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    リルノベリスト

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    リルノベリスト

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    ユニストはこちら→https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=18771150

    愛する一夜にこの歌声を追加楽曲『ザムザ』愛する一夜にこの歌声を
    同年代の女子たちの笑い声が苦手だ。自分のことを笑っているんじゃないかと疑ってしまうから。

    「えー、ヤバくない?」
    「ねー」

    くすくす、笑わないでほしい。中学時代の失態を思い出すから。笑ってすらもらえなかった記憶が、より惨めになるから。

    だから今日もゲームとイヤホンに閉じこもる。足早な休み時間が通り過ぎてしまう前に、今日のデイリーを消化しておかなければ。スマホにイヤホンジャックを差し込んで二つの粒に耳を摺り寄せるとき、周囲の何でもない顔がこっそり根暗な奴だと笑っていないか恐ろしくなる。別に、性格なのだからいくら思われたって構わないけれど、そうと思うとほんの少しだけ恥ずかしい。

    敵を打ち倒し、NPCからちやほやされる。ストーリー性もありつつバトルがメインのゲームは嫌いじゃない。……誰も、馬鹿にしてこないから。
    『休日、趣味人同士で。』内のゴタゴタがようやく落ち着いて、『ハピネススマイル×ワンダーランズ』によるフェニランの一大事に歌詞を数曲提供し終え、一息吐いてから数日、寧々にはようやく自分の内面と向き合う余裕がやってきた。それはもう、向き合わなければよかったと後悔するほどに。自分は自分で思っていたよりもずっと、ずっと、人目に怯えて足の竦む蛙だった。

    今はまだ機材を全員で見繕っている最中である。やはり皆お喋りなものだからあれがいいこれがいい、買うつもりがなくともスクショやURLをチャットに載せては盛り上がり、ようやくマイクとカメラが揃ったところだった。編集は瑞希が張り切っているので、あとはみのりを中心に考えたダンスの練習をすればさっそく『休日、趣味人同士で。』一作目の動画を撮ることになるだろう。
    どうやってステージを飾ったものか、悩む頭はそれに限らせることにしている。

    なにせ憧れたショーステージ、その上で守るべき仲間たちとともに踊り、歌って、それを親友に編集してもらった最高の状態で世に発信できるというのだから。そのショーステージが現実に存在しないことなど些細なことである。

    瑞希の作っている衣装ももう最後の一着が佳境に入っていると言う。学校なんか行ってる場合じゃないねと笑っていた。いつも行ってないくせに。不意にそれを思い出して、誰が見ることもない授業中の片隅で、寧々は微かに口角を上げた。
    自分とは無関係なざわめきが楽しそうに口をそろえる昼休み、鞄から弁当箱を取り出す最小限の動きだけで彼女の昼を過ごす準備は整う。今日はどの音楽を聴きながら食べようかとスマホに手を伸ばした刹那、一息に無関係だったざわめきが無視できないほどに形を変えた。無作為かつ無遠慮な空気を切り裂くようにして溌剌な声を飛ばしたそれを見て寧々はぱっと表情を輝かせた。

    「ね~ね! お昼一緒に食べよー! なんとなんと、司先輩と約束できちゃった!」
    「瑞希……! え、ホントに? 早く行こ」
    「えっへへー、もう今日そのために朝一番に来ちゃったんだよね」
    「え? でもいなくなかった?」
    「え、うん。朝来てー、お昼しよって先輩誘ってー、一回帰って今来た」
    「あはは、何それ、何しに学校来てんの」

    そりゃもちろん楽しむためでしょー。弾む瑞希の声を最後にクラスはいつもの姿を取り戻した。弾む足取りにひらりと揺れる寧々の髪をぽかんと見送っていたクラスメイトたちはいつもの顔を取り戻すのに幾ばくかの時間と整理を要したが。

    友人というものがサークル内以外にはほとんどおらず、最近フェニランショーの一件でようやく類との絆を取り戻すことができた寧々に関して、他人が抱くイメージはといえば常に無口無表情でいつもスマホに向かっているくらいのものである。だから、ほとんどが寧々の顔がほころぶところなど初めて見た。よりにもよって、噂の暁山瑞希に対して。
    類がこちらに来ると言っていたのは司のその約束ゆえかと納得していた冬弥はふと、ノートのまとめを終えて机にしまいながらクラスの異様な雰囲気に気が付いた。

    「今のって……」
    「え、あれがそうなの? うわー、すごっ! 全然わかんなかった」
    「草薙さん、知らないのかな……」
    「こないだ教えたけどなー」

    無関心二割、心配二割、残りが享楽。あらゆるものが渦巻き、やがて徐々にほどけていく。少しずついつもの様子に戻っていったクラスの渦中で冬弥は涼やかな顔つきをそのまま傾け、まぁいいか、と無関心なまま弁当の包みを提げて彰人のクラスへと向かった。


    ────────────────


    程よい風。無風に籠もることもなく、突風に煽られることもない。ドアを開けた先にあったのはそんな空気だった。微風の中飛び出していく瑞希が真っ先に向かっていく後を、寧々も早足でついていく。

    「司せーんぱい! お待たせ~」
    「おお暁山、来たか! 草薙も久しぶりだな!!」
    「久しぶりって、こないだ類と三人でナイトショー見に行ったばっかりじゃないですか」
    「ハッハッハ、そうだったなぁ! まぁ何はともあれ座るがいい! 聞きたい話もしたい話も山ほどある!」
    「ボクも! 隣ゲットー!」
    「もう、はしゃぎすぎ」

    滑り込むように司の隣へ腰を下ろした瑞希にふっと頬を緩め、寧々もその隣へと座った。スカートがめくれては困るので伸ばした膝に弁当の包みを広げる。両手に花だと言う瑞希と、華を自負して高らかに笑う司。肩の力がいつしか抜けていったようだった。ここはひどく、息がしやすい。

    「それで、動画の方はどうだ? 先日草薙からもうじき準備が整うと聞いたが」
    「うん、昨日の夜衣装も仕上げたから、これから撮るんだ。寧々には大事な歌撮りの仕事もあるからねー、期待してるよ!」
    「あ、もう衣装できたんだ……それじゃあ、うん、頑張らないとね」

    期待された分は返さなければ。破滅へ猪突猛進していたみのりを止められたように、見ず知らずの誰かにとってほんの少しの救いになるように。せっかく見つけた居場所の、せっかく見つけた自分にできること。

    「順調ならば何よりだ! 完成したら見せてくれ、このオレがファン一号だぞ!」
    「やったー! もっちろん!」
    「え、あ、司先輩に見てもらえるの……? じ、じゃあホントに頑張んなきゃ……」
    「そーだ司先輩聞いてよ! 先輩のセカイのことなんだけど」
    「ん?」

    司がふりかけご飯の大きな一口を頬張り、きょとりと目を丸くする。瑞希は一向に一口も減らない菓子パンを手に持ったまま彼の方へ身を乗り出した。パーソナルスペースというものを軽んじる彼がそのままの距離で言葉を待てば、そうだったと思い出した寧々が後ろから「実は」と話を継いだ。瑞希がようやくパンの包装を開ける。一口かじれば中から出てくるのはカスタードである。

    続いた言葉に、司はものを飲み込んだ口を開けて呆気に取られた顔をした。相棒には弱いけれど頼れる人だと思っていたから、寧々はなんだか意外な気持ちで彼のその顔を見つめ返した。寧々が言ったのは、セカイにミクが現れたんです、ということである。

    「ミク……そうか、あそこにはまだカイトしかいなかったものな。どんなだ? そのミクというのは」
    「それがね、全ッ然喋ってくれないんだよー」
    「喋らない?」
    「うん……カイトさんとは話しもしてるっぽいんですけど、こっちからは話しかけても無視されちゃって」

    誰もいなくなったセカイにミクが現れたのは、カイト曰く『休日、趣味人同士で。』が改めてひとつになったその日のうちだったと言う。事実、寧々が彼女を初めて見たのはみのりに歌を贈ったあの日のたった二日後であった。

    歌の練習がてら、最近読み始めた本をカイトにも紹介したいと思って夜中セカイへ飛んだのだ。歌詞作りには戯曲に加えてモノローグの入っている文学センスも大いに役立つことだろうと思ったし、読んでみればぐっと引き込まれる文章だったから、共有できたら嬉しいな、と思って。なにせここは趣味を語るサークルなのである。
    しかし寧々が見たのは、使い古された脚本を読むカイトの姿でも声出しやトレーニングをする姿でもなかった。初めに向かったテントのカーテンを手でかき分けた瞬間耳に飛び込んできたのは、ひどく柔らかい少女の声音。

    「そう、心優しい方でしたのね」

    それはショーの一場面のようだった。電源の落ちたLEDビジョンの前に並んで腰を下ろす二人の男女、穏やかな笑みで男が語り掛ける先には目を伏せて微笑む少女の横顔がある。セカイの座長からも人間たちの導き手からも解放されたカイトの表情はまるで恋を知った青年のように清々しかった。そして、彼と語らう女は、どこか勇敢そうで、どこか嫋やかそうで、それでいて目を逸らせない輝きを放っている。高いツインテールから細い螺旋状に降りる青い髪が、粉雪のように降るひとつきりの照明に白くきらきらと光っていた。

    「カイトが言うのです、寧々が親しくするのにも良い人間なのでしょうね」
    「ああ。瑞希ちゃんともよくやっているようだし」
    「穂波とみのりはどうですか。あの子たちにも救いの手を……」

    割り入っていいものか、不純物が混じってはいけない神聖な時間ではないかとさえ思った寧々が踏み出した一歩を、かれらは同時に悟ったとみえ、何の気なしの視線がふたつ、一方向へ走った。いつものように笑いかけてくれたカイトに後ずさりしかけた寧々のこわばりが抜ける。しかし、少女の纏った空気は穏やかではなかった。彼女の瞳には、ステージのライトよりもハッキリとした眩い煌めきが宿っていた。
    サッと立ち上がった彼女の動きに遠巻きながらぎくりとした。そのままステージ奥の扉へ向かおうとする彼女の後ろ姿は、もう劇のワンシーンのようではなかった。美しいものではなく、冷たささえも美しいほどは凍り付いておらず、ただ、ただ人間界のように無関心な女のお洒落な後ろ姿が歩み行くだけである。

    「み、ミク、どこへ行くんだい? せっかく寧々ちゃんが来てくれたんだよ」
    「結構です」

    機械音でしかない初音ミクの、冷たい声だった。ぴしゃりと言い放ったそれを最後に、重たい扉が閉められた余韻が空気を伝わってくるばかり。ステージを下りてカイトが歩み寄ってくれなければ、寧々はしばらくそこに立ち尽くしたままだっただろう。

    「ごめんね、寧々ちゃん」
    「ううん……今のって、初音ミクだよね?」
    「ああ、この前の一件が終わった後、不意に現れたんだよ。司くんとは無関係な、寧々ちゃんたちの想いだけに呼ばれたんだと思う。今まで話してた限り、君たちのことは大切に思っていたはずなんだけど……」
    「そう、だよね。ちょっとだけ聞こえた……でも、そっか。わたしたちの想い……目に見える形になっただけでも嬉しいな」

    後ろ姿に見えた彼女の襟元、そこに飾りとしてついていた金属の星。穂波がよくモチーフとして小物に取り入れているものとよく似ていた。彼女は星に深い思い入れがある。このセカイにおける『星』とは明確に違うそれが見られただけで、よかった。

    寧々は、それでもいいと思った。元より出会ってすぐにぺらぺら話せるような性格をしていない。顔を見ることにも慣れてきたら少しずつ声をかけてみようか、カイト越しに言葉を交わすことくらいはできるかもしれない、などと考える程度であった。また休日に集まって振り付け案を煮詰めた日に彼女を見かけた瑞希も、多少の差はあれ同じようなことを考えたらしくけろりとしていた。ひょっとしたら言わないだけで、向こうから無視する奴なんか放っておこう、くらいに思っていたのかもしれない。

    ただ、それでは済まない者もここにはいる。

    「わたしたちはそれでもいいんですけど……穂波が、ちょっと」
    「穂波……それは、あれか。咲希から聞いた話に関係しているのか?」
    「そうそう。無視されんのとかまさにトラウマ特攻って感じで、一気に苦手になっちゃったみたいなんだよね」

    ふむと考え込んだ思考を彼が半ば無理に打ち切ったのが分かった。

    「よく分からんが、あの場所でバーチャル・シンガーが理由もなく想いの持ち主を見放すとは考えづらい」
    「はい、わたしも理由はあると思ってます」

    ちょうど今夜、セカイに集まる予定がある。
    みのりなどは無視されようとも話しかけに行っていたが、一向に振り向いてくれないミクに頬を膨らませたかと思えば隣に座って一緒にぼーっとしてみるようなこともあり、ミクも交流でないのならわざわざ立ち去ることはしないようなので、それなりに上手く距離を保っているらしい。
    しかし穂波は、中学時代に受けたいじめの記憶がまだ身体に染みついている。話しかければ背を向けられ、しかしつかず離れずの距離に居続けられるのはつらいだろう。

    ……あの子たちにも救いの手を、と言ったミクの声が、まだ耳に残っている。世の中のどんな母親よりも慈愛と憐れみに満ち満ちた女の声。

    「どこにいても皆、生きづらいものだな」

    瑞希と寧々とで同時に顔を上げた。空になった弁当箱を閉じながら彼は二人に向けて大人しそうに微笑んでみせた。

    「び……っくりした~。司先輩でもそんなこと思うんだ?」
    「類には内緒だぞ? 後輩に弱音を吐いたなど知れれば何を言われるものか」
    「ふふ、了解」
    「まぁひとまず、立派になったお前たちの姿を見るのを楽しみにしているとしよう!」
    「もう、何ですかそれ……」

    そっちの話も聞かせてよ、と催促する瑞希に胸を張って彼が話を引っ張り出す。ずっと前から知り合いだったと錯覚しそうになるほどに近い距離は、自分たちから彼への感謝があるからだろうか。それとも彼が、かつては相棒越しに、今は面と向かって親愛の情を預けてくれるおかげだろうか。目標を持って間もない駆け出しのサークルに足りないものはそれだから。どこか全員が独り善がりで、どこかで互いの友情を恐れている。それでもあなたが欲しいのだと一線を越え続けるのは、常にどこかで、感じないほどの痛みを伴ってしまうものだと、少なくとも寧々は思うから。……だから、つい安心できる誰かに縋ってしまう。守らなくても大丈夫で、守られなくても大丈夫、そんな人。寧々にとっては、瑞希と司がそうだった。

    類がどう、彰人がどう冬弥がどうと、聞き慣れた名前のぽんぽん飛び出してくる話をよそに、寧々は不意に遠くを見つめた。そよと微風が頬を撫でる。髪を揺らす。……拭い去れない澱みが、今日も胸の底に溜まっている。

    どうにもこうにもままならない。だが自分たちは恵まれている。過去はどうあれ、息を吐ける場所があるのだから。そして恵まれている以上、誰かをきっと救わなければならないとも思う。ノブレス・オブリージュができない者を現代社会は許さない。
    チャイムが鳴ってそれぞれ屋上を後にし、教室前で瑞希と分かれた。A組に入ったようだが、いつまでいるのだろう。帰りは一緒に、と誘ってもよかっただろうか。寧々は包み直された弁当箱を胸に抱え、途端に居心地の悪くなった教室でおそるおそると歩を進めて席へと戻った。理由は分かっている。噂の不登校児と連れ立って名高き変人ワンのもとへ行ったのだ。好奇の的になることくらいは分かっていた。

    「ねえねえ、草薙さんってさ」
    「えっ? あ……な、何……?」

    窓際の席、教室の隅、自分にはふさわしい位置だと思っている。だからこそ、一時の噂に消費されるくらいだろうと諦めていた。

    「もしかしてフェニランのショーに出てた? ほらあの、ランド全部のスペシャルショー」
    「……えっ」

    突風が吹いた。体ごと揺するような衝撃に髪が大きく靡いていく。何人かのプリントが吹き飛んで楽しそうな悲鳴が上がったのが別世界のようだった。クラスメイトに、他意はないようだった。

    「あのミュージカル?の曲が好きだったからさー、有名なとこが作ってるのかなーってキャスト見て、そしたら草薙さんの名前があったんだよね。まさかぁって思ったから同姓同名だと思ってたんだけど」
    「あ……えっと……」
    「グループ名聞いたことないとこだったけど、なんだっけ、変わった名前だった、あのー、休日……?」
    「……『休日、趣味人同士で。』?」
    「あ、確かそう! やっぱそうなの!?」

    どう言っていいものか。寧々は必死に名前も分からないクラスメイトの胸元あたりを見ながら自分自身の緊張と戦っていた。曲がいいと思ったのならそれは寧々の功績ではない。寧々が作ったのは歌詞だけであって、曲自体はあのショーの首謀者たる朝比奈まふゆが作ったものである。そして『休日、趣味人同士で。』はまだ活動を初めてはいない。名を連ねてもらったのは、名を売ろうとする類につられてつい流れで、あわよくば活動前からの宣伝になればいいと思って。……今の、こんな風に。でも、いざこうなってしまうと。

    「……な、何で今……?」
    「え?」
    「あ、いや、その……うちのサークル、まだ単体では何もしてないんだけど、ショーからも時間経ってるし、何で今話題に出したんだろって思って……」
    「あーね! だって今天馬先輩んとこ行ってたんでしょ?」

    寧々の机の中でも、風の届いた生物のプリントがかさっと音を立てた。はっと顔を上げると、彼女はねぇと近くにいた友人に顎をしゃくった。

    「あのショーのキャストんとこ天馬先輩の名前もあったから、知り合いってことはそういうことなのかなって。てかすごくない? フェニランでバイトしてるの?」
    「え、う、ううん、違うよ。ただあの時はフェニランの、と、友達に手伝ってほしいって言われたから」
    「えー、すごいじゃん!」

    それからどうやって会話をしたのかあまりハッキリとはしていない。ただとても緊張していて、会話が終わった後、上げられない視線の内側で喧騒を遠巻きにしながら今の態度でよかったのだろうかとぐるぐる思考が回っていた。

    曲が好きだったから。……授業中、そう言ったクラスメイトの背中をちらりと見て、彼女はそのショーの途中で寧々の歌声が登場したことに気が付いていたのだろうかと疑問に思った。いいや、きっと気が付いていない。クラスメイトに声を認識されているとも思わない。
    だが、自分たちの存在を知る者は近くにいる。それだけは確かだと知らされてしまった。
    同じフェニランの近場に住んでいる者同士、名前を見られる可能性は端からあった。嫌なら個人名を出さなければよかっただけだ。
    しかし今、明確に、ネットに上げれば顔見知りに届いてしまう可能性が突き付けられている。しかも踊りを取り入れる自分たちは顔を出すのだから、見つかれば即座に分かることだろう。その末に、一体何を思われるだろう。すごいと思われるのならそれでいい。だが。……だが。

    (わたしが満足のいく出来でも、聞いた人が呆れるようなものだったら……?)

    決定的なミスをした自分に向けられる冷たい空気がうなじを撫でたような気がした。思わずぎゅっと目を瞑る。止めた息を、震える唇からゆっくりと吐き出した。とにかく落ち着きたくて、数学教師の声にこっそり申し訳なさの会釈をしてから机の下で読みかけのハードカバーを開いた。

    放課後、帰り際に瑞希を見つけた。声をかけようとしたけれど、先に瑞希に声をかけた見知らぬ男があった。上階から降りてきたところを見るに上級生らしい。

    「なぁ、暁山って何でそんな恰好してるんだ?」
    「……ボクがこの恰好、好きだからです」

    呆れたような目つきと確かな返答にほっとした。納得したのだか面白がったのだか男たちが去っていくのを見送ってから寧々も声をかける。一緒に帰ろう、と言って。二つ返事で肩を並べるどころか、学校帰りにドーナツの買い食いまでしてしまった。今度みのりと穂波も一緒に改めて出掛けたいな、と心に思いながら、寧々の脳裏には未だ瑞希に「そんな恰好」と言った男の何でもない顔が張り付いていた。ひどく、もやもやする。


    ────────────────


    休日、これまでにも詰めてきたダンスの最終案を出し、話し合いは無事に締結した。自分の先走り続ける心をとどめてくれる唯一の音楽を大切に抱きしめるみのりは、無自覚か手を繋ぐパフォーマンスを多く取り入れたがった。手を取り合ってくるりと回りながらポジションを入れ替わるパート。手を伸ばし合うものの離れてしまう一瞬。寧々に手を引いてもらい、眠り姫のようにその腕に抱かれて飾るラストシーン。さっそく練習しようと言うみのりに手を引かれてステージに立った寧々は、存外彼女の提案に抵抗を持たなかった。力強く腕を引き、彼女の腰を抱き、腰を反らして嫋やかさを演出する彼女にぐっと顔を近付ける。精一杯のロマンティックは、演技に精通する寧々にとってさほど難しいことではなかった。……ぱちくりと目の前でみのりの目が瞬く。

    「かっ……かっこいいー! 寧々ちゃんやっぱりヒーローだねえ!」
    「ヒーロー……? まぁ肝心のラストがかっこつきそうならよかったかな」
    「うんうん、とりあえずは雰囲気出してこ! 頼りにしてるよカイトさん!」

    ライトの内外の狭間に立つ彼があぁもちろんと頷いた。その後ろの遠くでは、壁際を何気なく歩くミクがいた。彼女の動く影が視界に映るたび、穂波がぎくりと顔を強張らせる。その様がなんだか痛々しくて寧々はつい目を逸らしてしまっていた。

    「そ、そうだ、瑞希ちゃん、衣装ができたって言ってたけど、もうお披露目してもらえるの?」
    「おっ、待ってました! もちろん持ってきてるよー! ネネロボー、持ってきてー!」

    フロアの端へと声をかければ、ガショガショと大袈裟な駆動音とともに幕の陰から折りたたまれた衣装を抱えたネネロボが現れる。誰もコントローラーで操作していないのに声ひとつで動くそれに穂波は目を丸くした。

    「あ、あれ……ネネロボって自立型だったっけ……?」
    「あ、うん。この前製作者に見せる機会があって、なんか張り切ってAI機能つけてくれたんだよね。そのうち喋る機能も付けさせてほしいって言ってた」
    「すごいね……寧々ちゃん、その人とどういう知り合いなの?」
    「ただのお隣さんだよ、中学までは仲も良かったけど。……っていうか多分、向こうは仲良いと思ってくれてるけど。あっちもただの高校生、ちょっと頭良すぎなだけで」

    実はちょっと、その頭良すぎな歌好きのショーバカを誇りにも思っているのだけれど。でもやはり寧々にはショーから逃げたことが後ろめたくて、本当は喋るようにしたいと言っていた類と声のサンプルを取るのが気まずいから、できなかった。本当は寧々も、ネネロボには言葉を持たせてあげたかった。でも、そのうち。きっとそのうち。

    「わーっ! 可愛い!」

    みのりの歓声にはっと振り向く。穂波とともに一緒になって彼女たちの広げた衣装を見る。それぞれの華やかさに、寧々も息を呑んだ。

    「みのりのはこれね、スカートはアイドル衣装っぽく、かつマントでダンス映えするように!」
    「かわいい! ありがとう瑞希くん!」
    「全員テイストが違うんだね。わたしのは……これ?」
    「ピンポーン、正解! ショーで使うようなカワイイ衣装になるようにめっちゃ考えたんだー。ほら、靴下のもこもことかすごいカワイくない!?」
    「ふふ、ホントだ。背中のリボンが派手でいいかもね」
    「でしょー! で、穂波がこれね! 青春バンドっぽさを残したフード付きカーデ、探すの苦労したんだよー、力作!」
    「青春、バンド……」
    「プリーツスカートっぽくしてるけど、ほら、どの角度でも踊れるようにキュロットにしてあるんだ。そうするとせっかくの色気がもったいなーって思ってさ、靴の方にこだわったんだよね」
    「……本当だ。かわいいね」

    ありがとう、瑞希ちゃん。……どこか上の空なままの言葉に、一度瑞希は目を瞠ったものの、それを隠してすぐさま笑った。

    「でしょ! いやー頑張った! まだ頑張るぞー!」
    「ねえねえ、ダンスもう撮るの? わたしこれ早く着てみたい!」
    「歌あった方がクオリティ良くない? 分かんないけど。寧々、もう声撮れたりする?」
    「あ……」

    正直、自信がない。伏せた睫毛の奥に慌てて隠してしまい込んだけれど。

    寧々にとって、他人に聴いてもらう歌についての最後の記憶はずっと、自分で自分のステージを穢した最悪の思い出のままである。もしもその二の舞になったら。……録音だから納得の出来で提出できる。そのことは問題ではなかったのだ。

    知っている人が、聴くかもしれない。あの子こんなことやってるんだ、なんて陰で笑われたらどうしよう。
    このセカイや想いをくれた天馬司が聴いてくれる。期待外れだと思われたらどうしよう。あの人は歌に生きる人間だ。
    ここにいるみんなが、聴いてくれる。こんなものかとガッカリされたらどうしよう。

    「……一人で撮るよ。ミスとか撮り直しとか聞かれたら恥ずかしいし」


    ────────────────


    瑞希の作ってくれた、緑色にピンクのリボンがカワイイ衣装を身に纏う。カイトは似合うねと言ってくれた。
    フリフリの衣装で、ステージに立つ。誰もいない観客席がありがたかった。……目を、瞑る。

    「穂波、学校でのこと、まだ解決してないんじゃないの?」

    さっきみんなが帰る前、二人でそんな話をした。彼女は怯えていたけれど、話すのが嫌だという様子ではないようだった。後ろ暗いことを隠さずにいられる仲間だと思われているのなら、嬉しい。

    「ごめん、いきなり……だけど、ミクへの怖がり方が気になって」
    「……すごいね、寧々ちゃんは」
    「余裕がないもの仲間ってだけだよ」

    瑞希のくれた、二つの髪飾りを見下ろす。どっちも似合うと思うんだ。そう言って、瑞希は緑に似合う黄色いリボンと緑の蝶々のついたカチューシャをくれた。瑞希の好きなひらひらのリボン。ショーキャストにぴったりの可愛い蝶。今はまだ、どちらも付けられない。

    「実は……ううん、きちんと話せたし、謝れたよ。いじめられちゃったのも、二人とだけ話してたってことも」
    「そっか。その子たちは何て?」
    「話してくれてありがとう、自由にしていいんだよ、でも私たちとももっと仲良くしようね、って」
    「いい子たちだね」
    「うん。だけどね、うまくできないんだ」

    穂波は、笑っていた。彼女の笑顔がどこか翳っているようで、寧々は思わず目を逸らしていた。
    マイクをセットする。どこから供給されているわけでもない電気がマイクのランプをチカッと光らせた。

    「上手く、できない?」
    「うん。申し訳ないなって、思うよ。その子たちにも、寧々ちゃんたちにも。でも、受け入れてもらっただけじゃ、乗り越えたことにはならないんだって。わたしの心がそう言ってる」
    「…………」

    何で、笑うの? そう訊きたかったのに立ち尽くすばかりの体は覚えた困惑を消化するのに精一杯だった。
    す、と息を吸う。見えた希望に手を伸ばせない友達に想いを馳せて、作った曲がこの曲だ。

    「……あっさり許されちゃって、怯えてたわたしの今までは何だったんだろう」

    なんて、考えちゃうんだ。穂波はその時だけ一度、失望したような眼差しを誰もいない床に落とした。誰もいなかったけれど、きっとそこには穂波自身があったのだろう。

    カイトもミクも、寧々の気持ちを察しているのかここにはもういない。ミクの場合は、二人きりになりたくなかっただけかもしれないが。

    「……いーつかみーんないなーくなること 知ってる」

    ふっと浮かんで書いたこの歌詞には、何の意味もないような気がする。自分がみのりのために書いた一番の言葉は、サビに乗せるものだった。

    「♪──春爛漫と駆けていく、……季節があなたを必要としなくても あなたは世界で生きている」

    最後を飾る歌詞が少し微妙な気がする。まだ変える余地はあるが、さて。……何度も歌って、ぎこちなさを確かめよう。歌姫のように素晴らしい歌に調整できるまで、何度でも。

    初めは覚えていた緊張や困惑も、歌い続けるうちに試行錯誤の裏へと鳴りを潜めていった。広いステージの涼やかな空気がすべて自分のもの、そうと思えば悪くもない。よくよく声の響く空間で、マイクもきちんと働いてくれた。
    慌てることはない。歌うことは楽しい。チャンスは決して一度ではないのである。このサークルがある限り、穂波もみのりも、瑞希だって、自分もきっと、負った傷を癒すことはできる。……今、とても良い声が出た。力の籠もり方と抜き具合が理想的だ。このまま。

    「アハハハハッ! 何その歌、ダッサ!」
    「……えっ」

    トン、タン、トン。おもちゃのような足音は不規則に、まるでたたらを踏むように、それは頭上から聞こえてきた。寧々が上を振り仰いだと同時、その視線の先を通り過ぎてそれは目の前に落ちてきた。眼前に迫る、星の宿った大きな瞳。邪悪なまでに無邪気な顔。

    「アタシの想いの持ち主がどんなもんかって見にきたのに、こんな薄っぺらい歌しか歌えないの? すっごい期待外れ~、超ガッカリ~」
    「……鏡音、リン……」
    「あーあ、こんなんじゃレンもガッカリするだろうな~。まぁレンは歌とか興味ないか」

    一転してぺろりと舌を出し、性悪そうに笑う少女のピエロを前に、寧々は思わず深い溜息を吐いた。こんなものしかいないのだろうか、このセカイは。元からいたカイトはそうでもないところを見るに、『想いの持ち主』である自分たちのせいという気がしないでもないが。
    怒りはしない。ただ、見逃せる言葉でもない。

    「ダサいとか薄っぺらいとか、もっと言い方ってものがないわけ?」
    「知らな~い。アタシは正論がダイッキライ、もっと正直に行こうよ」
    「正直って……ピエロみたいな恰好してよくいう……」
    「みたいな、じゃなくてピエロだよ! アタシは鏡音リン、このワンダーランドに舞い降りたとびっきりの性悪者! ……だっていうのに、目を覚ましてすぐガッカリしたよ。このセカイ誰もいないんだもん。見世物だってのに見る人がいないんじゃアタシ無価値なんですけどー」

    無価値、と何気なく言ってのける彼女に思わずびくりと肩を震わせた。思わず視線を下げた寧々を、頭の後ろに手を組んだリンは見下すかのように白けた目で見つめていた。

    「で? 何なの、さっきの歌」
    「何って……わたしが、友達と作った曲、だけど……」

    ふっと手を浮かし、彼女は目を細めてにんまりと笑った。まるで「だったらまだ希望はあるね」とでも言わんばかりの満足げな子供の表情にむっと眉間にしわを寄せる。それじゃああまるで、瑞希や穂波のセンスが疑われているみたいだ。

    「道理で! ぬるい曲だよね、『人の心に響く曲』を意識して作りましたーって感じ」
    「……それの何が悪いわけ? わたしは自分の歌で誰かを救えるようになりたいし、わたしの友達に誰かを救える人間になってほしいの」
    「あーダメダメ! ホンットそういう、承認欲求とかマジで無理!」
    「は……? 承認……って、あんたそれ本気で……」
    「救いたいとかそういう他人のためを装ってるエゴが一番ダメ! それで成功するの一部の天才ちゃんだけだから! アタシらみたいな凡庸で見た目と声しか取り柄の無いゴミクズはさぁ、ド派手に着飾って、傷も痛みも妬み嫉みもぜーんぶさらけ出して、死にたくなるほど笑われて見下されてやっと一人前なんだよ!」

    まるで、腹を刺されたかのように。それくらい強く、絶句した。片頬を歪める顔は到底苦しそうなどとは思えない。心底意地が悪そうに笑っている。擦れた少女と言うには邪悪すぎるその顔で、彼女が言ったのは純然たる自虐の想い。

    「アハハ! ビックリだね、ここには誰もいないからかな? ずいぶんベラベラ喋っちゃった!」
    「リン、あんた……」
    「ああ、勘違いはしないでほしいね。今のはアタシ可哀相~って意味で言ったんじゃないから」

    じゃあね、とひらひら手を振って、リンはスカートの下から出したピンポン玉を八つ両手に弄びながらテントを出ていこうとした。その先で、ばさりとカーテンが翻る。リンが片手にすべてのオレンジ色の玉をザッと収め取った。

    「リン、ここにいましたのね」
    「げぇっ、ミク!」
    「人の顔を見るなり何ですの、失礼ですわ。さあ、レンとカイトが待っていてよ」
    「案内とかそういうのいいって~……一人がいいんだけど、身内とか仲間意識とかきら~い」

    嫌そうに顔をしかめるリンに構わず、顎でしゃくって促すミクはしぶしぶ歩を進めるリンを見送ると、最後に寧々を振り返った。

    「あ……」

    客席の最後方と、舞台の中心。阻むものは目の前のマイクとポップガードだけ。真っ直ぐに飛んでくる正体不明の視線から思わず目を逸らす。

    「失礼。ですが、ピエロの本心は寧々の役にも立つのではないかしら」
    「え?」
    「ここではみなが役者、しかし観客のいないここではみなが裏の顔を出すことを厭わないのでしょう」
    「…………」
    「尤も、個人の感情や考えを『裏』と呼ばねばならない人間社会の価値観には、ずいぶんと圧力を感じますが」
    「……ミク、結構喋ってくれるんだね」

    冷たいけれど、その冷酷さは自分に向けられたものではない。それはやはり彼女の言葉から分かるもので、知らず知らず顔を上げていた。ミクは大きな煌めきを湛える瞳の奥で、じっと何かを抑えていた。
    カーテンをめくろうとしたままだった腕の下からひょっこりリンが顔を出す。

    「てか、そっちの方が自然でしょ? なんせ世界に名を轟かせて誰からも愛される初音ミク様! おしゃべり好きで人間が好きで面倒見が良くて、可愛がられるのが好きでぇ」
    「リン、おやめなさいな。個体差を無視して一概に語るのは好きません」
    「はァ~!? ふッざけんな! アタシらはまず初音ミク、鏡音リンって大きな概念に属してこそのアイデンティティだろうが!! あーあーいいよね人気者は、個人的なプライドを大事にする余裕がおありで!」
    「はぁ、みっともない……」

    リンの首根っこを掴み上げてミクは改めて寧々の方へと一歩足を踏み出し、踵をずらしてお嬢様然と立った。

    「寧々」
    「は、はいっ……?」
    「寧々はいつまで裏の顔を隠しているの? せっかく誰もいない舞台に来られたのに」
    「え……」
    「それともやはり、瑞希たちも所詮は『観客』なのかしら」

    凛と立つ、美しい女だった。十数年、あるいはそれ以上をヒトの外側から見守ってきた慈愛と諦念が漂うその顔つきに、宿るのはやはり希望や夢を見たような光だったのだ。

    ミクはそう言ったらすぐにテントを出て行ってしまった。引っ掴まれているリンがべっと舌を出していたのを見て、なんとなくくすっと笑って肩の力が抜けた。……彼女たちの言う、観客、その言葉の曖昧な意味が胸の内にとどまっていた。

    「……違う。瑞希とは親友で、隣に立つ仲間。穂波とみのりは……観客どころか、わたしのこと見てないよ。みんなまだ、そんな余裕なんかないんだ」

    自分は自分だと胸を張って言える瑞希のことが、本当は羨ましいとも思っている。……美しい人間に、なりたい。せめてネット上でくらい、綺麗な声だと褒められたいし踊る姿が好きだと言ってほしい。誰かの目に留まってほしい。けれど好きになってくれない人以外には見ないでほしい。
    つくづく浅ましい。プライドはあるけれど、それを正しくふるう術をまだ知らない自分がひどくちっぽけに見える。ポップガードに唇を近付け、今出会ったばかりのリンを想って歌った。歪んだ笑顔の下にある傷付いた少女の心に、届かないと知りながらも願わずにはいられなかった。

    「♪──夜空に愛した月が見えずとも あなたは何かを愛したの」

    最後の声の余韻まで消えてから、静かなばかりのステージにスイッチを切る音が響いた。変えた最後の締めくくりは、ほんの少しだけ自尊心を満たした。


    ────────────────


    「…………」

    初めて『休日、趣味人同士で。』としてネット上にアップした動画は、さしたる結果を残さず一日ごと少しずつ再生数を伸ばすだけ。唯一嬉しかったのは、アップした翌日に司が朝から教室に「蝶のように美しい歌姫だったぞ!」と感想を伝えに来てくれたことくらいのものだった。高評価増えてるよ、と一でも二でも数字が変わるとグループチャットにスクショを落とすみのりが健気で愛おしかった。そんな彼女にもっとたくさんの希望を見せてあげたい。……そのためなら、せっかくの視聴者から届いた声には、すべて応えていくべきだろうか。

    『綺麗な声ですね! サビに爆発力を持たせるともっと良くなると思います』

    正直、イラッとした。そしてそんな狭量な自分にもっと苛立った。ぎ、とスマホを持つ自分の手に力が籠もる。コメントをくれた人への罪悪感と苛立ちが混ざって、どす黒いものが胸に渦巻いている。
    他のコメントはまだないから、そのアドバイスだけが動画の下に唯一ぶら下がっているものである。多分、瑞希も見たら上から目線だねと言うだろう。瑞希は自分以上に直情的だから。……クラスメイトは、いつこれを見つけるだろうか。それとももう見たのだろうか。その軽い口で、特に感想を伝えに来るほどでもなかった、のだろうか。

    どうやら瑞希は来ていないらしい。どこでお昼を食べようか迷ったが、結局どこかへ行ってまでお昼ご飯の雰囲気を楽しむほどこだわりなんてないのだと思い出し、浮かせた腰は再び自分の席へと落ち着いた。弁当の包みを開ける。イヤホンを耳に挿したまま、別の動画を流そうとして、……再読み込みしたページに、コメントがひとつ増えた。

    『ピンクの子キレ良くて好きかも』

    ぱち、と瞬きをした。ピンクの子。髪色や衣装からして瑞希のことだ。見返せば、確かに瑞希は途中途中にカワイイ決めポーズを挟んだりしている割に動きのひとつひとつがピタリと止まっては素早く次に行く。

    素直に喜んでやりたいけれど、寧々が浮かべたのは複雑な笑みだった。ダンスに力を入れてアピールしているのはみのりの方なのに、真っ先に褒められるのは違う人。本当に世の中は、思い通りにならないものだ。……脳裏によぎったのはいつかの朝比奈まふゆだった。大人たちの計画をひっくり返す、と無表情で言い切ったあの女は、一体何をもってしてああまで美しく大観衆の前で舞いきったのだろう。隣を行く、鳳えむへの愛ゆえだろうか。
    分からない。ふっとスマホをスリープに落とし、読みかけだった本を開いた。次に作る曲は何をテーマにしよう。せっかく爆発力というアドバイスも貰ったことだし、夏に盛り上がるような楽しい曲にしようか。苦しい人でも笑えるくらい、ちいさな幼い青春を思い出させるような。

    「瑞希くん瑞希くん! コメント見た!?」
    「え? あー見た見た、いやーありがたいねえ」

    次の休日に、いつも通りセカイへの無音を繋ぐと、息せき切ってみのりがはしゃいだ声を上げていた。二人も今来たばかりのところらしい。

    「やあ、みんな。この前の動画は無事にアップできたかい?」

    顔を出したカイトに「バッチリです!」とみのりが胸を張って答えた。あれからコメントは増えていない。自分よりも先にダンスと愛嬌で褒められた仲間に思うところはないようで、安心するやら侘しいやら。

    「穂波はまだ来てない?」
    「ん? ああ、まだ来ていないみたいだよ」
    「だーれかさんが冷たくするせいじゃないのー?」

    す、と瑞希が顎を上げて真上へ視線をやる。メリーゴーランドの柵に座って平気でいるミクがふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

    「カンジわるー」
    「ミクちゃんも降りてきたらー?」
    「みのり、いーよほっとこ」
    「でもでも! いつも近くにいるんだし、一緒にいたいのかもしれないよ!」
    「はー? そんなわけないって」

    ふ、とカイトと視線を交わした。何気なくふたりで微笑み合って、寧々は一度ミクを見上げた。彼女もやはり、どことなく不満げに眉をしかめながらこちらの様子をじっと見守っている。
    みのりの言うことは、本当ではないだろうか。彼女は自分たちのことをひどく気にかけてくれている。

    あっとカイトが声を上げた。パアッと星形の街灯の下に光が灯り、カラフルな電子の図形を散らしながら来訪者を迎え入れる。穂波は、目元を拭いながら現れた。ぐす、と鼻をすする高い声。

    「えっ……」
    「え、穂波!? ちょっと、なになに、どうしたの!?」

    真っ先に駆け寄る瑞希について足を踏み出す。ふと振り向くと、みのりはぱちぱち瞬きをして呆然と穂波を見つめていた。同情という自分の感情に戸惑っているように、咄嗟に寧々には思えてしまった。とん、とカイトがみのりの背を押した。光しか映さない子供の瞳が優しげな男の微笑みをきょとりと見上げ、そのまま言われたからといった風に穂波へ歩み寄っていった。大人の視線を受け、寧々も頷き返して仲間たちへとそっと近寄る。

    「ご、ごめんなさい……! 何でもないの、何でもないんだけど、止まらなくて、遅れちゃってごめんね……」
    「いやいや! 時間とかどうでもいいから! 何かあったの?」
    「何でもないよ、大丈夫だから……」

    なおも目元を擦って何でもないことにしようとする穂波の肩を掴んだのは瑞希だった。

    「何でもないわけないでしょ!? どっち? 泣くほどつらいことがあったの? それとも今までのが泣くほど積もり積もっちゃったの?」
    「……その……」

    穂波は一度、伏せた目を微かに上げて辺りを見た。寧々も一度目が合い、その時の陰鬱な彼女の視線にぞっと胸を竦ませた。穂波は友達とカイトしかいないところを見ると、再び俯き、ぼそりと瑞希に向かって告げた。心を許せる、友達に対して。

    「ミクちゃんに、会うかもって考えたら、中学の時を思い出して、つらくて……!」
    「……やっぱり!」

    歯を食いしばり、キッと眉を吊り上げて、瑞希は勢いよく上を振り仰いだ。その勢いに圧され、ミクは不愉快そうに眉をひそめ、しかしそのまま厳しい視線に厳しい視線を返し続けた。
    瑞希の視線を追って、まさか、と顔をひきつらせた穂波が青ざめて上を見る。

    「あ……」
    「……気にしないでくださいまし。怒ってはおりませんので」

    ミクは危なげなく柵の上に立ち、下に見えるショーテントの上へ飛び降りた。あっ、と声を上げたのはみのりで、咄嗟の心配も杞憂、ミクはすたりと真っ赤なブーツのつま先を屋根につけ、裏側へと飛び降りていってしまった。……瑞希の手に伝わるのは穂波の肩がガタガタと震えている感触。

    「な……なんッなんだよあいつ!! 怒ってないって、それはキミのセリフじゃないだろ!?」
    「み、瑞希ちゃん……わ、わたし、どうしよ……どうしよう」
    「穂波! 穂波が泣くことなんか何もないよ!」
    「で、でも、わたし、あの子を不快にさせちゃったんじゃ……」

    瑞希だけではない、寧々も、そしてカイトも言葉を失った。みのりだけは、ミクの去った方を見つめていた。気になるし、追いかけたいな。でも勝手にどこか行ったら寧々ちゃんが困っちゃうだろうな。それだけでその場にとどまっていた。
    難しいね、とカイトが言った。振り返った寧々が見たのは悔いを思い返すような彼の表情。無力な自分に呆れるような薄いだけの笑みに、寧々は肩をすくめてみせるしかなかった。彼はその「難しいね」に「泣く子を立ち直らせるのは」と付け加えた。人間の心を支えるためのバーチャル・シンガーだからこそ、一層そう感じるのだろう。そして寧々は、一人でも叫び続けるであろう怒号の激しさに目を瞠った。

    「なんっ……でなの!? 悪いのはキミじゃないでしょ!? 何でそうやって自分にばっかり責任を負わせるわけ!?」
    「ひっ……ご、ごめんなさ……!」
    「穂波に怒ってるんじゃない!! キミをそういう目に遭わせて、今でも中学のそいつらは平気でいるんだよね、ミクもああやって、……ッ! ああ、もう!!」

    早すぎる脳の回転が弾き出す怒りの数々に言葉が追いつかず、引き攣った喉にも怒りをあらわに、腹立たしいなどという言葉では片付かないほどに怒っていた。それは、理不尽なまでの男の強さとも、理不尽なまでの女のヒステリーとも、それほどまでに。肩を掴む自分の手の強さに気付いてか、ふらりと瑞希は穂波から一歩距離を取った。悔しげなその後ろ姿に、ようやく寧々は声をかけた。何が返ってくるか、なんとなく分かっていたような気がする。ねえ、瑞希。そんなに怒らなくても。ミクにも理由があるだろうって先輩も。……そこまで言いかけて、自分の中にも燻る何かが振り向いた瑞希の顔に見えたような気がした。

    「理由があるからって傷付けたことを許していいのは、傷付けられた本人が許した時だけだ! ボクのことをきちんと知った上で『女の子』って名前を付けてくれた、大事な友達泣かされて、黙って見てられるわけないじゃん!!」

    そんな彼女・・の背中に、穂波が向けた目はきらりと涙を散らして輝いた。みのりの視線が、ゆっくり瑞希の方へと向かう。

    ──……だからわたしは、瑞希ちゃんのこと女の子だと思ってたし、思ってる。

    あれは紛れもなく、瑞希にとってひとつの選択肢だったのだ。そして、正当な理由を経た穂波のその言葉は、ひとつの真実だった。停滞した人生の裏に諦めを隠していた瑞希にとって、穂波はある一歩を踏み出させてくれた一手だったのだろう。そう、それは、寧々にとっての歌う場所をくれた瑞希のように。

    あ、とカイトが言った。何だろうと振り向いた寧々の視線と逆行して、横を通り過ぎたのは同じような背丈の女。

    「ほぅら、鏡があるじゃないか」

    まるで突然中心に現れたかのように、静かに瑞希の目の前へ歩み寄った鏡音リンは、鮮明な声をあげた。くるりと寧々を振り返る。つい先日見たばかりの性悪そうな顔よりも、人好きのしそうな笑顔をしていた。心なしか、その白黒のリボンと同じように顔にもとりどりのペイントが散っているかのような幻を感じた。

    「親友、なんだっけ? だったら見なよ、これはアンタも感じてるものなんじゃないの?」
    「な、何を……」
    「は、え、鏡音リン? いたの?」
    「いたよ~。ってよりかは、ちょっと前に来たんだよね」
    「そうなんだ! 可愛いねぇ、よろしくねリンちゃん!」
    「アッハハ、ありがと~!」

    勝手に手を取ってブンブン振るみのりに爽やかな少女の笑顔を向けている。自分相手とはずいぶん態度が違うな、と思いつつ、ピエロよろしくカイトをポール代わりにしてくるんと回って大きな一歩で穂波に迫ったリンは、彼女の泣き顔にぱっと何もない両手を突きつけた。穂波が怯えたのちにきょとりと瞬きをする。さっと手を握り、そして開かれた小さな手のひらには、ひとつのリボンが乗っていた。

    「はい、どーぞ! 可愛いお顔と優しい心の持ち主には、涙よりもカワイイリボンが似合うよ!」
    「あ……ありが、とう……」
    「大丈夫、分かるよ。責任を感じてるのもあるかもだけどさ、ずっと信じてきた自分が人にとっては毒だった、それが受け止められないんだよね」
    「……そう、かな……」
    「自分を否定することも認めてあげることもできないんだよね。だから、否定してくる奴にも、肯定してくれる瑞希にも、どっちにも同調できなくてひとりぼっちの気分になっちゃう」
    「……うん。……うん……!」

    困惑と襲い来る後悔にふらついた瑞希は、何もできずに俯いた。ぼろぼろと零れる穂波の涙をリンが拭ってやると、穂波はもう後から泣きはしなかった。貰った赤いリボンをシュシュの代わりに髪につけて、こちらへ向けて照れたように笑った。その赤いままの顔で浮かべた笑顔に、瑞希は胸を打たれ、それから、ふっと肩の力を抜いて笑い返してみせた。

    「カワイイね。……ごめん、当たり散らして」
    「ううん、怒ってくれてありがとう」

    ……理由があることと、傷付けていいかは別問題。寧々はぎゅっと胸に当てた手で服を握り締めた。そんな当たり前のことが、自分は分かっていなかったとでもいうのだろうか。ようやく笑ってくれた穂波を見ているとそんな気がしてならなかった。

    「寧々」
    「……リン、すごいね」
    「別に。アタシはピエロだし、子供には笑ってもらわなきゃだから。それより……」

    隣に友人のように立って、リンは囁くようにぼそぼそと喋った。リボンを興味深げに見て穂波たちの周りをくるくる回っているみのりやそれを宥めて笑うカイトも交えて、……それを、仲間と思っているのかどうか、リンの横顔からは分からなかった。しかし、横目で寧々を見るその不躾な視線にはある種の信用があるように思えたのは、気のせいではないのだろう。

    「アンタが心から歌える曲なら、アタシも協力してやるからね」

    思わず振り向く。見守る目の前から耳に届く隣になった友人たちの声たちが、すぐに寧々の名前を呼んだ。寧々がそちらへ顔を向けた隙に、リンはふっと消えてしまった。人の視線の隙間を縫うのは目立つピエロよりも手品師のようだ。今の言葉の意味、そして存外好意的だった声色を頭の片隅に置いておきながら、仲間たちのもとへと向かう。話は、それぞれの『名前』についてだった。

    「名前?」
    「うん! 瑞希くんのこと、コメントさんがピンクの子って言ってたでしょ?」
    「だからハンドルネーム付けてみる? って話!」
    「一応、ナイトコードのアカウント名は持ってるけど、わたしたち年とか住所が近くてすぐオフ会しちゃったもんね。そのまま使う?」
    「だったらボクはそのままAmiaで行くよ!」

    なにせ、と瑞希は腰に手を当てて胸を張った。

    「これがボクだって思われる名前になるんだから、アイデンティティは大事にしなきゃね!」
    「アイデンティティ?」
    「そ、みのりにもあるでしょ? これが自分って言い切れるくらい大事なもの!」
    「えー? うーん、分かんないよ……」

    首を捻って難しい顔をするみのりの肩を、穂波がぽんと叩いた。みのりは不思議そうな顔をしていたが、その気持ちは寧々にも瑞希にもよく分かる。頑張って考案し、努力を積み重ねた結果のダンスへの褒め言葉、友人に先を越されたそのことに彼女は何も言わないままだ。自分がアイドルになりたがったことさえ覚えていないのではないか。そうとさえも思わせるのが今の花里みのりであった。……そのことに、モヤモヤしたものを抱えるのは仕方がない。そう納得しようとしているのに、寧々はどうしてか、その矛先はみのりではないような気がしている。ずっと、抱えている。今はどうしてかリンの顔が思い浮かぶ。彼女の小さな体に満ちるあのからりとした憂慮と傲慢に、縋りたがっている。

    「……でも、名前かぁ」
    「みのりちゃん、候補があるの? ナイトコードでは『みのりん』だったよね」
    「あはは、本名すぎて危ないね」
    「わたしね、わたし、だったら一個あるよ! わたし、『春』がいい! 春にする!」

    嘲りの少女を浮かべていた目を純粋無垢な幼さに向ける。そして、存外真剣な顔つきをしているみのりに、顔を見合わせたのは瑞希と穂波、それぞれと。
    その理由を、訊かなくてもいい、と思った。みのりへ歌ったあの歌は、まだ広い世界には届いていない『未来の中で悔やむ』というあの歌は、みのりのことを「春」として歌っている。それだけが、『休日、趣味人同士で。』の中では共有されていることなのだ。だからそれだけでいい。みのりもそれきり満足そうにニコニコしていた。

    「わたしはどうしようかな……何かあるかなぁ」
    「あ、てかさ、カイトさんは?」
    「え? 僕までかい?」
    「そりゃ大事な裏方だもん、名前くらい載せなきゃ! ひょっとしたらKAITOのコスとか言って踊ってもらうかもしれないし?」
    「ええー、いいよ、僕はただ幸せを願いたいだけで……」
    「カイトさんは『座長』さんがいいと思うな! 前はここにキャストさんいーっぱいいたんでしょ? だったらわたしたち新しい団員みたいじゃない?」
    「おーいいね! さっすがみのり!」
    「えへへーっ」
    「『月』のままだと味気ないし、わたしは『レオ』にするね。思い入れがあるんだ」
    「おっけー! カイトさんが『座長』で穂波が『レオ』ね! いいねいいねー、みんな生まれ変わる気満々じゃん!」

    トントン拍子に話が進み、自然と全員の視線は寧々に移る。瑞希の「生まれ変わる」という妙にしっくりくる表現と同じ感覚に少なからずの躊躇いを覚えていた寧々は、やはりままならないような気がしてたじろいだ。

    「わ、わたしは、『N』のままでい、い……」

    だって、あんまりかっこつけた名前にして、知り合いに見つかったら笑われるかもしれないし。……そこまで考えて、怯えや遠慮はふっと消えた。

    (……わたし、誰のために歌うの?)

    少なくともそれは、名前も知らないクラスメイトのためではないはずだ。

    何故、肩身の狭い思いをしなければならないのだろう。クラスメイトは悪くなかった。あの子たちはすごいねと言ってくれた。そこに何の無神経さもなかった。だったら、勝手に怯んでいる自分が、……いいや、いいや、違う。
    元々、自分は人見知りだった。それでも類との交流の中で、中学に上がる頃には人に怯えなくてもいいくらいに自信を持てていたはずだったのである。もし、それが今のようになってしまったキッカケがあるのなら。

    ──あんなミスしといて、よく顔出せるよね。

    あのときの声が耳を掠める。そして湧いたのは、罪悪感、……そして明確な怒り。
    何故、たった一度の記憶にこれほど肩を縮めなければならない? 大切な自分の名前に、アルファベット一文字の陳腐キッチュなルビしか振れずにいる。

    ──サビに爆発力を持たせるともっと良くなると思います。

    善意なのは分かる。だが、見知らぬ人に送るにはずいぶん上から目線じゃないか。

    ──個人の感情や考えを『裏』と呼ばねばならない人間社会の価値観には、ずいぶんと圧力を感じますが。

    分かるよ、ミク。でもわたしは、あんたの態度も気に入らない。高圧的で、穂波が傷付いてることも分かってるのに、何でこそこそすらできないの?

    ──なぁ、暁山って何でそんな恰好してるんだ?

    人が自信を持って翻すスカートと胸元のリボンを、『そんな恰好』なんて無神経な言葉でよくも表現してくれる。その不躾な好奇心に瑞希がこれまでどんな思いをしてきたか、察するに余りある。

    ああ、嗚呼、そういうことか。……寧々は光を取り入れすぎて眩しい目を押さえ、こみあげる激情を噛みしめていた。
    自分は、怒っていたのだ。常に抱いていたものは、悲哀の隣にある憤怒もともに。どこにいても生きづらいこの世の中と、そんな世を作る人間どもの醜さに。

    改めて、ネットの世界に来てよかったものだと腑に落ちた。自分もまた、自分の身内ばかりを考えて他人に無遠慮な怒りを抱く醜い人間だったのである。今この瞬間醜悪なものになったのか、それともいつの日かに変身していたのか、それは分からないけれど。
    醜悪な生き物が巣食うネット上の世界で、きっとこの四人でのし上がってみせよう。醜悪なグレゴール・ザムザがその身に投げつけられた悪意に苦しみ、その果てにもたらされたのは家族の平穏だったように。

    寧々ちゃん、とみのりが顔を覗き込む。寧々は顔を歪めなかった。既にその怒りを込めるべきものを知っているから。

    「……ハンネ、変えるよ。わたしの名前は『パピヨン』」

    その日家に帰った後、すぐに自覚した怒りを歌詞にぶつけた。そうして気が付いたのは、自分の込めたその感情は、怒りであるとともにどうしようもないほどの悲しみでもあったのだということ。
    その曲はすぐに仲間たちにも共有し、どうも胸を打たれたと見え、彼女たちはすぐにでも音を持ち寄って協力してくれた。

    その曲を踊った数週間後、寧々がためらわず頭に付けたのは蝶々のカチューシャの方だった。ライトの輝くステージを、瞼を開いて挑むように見据える。

    「『だから現実はもういいなんて言うなよ』ね。アハハ、アンタってそんなに生きたいと思ってるんだ?」
    「そんな大層なものじゃないよ。わたしはわたしが大事なだけ。それで、みんなにそのまま生きてていいよって言いたいだけ」
    「アッハ! 何その上から目線!」
    「みんなそうでしょ?」
    「確かにね、よく分かってんじゃん」

    この歌を、みのりたちが本心でどう思っているかは分からない。どうにもならない人の醜さに引いていたのやもしれない。それでも穂波の付けてくれたメロディは叫ぶようで、みのりの付けた振り付けは平穏無事では生きられないことをよく表していた。
    そして瑞希は、やはり寧々の怒りを理解し、共感してくれた。瑞希こそが自分の一心同体だったのだと、そう思わずにはいられなかった。

    「リンも踊ってくれるんだよね」
    「さすがに顔は隠しといてあげるよ。アンタたちの方に集中してほしいし。衣裳部屋にいくつか仮面があったからさ」
    「そっか。ハンネはどうする? カイトさんが『座長』ならピエロとか手品師とか?」

    んー、と間延びした声を出しながら、彼女は白いライトの照る舞台を見上げ、とん、とその階段へ乗り上げた。くるりと振り返り、背中に揺れる紫のリボンとスカートのフリルを留める四色の蝶が逆光を浴びる。リンはそこから真剣な目で寧々を見つめた。そうしてやがて、口を開いた。

    「『哀』。アタシは、アンタの哀しいって想いに呼ばれたから」

    初めて明かしてくれたアイデンティティに、寧々はしかと捉えたその瞳を見返して、確かに互いに笑ってみせた。
    ずっと胸が痛んでいる。何ヵ月も、何年も。きっと痛みこそが人生で、けれどもそれを排除し、あるいは逃げることもまた人生なのではないかと思う。だから歌おう。自分の痛みを吐き出すため、そしてそんな自分で誰かの逃げ場所になるために。

    「♪──ズキ、ズキ、ズキ。……次」

    キリのないその音を、かっこよく消し去ってみせようじゃないか。


    追加楽曲『ザムザ』  草薙寧々・望月穂波・鏡音リン・暁山瑞希・花里みのり
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