言っていいものか分からないまま瑞希はそう言った。上目遣いになった彼女の顔に絵名は容赦なく怪訝な鋭い視線を浴びせた。憤りすら滲んだようなその目にみのりが微かに怯えを見せる。無意識に庇うように彼女の膝に手をやった寧々も、何故急にそんな言葉が出てきたのかと瑞希を見た。
咄嗟に大人げないことをしたと首を振る絵名に、瑞希は取り繕うように笑いながら今日のことを説明した。絵を見られたとあれば絵名は良い顔をしなかったし、捨てたものを取っておいたという彰人には不思議に思うやらデリカシーがないと怒るやら複雑な感情を見せていたものの、しかしまふゆに「画家が夢なんだ」と言われてしまうと恥ずかしそうに頷いた。それが照れでも何でもなく本当に人に言えないことだと思っていることは明白で、そんな絵名にまふゆは険しい目を向けた。
「よく分からない。何でそんな反応するの? 画家を目指すのは良くないことなの?」
「良くないっていうか……バカバカしいんですよ。私、あんま上手くないし」
そんなことない、と駄目押しで言ってみる。自分などに肯定されたところで何の励みにもならないと思うから、あまり強くは主張できなかったけれど。それでも彰人の部屋で見つけた絵は、種々様々な構図で書かれていて、同じ創作者としてきっと自分を成長させるために色々試したのだろうと察するに余りあるものではあったのだ。
案の定絵名はありがとうと言いながら軽く笑うだけだった。じゅ、と空を告げるストローとお別れし、荒れの残る唇は静かに声を発した。
「私だって、演技は上手くないけどスターになりたい」
「……え。い、いやいや、朝比奈さんは上手いでしょ!」
「そーだよまふゆちゃん! ボクらハピワンのショー何回見てると……」
「当たり前でしょ。ナイトショーも含めて、全部私の脚本なんだから。それっぽく書いたものをそれっぽく演じるだけなら誰でもできる」
「いや、できないと思うけど……」
「どのみちフェニランには櫻子がいる。それでも私は、スターになりたいよ」
まるで、その未来に振りほどかれないよう縋り付くかのように、彼女は目を細めた。笑っているわけでもない。けれど悲しそうでもなく、眩しがる子供のような光が見えたような気がした。みのりはぽろりとストローを加え損ねた。「救う」「救われる」という、意味がいまいち分からないまま使っていた言葉、その意味が唐突に分かったような気がした。気がしただけで、それ以上は分からないけれど。
「バカバカしくても、言っていいと思う。その言葉の中にしか本当の自分はいないんだよ」
絵名は唇を噛みしめて、泣き出さんばかりにまふゆを見つめ返した。……認めてくれた。私が夢見ることを、認めてくれる人はちゃんといたんだ。ありがとう、と言ったそれは、心からのものだった。
……まふゆは、ぴくりとも動かない表情ゆえ何を思ったか分からない。みのりはその分からなさにぞっとするものを感じ、思わず何もかもを手放した。突然ニコニコしなくなったばかりか目を皿のようにしてまふゆを見つめているみのりを、寧々は不思議そうにのぞき込んだ。「みのり?」と呼ばれてようやく、怯えたように顎を引いた。
そんなみのりに、暮れなずんで久しく太陽など忘れたような瞳が向いた。またも怯えて肩を跳ねさせる。今まで、どんな人間にも必ず見えるものはあったのだ。自分のためだけの夢を捨て、自分ばかりのためにしかならない思考能力を捨てたときから、ずっと。何を考えるよりも前にまず感じる。それでも、朝比奈まふゆからは、彼女が何かを感じているという感情の動きが何一つとして感じ取れなかった。……失望、されている? 先ほどまで確かに希望や勇気が見える、かっこいい人だった。
「花里さん、夢がない人生は、つまらないんじゃない?」
「……そんなこと、ないです。わたし、動画でアイドルになるんだもん」
「本当に?」
「え? 何、本当にって……」
「本当にあなたは、アイドルになった自分が夢に見えてるの?」
愕然とした横顔に、瑞希と寧々でさえも恐怖に似たものを感じてしまった。まふゆの真に迫る言葉も怖い。だがそれ以上に、みのりがみるみる表情を失っていくのが不可解で恐ろしかった。まるでそれでは、アイドルの夢が嘘のようではないか。
一番壁の側にいた、それでもみのりは躊躇いなく腰を浮かせた。
「……わたし帰る。朝比奈先輩キライ、ひどい」
「別にいいけど、あなたは変わった方がいいと思うよ」
「あ、朝比奈さん、そのくらいに……」
寧々が横槍を入れようとした、その時だった。
「変わりません。わたし、変わりたくないです」
まふゆも思わず顔を上げた。それくらい、言葉の内容とは裏腹に意志の籠もったものだったのである。みのりは顔を強張らせるでもなく、しかし再び笑うでもなく、ただ彼女を理解し合えない人として突き放すように見下ろした。
「今のわたし、変な子なんでしょ? でもこれだって一生懸命諦めて変わった結果なの」
「…………」
「苦しかった、後悔だってまだしてる。これ以上、わたしは過去のわたしを否定したくないんです」
「……そう。花里さんは、自分をちゃんと愛してたんだね」
重ねてごめん。まふゆは静かにそう言って、何もなくなったトレーを持って席を立った。……何も考えず生きてきた、何も分からず無為な子供時代をやり過ごしてしまった自分に、重ねて言っていたのだろう。変わらなければ、その先に待つのは「つまらなかった思い出」すらも残らない無惨な将来ばかりだと。
帰る必要のなくなったみのりは腰を落ち着け、何も言わずに残っていたしなしなポテトを淡々と口に運び出した。何か思うところはあったのだろう。寧々と瑞希はこっそり視線を交わした。それから、空気に置いていかれて気まずそうな絵名とも。
「……救われるのって、難しいんだね。あんなに何回も救われたって言ってた朝比奈先輩も、まだまだ苦しそう」
「そりゃあね」
「何にも苦しいことなくなったって人がいたらそれこそ何か救われるべきでしょ」
何か難しく感じたのか、みのりはぱちぱち瞬きをし、不思議そうな顔をして首を傾げた。寧々はなんだかおかしくて吹き出した。何気ない瑞希の言葉が、あんまり当たり前のことだったのもあって。
まふゆを、救ったのはえむだと言う。無論他のメンバーの名前もあったし、司や類の名前まで出てきたのには驚いたけれど、まふゆはえむの話をたくさんした。胸が、あたたかい。寧々は目を伏せてその感覚を味わっていた。彼女自身はあまり自分のカリスマや演技力に自信がないようだが、初めから彼女に希望を見ていた自分の目は間違っていなかったのだ。鳳えむは人を救うことに向いている。彼女の煌めきには、今もなお憧れ続けている。
「さてと、せっかくだしもうちょっと遊んでく? 音楽以外の趣味全然共有できてないもんねー」
「それだったら余計に穂波ちゃんがいたらよかったねえ。穂波ちゃん、音楽以外何もやってないもん」
「うぇ、そうなの? まったくもう、リフレッシュさせないとな」
「瑞希くん瑞希くん、わたしあっちの方行ってみたい! 朝比奈先輩がいたってことは今頃こはねちゃんがいるかも!」
「ん? 誰? あ、フェニランの?」
「そう! なんかね、最近ね、男の人たちと不定期開催臨時ユニット『VIVID CLOWNS』で路上サーカスやってるんだって!」
「男の人……って、それ類と司先輩じゃない!? 何それ超見たい! 寧々も行こ!」
「ん、と……二人ともごめん、わたしちょっと用事がある」
「あ、そうなの? じゃ、またね! 呼んでもらえて嬉しかったよ」
涼やかに笑う瑞希に手を振って、寧々もゴミを捨てて店を出る。目的地は、非公開であるはずのアイドル宵崎奏の自宅。悪用するつもりはなかったが、既に消されたSNSの特定書き込みを覚えていてよかった。
よし、とコンクリートを一歩踏んだ。
「草薙さん、あのさ」
「って、え? 絵名さん、どうして……」
みのりとも相性は悪くなさそうだし、もしかしたら瑞希と仲の良い友達になってくれないだろうかと期待していたのだけれど。絵名も寧々を追ってコンクリートジャングルへと踏み出していた。どうしてって。最新の軽いスニーカーで地に足を付け、振り向く姿はまるで躍動感にあふれる写真のようだった。よく見たら、とても見目が良い。顔が可愛いのはもちろんのこと、要所要所の動作がやや大げさで、……観客からの目線を意識した動きだ、と思った。舞台に通じる人である。なるほど、真摯なバンドマンなのだろう。
「聞きたいことがあったから。多分、他の人の前じゃ訊かない方がいいかなーって思って」
「聞きたいこと?」
「そ、休趣味の動画について」
「何ですか……?」
不用意に、顔を出さない方がよかっただろうか。たとえば、金持ちでもない高校生がどこの立派なステージで撮ってるの、とか。たとえば、時々クレジットやオフショットに顔を出す大きなロボットはどこで調達したの、とか。たとえば。
「顔隠してる人たちさ、あれ、リアルの人間?」
「……え」
ちっちゃい女の子の『哀』、桜色ロングの『Dollish』、金髪少年の『リード』、それから真っ赤な衣装の『バニカ』。彼女は画面に映ったことのあるスタッフの名前を指折り数え、その名を改めて寧々に突き付けた。すべての感情を、人のものでさえも食いつくして歌に変える悪食のメイコまでもを既に見ていたとは。彼女が出たのはつい最近のことなのに。
「あれ、コスプレなのかなって思ってたんだけどさ、その割には噛み合わない気がしてたのよ。あんたたちの曲はバーチャル・シンガーを一度も使ってないしカバーでもない。顔はメイクが上手くないで通じるけど、そもそもバーチャル・シンガーのモチーフを出す意味がないのよね。で、単なる駆け出しのクリエイターがずいぶん本格的なステージにいるなーって思ったのが確信」
絵名の顔つきがすっと険しくなる。真剣な雰囲気にぐっと息を詰まらせた。それでも彼女の顔には余裕そうな笑顔がまだ残っていた。その顔が少しだけ寄せられる。影のかかった表情で、慎重に唇が囁く。
「休日、趣味人同士で。あんたたち、セカイを持ってんのね」
「……それに気付いたってことは、絵名さんだってそうでしょ。だったらどうするって言うんですか、踏み込ませませんよ」
「意外と強気な子なのね。冗談、セカイって場所が持ち主にとって大事なのは分かってるつもりなの。あそこで自撮りできたら映えそうで羨ましいけどね」
くす、と軽く肩をすくめて笑い、彼女は何事もなかったかのように背を向けて悪戯っぽく両手を広げた。分かりやすい仕草にはつい気を抜いてしまう。肩の力が抜けたと見た絵名は彼女の腕を引き、言った。
「あんた、今から奏ちゃんの家に行こうってんでしょ」
「え、な、何で……」
「さっき、穂波ちゃんはバイトって言った瞬間奏ちゃんが家事代行サービス来るって言って帰った。そんなタイミングなら誰でも分かるわよ。穂波ちゃんが奏ちゃんの家にバイトしに行ってるんでしょ」
「い、いやでも、わたしがそこに行くっていうのは……」
「んー……なんか、あんたには親近感あるのよね。人とちゃんと関われない友達のこと、何とかしてあげなきゃって思ってる。グループが特殊な動き方してて、メンバーは問題ありで……って、よそ様のグループにこんなこと言うのも良くないわね。まぁいいわ、奏ちゃんの家知ってるんなら私も連れてってほしいな、寧々ちゃん」
「え……な、何で……」
「ふふ、いざというときのため」
ざ、と踵が地面を擦る。察しの良いまともな人だと思っていたけれど、ヤバい人かもしれない。見てはいけない有名人の特定写真だとかゲームのフラゲだとかを見つけてしまうくらいにはネットに触れている寧々は悟る。絶対に連れて行ってはいけない。
だが、寧々の脳裏には同時によぎっていた。絵名は、画家を目指しているということ。
「……か、代わりに、こっちの質問にも答えてもらっていいですか?」
「ん? 何?」
小首の傾げ方も、カタンとメリハリのある動きが少し怖かった。顔が変わらずにっこりと笑ったままだったのも要因である。人好きのする人だ。それだけに、異様さに気が付いた時には遅かったわけだが。
「絵だったら、ダンスや実写MVじゃできないことも表現できますか?」
「……無償じゃ描かないわよ」
でもできるわ。私くらいのレベルでも。絵名はそう言い切った。人間以上のものを閉じ込めるのが腕というものなのだから。
その答えだけで十分だった。今のところ、イラストを描ける人間はグループにはいない。しかし絵に興味を示していたものはいたのだ。移動するだけでも疲れる体は退屈だ、とぼやいていた、四肢だけは動く人形めいた者が。人間に詳しい彼女なら、想いをダイレクトに扱うバーチャル・シンガーなら、ひょっとしたらすぐに上達するかもしれない。扱いづらい曲でも、自分たちのものにさせてくれるかもしれない。
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いつも訪れるドアの前で、開かないそれを前に立ち尽くしている。何も考えずただ待ちぼうけを食っている間に気付けば二十分が経っていた。何も感じていないような、虚無を感じているような、不思議な感覚からは溜息が不思議と出てこない。溜息を吐くのも面倒くさい。
「……──さん! 望月さん、ごめん……!」
このまま一人で立ち尽くしていたらそのうちすっと消えてしまうのではないか、その妄想に感じるものは期待か恐怖か、曖昧な気持ちを握り締めていた。その願いにも似た気持ちを遮る待ち人に、待ち人でありながらも来なければよかったのにと思ってしまう。そんな自分が嫌いだ。傍に瑞希でもいればきっと気持ちも違ったのだろう。
「……宵崎さん。よかったぁ、連絡しようと思ってたんです」
「ごめん……実は、帰る途中で草薙さんと花里さんたちと話し込んじゃってて……」
「え……なぁんだ、それじゃあさっきの寧々ちゃんからの連絡にあったお茶してる相手って宵崎さんだったんですね」
「あはは……わたしからも連絡すればよかったね、一緒にハンバーガー片手にお話できたのに」
「ふふっ、そんなことしたら私給料泥棒ですよ。お仕事させてくださいね」
自宅の鍵を開ける。いつも通りの行動ついでに横目で穂波の顔色をこっそり覗いてみる。なんだか、声色に疲れが聞こえる気がしたのだ。今に始まったことではなかった。彼女の笑顔にはいつしか青ざめたような色が見え始めていた。
「でもよかったです。最近の宵崎さん、運動もして健康になられて……ご飯もしっかり食べてくれるから作り甲斐が……」
「望月さん」
「はい、何ですか?」
「今日は、わたしの部屋を片付けてほしいな。ご飯は時間に余裕があったらでいいから」
「……は、はい……? 分かりました、それじゃあ、失礼します」
奏はいつもの椅子に座り、いつものパソコンを立ち上げ、そしていつも繋いでいるヘッドホンのコードを抜いた。まずはメロディから作ってしまおう。コードはGmで。明るすぎず、悲しすぎず、ノスタルジックに行こう。誰だってあるんだ、そういう切ない感傷に浸りたいときが。
部屋の中を慎重に、丁寧に満たしていく音の数々を、紙や本を拾い上げながらじっくりと聴く。すらすらと繋がっていく音を、この人は一体どのように生みだしているのだろう。浮世離れしたような雰囲気を持つ彼女は、アイドルとして笑顔や言葉を振り撒くよりもきっとこちらの方が得意だ。……羨ましいな。そう思う気持ちを、彼女の音楽は許してくれた。
カチャリとも音が立たないよう、神経質にコップを重ね、音を殺してドアを開け、キッチンのシンクへ置きに行った。開いたドアから漏れ聞こえる音はなおも続いていく。頻繁に再生される音楽には早くも低音が入っていた。
(なるほど。全体のバランスを整えるためにはユニゾンとかハモりはその都度付けてく方がいいのかな……あ、コーラスも付いてる……)
洗い物は、後でにしよう。先にコーヒーを淹れてあげることにして、ケトルのスイッチを入れてから部屋へ戻る。奏は敢えて穂波の方をちらりとも見なかった。
奏の態度が、ありがたいような気もしたし恐ろしいような気もした。こちらのことなど気にしていないのならそれでいい。だがもしも、ここにいるだけでも集中を散らしてしまっていたら。早く終わらせて帰ってくれとでも思われていたのならどうしよう。あ、だめだ。泣いてしまいそう。
「望月さん、音楽は好き?」
「……え……? あ、ええ、好きですよ……?」
「そっか。それじゃあ、いつかちゃんと救われてね。それが、望月さん自身の音楽だったらいいな」
喉の奥が締まる。大きな瞳は確かに奏を映していた。……どうして、分かってしまうのだろう。彼女の言う通りだ。
穂波が救われたいのは、決して奏にではないということ。
苦しいからといって、ただがむしゃらに救いを求めているわけではないということ。
……ああ、この人は。ダンボールに物をしまうついでにへたり込んでしまう。そうして彼女を見つめたまま、仄かに微笑んだ。それ以外に表に出していい感情がなかった。
「……そうですね。宵崎さん」
「ん?」
ゆるやかな弧を描いた唇、そのたおやかな笑顔に、訊かずにはいられなかった。
「救いって、何ですか」
どうしたら救われるのだろう。何をもってして救われたと思えるのだろう。もしかしたら自分のそれは、救われるほどの苦悩ではないのかもしれないのだ。世の中には自分などよりも苦しむ人がごまんといる。わたしは、苦しいと言っていいんですか。その資格がありますか。
奏は驚きに目を瞠り、唇を引き締めたまま穂波の顔を見つめ返した。その視線と沈黙に怖気を感じ、穂波は白い顔を逸らして必死に言い訳を探し出した。
「す、すみません、おかしな言い方を……」
「分からない」
「……え?」
「絶望も希望も、人によって違うから。誰かにとっては取るに足らない苦しみでも声を上げて泣いていいし、誰かにとっては意味のない……星なんかじゃない、懐中電灯の光でもいいんだよ、照らしてくれてありがとうって言っても」
奏はそう言って、照れくさそうに眉を下げて笑った。なんだか無性に、好きだ、と思った。この笑顔が好きだ。その言葉を受け止めた今は、せめて明日のつらい一秒、耐えて踏みとどまれるような気がする。
『うふふ。良い音楽の持ち主は、良い言葉を詠いますのね』
「っ……う、うそ、ミクちゃん……!」
「……!」
『ごきげんよう、穂波。それと、宵崎さん、とおっしゃいましたかしら』
「だ、駄目だよ、セカイが他の人にバレちゃったら……」
『知られたくないというのは瑞希の個人的な思い入れですもの。ボクが律儀に守って差し上げる理由はなくてよ』
「ボク……だいぶ昔のステレオタイプなミクだね。こんにちは、会えて嬉しいよ」
身体で覆って遅ればせて隠そうとする穂波の肩に、後ろから奏はぽんと手をかけた。肩越しに初めて見るミクとの邂逅を果たす。女性らしさと勇ましさの両立する彼女はにこりと嬉しそうに笑った。思いのほか驚きの見えない奏にぱちりぱちりと瞬きで現実を疑うことしかできない穂波をよそに、奏はその細い指先で彼女のスマホを優しく奪い取っていった。
『ボク、あなたの曲がもっと聴きたいのですわ。音楽が生まれる時間は何にもまして愛おしいものですわね』
「ありがとう、嬉しいよ。それじゃあ傍で聴いていてもらおうかな。望月さん、スマホ借りるね」
「え、あ、はい……」
「ふふ、驚いた? わたしもね、知ってるから」
その微笑みは、もはや救世主のものではなかった。ありふれた少女、あるいは近くのアイドル。楽しげな彼女の笑顔は、遠かった。
いつかはこの人の世話を焼いて守らなければいけないと、そういう正義感に駆られていたはずだった。人は変わるものだなと肩を落とし、自嘲らしい気持ちの笑みを隠すように背を向けた。途端、チャイムが鳴り、穂波は顔を上げた。
どうしても、伝えてあげたかったのだ。朝比奈まふゆの苦しみと、本当の自分は本当の夢の中にしかいないのだと言ったこと。きっと面と向かって言われたら失望されていると感じてしまうような言葉でも、無関係の誰かの言葉ならば素直に聞ける。だから一刻も早く。……それから、作曲の原点である宵崎奏に、ステップアップへのアドバイスを聞きたくて。
これからどこへ歩み出していけるのか。手を伸ばす自分と、言葉にできないうずくまった自分と、混ざった末の自分で、寧々は彼女の家のチャイムを鳴らしたのだった。