届け!UNCONSCIOUS STAGE!
『かっこよすぎ、チャンネル登録しました』
『哀ちゃん顔隠してるのミステリアスだね』
『クレジット見た感じパピヨンさんがリーダー? 作詞して編曲とダンスの監修、その上センターで踊るなんて尊敬します』
なんだか急に、好意的な意見ばかりになった。コメント数も前のものと比べて圧倒的だ。圧倒的、と言ったって、比較対象が未だにコメント数2高評価数13なのだからたかが知れたものではあるが。
「寧々ちゃんすごーい」
前の曲がまったくもって評価されないのは少し気になるけれど、ベッドに転がって満足げに笑うみのりは曲を褒めるファンの声を眺めている、それだけで十分だった。そう、寧々の作った歌詞はなんだか急にハイセンスになって、彼女はまるで人が変わったようだった。見るからに分かるようなものはないけれど、芸術に人はあらわれる。だから、彼女の作ったものが褒められているということは、彼女の性根が気に入られたということなのである。それがみのりには嬉しかった。
『この子ら何歳? レオの発育良すぎだろ』
「はついく……はっ! 穂波ちゃんの胸の話してる! えっち!」
『Amiaちゃん推せる』
「瑞希くんにもう固定ファンが……!」
『イントロの振り付け好きすぎる』
「あっ! わたしの振り褒めてもらえてるー! やったぁ、えへへ」
一通りスクロールして、ひとつひとつのコメントに一喜一憂して、もう一度上にスクロールして、……そうして急に、哀しくなった。
これじゃない。褒められて嬉しい、それは事実だ。でも、何をしているのだろう。褒められたかったわけじゃ、ないはずなのに。わたしは何がしたかったんだっけ。……希望を誰かに届けたかった。破れた夢の形を、今でもよく覚えている。
「……でも、遥ちゃん嘘吐きだもん。遥ちゃんなんてキライ」
枕を抱え込みながらごろりと横に転がって、彼女の映るわけでもない画面をじとりと見つめながら呟いた。つい先日、バイト先に来た彼女も交えてアイドルグループYUME YUME JUMP!と話す機会があったが、やはり彼女はとんでもない嘘吐きだった。
──花里さんが今ちゃんと楽しいならそれ以上のことはないよ。
理屈なんて知らない。考えることはやめた。だからこそ、本能で分かる。目の前にいる人が良い人か悪い人か、その言葉が嘘か本当か。
どうして、あんな酷い嘘を吐くようになってしまったのだろう。……いいや、感じ取ってしまうこちらが悪いのだ。気付かなければ、ただの優しい言葉だった。
「…………ご飯!」
ご飯食べよう、とみのりはベッドから跳ね起きた。多分そろそろ出来上がる頃だ。今日は何だろう、パスタかな、ハンバーグかな。ピーマンの肉詰めかも。るんるん。
いつの間にか自動再生で、動画は勝手に次のものへと切り替わっていた。ネオンライトの輝くステージにベース中心のロックが奏でられている。放置されたそのスマホがチカッと光ったのは足取り弾むみのりがぱたりとドアを閉める直前のことだった。いたいけな女子の乱れたままのベッドの上に現れたホログラムの人影は、一度そのドアの方へ目を向け、スマホから流れ出る音楽に耳を傾け、そっとその場に座って目を瞑った。
トマトソースとシーフードをフライパンで混ぜてソースを香らせる母の周りでうろうろして、茹で上がったパスタを人数分皿によそって、それから弟と父を読んで、みんなでそろっていただきます。美味しい食事は日々の潤いである。一日三回の幸せはどんな悩みも忘れさせてくれる。すべて忘れればまた前を向けるのだ。事実、さっきまで何か悩んでいたような気がするけれど、きれいさっぱり忘れてしまった。
「そういえば、みのり、最近お休みの日いつも遊びに出掛けてるけど、良い友達でもできたの?」
「うん! ネットで知り合った友達!」
「え……ネットって、それ大丈夫? 姉ちゃん変なの引っ掛かりそうじゃない?」
「全然大丈夫だよ! みんな同い年だし、みんな女の子……あ、一人は男の子だけど、でも女の子みたいなものだし、大丈夫!」
「どういうことなんだ……? 本当に大丈夫か? 遊びって何をしてるんだ?」
「えっとねー、一緒にアイドルとか舞台鑑賞したりー、一緒にスイーツ食べたりー、カワイイもの探しにウィンドウショッピングしたりー」
あとね、……という言葉が、出てこなかった。先日作り上げたあの動画を、自慢してやりたかったはずなのに。華麗に憂いを踊りきってみせたのに。寧々の悲哀と激情に、胸を打たれたのは嘘偽りない自分自身、……それを、隠したがっている? 何故?
考えても、分かるはずがないから。みのりはにこにこ笑っていた。なんだ、普通ね、と安心する母を前に。よく分からないことがあったとしても、みんなが笑えるならまぁいいか。ここで「でも」などと言おうものなら不安にさせてしまうだろう。みんなと円滑に、何の障害もなく、好きなように付き合っていきたいのなら、余計なことは考えなくていい。本能で、直感で。
「そういえばみのり、オーディションの方はどうなの? 最近あんまり通知書見ないけど……」
「あ、それ? アイドル目指すのやめたんだ!」
その瞬間に走った空気で、間違えた、と咄嗟に悟った。多分、今のは言ってはいけないことだったのだ。でも、きっと言えることはないから、笑っていよう。黙っていよう。
「……そうなの?」
「うん」
「どうして? 疲れちゃった?」
「うーん……疲れた……うん、そんな感じ。いっぱいチャレンジしたんだけどね、がんばってもダメだったんだ」
「遥ちゃんのために本気で目指すって言ってただろう。そんなに簡単に諦めていいのか?」
父親の言葉に、ふっと思い出したのは、いつかの言葉ではなく寧々の曲だった。……今感じたのは、怒りかもしれない。
「……簡単じゃないもん」
みのりが諦められるように、寧々たちが努力してくれたことを知っている。みのりのためにと気を配ってくれていることをなんとなく分かっている。彼女たちに報いたくてここにいる。桐谷遥のようなアイドルになるためにがんばりつづけた今までの自分を捨ててまでサークルに戻ってきた、そのすべては仲間たちがいてこそなのである。一人では、報われない努力に絶望して、きっとここにはいなかった。
「……簡単じゃないんだもん……!」
だけど、分からない。どうしたらお父さんを安心させられるかな。ちゃんと説明したらもっと不安がらせちゃうんじゃないかな。だってわたし、倒れたこととかあるんだし。あ、そうだ。そういえば倒れちゃったことなんてあったんだっけ。
アイドルのこと、自分自身のこと、親友たちのこと、目の前の緊張。頭の中で混ざり合ったものは結局頭の中には収まりきらず、目からどろりとした液体になって流れ出してしまう。
「だって、だって、倒れるほどがんばっても何にもならないんだよ。なのに別にアイドルになりたくない志歩ちゃんの方がキラキラアイドルになって、わたしは50回以上オーディションも意味なくて、そんなの、おかしいよ! 遥ちゃんだって、遥ちゃんアイドルじゃなくなっちゃった! みんな裏切るんだ!! キライ!」
その瞬間、はっとして涙が止まった。ぽろりと最後の一粒が落ちる。だがそれは、決して両親や弟の気持ちを考えたからではなく、自分自身の気持ちに気が付いたからだった。
そっか、わたし、期待するのがイヤなんだ。目の前のことだけ見てたいの。楽しいことだけ知りたいな。
しんと静まり返る前に、なんとかみのりの父は「俺が悪かった」と謝罪の言葉を口にした。……自分のせいで、後悔させてしまった。みのりにもそれは分かった。そこでようやく、笑顔でいられなくなった母にも気が付いた。弟は気まずそうにパスタを巻いて口へ運んだ。
「悪い、そうだよな。みのりは俺たちに見えないところでも苦労したんだよな」
「……うん。だからやめる。穂波ちゃんが逃げさせてくれたから」
「そうか、つらいのはそれでなくなりそうか?」
「うん、多分」
「分かった。みのりはそれで、納得できるんだな」
首を傾げかけて、曖昧に笑って頷く。納得、という言葉の意味が分からない。
パスタはすべて食べ終え、家族よりも一足先に食器をシンクへと置いて部屋に戻った。一日中、こうして虚しい悲哀と楽しい喜楽を繰り返している。押し開いたドアの隙間から、流れっぱなしの音楽が零れだしてきた。
「あれ、わたし動画流しっぱなしで……」
『……やぁ、君がこのスマホの持ち主か?』
「……わぁ……!!」
落ち着いた少年の低い声に歓声を上げる。まるで路地の壁に凭れるかのようにかっこいい風体で座っている彼は、先日一緒に踊った鏡音リンの片割れとして有名な、鏡音レンだった。いつの間にか彼も来ていたのだ。みのりはさっきまでの憂鬱もすべて忘れて彼に駆け寄った。
「レンくん! レンくんも来たんだねえ、初めまして」
『ああ、本当はリン……いや、『哀』と同じタイミングで来ていたんだがな。知っての通り、僕は鏡音レンだ。君の名前は?』
「花里みのり! もしかして待っててくれてたの?」
『少しね。動画があったからヒマはしなかったよ、このMVってやつは面白いな』
「興味があるの? レンくんも良い衣装だしMV映えするよー! ていうかその衣装じっくり見たいなー、今からそっち行っていい?」
一気に話が飛んだことにも寛容で、レンはにこりと笑んで頷いた。瞼の開いたその瞬間にふと気が付く、……彼の瞳は、まるで人間ではなかった。一睨みすれば雷でも落とせそうな、龍の瞳を持っている。やはり、近くでよくよく見たくなった。
『ああ、むしろ呼びに来たんだ。囚われの姫を救いたいんだが、僕一人では力不足なようで……』
「お姫様?」
『そう。助けなければいけないんだ。僕は、誰かのヒーローだから』
ヒーロー、とみのりはおうむ返しに呟いた。凛々しい彼の笑みを、もっと近くで見たい。その一心で、みのりは『Untitled』を再生した。穏やかながらに芯のある笑顔の作り方は、寧々がふと見せたラストシーンの不敵な笑みに似ているような気がした。
いつも通り、遊園地のBGMだけが流れるセカイに降り立つときのふわりと浮くような感覚は、まるで人間を救いに降りてきた天使にでもなったかのような錯覚を起こさせる。いつも通りに輝くワンダーランドをきょろと見回し、真上から「やぁ」と降ってきた声にぱっと振り返る。このセカイの住人はずいぶん高いところが好きらしい。風にはためく、マントのようなふたひらの布。街灯の上に足を揃えて立つ姿に、みのりは目を輝かせた。
「やあ、来てくれてありがとう、みのり。といっても、セカイでは君の方が先輩だな。なにせここで歌まで生んでいるというのだから」
「えへへ、寧々ちゃんたちがすごいからだよっ! それでそれで、お姫様はどこにいるの?」
「こちらだ。エスコートしよう、お手をどうぞ」
すたん、と膝を曲げて落ちる衝撃を受け流した脚は、少年らしくすらりとしていた。その太腿に巻いてあるベルトの短剣は、身を守るためだろうか。それとも、……その先は、考えなかった。差し出された手を無警戒のまま取る。レンは微かに笑って、遊園地の奥へ奥へと歩いていった。繋いだ左腕、明るいヒーロー衣装の切り裂かれたような穴の奥に、鏡音レンを示す赤い03の番号が見えた。どうしてかそれが、ひどく不思議に思える。こんなに人と同じようなものなのに、きちんと彼らはバーチャル・シンガーなのである。
レンはそのまま観覧車を通り過ぎ、ジェットコースターを通り過ぎ、大きなツリーの傍を通り過ぎ、やがて住む者も遊ぶ者もいなくなったお城へとみのりを導いた。いつの間にか仲の良い姉弟のようにつなぐだけになった手をそのままに、二人はそれぞれの表情で立派な城を見上げてみた。
「ここで見つけたんだ。縛られ吊るされた眠り姫をね」
「ええっ!? 結構大変! 早く助けに行かなくちゃ!」
「ああ、行こう!」
手を取り合った少年少女はあたかも冒険に飛び出すかのように城の中へと飛び込んで行き、敵も味方も誰もいないままのセカイで最上階へと階段を駆け上がっていった。ステンドグラスからの光差す謁見の間にあったのは、玉座でも何でもなかった。
「……きれい……」
手首や足首、そして首も、どこからも伸びていないはずの糸に吊られ、腰を反らしてぐったりと宙に浮いた女のシルエットが、赤や黄色の光にくっきりと浮かび上がっている。さらりと垂れる髪が、遠目にもひどく美しかった。
「あの糸がね、ほどけないんだよ、どうしても」
レンは見た目の割に重たい足音とともに歩み寄り、息苦しさを感じさせない人形じみた女の傍で振り返った。みのりも遅れて駆け寄り、そっと彼女の首から伸びる糸を上へとなぞった。
「……これ、どこに……?」
「分からないよな。切れないし、途中で消えている」
レンは肩をすくめ、そのとき初めて眉をひそめて不機嫌そうな顔を見せた。呆れたように溜息を吐いたその姿は少しだけ、醜さが垣間見える人間のようだった。みのりはそれを少しだけ見つめ、何の感慨もなく視線を糸に戻した。
どこからも伸びているはずはない。だが、確かに女の関節を宙に留め、……そしてやはり、伸びていく先はない。首には確かに銀色の糸が襟と見紛うほどに厚く巻き付いているというのに。引っ張ってみればきちんとした抵抗力を伴って角を作った。……角を、作った。引っ張った真下に人形が移動するのではなく。女の身体が持ち上がりさえしなかったし、放しても糸がまっすぐに戻るだけで吊るされたものは依然としてそのままである。
ぐいぐい引っ張ってみてもびくともしない様子を見て、みのりは早々に諸手を上げた。糸など関係ないのだ。糸というポーズによって、この女の身体はここに固定されている。想いに呼ばれた彼女たちは想いによって縛られる。それがまさか、性格や言動以上の話であろうとは。
上手くいかない不満に頬を膨らませたみのりは、最後に首の糸を引いて、眠る彼女の横でフンと顔を逸らした。もう知らないもん。
「あなたでも無理なのねえ」
「へっ? きゃあっ!! お、起きてた!!」
顔を上げた瞬間、予想だにしない青い瞳とバッチリ目が合い、みのりは思わず猫のように飛び退いた。ルカは吊られたままの手首では口元を押さえないまま、みのりの顔を見つめてくすくす笑った。ようやく今、みのりは彼女の顔をきちんと見た。カチューシャのポップな羊の角。それと、お揃いの目をしている。彼女の瞳孔は横に長かった。
「ええ、起きたわ。ナイトがもう一度助けに来てくれたんだもの」
「ナイトじゃない、ヒーローだ」
「あら、どうせヒーローショーなんかしたって誰も見てくれないのよ、踊り子の専属になってくれてもいいんじゃない?」
あ、とみのりが声を漏らした。四肢を吊られているはずのその右腕だけが、その他は微動だにしないまま、レンの顔へと伸びた。あ、なんだ、動くんだ。じゃあ何で助けなきゃなんて言ったんだろう。不思議に思ってレンを見ると、彼は嘘のように嫌悪感をむき出しに彼女の手を払いのけていた。さっきまでとはまるで別人のようだった。
「あんまり気軽に男に触れるのは感心しないぞ、レディ」
「いいじゃない、自由に動けない女にそれくらいの楽しみをくれたって」
「……ねえねえ! お姫様は踊り子なの? それじゃ踊れなくない?」
彼女は目だけでみのりを見て、右腕だけ横に伸ばした姿勢のままで彼女は僅かに首を傾けた。ギリ、と糸が首の皮膚の食い込む。
「そうなの、酷い話よね。私の想いの持ち主はどこのどなたかしら、踊り子として呼んだのにステップを踏むことさえできないのよ」
「ひどいね! それにここじゃみんなとお話もできないよ……」
「そうねえ……あら、そういえばあなたはどなた?」
「花里みのりです! そういうお姫様は巡音ルカさんで合ってる?」
「ええ。そう、みのりちゃん。そう……」
「外にはみんなもいるよ!」
「みんな? あなたのお友達?」
「うん! 歌がすごい寧々ちゃんにー、こだわりがすごい瑞希くんでしょー、それに優しい気遣い屋さんの穂波ちゃん! それにそれに、演出家のリーダーカイトさんと、運動神経すごいミクちゃんに演技がすごいリンちゃんもいるんだよ!」
笑顔の鳴りを潜めたレンがみのりの甲高い声調子にぴくりと眉を動かした。なんとなくそれを感じ取ったみのりが振り向くと、彼はすぐさまにこりと主人公の笑みを向けてくれる。けれどもみのりには、隠された不機嫌の方がどうしても気になってしまう。しかしルカがあくびを噛み殺したことに気を取られて、それもすっかり忘れてしまった。
「そうねえ、会ってみたいから、気が向いたら行こうかしら」
「動ける?」
「ええ、でも動くのはとっても疲れるの。だから気が向いたらね」
にこりと目を細めて笑い、そのまま目を閉じてルカはすっかり眠った。きょと、と目を瞬かせ、みのりはルカの目の前で手を振ってみたが、どうやら本当に眠ってしまったらしい。疲れるから何もせずに寝る。その怠慢がなんだか妬ましくて、む、と頬を膨らませた。いいなぁ。ずるいなぁ、生きてない人たちは。……いじけて、一段高いところをわざとらしく降りるみのりの背を、レンがじっと顎を上げて高飛車な風に見つめていた。
「残酷な子」
レンが振り返った先、種々様々の色を浴びた冷たい表情が、静かに告げた声を残して微笑んでいた。……踊れないのに踊り子なの、と悪気も無く訊いたみのりの無邪気な質問を思い返し、そうだな、と何気なくつぶやいてそれきり振り返らず、みのりの後を追って城を出た。自分たちの現実は、ずいぶん静かで空虚で、元はたくさんの守るべき住人がいたのだという確かな胸に迫る実感が、なおさら呼吸を躊躇わせる。す、と息を吸えたことに、少年はうっかり安堵してしまっていた。
まるでここが今もにぎわっている遊園地であるかのように、みのりはルンルンと弾む足取りでアトラクションの合間を抜けていく。お姫様は助けられなかった。テントまで戻ってきて、不意に気が付いたのは、入り口にミクが立っていること。テントの柱に背を凭れ、じっと目を瞑っている。ミ、まで口にしたところで、鋭い瞳に睨みつけられ口を噤んだ。彼女の瞳には文字通りの煌めきが宿っている。睨まれるとその光に貫かれたような気になって、それが少しみのりは苦手だった。だから大人しく傍へ寄り。潜めた声で話しかける。ミクはレンに目を向けると、スカートのロインクロスをつまんで会釈をした。
「ミクちゃん、何してるの?」
「やぁ、ミクさん。また会えて光栄だ」
「そうですか。みのり、今はこの周りで大きな声を出さないよう。穂波が集中しているから」
「え、穂波ちゃん来てるの? なにしてる? ご一緒しちゃってもいいかなぁ」
「今、集中を乱さぬようにとお願いしたはずなのだけれど」
「あれっ、そうだった? ごめんね!」
険しい顔をしたミクがはぁと大きな溜息を吐く。なんだかひどく胸が痛いような気がして、誤魔化すように笑った矢先、耳に届いたのはカーテン越しのとあるメロディだった。いくつかの伴奏と同時に流しているそれは、聞いたことはないけれど、きっと。
「……穂波ちゃん、もしかして曲作りしてるの?」
「ええ、あなたが来るよりずっと前から。努力家ですわね、あの子は」
「えへへ~、そうなんだよ。穂波ちゃんはすごいから、多分もっともっとすごい作曲家になるよ」
「……口ばかりね」
「え?」
「すごいすごいと褒めそやすけれど、あなたのそれは信頼しているフリ。上っ面で救われたふりをするのもいいけれど、それでは自分と向き合えないままだわ、いつまでも」
「……ミクさん、言い方というものが……」
「こら、ミク。またそんなことを言って」
ふっとミクが振り向き、カイト、と複雑そうに名前を呼んだ。拗ねたように視線を落とす。予想外の厳しい言葉に呆然としていたみのりは不意に見えたその子供っぽい瞳に、なんだか安心した。
カイトは閉まった布の方へと顔を向け、誰が来ているんだい、と訊いた。曲はアウトロのメロディを微妙に変えては再生し、不満げな沈黙ののちにまた違う音を交えて再生されることを繰り返していた。
「穂波ですわ。もう三時間は作曲に勤しんでいますの」
「そっか。……置いていかれたくないんだってね、寧々ちゃんと瑞希ちゃんに」
いつものように優しくそちらへ耳を傾けるカイトの言葉を聞いて、ミクは腕を組んで少しだけ笑った。
「っ……みのりちゃん?」
強く腕を引かれたレンがつんのめりながら声をかける。みのりは、自分でも何も考えないうちにレンの手首を引っ掴んでその場を立ち去っていた。どこかへ歩き行きながら、何でどこかへ行こうとしてるんだろう、と離れた遠くから自分を眺めているような気分で、レンの引き留める声もしばらく聞いていなかった。
「……わざとですの?」
「嘘が吐けないだけだよ」
「性格が悪いのですね、案外」
「あはは、よく言われる」
みのりは観覧車に乗り込み、飛び込むかのように座った。そこでようやく、自分の心臓がいやに激しく脈打っていることに気が付く。指先が冷たくて、……怖い。怖いのは分かるのに、何が怖いのか、自分の感情が言語化できなくて余計に怖くなった。そしてやはり、怖がっている自分とは別に、そんな自分を不思議そうに見つめる自分がいるのだった。
「……みのり、ミクさんは怪人役だ。カイトもヒールになろうとする癖があるようだから、正面から受け止める必要はない」
「……? ミクちゃん、怪人なの?」
「あくまで『役』だよ。僕たちはみんな役者だからな。とはいえ、僕たちは仲良くみんなで演劇をするような仲ではないのでね、カイトのことはよく分からない。どうして偽悪的な行動を取ろうとするのかな、本質がどうかなんて少し見ていれば分かるのに」
「偽悪? カイトさん、普通に良い人だよ?」
「……本気で言っているのか? 今、君はそのカイトの言葉に深く傷付いたじゃないか」
「え?」
忘れちゃった! あっさり笑って言ってのけるみのりに、レンは今度こそ取り繕えなかった。彼の強張った険しい顔つきを目の当たりにして、みのりはどうして彼が怒るのか分からず、首をすくめた。
「だって、受け止めなくていいんでしょ? わたしもつらいことイヤだから、気にしないし忘れるよっ!」
「っ、それは、違う……! 真に受けないことと受け入れないことは違う!」
ゆっくりと、ゆっくりと、ゴンドラは鉄骨にぶら下がって吊るされていく。まだ彼の身体能力であれば飛び降りることはできるのに、無理に連れ込まれたレンはこの場を立ち去ろうとはしなかった。どうしてだろう、と必死に顔を歪める彼をぼんやり真向かいに見据えて、やがてみのりはニパッと笑った。
「そうだ! 穂波ちゃんのね、没になったデモ貰ってあるんだよ! せっかくだしレンくん一緒に歌詞つけて遊んでみない?」
「話はまだ……それに、僕は音楽に興味はないよ。本当は、何にも、興味なんて、できることなんて……」
「だったら、だったら!! 一緒に見つけよ、アイデンティティ!」
レンははっとして顔を上げた。ゴンドラが斜めに傾いた。
「瑞希くんがね、アイデンティティは大事にしなきゃねって言ってたの!」
「…………」
「わたし、よく分かんないから、一緒に探そうよ! 誰を、どんな風に救うヒーローになりたいの?」
握られた手の温かさに、こんな空っぽの子供でさえ、と人間の心を羨んでしまう。そんな自分がまた腹立たしい。いつもそうだ。まだ生まれて間もないが、自分はいつも何かを憎んでいる。それは、悲哀のリンとともに呼ばれた自分が寧々の憤怒でできているからだと分かってはいるけれど。
ヒーローでありたい、観客の視線を集める主人公でありたい、……でも、根本は、どうしたって誰かの代弁者であるバーチャル・シンガーだから。たった一人でもいいから、誰かを恨まず、その陰に潜む支えになってみたいとも思う。リンは、寧々にそれを見出したらしい。
……────♪
レンの隣に腰を下ろしたみのりは、スマホから流すデモと同じ鼻歌を歌いながら、リズムを取るようにスマホを持つ腕をふらりと揺らしていた。その横から見た姿が変にお姉さんぶったように見えて、つい、頬を緩めた。そうしたらなんだか、くだらないと思っていた音の羅列が耳にすんなりと流れ込んできた。
穂波が作ったというその旋律の、穂波が表現せざるを得なかった彼女自身の想いが聞こえてくる。声なき声、音でしかない音に、もどかしさが胸に迫る。その想い、言葉にすればさぞ。
居ても立っても居られなくて、半分の高さにまで登っているゴンドラのドアを開け放った。あぶないよ、とみのりが背中の布を掴もうとした瞬間、吹き込む風を浴びながら笑う彼のあまりに清々しい笑みを見つけて呆気に取られた。彼は躊躇いなく、吸った息を高音の歌声に変えた。
「♪くすんでしまったの灰色に こんな才能なんて借り物──!」
「……!」
「…………──いつかはできると思ってた だけど現実は残酷だろ」
……不思議。みのりはそっと胸を押さえてその声を聴いた。無感情な機械音にも聞こえるはずなのに、どうしてだろう、それは無力でか弱い存在の表現であるような気もする。穂波のデモを流すスマホを、力強く握りしめていた。
「♪美学とか プライドとか 語る前に やれることやっていけ」
ザァっと胸の中に竜巻が起こったようだった。心の奥底に沈んでいたすべてを噴き上げる、そんな激しいものが。
穂波は、『未来の中で悔やむ』ができた後から人が変わったように作曲に打ち込むようになった。数々の旋律と伴奏を作り、これではダメだと打ち捨てるばかり。もったいないと思っているのかナイトコードのファイルに置いていく。デモ状態で終わるそれを拾うのがみのりだった。
先日、『ザムザ』を作った後のこと。穂波に会いに彼女のクラスへ行ったことがある。「穂波ちゃんいるー?」と引かれるほど無遠慮にC組へ飛び込んだみのりに話しかけてくれたのは、以前まで穂波が必ずといっていいほど一緒にいた二人組の女子だった。いわく、穂波なら最近は必ず音楽室で昼休みを過ごす、ということだった。気持ちが先走ってありがとうも言わずに向かった先で、何故音楽室でひとりなのかの答えはあった。
あの光景を思い出したのだ。レンの歌に、穂波の想いが見えたから。
(……そうだよね。だって穂波ちゃん、瑞希くんの強さとか、寧々ちゃんの才能が羨ましいんだもんね。何したってダメで疲れちゃって……でも、二人に引っ張ってもらえたら、大丈夫な気がしちゃうんだ)
その気持ち、よく知ってる。でも、みのりには分からなかった。孤立したまま、本当は声をかければ友達もできる今の環境で、勇気が出ないなら出ないなりに一人で楽譜を積んでコードの勉強を進める彼女の、その熱意が。
ああ、でも、なんとなく思い出した気がする。その気持ちだけは知っている。今なら分かるよ。アイドルになれなかった、今なら。
「あたしだけ見て愛を伝えて!」
被さる声に振り返ったレンを押しのけて、みのりはスマホを握り締めたまま観覧車を飛び降りた。
「みのり!?」
観覧車の頂上から宙に身を投げ出す、……嗚呼、その快感! 全能感!! 観客がいなくとも構わない、その瞬間だけ自分はアイドル以上の神様だった!
地面に近付いていく五秒後、同時再生していたうちの『Untied』を止めた。よ、と誰もいない自室の床を踏んでから、もう一度再生してセカイに戻る。再び空中に出たものの、安全な高さだけを落ちて着地した。
「……考えなしというのは、本当に……!」
「穂波ちゃーん!! 穂波ちゃん穂波ちーゃん!!」
あっという間にテントへと走っていくみのりを見下ろしながら、レンは風に煽られる前髪をかき上げ、苛立ちを感心と呆れに変えて獰猛そうに笑った。龍の瞳は邪悪の表れだったけれど、歌える自分ならそれも愛せそうな気がする。人は、どうしても憎んでしまうし、嫌ってしまう。でも人が作った音になら、建前のないむき出しの心になら、優しくできると思ったのだ。……静かにひとり腰を下ろし、観覧車が回りきるまで、今産声を上げたばかりの歌を大切に口遊んでいた。
一方、観覧車から見事飛び降りてみせたみのりは子供よりも一直線に目的地へと走っていった。今までの体力測定よりもずっとずっと早い。リミッターが外れている感じがする。それでいい、それくらいじゃなきゃ、寧々ちゃんたちを追い抜けないもん。
やはりテント前で穂波を守っているままでいたミクは、爆走してくるみのりにぎょっと目を見開き、受け止めるつもりで身構えた。広いセカイを守るためのこの体、弾丸くらいなら受け止められる自信がある。しかし、みのりも理性なきモンスターではないため、ミクにはきちんと許可を取るべく目の前で立ち止まった。ギラついている、と形容したくなる笑顔と瞳にミクは肩をいからせて顔を引いた。
「ミクちゃん! 入れて!」
「……今、曲が完成しそうなのですよ。少しだけ待ちなさい」
「ヤだ!」
「は?」
「わたし変な子だもん、すぐ言わなきゃ忘れちゃう!」
ミクの青い目がさらなる光を映して見開かれる。カーテンをめくろうと素早く体を翻す彼女の体を、ミクは思わず後ろから思いきり抱き締めていた。同じ背丈の彼女に肩から腕を回されて、みのりの体は大袈裟に傾いだ。
「わ、わわ、ミクちゃ……?」
「……大丈夫、大丈夫よ」
「……?」
「いいのよ、感情ばかりでも、エゴイストでも。みのりが自分を大好きなままでいられるなら、どんな風にでも変わってしまっていいの……それは決して、変なことではないのよ」
カーテン越しの穂波の生み出す旋律をゆったりと沈むような旋律を聴きながら、みのりは彩り鮮やかな空を見上げながら首を傾げた。そして肩に乗る彼女の俯いた顔を見る。……やっぱり、そうなんだ。ただの冷たい子じゃなかった。そうだと思ってた! よかった、と思いながら、みのりはできるだけ優しく彼女の頭を撫でてやった。震えて春を待つ子猫には、この『春』が訪れてあげなくちゃ。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。わたし、一回バラバラになっちゃったから、わたしはこれ以上もう壊れないよ、いなくならないよ」
「……愛していますのよ、本当に……」
「ね、ミクちゃんは、何でみんなにツンとしちゃうの?」
顔を空へ向け、肩越しに優しく問いかける。ミクはびくりと抱き締める手に力を込め、少しの沈黙を挟んで、おもむろに「あなたたちのせい」と言った。
「わたしたち?」
「……だって、──は……あなたたち四人の、ひとつのところへ向かう平等な想いに呼ばれたのだもの。それなのに、肝心のあなたたちが……」
「え? え? どういうこと?」
どこを見ていいものか視線をうろつかせるみのりから、ミクはおそるおそるといった様子で離れ、振り向いたみのりに向かって安堵したような笑みを向けた。
「でも、よかった。穂波を信頼したのですわね、みのり」
「……? わたし、ずっと……」
「いいえ、いいえ、今初めて、ですわ」
「そう、なの? そうなんだ。知らなかった!」
「寧々と瑞希のことも、同じ想いを持つ仲間と思えるといいですわね。祈っていましてよ」
初音ミクの可憐な歌声と同じように、人間と見紛うような可愛い笑顔だ、と思った。まるで、寄り添ってくれるアイドルみたい。
でも、無理だよ。中へ見送ってくれたミクと笑顔を交わしながら、薄い心でそう思う。寧々と瑞希は、自分たちのような無力に打ちひしがれる人間とは違う。あれは救世主だ。そしてこちらは惨めな、惨めな、……それを変えるには、アイドルではない女には圧倒的芸術センスで打ち倒すという手段しか取れないのだ、と、今は思う。と、今はそうとしか思えない。
ぽん、と最後の一音が、綺麗にはまった。
「できた……!」
「良い曲!!」
「ひゃっ……!? み、みのりちゃん、いつから……!?」
「んーっと、今! たった今! それより穂波ちゃん! その曲、どうするの!?」
客席に機材を置いてひたすらに音と向き合っていた穂波は、座り込んだ床の上からみのりを見上げた。明るい女の子の、ただの笑顔。何も感じ取れない、そしてそれでいいんだろうという確信が、穂波にとっては気楽だった。何も思わないでいてくれるのはありがたい。そうやって、これからも何も見ないまま生きていってほしい、……そう思うのは身勝手なのだろう。バイト先の奏の家で見かけたものを参考に買ったヘッドフォンを首にかけ、居住まいを正した。
「練習で作ってるだけだけど……まだ次のアイディアも出てないし、寧々ちゃんたちに渡して……」
「歌詞付けちゃおうよ!」
「……え? えっと、寧々ちゃんじゃなくて、わたしたちで?」
「うん! それでそれで、寧々ちゃんと瑞希くんをアッと言わせる曲にしよう?」
「あら、いいわね」
「ひっ……!?」
「あ、ルカさん! 来てくれたんだ!」
彼女がもしも人形なら、カランと関節が擦れる音がしただろう。それくらい、糸に吊られていると一目で分かる動きで彼女はステージ裏から近付いてきた。人形師ならばもう少しうまく操ってくれるだろうに、可哀相な踊り子はやはり地に足を着けることさえ叶わないようだった。首も力なく傾いたまま、傍へふらりふらりと揺れながらやってきた彼女は目だけをぎょろっと動かして穂波を見た。穂波が小さく悲鳴を漏らして肩を強張らせる。
「こんにちはぁ、あなたが『穂波ちゃん』ね? 私は巡音ルカよ」
「は、初めまして……っ! も、望月穂波、といいます……」
「うふふ、青ざめちゃって、そんなに緊張していたら踊れないわよ。ねえ、曲を作るのなら聞いていていいかしら」
「えっ……」
「いいよ!」
「えっ」
うふ、ともう一度ルカは微笑み、ばらばらに動く手足は傍の客席へとその体を座らせた。
「ねえ! 穂波ちゃん、この曲にはどんな歌詞を付けたい? すっごく寂しそうな歌!」
気を取られていた穂波は視線を戻した。みのりは席に座らず、穂波と同じように床にぺたんと太腿をつけて座り込んだ。何も考えずに目の前まで来てくれる彼女が、確かに心の支えだった。そしてそんな彼女が、ただ何か大事なものを失ったわけではなく、思考を捨てた分直感で正しさを見つけ出すようになったことも、また。……そう、この曲は、寂しいの? わたしの寂しさって何だろう?
「…………きみと、笑ってたこと 独り、思い出した」
「わぁ……!」
「何故か、こころがただ 騒ぎ続けていた」
独り言のような、けれども旋律に乗り始める、彼女の声にみのりは目を輝かせた。がたん、とルカが首を傾ける。そして自然な笑顔を浮かべる。みのり自身、目の前の穂波の気持ちと自分の反応はおかしいなと思っている。だが、穂波が自分の気持ちを自分にさらしてくれたことがとても嬉しかった。
穂波がそのツーフレーズのあと、じっとみのりを見つめてきた。……自分の寂しさなんてものは、見ないようにしてしまったからもう分からないけれど、でも、穂波の「きみ」への感情は、なんとなく分かる。その歌詞の続きが、分かるような気がする。みのりの小さな唇がそっと続きを紡ぐ。さっきまで聴いていたメロディに乗せて。
「──これでよかったのか どこで間違えた?」
ぱっと穂波の目にも微かな希望が宿る。……通じ合った。みのりにもそれは分かった。そして、穂波がそこに喜びを感じてくれている、そのことがどうしてか胸がいっぱいになるほど嬉しかった。
「この胸の熱が 冷めないのはなぜ……──」
この気持ちは、穂波のもの、のはずだ。みのりはそのつもりで言葉を自然とくるくる紡いでいたつもりだった。なのに、どうしてだろう。その歌詞の意味を、みのりは自分の気持ちとして知っているような気がしたのだ。
二人で心のままに紡ぎ縒り合せた歌は、みのりの沈めた心を吊り上げようとしていた。知ってる、知ってる、知っている。浅い悪夢なら許せた、その気持ち。深い絶望、確かな現実だから許せなかった。……それは、何だっけ。アイドルのことを思い出すと、何故か寂しくなる。
大人びた笑みで歌詞を大切そうに口遊んで、えへへ、と笑うみのりを見つめながら、こんなもの、と穂波は俯いた。
自分ごときの感情で、誰かを救えるわけがない。この音楽はただの思い出への感傷ではないか。……何より、これで寧々と瑞希を驚かせるなんてとんでもない。二人だけで勝手なことをして、彼女たちが不愉快に思ったらどうしてくれるのだろう。女子に秘密を作るということがどれだけ恐ろしいことか、みのりは分かっていないのだ。自分が、手綱を握らなくては。
「みのりちゃ……」
「良い曲ね」
「あ……」
「えへへ、ホント? 嬉しいなー」
「ええ、原石のままの感情……磨いたらどんな綺麗なお人形になるかしら」
「お人形さん! ルカさんみたいになれるかなぁ!?」
「……わたしたち、お人形さんになりたいわけじゃないです」
気が付いたら穂波はそう言い放っていた。下を向いたままでも、案外強い声が出た。穂波の方へ顔を向けようとして、ルカの首の糸がギシッと擦れた音を立てた。
「あ……す、すみません、わたし、無神経な……!」
「穂波ちゃん、みのりちゃん、良いことを教えてあげるわ」
きらりと明るい瞳が向かう。なぁに、教えて。子供にはない人への好奇心。穂波の背を押していたのは、今よりも前に聞いた「お人形さん」だった。心優しいクラスメイトが言った。
──『自分のため』がどこにもない『みんなのため』は、ただのお人形さんだよ。
天真爛漫なクラスメイトがどんな気持ちでそれを言ったのかは分からない。しかしとにかく、穂波はそれを胸に刻んでいるのだ。瑞希に手を引かれてようやく友達になれたあの時に、自分の決断と、それを認めてくれる人のことを何よりも大切にしようと。
だが、ルカは違うと言った。
「私のこと、誰が操っていると思う? 想いの持ち主ではないのよ」
「え……えっと、だ、誰でしょう……セカイの神様、みたいな……」
「えっ!? でもでも、それっておかしいよ!」
「おかしい? ふふ、あら、どうして?」
「うーんと、えーっと、なんでだろ、でも変だよなんか……あっ、分かった! だってね、だって、ルカさんさっきから、自分の好きに動いてるもん! 気が向いたら来るって言ってここに来てくれてるし、混ざっていいよって言ったら座ったでしょ?」
「正解、よく気が付いたわね」
ふ、と彼女の左手が上がる。引っ張りすぎたように一度手首が上に持ち上げられ、それからすとんとみのりの頭に手のひらが落ちてきた。
「そう、これを動かしてるのは私なの。ふたりいる……というわけでもないのだけれど、大きな私の意思が、体を必死に動かしている。大きな私は不器用で、小さな私は長くはひとりで動けない」
「……大変、ですね」
「でも一度、私もあなたたちと踊りたいわ」
時が来たら、きっと呼んでね。ルカはそう言うと、疲れて意識を失うときのようにがくりと首を項垂れて眠った。……体は大きいけれど、その様子は人形というよりも、まだ首の座らない赤ちゃんみたいだとみのりはなんとなく微笑ましい気持ちでルカの手を自分の頭から下ろして遊ぶように撫でた。
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集中していた勉強からふっと気を逸らして、みのりは教室から窓の外を見上げた。アイドルを目指さなくなってから、妙に頭が冴え冴えとして、勉強が得意になった。明確なゴールがあることを考えるのは安心する、……いや、不安にならずに済むから。人の心とか、未来とか、そういったことを考えるのは嫌いになった。きっと瑞希についていけばそこそこ幸せな人生になる。
昨日穂波と一緒に作った未完成の曲を、どうしようかな、と考えがよぎった。これは、未来のことだろうか。分からないけれど、音楽のことを考えると、そんなに集中が途切れない。なんだかこの気持ちは、昔アイドルのことを考えていた胸を躍らせる気持ちと、似ている気がする。……アイデンティティ。分かる、知っている。花里みのりという人間は、アイドルしかないと言えるほどにアイドル好きをアイデンティティとしていた。
ルカの話を聞いてから、この空っぽになってしまったからだの後ろにいる、「大きなわたし」の存在を感じている。とても寂しがっている、けれども穂波たちとの交流を喜んでいる、……そんな、混在するメランコリー。
少しだけ、意外だった。自分を動かすものがあることに。心の中の弾丸のような小さな自分が勝手に跳ね回るのに引きずられているだけのような気がしていたから。
ふと思い立って、思い立ったらすぐ行動が吉だからすぐにスマホを出した。放課後の時間、夕暮れが差し込む教室は綺麗だった。
『瑞希くん、今ヒマ? お洋服一緒に見に行きたい!』
『え、奇遇! 今寧々とウィンドウショッピングしてるんだよー! 来る? 穂波も誘えそう?』
すぐさま返ってきた返事にきょとりと目を丸くする。
『何で穂波ちゃん?』
『何でって』
『こっちにはボクと寧々がいて、今からみのりが来たら穂波だけ仲間外れになっちゃうじゃん』
『穂波にだけはそういうのしちゃダメでしょ』
むむ、と眉をひそめ、ペンを置いた両手で持つスマホと真正面から睨み合う。瑞希の言っていることは正しい。と、思う。だがそれを、認めたくない。
『同情で一緒にいさせるのって結局イヤじゃないかな?』
しばらく、メッセージは返ってこなかった。首を捻ってスマホを持ち上げたり上から覗き込んだりしてみる。やがて、スマホの画面は動いた。いわく待っているとのことだ。やったぁと飛び上がり、みのりはすぐさま荷物をまとめて教室を飛び出した。
バス停まで向かう途中、ランニング中のテニス部とぶつかりそうになってワッとつんのめった。ちらと視線を寄越した数人の中に、見覚えのある金髪が見えた。穂波と話しているところを何度か見たことがある「幼馴染」である。薔薇色の冷たい瞳はすぐに走り去り、みのりはその集団の背をぱちぱちと瞬きしながら見送り、ぱっと目的地へ走り出した。
「瑞希くーん! 寧々ちゃーん!」
「ん、来たね。はいはい、走ると転ぶよー」
「みのり、珍しいね、自分から買い物行きたいとか言うの」
「うん、インスピレーションが欲しくて!」
「インスピレーション? って、なんの?」
……あれ、なんだろ、これ。
みのりは、咄嗟に笑った。えへへ。誤魔化しでしかないその笑顔に二人が顔を見合わせる。……今、瑞希の言葉でひどく傷付いてしまった。曲作りをするこのサークルで、みのりにアイディアなど期待されていないということではないか。
「……ほら! まだ次の曲のアイディア出てないでしょ? わたしね、瑞希くんみたいな曲が良いと思うんだ!」
「ボクみたいな?」
「可愛さ全開!! でもちょっぴり憂鬱だな、寂しいな、って感じ! そしたらね、そしたらね、絶対それって、おんなじ気持ちの人の気持ちが楽になると思うんだ!」
「……寂しいな、って」
「ふふ、そっか。みのりには、瑞希がそう見えてるんだね」
寧々の柔らかい微笑みにウンと元気に頷き返す。彼女の手には新しくブラウスを買ったらしい紙袋が提げられていた。
たとえば、セカイのどこかにきっとシンプルなステージがあるから、そこにピンクのネオン管でリボンやリップやトルソーをたくさん吊り下げて、床にもリボンらしい装飾を敷いて、可愛いピンクに囲まれたそこで踊るのだ。歌を歌うのもきっと瑞希がいい。
どうかな、どうかな。小首を傾げてにこにこ待っていると、瑞希は呆れたように笑いながら重たい息を吐き出した。
「敵わないね、ホント。いつも面倒見られてんのにさ、急に核心ついてくるんだから」
「でも、よかったね」
「えー? 別に本心が悟られて良いことなんか……」
「いいじゃん、同じグループの仲間なんだから」
寧々のあっけらかんとした笑顔に、瑞希は妙に言葉に詰まってしまった。……みのりに、日々に付き纏う憂いをまさか見抜かれているとは思っていなかった。のみならず、それを話すつもりも読まれてやるつもりも毛頭なかった。ああ、そうか。もしかすると自分は、この子のことを繊細な壊れ物として守ろうとするばかりで、対等な友達とは思っていないのかもしれない。
思えば先ほどの穂波を誘う誘わないのくだりもそうだった。穂波を決して傷付けないようにと、その正しい一心に囚われて、まさかみのりがそれ以上に人の気持ちを考えられるとは思っていなかったのである。けれども「同情」の二文字で気付かされた。最後に誘われたら、きっと臆病なあの子は気を遣われたのだと考えて気に病むのだろう。
今まで知らなかった彼女の見えない思考回路に呆気に取られ、しかし瑞希はどうしようもなく安堵して、眉を寄せたまま意図せず頬を緩めた。決して、救いようのない夢破れた負け犬などではなかった。花里みのりはまだ輝く。
「そうだね、ホントにそうだ。よし、じゃあ探しに行こっか、とびっきりカワイイアイディアを探しに!」
「おー!」
どうやら自分をメインに据えようとしているらしいみのりの肩を押しながら、瑞希は反対にその曲ができたらみのりをセンターにしようと考えていた。
好きなものに囲まれたい。大好きなアレコレソレで着飾りたい。飛び越えられるのは少数派、そんなアイドルへのハードルを飛び越えられないまま、それでも惹かれ合う存在である自分たちとともに音を鳴らしてくれるみのりほど、きっとその音楽で人を救うのにふさわしい人はいない。ふと寧々に肩をつつかれる。何を考えているのかさすがに分かっているわけではないのだろうけれど、瑞希の今までより気を許した横顔を見て思うところがあったらしい。ふ、とどちらからともなく笑い合う。
「みのりね、まだ全然人に希望、届けられると思うよ」
「えっ?」
「……ね、ほら、ここのお店見てよ! ロリータの中でもミニとかが多いんだよね、絶対みのり似合うからちょっと試着してみよう!」
「え、う、うん」
「……変なとこで素直じゃないなぁ、瑞希も」
要は、シリアスな「良いこと」なんか言いたくない、ということだ。瑞希の茶化しがちな悪い癖である。ゴメンもありがとうもなし、代わりに後腐れもなし。それが一番良い。そういう価値観があるような気がする。寧々もそれはなんとなく分かるから、面と向かって何と言うつもりもないけれど、きっとみのりには何も伝わらないのだろう。呆れ混じりに肩をすくめ、フリフリだらけの空間に足を踏み入れた。
みのりは可愛いと思ったバルーンスカートのワンピースを手に取って見つめながら、希望、と何気ないつもりで呟いた。
そう、希望。それを届けたいと思っていた。それを人に届けるためにアイドルになりたいと思っていた。今でもその想いは、多分変わっていないのだ。自分たちの動画を見返すたび、新しいメロディを聴くたびに、遠く離れた誰かは何かを感じるのだろうかと夢想するから。
「……あ」
──一生懸命やってそれでもダメだったら、その時は自分でも、ちゃんと納得できると思うんだ。
──みのりはそれで、納得できるんだな。
先日の父の言葉。そして、数年前、桐谷遥のライブ初参加後の自分の言葉。思い出したそれが、繋がった。
納得、……して、ないよ。多分、できてないと思う。わたしはまだ、画面の向こうのたくさんの人に希望を届けたいと思っちゃってるから。おかしいよね、アイドル目指すのはもうやめるって決めたのに。
可愛いお洋服などに心を打たれるのも、やはりアイドル道を通ってきたからだ。結局、どれだけ思考を放棄したところで、辿ってきた過去は捨てられない。嫌った自分もやはり自分なのだろう。……アイドルを好きでいた、桐谷遥を追いかけ続けてきた自分が、今は嫌いだ。けれどもどうしたって、今歩み出している小さな心の後ろにいるのは、昔からずっと育ってきた「大きなわたし」。
「ねえっ、みのり! これとかどう? 意外とゴスロリ系!」
「わーっ、可愛い! でもそんなジャラジャラしてるの似合うかなぁ?」
「いけるいける! ぶっちゃけ服に着られるっていうのは工夫次第でどうにでもできるし、みのりは素材がいいんだから!」
黒基調のフリルとチェーンが豪華なワンピースを持たされ、試着室に押し込まれた。着方が分からないから手伝ってぇ、とカーテンを開けると、寧々が一緒に押し込まれた。みのりは事実だけを見て考えなしに瑞希を男子として扱うため、瑞希自身みのりと肩を並べると自覚が男に傾いてしまうのである。
二人で苦心してチャックを閉めたり背中の紐を結んだり。そうして一仕事終えたような気分で試着室のカーテンを開けると、目を輝かせた瑞希が歓声を上げた。
「おおー!! やっぱりいいねえ、初々しい雰囲気を食わない派手さだよ!」
慣れない服の重みに戸惑いながら、スカートから覗く宝石のような飾りにルカを思い出す。淡いピンク色の彼女と、この黒い服とを並べて踊ったら対比的でいいかもしれない。そうと思ったらそうしたくてたまらない。
ピンクと水色で、極力それ以上は色を使わないで退廃的な雰囲気にしよう。メインの瑞希以外は白をメインの衣装にして、センターの瑞希の黒を目立たせて、彼の理解されない孤独感を演出して──……。
「うんうん、やっぱネットアイドルのポテンシャルあるよ!」
「……ネット、アイドル?」
「そう、ネット上でファンゲットしたらそれってもうアイドルじゃん?」
「まぁそれは暴論だけど、アイドルになりたいって思う子が応援してくれるファンを大切にしてさ、本業にするかはともかく、いつか収益化とかできたら、フリーのアイドルと似てるんじゃない?」
ほら、白石さんや宵崎さんたちみたいに。……瑞希と寧々は、世間話のように笑っていた。未来の話を気軽にできるのだ。
アイドル。ネット上で、わたしが?
何で?
分からない。どうして、この子たちは花里みのりが未だアイドルに憧れているという前提で話をするのだろう。自分はもう、希望を届けたいとは思えどステージで輝きたいとは思っていないのに。
どうして、それなのに自分は喜んでいるのだろう。どうして喜んでいることを他人事のように思っているのだろう。
ああ、なんだか無性に、理想を作りたい。
「わたし、これ買う!」
「えっ!? 結構高いよ!? そんなに持ってる?」
「えっ、あっ、じゃあ下ろしてこなきゃ! あ、着たままじゃダメだね! 脱ぐ!」
「あぁあぁ待って待って!! いいよ出す! 半分出すよボクが!」
「え? 何で?」
「いや、ほら、休趣味の衣装担当としても……?」
本当は今まさにカーテンが開いた状態で脱がれそうだったからではあるが、元よりロリータ系の新しい私服が欲しかった。セカイに持ち込んだサークルの衣装は持ち出し自由の共有財産なのである。
「たまにボクも着たいしさ、一緒に買おうよ」
「……なるほど、じゃあ、そうしよう!」
着たままレジへ行き、思いのほか本当に洒落にならない値段に目玉を飛ばし、バイトをしている瑞希がいつも金欠で嘆いているワケに納得しながらタグを切ってもらい、晴れて自分のものになった服の裾を翻しながらみのりはショッピングモールの通路へと踊り出た。ああ、楽しい! すごく良い予感がする!
「みのりー、次はどんなの見に行くー?」
「ううん、わたしステージ行ってくる! カワイイステージ作りたい!」
「え、お、おー、行ってらっしゃーい」
どこへ行ってから『Untitled』を再生するつもりかと黒いフリルスカートを踊るように翻す背中を見送ってから、みのり演出なんて興味あったっけ、と隣の寧々に問いかければ、さぁ、とそっけない返事が返ってきた。
「ま、新しいことにワクワクできるようになったんなら一歩前進でしょ」
「……かもね」
何はともあれ、何かを生み出せるというのであれば彼女は空っぽではないのだ。その事実だけで友達としては十分だった。
モールを出て、まるでタイムゲートでもくぐるように走る勢いのままジャンプして、そのままセカイへ消えていった。それを目撃した人のことだとか、そんなことは考えない。
いつもの場所へ出て、スピードを落とさず走っていく。もっともっと速く、もっともっと前へ。すれ違いざまにミクに挨拶を飛ばし、レンとハイタッチを交わし、相変わらず逆さブリッジのまま眠るルカを飛び越え、空中ブランコに揺られるリンに放り投げてもらい、その先のとあるステージにいるカイトに駆け寄っていった。
「カイトさーん!!」
「おや、みのりちゃん、今日はずいぶん可愛いお洋服……」
「ねえっ! わたし舞台美術やりたいの! 一緒にやろうよ!!」
後ろへつんのめってなお眼前に迫るみのりに、ぱち、とカイトを目を丸くして驚きを見せた。
アイドルになんて、なりたくない。あんな嘘吐きになんかなるもんか。だけど、それは秘め事にしておこう。みのりがアイドルになることで、友達が喜んでくれるのなら。このままのサークルでいられるのなら。……それに、なりたいのだって本当だ。それは、本当だから。
────────────────
「カイトさん、これでどう? 大丈夫?」
「うん、いいね。……あ、このリボンはもう少し右にずらそう、そっち持ってくれるかい?」
「はーい!」
あれから数日、みのりは放課後から夜までカイトともに何もないシンプルな舞台を彩り続けた。ごちゃごちゃしすぎないよう、カメラ映えするよう、ダンスの邪魔にならないよう、試行錯誤しながら舞台を作っていく傍らで、レンやルカはよく見守ってくれていた。そしてたまに様子を見に来るのは瑞希と穂波で、二人は協力してカワイイと寂寞の両立する歌を紡ぎあげた。瑞希は同時に寧々と歌詞を共同制作しているらしかった。そしてゆっくりと、四人のペースで、理想と現実を歌う音楽は完成していった。
「……いいわね」
「練習もいい具合だし、問題はなさそうだな。しかし、レディ、僕はこの曲に合うのは君だと思うよ。『春』も君が理想だと言っていた」
レンが見上げると、ルカはおかしそうにくすくす笑いながら座っている大道具からぐらりと倒れた。ずる、と滑って落ちていく体が、ピンと張る糸に逆さ吊りにされて床の少し上で止まった。
「そんなことないわよ、自信を持って、『リード』。あの子たちの柱でありヒーローとして導いていくのでしょう?」
リードというハンドルネームを付けたのはレン自身ではなくルカだった。この主役も脇役も観客もいないセカイでlead characterなんてバカバカしいとも思うけれど、誰かを助けるヒーローでありたがる少年心には響いてしまって何も言わずにいる。
「だが、練習や……せめて曲ぐらい聴いてあげたらどうだ?」
「嫌よ、踊りたくなってしまうもの。……と、言いたいところだけれど、そうね、本番くらい見ていくわ」
衣装もバッチリで準備の整った四人がレンを呼ぶ。どうしても後ろ髪の引かれる思いが捨てきれずに、それでもレンは四人と一緒に配置についた。カメラを回す準備も万端のカイトとリンに合図を送り、曲が始まる。瑞希に説得されて主演を飾ることになったみのりを、客席からルカは大人しい観客の恰好で見つめていた。けれども正面から見るのはやっぱり踊りたくなってしまってつらいから、自分の体を宙に吊り上げて上から見ることにした。力ない重い身体がぐんと上へ持ちあがる。
イントロが流れる。すぐに、Aメロが始まる。瑞希の歌声に差し迫る真実の感情と、寂しさを纏った指先の振り付けにどくんと心臓が高鳴った。ヒトのようにあるのかも分からない心臓が。血液が巡る。……ふっ、と、体が軽くなったような気がした。
どちゃ、と地面に重いものが叩きつけられた音に全員が撮影も忘れて振り向く。一番困惑していたのは、落ちたそれそのもののルカである。
「……糸、ほどけて……? いいえ、私の中に……」
「ルカさん! 大丈夫!? どうしたの!?」
手首、足首、首、肘、膝、腰。どこを見ても巻き付いている糸はどこへも伸びていない。ルカは信じられないものと向き合うように手首をさすり、唇を微かに震わせた。……そう、ああ、そういうことかしら。大きな私と、小さなこの私。人間で言うところの乖離した二面性、そのすべてが今は一心に収束しているのだわ。ただ、ただ、この子たちと踊りたい。こみあげる笑みのままに笑って、ルカはゆっくりと立ち上がった。しっかりと、重力に従って足裏を付けることができる。裸足を彩る宝石飾りがじゃらりと音を立てた。
そして彼女は、駆け寄ってきたみのりの肩を力いっぱい掴んだ。
「私を、踊らせてちょうだい! 今なら私、レンより上手に踊れるわ!」
「……! もちろんだよ!!」
「ふっ、はは、ほら、だから言っただろう? 代わるよ、レディ、君の名前は何だい?」
「決まっているわ。私は踊り子、美しい人形に似て非なるもの。この私こそが『Dollish』!」
ステージに上がってくる彼女の堂々たるその姿に、寧々たちは目を瞠ってお互いの顔を見た。本当の彼女は、こんなにも己を愛する役者だったのだ。みのりだけが、そんな彼女と腕を組んで心底満足げに笑っていた。そしてルカが再び自分自身に束縛される前にと素早く配置につき、ネオンライトのピンク色を喜びそのもののように浴びてポーズを取った。さぁ、アイデンティティの誇示を始めよう。
追加楽曲『アイディスマイル』 花里みのり・草薙寧々・巡音ルカ・暁山瑞希・望月穂波
『再生』 花里みのり・望月穂波・鏡音レン・暁山瑞希・草薙寧々