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    リルノベリスト

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    リルノベリスト

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    宗教なんてくだらない。神なんていない。そう信じていたかった。そう、信じていたかったから。

    目隠しをしたちいさな子が首を傾げる。純粋無垢で、何も知らない、こんな小さな子が神さまとして閉じ込められているだけでもおかしいのに、今はABYSSなんて怪しい集団にも狙われている。やはりこの世界は狂っている。外の世界に出してやらなければならない。

    颯馬が囮になってくれると言う。ならば自分が奏汰についていてやる側でなくては。

    頑張って作った花畑を踏み荒らされたあげく奏汰を攫われ、地下水道にひっ捕らえられた少年は固く決意した。
    攫いたいと言うのであれば攫わせてやろう。自分は囮に食いついた隙をついてやつらの船に密航してやる。颯馬にも作戦は伝えてある。てぇい、やぁ、と元気に刀を振り回す子供の声が合図だった。
    黒ずくめの男たちの死角から、神が連れ去られた船に乗り込む。小さな子供の体がようやく役に立った。音を立てないように、そうっと、そうっと。父から逃げるときのように、気配を殺して。積まれていた木箱をずらし、前後左右上下を囲んで入り込んだ。これできっと大丈夫。颯馬はやられてしまっただろうか。殴られてなどいなければいいが。いわんや殺されてなど。……まぁ、その場合は奏汰を助けるための必要な犠牲だったと思おう。

    周囲はしんと静まっているようにも感じるが、よく目を閉ざして聞けば遠くから話し声などが聞こえた。あの子の言う通り、目を閉じればその分音はよく聞こえる。
    まずは出航する前にあの子の居所を見つけなければ。特撮のセオリー通りならばきっと一番奥の一番暗い場所に閉じ込められていると思うが、ラスボスからどうやって取り返そうか。せめて颯馬の刀がここにあれば斬り殺してでも奪ったものを。

    三毛縞斑少年はそのまま音と気配を頼りに甲板へと向かった。きっと大事な部屋にはそこから入れるはず。

    壁を伝って近付くと、ふとその壁向こうから人の気配がした。静かだが、床を足が踏む僅かな軋みを感じる。咄嗟に息を殺して身を隠した。
    ちょうどいい、その人間がドアを開けてくれれば死角から滑り込める。幼い少年は細く慎重に息を吐いた。

    ふわりと、潮の香りがたなびいた。海に向かうはたおやかな女人の姿。

    「かわいい、かわいい、うみのこども……あなたは、どこまでも、かなたへ……」

    あれは、奏汰の母だ。前の神さまだ。……直感的にそう思った。理屈なんてない。そう思わせるものがある人物だった。
    いや、呆けている場合ではない。彼女が抱えている子供を、誰を殺してでも奪い返すつもりで来たのだ。……なのに、握りしめた拳は震え、なぜか足が動かない。この体を流れる血が憎い。

    ふと、奏汰を抱く女性が振り向いた。南の海のような虹彩を持つ、美しいひとだった。その彼女が、しぃ、と人差し指を立てる。いたいけな男の子はぐっと息を詰まらせた。船が、動く。

    彼女はそこからひたすらに海を眺めており、奏汰は目を覚まさなかった。しばらくすると彼女のもとへ数人が入れ替わりにやってきて、どこか寂しそうな声で会話をしては去っていった。その中には、少年の父親までもがいた。

    (げぇっ、父さん……!? 何で……? 死んだ神さまとグルだったのかあ!?)

    正義の味方の象徴でありながら裏社会や宗教と癒着した忌まわしい血縁は、神さまとずいぶん親しげに話していた。その中には斑の名前も出ていたようだった。神崎の子は捨て身で挑んできたのにあれは来なかった。あんなに臆病な息子だとは。などと好き勝手に言われて今すぐ飛び出していってやろうかと思ったものだが、どうもよく聞いてみれば彼らは颯馬と斑が命を賭して奏汰を取り返しに来れば、元より返してやるつもりがあったらしい。子供とはいえ敏い三毛縞斑である。彼らの思惑は拙いながらに分かった。……要は、父も、自分が奏汰と想うのと同じだったわけだ。悔しい、というより嫌悪感が湧くが、仕方がない。血というものは理解している。

    やがて待っていると、不意に船が陸に着いた。やけに早いなと慌てて斑が腰を上げると、木箱の隙間にあのエメラルドオーシャンの色が見えた。ひゅっと息を呑む。
    彼女は、抱いた我が子を差し出した。状況が飲み込めない少年は目を白黒させ、とにかくどういうつもりか聞こうと思って口を開いた。しかし、彼女の指がその口を塞いだ。彼女の髪や服からは潮の香りがしたが、唇に突き付けられた指や手からは何のにおいもしなかった。長年の精進潔斎はこういう人間を作るのだ、と人より知識の多い少年は新しいことを学んだ。

    「……かみは、つらい」
    「……!」
    「しんじゃは、こわい。かくれて。みつかってはいけない。かなたを、まもれ」
    「……は、はい……」

    少年が頷くと、神は満足そうに微笑み、二人まとめて抱き上げ、船の甲板から海にポイと放り投げた。

    「は……!?」

    水面に叩きつけられる直前、最後に見たのは笑顔で手を振る神の顔だった。
    あの女、と悪態を吐きたいが口を開けば水が入る。斑は黒い着物の神さま見習いを必死に抱きかかえ、光を頼りに海の表を目指す。だいぶアウトだったがなんとか意識を失う前に海から出ることができた。港のコンクリートを伝って、なんとか陸に上がれるところを泳ぎながら目指す。奏汰はのんきにまだ眠っていた。息はあるようだからひとまずは安心である。

    「くそ~……何なんだよ、父さんといい先代の神といい……大人はみんな無茶苦茶だ!」
    「むにゃ……にゃ……? わぁ、うみ……♪」
    「おっ、起きたかあ? とはいえ、神は泳げないからこのままじっとしていてくれよ」
    「……? ここはどこだ?」
    「どこだろうなあ。少なくとも家に帰れないことは確かだぞお」

    普通ならば大パニックになってもおかしくない言葉にも、奏汰はそうかと頷いて斑の首にしっかりとしがみついて大人しくしていた。今だけは彼の従順さに感謝しなければ。
    やがて壁を伝って泳いでいくと、岩場に出たのでそこから陸に上がった。砂だらけになるのも構わず砂浜に寝転ぶ。不思議そうに顔を覗き込んでいた奏汰も、真似をして隣に寝転んだ。

    「は~……一擲千金! と思って無謀な作戦を取っちゃったけど、これからどうしよう……」
    「よくわからないけど、みけじまがいれば、かなたはあんしん……♪」

    隣を見る。同じように空を見上げて、苦難など何も知らない顔が無邪気に笑っていた。

    「……乾坤一擲。あの場所を目指してみるかあ」
    「あのばしょ、とは?」
    「父さんのところで資料を見たことがあるんだ。日本には、旧時代的な治外法権になっている場所がいくつか残っているらしい。子供の足でどこまで行けるか分からないけど、そこに行ければもう父さんたちにも、宗教のやつらにも捕まらないはず」

    住所ならば覚えている。いつか可哀相な少年を神の座から引きはがせるときが来たら隠れ里にしようと企んでいた。つまり、今がそれの使い時である。

    「そうなのか……? かなたはかみなので、いなくなったら、みんながこまるのでは?」
    「知るか。……困らないさ。今信じてる神がいなくなったら、一時は混乱するかもしれないけど、どうせ次の神を見つけて前のことなんて忘れる」
    「……みんなは、そんな『ふしんじん』なにんげんか? かみはさびしいぞ」
    「だから俺がそばにいるんだろ? 大丈夫だぞ、俺が奏汰くんを守るから」
    「そうか……うむ、みけじまがいるなら、かなたはさびしくない」

    そうだ、問題ない。自分は一生この子のそばにいる。神の御命令だからではない、友達の切なる願いだからだ。

    しばらく電柱を探して歩くと、無事に住所の書かれた電柱が見つかった。思ったよりは出発地から離れていない、ということは、きっとあの神が途中で泊めさせたのだろう。……奏汰を、解放してやるために。

    「……そういえば」
    「うん?」
    「ねむっているあいだ、なんだかすごく『あんしん』するかんじがしたきがする」
    「安心……?」
    「そうだ。『うみ』のなかで『ゆられ』ているような、ここちのよいものだった。あれは、みけじまがおぶってくれたからだろうか?」
    「海の中か。はは、お母さんのおなかの中みたいだなあ」
    「……? よくわからないけど、みけじまだったことにする。そのほうが、かなたはうれしい」

    自然と繋いでいた手をぎゅっと握り合わせた。唇を閉じる。
    本当はかつて肉の繋がっていた実の母だったのに、家族のぬくもりを知らない小さな人間は母より友達であってほしいと思っている。そんなことがあっていいものか。ぬくもりのない家族を持つ自分とは違う、あれは本当に子を愛している母親だった。……いや、本当にそうか。だったらどうして、あんな旧時代的な宗教の御座にこの子を戻そうとしたのだろう。

    「行こう、奏汰くん。まずは暗くなる前に泊まらせてくれる家を探さないと」
    「いえ……いえとは、どういうばしょ?」
    「人間が寝起きする場所!」

    とはいえ警察に通報されても困るし、貧民街がなければ野宿も考えよう。

    そうして、手を繋いだ二人の少年は、力を合わせて例の村に向かって歩いた。何日も、何日も。家出少年に寛容な人を見つけては、お手伝いと引き換えにお金を貰ったり、野宿に役立つブランケットを貰ったりした。幸いにして丈夫な体を持つ斑と、寒さには強い海の神だから、風邪を引いてあわやお陀仏、という危険はなかった。むしろ、見たことがない生き物、人間の暮らし、陸地の植物など、広がった世界に目を輝かせる子供と、ようやく本当の友達になれたような気がして楽しかった。

    「みけじま、そとはすごいな。にんげんとたくさんはなせて、『はな』もたくさんある。つれてきてくれて、『ありがとうございます』」

    泊まらせてもらった翌日によく斑が言う言葉を見よう見まねで言う奏汰に、時折浮かぶ「これで正しいのか」という暗雲は吹き飛んでしまった。十年にも満たない短い人生、もうこれで十分だというくらいに満たされた。そしてこれから先も人生を懸けてこの子を幸せにしていきたい、もっともっと笑ってほしい。

    車をつかまえたり、途中で捨てられていた自転車を拾ったり、そうして何ヵ月かかけ、ようやく二人は目的地にたどり着いた。

    「よおし、この森を抜けたらあるはずだ! あってくれよ~、滅んでないよなあ……?」
    「みけじま、つかれた。おんぶ」
    「はいはい、お安い御用……♪」

    奏汰を背負うためにしゃがんだ刹那、その足元にスパンと矢が刺さった。思わず飛びのき、それからハッとして奏汰を後ろに庇う。矢の飛んできた方を見やると、世が世なら王族の証とでも言われそうな赤い髪と碧の瞳があった。弓を構えていたちいさな手は、警戒を解かずにすっと下に傾けた。

    「やはり見知らぬ人だったね。君たちは誰だい?」

    話を聞くと、自分たちと同じぐらいの少年は目的地である村の君主、その弟だという。


    ────────────────


    「いやあ、驚いたなあ。まさか日本にまだ絶対君主制を敷いているところがあるとは」
    「ああ、俺も驚いたよ。まだ現人神あらひとがみなんて存在してたんだな。鎌倉時代になくなったものだと思ってたぜ」

    村のはずれ、燐音が大人たちからの隠れ家にしていた崖の洞穴で、無垢な一彩に連れてきてもらった彼と斑は腰を据えて話し合っていた。一彩には兄が、奏汰には斑が「二人で遊んでろ」と言うと素直な二人は自己紹介から始めて今では花冠を作っていた。

    「俺が知らないだけで、都会にはまだそんな文化が残ってたのか?」
    「まさか。あの子の家……というか、俺たちの住んでいた地域が特殊なだけだよ。それでな、燐音くん、そういうわけだから、俺たちは日本の警察の手が及ばない君たちに匿ってほしいんだ」
    「ふーん……それって、おまえらは見返りに何が出せる?」

    石に腰掛ける少年は大人のようににやりと笑った。大人に悪意には備えていたつもりの斑も、突然同じ年頃の子供からそんなことを言われるとついうろたえてしまっていた。

    「えっ……あ、えっと、お金はほとんどなくて……で、でも、奏汰くんが安全な場所にいられるなら、俺が二人分働くぞお!」
    「はははっ、冗談だって。けど、良いお兄ちゃんだな、おまえは」

    ぽん、と気付けば頭に手のひらが乗せられていた。ぱっと彼の顔を見上げると、海のように広い、空のように澄んだ瞳が優しげにこちらを見つめていた。……学校や本でよく言われる家族愛や大人への賛美とは、斑には理解できていなかった。しかしその片鱗が、チカッと視界の端で光ったのを見たような気がした。

    彼は立ち上がり、ぐっと伸びをした。村の民族衣装らしきものがひらりと裾を揺らす。花を繋げすぎたと笑っている弟たちを見てから、燐音は斑もまとめて愛おしむように見下ろした。

    「そういう事情なら、よそ者嫌いの連中も納得させる方法が一個だけあるぜ。ただ、神さんにはもうちっと神さまっぽい態度取ってもらわなきゃならないんだけど」
    「……それが一番いい方法ならしょうがないな」
    「おう、時間はいっぱいあるんだ。人間っぽくなってもらうのはおいおいな」

    次期君主という立場あってか、都会では抜きんでていた斑よりもその子はよっぽど大人びていた。それか、弟というものを持つ者だからかもしれない。斑の妹はあまり傍にいなかったから。

    「うちには、都合がいいことに土着宗教はないんだよ」

    彼らは日が暮れるまで計画と設定を練った。
    まずは、都会からやってきた理由を作る。都会では神への信仰がほとんど目に見えない形になっていることを利用し、「神殺しの憂き目にあって命からがら逃げてきた」という体で、病気治癒の神である奏汰と、その唯一の信者という立場にする。天照大神をはじめ八百万の神をまだ大切にしている村の人間たちならば、匿ってくれるはず。
    次に、ここにいることが万が一にも知られないように名前を改める。深海奏汰の名前が外に漏れてはいけない。赤子のような少年が大好きな海を忘れないように、海の名を冠して。

    「海かぁ。そういえば、奏汰くんのお母さんも海みたいな人だったなぁ」
    「へぇ、俺にも母上はいたけど、やっぱそういうもんなのかねぇ」
    「そうでもないよ。俺の母さんは人を殺すような悪者だし」
    「ふ~ん……」
    「……でも、だからさ、俺が奏汰くんのお母さんになってあげたいなあ」
    「おう、いいじゃん。やっぱさぁ、古臭い風習に洗脳されちゃった可愛い子は、俺たちみたいなのが守ってやらなきゃいけないよな」
    「……! ああ、そうだよなあ!」

    出発したときよりもぼろぼろになった洋服の少年と、着慣れてはいるが小綺麗な和服の少年は顔を見合わせて目を輝かせた。お互い、自分の意見に同調してくれる者と出会ったのは初めてだった。自分の世界が狭いのは知っていた。そこに今、手が差し伸べられたような気がしたのだ。

    生き神様がまた精進潔斎、娯楽なしの退屈な世界に閉じ込められないよう、一番近くにいた斑が宮司の役に就けるようにする。燐音は迷わずそうとも言った。

    「おいおい、俺はみんなが嫌いな『よそ者』なんじゃないか? そんなのさすがに受け入れてもらえるわけないんじゃ……」
    「そいつは神への信仰がなければの話さ。都会の現人神さまがどんだけすごいか思い知れば、誰も逆らわないよ」
    「そうは言っても……」
    「任せとけって。これでも次期君主だからな、人心掌握はお手の物なんだ」

    頼りになりそうな彼は、ふふんと鼻を鳴らして胸を張った。斑はぱちぱちと目をまんまるにして瞬きをした。暗くなってきた洞穴の中で緑や青がキラキラと輝いている。

    「おーい、一彩! さっき持ってた矢を貸してくれないか?」
    「うん、分かったよ、兄さん!」

    てきぱきとした動きで弟は立ち上がり、洞穴の奥へとやってきて矢を一本差し出した。燐音はそれを手に取ると、その尖った切っ先を斑の腕に当てた。

    「悪いな、ちょっとチクッとするぜ」
    「……? 痛いのは嫌なんだが……必要ならいいが、説明してくれないか?」

    おそるおそると彼を見上げると、嫌と言われたことがない燐音はやや驚いて彼を見下ろした。そして、そうか、そうだな、と納得して苦笑した。

    「ごめん。俺も古臭い風習に毒されてたみたいだ」

    斑は横目で一彩の表情を見た。隣へおぼつかない足取りでやってきた奏汰は目隠しをしているからともかく、夜目も利くから何をしているのか見えているはずの彼も、兄が人を傷付けようとしていることに眉一つ動かしていなかった。君主が絶対、弟は兄に絶対服従。そういう文化が根付く場所に、自分は「神」を持ち込むのか。そうと思うと、斑の背に冷たいものが走った。

    ────────────────

    夜になり、君主の息子たちが帰ってこないと騒ぎになりかけた頃、その二人が連れて帰ってきた者たちの存在は名もなき村に混乱をもたらした。よそ者は災いをもたらすだけだと声を荒げて石を投げようとする者、猫なで声で燐音を引き離そうとする者、物陰に引っ込んで様子を窺う者。松明で照らされた少年の表情は、氷のように冷たくなった。そして、すぅと息を吸いこむ。

    「……静まれ!!」

    火が揺らいだ。……住人たちの影がゆらりと形を歪めた。

    東京とは雰囲気が違うことを肌で感じた奏汰は、先ほどから斑の袖を掴んでいた。護衛としてその隣に一彩が控えている。燐音が棒切れを差し出すと、近くにいた女が慌てて火を移した。

    「彼らはつい先ごろそこの森に逃げ込んでいたのを俺が見つけた。俺と同じ年頃の子供に見えるが、こちらの青い髪のは海から成る現人神の一柱だそうだ」

    人々がみな顔を見合わせる。さすがに普段から滅茶苦茶なことを言うと噂されているだけあって、素直に信じるほどの馬鹿ばかりではない。だから、ひとまずは同情させ、一晩ここに寝泊まりすることだけは認めさせる作戦に出た。
    燐音が松明をかざし、二人の姿を闇より浮かび上がらせる。すると、燐音が矢じりで引っかき傷をたくさん付け、わざと泥だらけになった斑の姿が露わになった。元より子供の足だけで長旅をして、ずいぶんくたびれていた。

    「都会の人間というのは、神を尊く思う気持ちを忘れているんだ。そのせいで、この神さまは迫害され、あろうことか人間に殺されかけたと言うんだ。それをこいつが必死に守って追手の来ないここまで来たんだって言うんだ。ほら、神さまのほうには傷ひとつないだろ? 嘘にしろ本当にしろ、こんなに信心深い子供を、身寄りがないまま追い出すってのは、道理に反すると思うんだよ。離れの一室だけでも貸してやりたいと思う。反論のある者はいるか?」

    家に帰れば父親には大層叱られたが、その場で燐音にそれ以上苦言を呈すものはいなかった。す、と恭しくお辞儀をして手を取る一彩に、海の香りがする少年の手が伸びた。優しく触れて撫でるその手に小さな一彩はそっと目を上げ、本当にこのひとは神さまではないのだろうか、と考えていた。母の愛を知らない一彩には、母なる海の化身として育てられた奏汰の手は、それこそ神さまとしか言いようのない愛に感じたのである。

    あまり長居はせず、燐音は隙間風の入る物置同然の離れに二人を押し込み、ぱちんとウィンクをして離れた。ころんと投げ入れられたのは、どこで手に入れたのかドラッグストアで売っているような市販の傷薬であった。作戦通り、斑は劣悪環境の中その薬を浅い傷に塗りつけ、薄い布団を敷いた。

    「……よおし、後は朝を待つだけだぞお」
    「みけじま、いうとおりになにもいわずに、だまっていたぞ。でも、なんだか『うそ』をいっていたような……?」
    「うん、人間の世界では嘘も必要なんだ。今は俺たちが生き残るためだから、仕方がない」
    「そうか……みけじまがいうなら、そうなのだな」
    「それで、奏汰くんもこれから嘘の名前を使うから、もう『かなた』っていっちゃだめなんだ。これからは自分のこと……そうだなあ、『おれ』だと人間っぽくて疑われちゃうかもしれないし、『我』とか『私』とか言うんだぞ」
    「う……いっぱいいわれると、わからない……でも、わかった。わたし……わたし……たわし……?」
    「たわしは掃除するときのやつだなあ!」

    燐音と話し合った結果、深海奏汰はこれから『宇汐うしおさま』という神名を使うことにした。元の神話が宇宙から落ちてきた隕石から始まるし、大好きな海も名前に入っている。それに、宇宙の文字が入っていれば、いずれ自由になって空へまで羽ばたけるかもしれないから。斑のそんな夢も預けた名前だった。

    真黒はどうしてるかな。病気が悪くなってないといいな。父さんや母さんは心配してるかな。してないだろうな。あの神さまは父さんに俺のこと言ったのかな。あのひとはちゃんと深海家から逃げきれたのかな。……たくさんのことを考えて、暗闇の中奏汰を抱きしめて少年は目を閉じた。

    そうして緊張を抱えた朝、昨晩はボロボロで傷だらけだった斑の体がすっかり五体満足の健康体になっていることに住人たちはひどく驚いた。そして「おはようございます!」「おはようございまあす!」と元気に挨拶をして練り歩くものだから、誰も彼もが互いに囁き合って悪意を萎めていった。
    中には声をかけてくるご老人もいた。

    「小さいの、あんた昨日の傷はどうしたんだい?」
    「治りました! 神が治りますようにって祈ってくれたので!」
    「へえ、ありゃ本物かい?」
    「はい! 都会では信仰されなくなって力は弱くなっちゃったけど、『悪いもの』を祓う神さまなんです! 俺たちを匿ってくれたから、きっとこの村の皆さんにもご利益がありますよ!」

    努めて、斑は笑った。大きな声でとにかく『神』が彼らにとって有益であると判断してもらえるように、そして自分がこの村でひとりの人間として受け入れてもらえるように、気さくな信者を演じてみせた。
    精進潔斎して魚だけで育ったこと。人間とはできる限り接することなく神力を高めてきたこと。これまでにも数々の病を治してきたこと。……すべて嘘、とは言いきれないことをあたかも事実であるかのように語るのはお手の物であった。次第に朝仕事に起きてきた人たちも集まってきて、気付けばすっかり会話が弾んでいた。

    「そういや小さいの、おまえ名前は何て言うんだい?」

    それも、昨日のうちに燐音と口裏合わせに決めていた。

    まつりといいますっ☆ どうぞこれからご贔屓に!」

    まだまだ遠くから警戒心の強い視線が覗いていることは分かっていたが、これだけ中立派が集められれば十分だ、と無邪気な顔の裏で冷静な瞳が虎視眈々と周囲を見ていた。

    さて、と顔合わせを済ませた斑は朝ごはん、または朝ごはんの調達方法を求めに戻った。母屋に入ってはいけないと思うが、呼べば燐音か一彩が出てきてくれるだろう。

    「お……かな、じゃないな。神!」
    「みけじま……♪ おきたら、いないから……びっくりした……」
    「ごめんごめん、みんなに挨拶して回ってたんだ。それより、その子たちは?」

    天城家のほとんど外に置かれた離れへ戻ると、海色の神は自分の足で門戸まで出てきていた。少年が駆け寄ると、村の者らしい幼稚園児くらいの子供たちがきょときょと頭を動かした。

    「わからぬ。そとへでたら、いた」
    「大人の目を盗んで来たのかあ。君たち、この方は神だから、あんまり大人に言わずに近付かない方がいいぞお」

    あんまり会話をさせると、神のほうからボロを出す。だから最初は「信者」として神への橋渡しはすべて自分が担う、それでも大人が強情になるなら燐音が出る。そういう話で既に決まっていた。斑としては、本当なら普通の子供として奏汰にも他の子とおしゃべりできるようになってほしい。けれども今は生き残るのが先決だ。
    脅かすように低い声で言うと、ちいさな子供たちはぱっと顔を輝かせ、「ホントに神さまなの?」「神さまなのに見えるの?」と質問してきた。東京ではありえなかった純粋無垢な信仰に、人間を見下していた少年はきらりと瞳を輝かせた。こんな人々も、まだこの世の中にいたのだ。

    「……ああ、そうだよ。なあ、神」
    「うむ。うまれてからしぬまでずっと、かみだ。おまえたちが『わたし』をあいしてくれれば、わたしもおまえたちをあいしている」
    「つまり、病気が治ったり稲がたくさん実ったり、良いことがあるってことだなあ」

    もちろん、そんなことはない。斑のケガが一晩で治ったのは酷く見せただけの浅い傷だったからだし、文明の利器たる薬があったからだ。しかし、テレビもないこの場所では皆「やらせ」というものを知らない。だからあっさりと神力によるものだと信じてしまう。
    それに、いつも斑がそうするように、いつか颯馬にそうしたように、神が子供たちをそっと撫でると、子供たちはぽうっと気持ちよさそうに目を細めた。人間離れした雰囲気を纏っている彼に触られるとどうやら本当に神さまではないかと信じさせられてしまうような何かがあるようなのだ。斑にはどうにもよく分からないが。

    「よう、よく眠れたか、二人とも。それとも神は寝たりしないのか?」
    「おお、燐音くん」
    「いや、かみもねる。ねると、ちからがつく」
    「はは、そうかそうか」

    気さくな声で話しかけてくれる次期君主の少年を見ると、集まっていた子供たちは「燐音さま」「燐音さまだ」と口々に言って方々へ散った。おそらく気安く近付いてはならないと大人たちから口酸っぱく言われているのだろう。
    子供たちを見送る燐音はどこか哀愁の漂う苦笑を浮かべていた。……やはり、この少年には同調できるところが多い。

    「朝餉だぜ。魚しか食べてないって言ってたから用意させたんだ」
    「おさかな……! さかなはすきだ。おしゃべりするのも、たべるのも」
    「へえ、神は魚とお喋りもできるのかい」
    「でも食べちゃうんだよなあ……」

    あばら家の中へ入ると、吹き込む風や光の差さない窓に燐音は顔をしかめた。

    「悪いな、すぐ良い家を作らせるから」
    「『いえ』はつくれるのか?」
    「そりゃそうだよ。誰かが作ったからあるんだぞお」
    「……? ……? なら、この『だいち』や『うみ』はだれがつくった? とてもおおきなものなのか?」
    「え……う~ん、そういうのは違う話で……」
    「ははっ、さすが神さんは目の付け所が違うな」

    村人がお任せくださいと言うのを強情に突っぱねて二人の膳を持ってきたのは、こうやって何でもない話をするためだった。対等な立場で話ができるのは生まれて初めてなのである。斑は発育も良く本からの知識もあったので、三つの年の差など感じさせない子供だった。
    しかし都会の教育とは違う常識で育った燐音は、斑の知らないことをたくさん知っていた。

    「多分、おまえらとは違う宗教だから知らされてないんじゃないか? それとも都会じゃ『古事記』は読まないのか?」
    「こじき? う~ん、俺もわかんない」
    「そうかそうか。この国を作ったのは伊弉諾と伊弉冉って神さまでな──……」

    知らなかった神話をたくさん知っている燐音の話を、奏汰だけでなく斑も前のめりになって聴いた。時には食べるのを忘れて「それで?」とか「その神さまはどこから来たんだ?」とか言って話を促した。話し好きの燐音は食い入るように聞いてくれるのが嬉しくてどんどん自分の知っていることを話した。

    「すごいなあっ、燐音くんは物知りだ!」
    「けど、俺は都会のことはなんにも知らない。俺が知らなくておまえが知ってることもいっぱいあるぞ。だからいっぱい喋ろう! そんでさ、おまえが神さんに楽しく生きてほしいって思うのとおんなじように、俺もこの村に進化して弟に自分らしく生きてほしいから、一緒にやろうぜ!」
    「……! 自由に……」
    「おまえみたいなやつは初めて会った。希望の星だ」
    「……それって、俺がヒーローってこと?」
    「ひぃろぉ……は、ごめん、分かんねえけど、救いだと思った」
    「じゃあ、そうだ!」

    きょと、と彼は目を丸くしたが、ヒーローに憧れる少年があまりにキラキラとした笑顔を見せるものだから、思わず顔をほころばせた。きっと、自分がもしも心から幸せになれる瞬間があるとしたら、一彩がこの子のような笑顔を見せてくれた時だろう。

    タイミングのいいことに、昨晩風邪を引いていた子がいたらしく、昼には村は大騒ぎになった。曰く、昨日まで熱でうなされていた子が今朝には俄かに元気になった、神さまがいらっしゃったからだろうか、と。それを聞いた二人のリアリストの少年は視線を交わしてニッと笑い合った。子供の風邪なんぞ放っておいても治るのだ。だが、タイミングというものに心を奪われがちな人間というものは一度よぎった可能性をなかなか振り払えない。
    さらには病は気から、口々に「そういえば私も肩こりが軽いような……」などと言い出し、昨晩まで漂っていた「よそ者は追い出せ」という空気はすっかりなくなっていた。

    「……っし、祭、来い! 父上に目通りさせてやる!」
    「応!」

    かくして、宗教から逃げおおせてきた二人の子供は天城村への滞在を許された。しばらくすると「宇汐さま」の神社とお世話係である「祭」の家が建てられた。子供がひとり生活するだけの狭い家だが、それでも斑と奏汰が協力して暮らしていくのには十分だった。
    村の畑仕事や狩猟を手伝い、武術の訓練などにも積極的に参加し、神の分まで村に溶け込めるように努力した。これまで好い顔をして奏汰のもとにチョコだの雑誌だのを持ち込んでいた斑は、人を騙す術というものを知っていたのである。すると、一年も経つ頃にはいつの間にか「神のお世話係」ではなく「宮司」などと仰々しく呼ばれるようになり、神の遣いならばそれなりの身分でなければならないという「古臭い風習」により、あれよあれよと少年は天城の姓を与えられていた。そこまで出世するつもりはなかったので「祭」はうろたえたが、燐音が受け入れてくれたから、それでいいか、という気がしてありがたく名字を頂戴した。

    ────────────────

    「おい、まつり、わたしに『うそ』をついたな?」
    「え? なんだあ、帰りしなにいきなり……」
    「ひいろにきいたぞ。『ばか』で『まぬけ』というのは『きれいでかわいい』といういみではないではないか!」
    「え!? 神、まだそんなの信じてたのかあ!?」

    もうあの適当な嘘を吐いてから、つまり東京から逃げたときから五年も経っているというのに。むしろ五年もよく一彩とそんな話をしなかったものだ、と思いかけて、そういえば一彩は大人の言いつけを守ってあまり神社に入ってこないのだったと思い返す。すぐ裏口をバンと開けて「猪獲ったから食べよう!」などと言う兄とは大違いである。

    「まぁ、よい。それより、またりんねと『とかい』へおりたのだろう? なにがみやげだ?」
    「おお、そうだそうだ。あのなあ、みてくれこれを! ダイオウグソクムシのぬいぐるみがあったから、絶対神が喜ぶと思って買ってきたんだ!」
    「わぁ……! かわいい……♪」
    「それと、新しい雑誌だ! こっちがアイドルの、こっちは特撮の」

    都会の母親らしく、あの日見た神さまのように、髪を伸ばしてハーフアップにした茶髪が元気に動いた。ああ、特撮ももうずっと見ていない。あんまり都会に長居はできないし、ここにはテレビがない。今は雑誌で設定だけ見て妄想しているけれど、いつか都会に戻ったら絶対溜まった分を見るんだ、と斑は心に決めている。奏汰はアイドルのほうに夢中だった。

    「……いいなぁ」

    ぼそりと聞こえた声に料理を作ろうと思っていた少年はふっと振り向いた。

    「……神、アイドルになりたいのかあ?」

    深海家にいた頃は、斑が持ってくるものを享受するだけで自分からあれが欲しいこれが欲しいと言ったことはなかった奏汰。親から貰った大切な名前ですら、「今日から新しい名前になるからな」と言ったあの日に「わかった」と執着を見せずにあっさり捨てた奏汰。本当は違う名前だったことを忘れてほしくなくて少年は「神」と呼び続けているが、彼は奏汰と斑という自分たちの名前をまだ覚えているだろうか。
    縛ってお団子にしないと床に着く髪をざんばらりと床に広げ、布団に寝転んで雑誌を眺めていた彼は、ちら、とこちらを見た。

    「しょうじき、『あいどる』がなにか、いくらざっしをよんでもよくわからない。だが、ここにうつっている、これ。これは『にんげん』だろう」
    「うん? ああ、アイドルのファンだなあ。そのアイドルを応援している人間たちだ」
    「つまり、『しんじゃ』だな?」
    「ん? うん……? まあ、そういうことになるのかあ?」
    「わたしには『むら』のにんげんしか『しんじゃ』がいないから、この『あいどる』が『うらやましい』とおもった。『しんじゃ』がたくさんいるかみさまは、りっぱなかみさまだ」

    おお、と何ともつかない声を漏らす。……彼がこうして自分の感情を口にするのが、不思議なようで、でも嬉しくて。だから、遅れて笑顔になって、きゅっとエプロンの紐を結びながら訊いた。

    「神は、神さまでいるのが楽しいか?」
    「ああ。せんじつは『みす』のむこうから『ことしもたいびょうをせずにすみました』と、れいをいうこえがきこえたぞ。ときどきぬけだして『わるいもの』をおいはらっているし……うむ、うれしい。たのしい」
    「……そうかあ。うん、楽しいならいいんだ。ママは神の幸せを願っているぞお」
    「ふふ、まつりはときどき『まま』になるな。なんだ、それは?」
    「神だってお母さんがいた方が安心するだろ? 俺がそれになってるんだ」

    胸を張って自信満々に言うと、それが可笑しかったのか神はまたくすくすと笑った。母にはまだまだ程遠い少年も、友達として破顔一笑を見せた。
    本当に、奏汰が洗脳されているわけでなく、他の道を蹴ってまで神さまの役目が楽しいと言っているのなら斑もそれを受け入れただろう。かつてと比べれば、本当に「楽しい」と言ってくれることはとても嬉しい。けれど、もっと、……本当なら、もっと普通に人間らしく、自分の存在意義や役目を選ぶ猶予があったはずではないか。

    ここにいることは、きっとあの宗教の中にいるよりもマシだ。ここには自由の尊さを知る燐音がいてくれる。
    だが、もっと普通の。……そうならない限り、少年は自分をヒーローと呼ぶことができないだろうと思った。

    「アイドルかあ……そういえば、『流星隊』の名前が全然載ってないなあ。人気なくなっちゃったのかあ?」

    小さな頃から、ずうっと応援してたんだけど。ひとまずは今日の晩御飯だ、と斑は鍋を出した。


    ────────────────


    村の暮らしには慣れたし、訓練でタコ殴りにされても平気になったし、すべてが共有物という考えにもそこそこ馴染んできた。しかしどうにも、隠しきっていたがどうしても、理解しきれない何かが斑をこの村の一員と言いきるのを邪魔していた。
    う~ん、と今日も岩の上にあぐらをかいて考える。近所の老人に「乗っちゃいかん!」と叱られるとようやく笑いながら退く。そういう何でもないいたずらは楽しい。しかし、自分はもう中学生にもなる年なのだ。

    「おっ、祭、一人で何してるんだ?」
    「兄さん!」

    四年前に兄になった天城燐音。そういえば彼は家で君主になるための教育を受けているはずだ。

    「何か悩みごとか? 遊びに行くか!」
    「あんまり頻繁に抜け出してると外出禁止になっちゃうぞお。そういうのは程々に、許してもらえるギリギリのラインを攻めるんだ」
    「ははは、こいつ悪賢いなぁ?」

    大きな手が髪を遠慮なく乱す。やめろよお、三つ編みがずれるだろう、なんて笑ってお返しに彼のほうからも脇腹をくすぐった。三つ違いの彼はもう高校生にもなる年齢だった。彼も、都会に行くとよくアイドルを見たがった。生まれたのがここでなければ、頭もいいし、きっと今頃夢ノ咲学院や玲明学園にでも入っていただろうに。

    「なあ、兄さん。俺、教育を受けたいんだ」
    「教育? やりたいことなら協力するけど、何のだ?」
    「普通の、義務教育。俺も神もそういう年だからなあ。生きてくのに必要な労働だけでいいなんて、そういうのは不健全だとママは思います!」

    ふん、と鼻を鳴らして胸を張る。唐突なママ自称に燐音はぽかんと口を開けたが、言っていることを理解すると大口を開けて笑った。なぜ笑うのかと斑が頬を膨らませると、悪い悪い、と彼は手を振った。

    「いや、いいよ。すげぇいい考えだ。うん、そうだよなぁ。やっぱり、そうだよなぁ……」
    「……?」
    「祭、おまえ将来の夢はあるか?」

    それは、一彩にも訊いたことがあることだった。一彩、おまえは将来、どんな大人になりたい? それに対して実の弟はよく分からなそうな顔をした。もうこの子や神と同じくらいの年頃なのに、まだ何も分かっていないようなあどけない顔をしている。それに比べてこの子供は元々発育がよかったのもあって、背丈は燐音と同じくらいあるし、顔つきもキリリとしていて大層なことを考えていそうだった。それでもこんなところで育っているからまだまだ子供っぽさは抜けないが、守るべきものがあるから、どこか一本気の通ったものを感じさせた。
    将来の夢。かつて都会の小学校でもそんなことを訊かれたっけ。あの頃は、無難に、親の背中を追いかけるいい子のふりをして「警察官」と答えたのを覚えている。だが、今は違う。

    「……ヒーローになりたいなあ」
    「そうか。変わらないな、立派な夢だよ」
    「神がな」
    「……ん?」
    「神が、アイドルになりたいって言うんだ。たくさんのファンに囲まれて、立派な神さまみたいだって」
    「……おお、そうか。神さんも昔に比べりゃよく喋るようになったな。いいじゃねぇか」
    「ああ。それでなあ、俺は、小さいころに見つけた空っぽな子供だったあの子が自分の力で幸せになるのを、あの子の一番近くで見てみたい。こんなところで燻らせてる俺が言えたことじゃないのかもしれないけど」
    「いーよ、夢くらい好きに語れ」

    そんで好きに動いて叶えりゃいい。兄は一彩に言っても無駄なことを、代わりにこの義理の弟によく言った。そのせいで周囲には「燐音さまは馬鹿な一彩よりも気が合う祭のほうを可愛がっていらっしゃる」と言われているが、少年は兄の寵愛児は今も昔もあの子だけだと知っていた。自分も同じだからよく分かるのだ。確かに燐音とは気が合うが、それはあくまでも対等な友達としてである。守るべきものはずっと変わらない。守りたいものは、これから先も変わらない。
    そんな兄を、尊敬しているのは自分の話だ。

    「今は、俺にとってのヒーローっていうのは、神と一緒にアイドルになることだ」
    「…………」
    「兄さん。俺はアイドルになるぞお! もう決めた!」
    「……そっか。じゃあ、兄ちゃんは応援してやらねえとな」

    自分よりは小さいが大きな手がぽんと、今度は優しく頭を撫でた。……分かっている。燐音は立場があるからどうしたって大っぴらに「俺もだ」とは言えないのだ。お互い、何を考えているかは大体わかるからそれ以上は言わなかった。

    そのうち、アイドルの舞台を見るついでに中学生の参考書を手に入れてきた。本当は撮影して奏汰にもその光景を持って帰ってあげたかったが、カメラなんかは高くて買えなかったし、よしんばあったとしてもどこも撮影禁止であった。
    だから斑にできたのは、自分が曲に合わせて踊ってみせることと、彼に踊る楽しさを知ってもらうことだった。幸い、小さい頃から奉納の舞いを娯楽としていた神にとってはじめからダンスは「楽しいもの」であったため、足腰を鍛えることのほか大きな課題はなかった。

    「よし、そろそろ……神、勉強をしよう!」
    「……? 『べんきょう』とは、あたらしいことをしることだな? その『ほん』をつかえばたくさん『べんきょう』できるのか?」
    「うん、神も察しがよくなってきたなあ」
    「とうぜんだ。なんねん『いっしょ』にいるとおもっているのだ」
    「うんうん、賢い神ならきっとすぐ勉強もできるようになるぞお。とりあえず、俺がちょっと先まで進めてるから、本を読んでも分からないところがあったら聞いてくれ。はい、こっちが神の分の教科書だ」
    「うむ。……けっこう、たくさんあるな?」

    きゅ、と自分で髪をしばり、目隠しを外すと彼は穏やかな目をきゅっと細くした。算数、とか、理科、とか。書いてある文字を見ると、なんだかいつもと違うなという気がしてくる。よいしょとちゃぶ台を持ってきた斑の向かいに座布団を持ってきて座りつつ、やる気満々の生き生きした顔を見つめた。

    「まつり、なぜ『べんきょう』するひつようがある?」
    「ん? ん~……はは、神もいつの間にか、俺の行動にもちゃあんと疑問を持つようになっていたんだなあ。そりゃあ俺も背丈が165にもなるはずだ。聞くところによると成人男性で170センチが平均らしいから、十五歳になる頃には超えてるかもなあ」
    「こら、はぐらかそうとしているな。かみさまのしつもんにはこたえろ」
    「……ちゃんと、自分の頭で物を考えるようになった。ママは嬉しいです!」
    「はいはい、わかった……」

    それも実は当然で、神らしくあろうと和服ばかりを着るが神はおしゃべり好きで、悪いものを鎮めるために出歩くときに跪く村人たちに近況を聞いたり、神社の裏に作られた湖に近付くことを許されている七歳未満の子供に自分の神話などを聞かせてやったり、人とのコミュニケーションというものに慣れているのである。あの頃とはまるで違う。自分だって、ただがむしゃらにエゴで神を振り回すだけの子供じゃない。

    アイドルになるためだ、と言ってもよかったが、もしも口を滑らせて村の者に知られようものならどうなるか分からない。ただでさえ実は魚以外も普通に食べることや実は怪我を治す力はないことなど、隠していることは数知れないのだから。

    だからしばらく、奏汰は理由も分からず勉強を進めることになった。昔からなんとなく彼の言う通りにしておけば間違いなかったし、彼の行動には必ず納得できる理由があるのだと最近ではうっすらと分かってきた。だから今は訊くのを我慢してあげる。神さまの方が人間より偉いから、燐音みたいに人間に優しい偉いひとになってあげるのだ。
    燐音はたくさんのことを教えてくれる。あまり会いに来てくれない一彩を時々連れてきてくれるし、都会や人間たちの話もたくさん聞かせてくれる。社会や理科の勉強をしたら物知りな燐音に近付けるかもしれないと思って日がな一日勉強していたら、いつの間にか斑を追い越していた。

    「え!? 神、もう全部終わらせたのか!? 解きなおしはしたかあ? 何も見ずに全部丸になるまでやった方がいいぞお」
    「なった。わたしはまつりとちがって、いちにちずっと『ひま』なのだぞ。だれかがきても『みす』のむこうだから、ほんをよんでいてもわからないし」
    「ははは、そうかそうか。それじゃあ今度は中学生用のやつを買ってくるからなあ」

    そんな風にこそこそ一人で出ていくようになると、だんだんあの隠れ家のほらあなに一彩がやってくるようになった。

    「祭、またここにいたんだね。それは……何をしているんだ?」
    「おお、一彩。都会の金を工面しているんだぞお。これを作って、納品すると金銭が手に入るんだ。この村では貨幣が流通していないからなあ、こつこつやらないと」
    「こそこそして何かするのはやめた方がいいよ。祭は元々僕らの同胞ではないんだし、不信感を持たれたら追い出されてしまうかもしれないよ」
    「そうだなあ、だからこそこそやっているんだし、村の仕事にも精を出しているんだぞお」

    飄々と言ってのければ、一彩は幼い顔立ちで一丁前に眉を寄せてしかめっ面をした。あまり彼のことを弟とは見ていないし、彼も兄とは思っていないから呼び捨てにしてくるわけだが、それでも斑にとっては兄さんの可愛い弟のことは少なからず可愛かった。

    「君ももっと遊びに来るといい。神も話したがっているからなあ」
    「それはできないよ。七つを超えた子供や大人は神に対面してはいけない。人間の方から神に近付こうとするなんて烏滸がましいよ。それは、正しくない」
    「正しいとか正しくないとか、それじゃあ神の気持ちはどうなるんだ?」
    「気持ち……?」
    「いや、そうか。君たち“ただの人間”にとって、神さまっていうのは人間に慈悲深くて機嫌を損ねれば怒って祟る、そういう絡繰りのシステムでしかないんだろうなあ。まあ、そういう神秘性を今も維持しているのは俺の責任だし、実際神話の『神さま』っていうのはそういうものだもんなあ。仕方がない、仕方がない。 朽木糞牆きゅうぼくふんしょう
    「……? 祭の言うことはわけが分からないよ」
    「俺は君のそういうところが嫌いだという話さ」
    「嫌いでもいいからちゃんとしてほしいよ」

    はいはい、と適当に返事をして腕を振る。出ていけという意味だと解釈し、一彩は不満そうにしながらも村へ戻っていった。燐音が言うから黙っているが、本当は村総出で責め立てたいくらいだろう。斑には未だに異物である自覚があった。いくら君主の家系に連なろうと、親しげに名前を呼ばれようと、自分にはみんなの「正しい」が分からない。
    だから、都会へ出る。自分だけの「正しい」を信じてアイドルになる。奏汰を閉じ込めようとする大人がまだあの場所にいるのなら、今度こそ拳を使ってでも黙らせてやる。悪者は倒して守るべき子供を守る、憧れていたヒーローとして。

    そうして、斑たちがこっそり都会の勉強を始めてから一年あまりが経った。事件は、ある日突然に起こった。

    「祭! 祭、起きてほしいよ、大変なんだ!」
    「うおっ……! な、何だあ?」

    ドンドンドン、と家の扉が叩かれる。敵襲かと斑は跳ね起きてまだ寝ぼけまなこの神を守るべく低い姿勢を取った。声から一彩なのは分かっていたから、そっと扉を開ける。

    「朝から何を大騒ぎしているんだあ、一彩……」
    「に、兄さんが……兄さんが勝手に村を出ていったんだ!」

    そんなのいつものことだろう、とは、今の真剣な顔を見れば言えなかった。いつもとは「出ていった」の意味が違うのである。それは、つまり。

    「落ち着きなさい、一彩。兄さんは昨日までに何か言ってなかったか?」
    「ああ……兄さんは、『あいどる』になると言っていたよ」

    まだ日の出から時間も経たない、平和な朝の曇り空だった。
    後ろから顔を出した神も、目隠しの奥で表情を変えた。一彩は彼の姿を見るとはっと後ろへ下がったが、よい、と神が仰せになるので恐る恐る顔を上げた。

    「祭、教えてほしいよ。『あいどる』とは何だ? 都会にあるもの? 『なる』ということは職業なのかな?」
    「ああ、そうだ。兄さんはそれを夢見ていたみたいだからなあ。……そうかあ、一人で行ったのかあ……」
    「だけど、兄さんには生まれついての役目があるのに、どうして……」
    「生まれつきの使命しか果たせない人生なんてつまらないだろう」
    「……君たちはおかしいよ。正しくないことばかり言う」

    吐き捨てるように言って、一彩は背を向けた。それが、そんなものが、斑が見た一彩の初めての感情発露だった。

    本当の家族ではない自分には何も言えない。あとは村の同胞同士で話をつけるだろう。
    まずは落ち着いて、いつも通り朝ごはんを作ろう。飯盒で米を炊いて、窯に味噌汁をかける。頭には自然と燐音の顔が浮かんだ。時にふざけて対等な子供同士のように振る舞い、時に大人びた顔をして年上らしく振る舞い、そんな兄がよく神に土産話をするのを斑は知っていた。そして、本当は一彩に聞かせてやりたいのだということを神は知っていたし、少年も神から聞いていた。
    そんなに愛していたのなら、一彩も連れていってやればよかったのに。いや、子供一人の手では自分一人さえ養えるか分からない。都会のことを何一つ知らず、自分の意思すらない子供を連れて歩くのは危険である。……それに、君主の血を継ぐ者が一人もいなくなれば村は崩壊してしまう。思考停止した人間しかいないこの場所では新しいリーダーなど出てくるはずもない。仮に、それがいるとすれば、……そこまで考えて、斑ははっとした。

    自分たちがいずれアイドルになるべく村を出ると言ったからだ。一彩を連れて出れば、君主の後釜になるのは神しかいない。神の啓示を君主命令として、宮司が実権を執れば政治は維持される。だが、兄は二人の夢がアイドルであると知っていた。だから。

    味噌汁が沸騰した頃、突然背中が冷たくなった。精神的なやつではない。

    「うおおっ!? 神、濡れたまま抱きつくのはやめてくれ! というか拭いてから上がりなさい、また床が腐るだろう!」
    「まつり、りんねは『あいどる』になりにいったのか? 『あいどる』は、がんばれば、わたしたちにもなれるのか?」

    息せき切ったような早口な言葉に目を丸くする。目隠しが僅かに透けて、その奥に何よりも透き通るガラス玉が見えた。子供の夢が詰まった、おもちゃのような可愛い顔をしている。
    朝の水浴びをして、彼も自分と同じように考えを巡らせたのだ。親身になってくれたあの人が誰にも何も言わずに姿を消した、その気持ちが分かってしまって、居ても立っても居られない。

    「……本当はもっと時間が経ってから言おうと思ってたんだけど。神、君はアイドルになりたいか?」
    「なりたい。わたしは『しんこう』してもらうのがすきだ。『あまてらすさま』のように、いまよりもたくさんの『にんげん』に『しんこう』され、いまよりも『にんげん』とちかづけるなら、わたしはそれになりたい」

    神は自分だけではないと彼は知っている。燐音にたくさん話を聞いたから。自分のような現人神がいなくなっても海も地上も困らないとも知っている。それでも彼はそのうちの一柱として今いるこの場所を守ると決めていた。……そんな彼が、大きな世界へ飛び立ちたいと言う。深海に沈んでいるだけでは物足りないと感じている。だったら、幸せになるためにはどうすればいいか。

    「……ふふ、ははは! 嬉しいぞお、神! 俺と一緒に、それになろう! そのために今まで勉強してきたんだ!」
    「……まつりも、いっしょに?」
    「ああ、そうだ。愛する我が子の幸せを一番近くで見るのがママの幸せだからなあ」
    「ふふ……『まま』ごっこもよいが、すなおにわたしと『いっしょ』がいいといえばよい」

    髪を肩にかけて、かつて空っぽだった子供は人を見透かしたように笑ってみせた。嘲るような、妖艶なような、それでも何故か、無垢で可愛かった。

    ────────────────

    恐ろしいことに、その日のうちに既に天城燐音は「いなかったもの」として扱われていた。いや、いなかったのだから「扱い」も何もない。次期君主は一彩になった。そして、平和な村の一日がずっと延々と続いている。

    ただ、神社の空気は変わった。熱心にお祈りして魚を奉納しに来る信者は多少なりともいる。しかし村のそこかしこに、一時は皆忘れていた「よそ者」という意識を向けてくる者がいた。元は同胞ではなかった人間、あれのせいで燐音さまは出ていかれたのでは。そんな噂すら立つほどだった。
    そして、そんな空気を一彩はどうしていいか分からないようで、ギスギスした空気は一切緩和されないまま日々は進んだ。事実、一彩自身それをどう思っていいか分からなかったのだろう、と斑は思っている。燐音の「おかしな言動」を止めるどころか一緒になって助長させた悪、しかし優しい義兄でもあった、そんなジレンマで揺れている。

    表面上、斑は何も気付いていないような顔をして過ごしていた。その実、家に帰れば神と一緒に受験勉強を進め、歌や踊りの練習をする。漏れ聞こえるその騒音を、村の者はやはりひそひそと不審そうに噂した。

    「いやあ、気付けば結構時間が経ったなあ。俺たちももう十五かあ」
    「『がんしょ』とやらはだしたのだろう? いつ『こす』?」
    「そうだなあ。都会に持っていかなければいけないものはほとんどないし、遅刻しては事だから、出ていけるときに出ていきたいが……あまり早めに都会へ出て『あの家』に見つかる可能性を高めるのも嫌だしなあ」
    「ふふ、『じゅけん』、たのしみだ」
    「神、ちゃんと人間社会に馴染めるかなあ。ママは心配です」
    「まつりこそ、おとこのくせに『まま』をじしょうして、ともだちを『かみ』とよぶ『へんなやつ』ではないか」

    ふ、と笑いかけて、バッとノートから顔を上げた。ちゃぶ台の向かいに正座して国語の読み物を見ていた彼は、なんだ、と微笑んで首を傾げた。

    「……神、いつ自分が人間だって……」
    「ばか。おまえとりんねのはなしをきいていればわかる」
    「…………」
    「おまえが、わたしを『じゆう』にしてやりたいとおもっていたこともな」

    わたしだって『じゅうご』だぞ。銃後の少女のような顔をして、大きくなってますます男女の区別がつかなくなってきた神は上機嫌に鼻を鳴らした。

    その日は、やけに村が静まり返っていた。
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