寧々が練習から帰ると、母親はやけに急いで出かける準備をしていた。バタバタと着替える母にただいま、と声をかけ、「そんなに急いで、どうしたの?」と尋ねる。母親はようやく寧々に気づいたのか、動きを止めゆっくりと寧々を振り返った。その表情を見て寧々は酷く嫌な予感がして、肩にかけたままだった鞄の持ち手を潰した。
────類くんが、事故に遭ったって。
そう聞いたのは先刻のことだ。司の元に連絡が来たのはユニットの中でも最後で、寧々からえむへ、そして泣いてしまった寧々に変わりえむから司へと直接連絡が入ったようだった。
今日は練習が終わった後、司と類が残ってそれぞれ練習と機器の調整を行っていた。司は課題となっていた部分をなんとか飲み込み、一段落着いたところで何か手伝えることはあるかと類に声をかけ、今日は練習もハードだったし終わったなら早く帰った方が良いと返答を受けたのだ。その時の類は手元から目を離さず、声はしっかりしているものの意識の9割は手元に向いていることが分かったため、司はお前も早く帰るんだぞ、と苦笑し帰路についたのだ。数時間後、日が落ち切った頃に類が帰り道を歩いている時、不運にもアクセルとブレーキを踏み間違えた車に突っ込まれたという。
「類は無事なのか?」
「うん、体の方は大丈夫だって!ちょっとだけ入院してちゃんと大丈夫になったらすぐ退院できるってお医者さんが言ってたみたい」
「そうか!それは良かった」
「でも……」
「どうした?」
「類くんね、一回目覚ましたらしいの。でも、その時……なんにも分からなかったんだって」
「……どういう、ことだ?」
「目を覚ました時、寧々ちゃんが声かけたんだって。そしたら……」
────……君は?
「って、とっても不思議そうに、言われちゃったみたい」
*
えむが放課後に神山高校にいる司と寧々と合流すると、目に赤みの残っている寧々が先導し、類のいる病院に向かった。いつもなら会話が途切れることなく続くところだが、今日に限っては寧々がポツポツと状態を話すだけに留まっていた。
「えむには昨日話したけど、昨日は類の両親が学会でいなかったから、緊急連絡先だったわたしの両親が呼ばれて、わたしも一緒に行ったの」
「ああ、オレも大体の流れは昨日えむから聞いた」
「そう。じゃあこれも聞いたと思うけど、類が一回目を覚ました時、すごく怪訝な顔してて。どうしたの?って聞いたら、君は?って、いつものポーズじゃなくて、本当に困ったって感じで言ったの」
「うん。それで寧々ちゃん、びっくりしちゃったんだよね」
「……うん。気づいたら泣いてて、目が覚めてすぐ押したナースコールで来てくれた看護師さんが声かけてくれてた。その後に来てくれたらお医者さんが、明日また詳しく見るけど、恐らく大部分の記憶がなくなってしまっているだろう、って……」
そう言って寧々は俯いた。幼馴染が突然記憶を失ってしまったのだ。1年一緒にショーをやっていたえむでさえとても悲しいのに、長年知り合っていた寧々はもっと悲しいだろう。えむは寧々の背中をゆっくり摩った。
「……ありがとう、えむ。ごめん、2人も悲しいのに、わたしだけ」
「いや……正直オレはまだ直接見るまで実感が沸かなくてな。病室に入ったら案外『やあ、司くん』と声をかけてくるかもしれないと、どこかで思ってしまっている」
「あたしも。だから一緒に行こう、寧々ちゃん。類くんがどういう状態でも、仲間だもん!また一緒にショーができるように、みんなで考えよう!」
寧々は、そうだね、と今日会って初めての笑みを浮かべた。
*
トントンと扉を叩くと、どうぞと聞き慣れた声が返ってきた。
「……失礼する」
「……類くん、大丈夫?」
いつもの騒がしさが嘘のようにゆっくりと声をかけるえむに、気持ちは分かると思いながら司は扉を閉めた。
「類、昨日ぶり、だね。覚えてる……?」
類はえむ、寧々、そして司と視線を巡らせ、そしてゆっくりといつもと同じ笑みを浮かべた。
「やあ、えむくん、寧々、司くん。お見舞いに来てくれたのかな、ありがとう」
「え、類、わたしたちのこと……」
「覚えているのか!?」
「……そうだね、まあ、とりあえず座って落ち着いてくれ」
類はベットの脇に置いてあった3脚の椅子を指した。戸惑いながらもとりあえずは話を聞こうと腰掛ける。
「記憶のことだけど、一応確認しても構わないかな。僕は神山高校2年B組の神代類。ワンダーランズ×ショウタイムという君たちと僕で構成されるユニットに所属していて、フェニックスワンダーランドをより広めるための宣伝公演も幾つか行なっている。ここまでに間違いはないかい?」
「ああ。お前は我がワンダーランズ×ショウタイムの天才演出家として存分に腕を奮ってもらっている!間違いはないぞ」
「そう……良かった。それでみんなのことだけど、それぞれ天馬司くん、鳳えむくん、草薙寧々くん、で合っているかな。司くんは同い年で同じ高校の2年A組で学級委員。ワンダーランズ×ショウタイムでは座長も務める。えむくんは宮益坂女子学園の1年生でフェニックスワンダーランドを経営する鳳家のご息女、寧々は僕と同じ学校の1年B組で僕の昔からの幼馴染で、歌が得意。間違いはあるかい?」
「ううん、合ってるよ。なんだ、昨日は心配したけど、大丈夫そうで良かった」
流れるように確認する類に、安堵の息が漏れる。寧々も気が抜けたのか、柔らかい笑みを浮かべていた。しかしえむは未だじっと類を見つめており、しきりに首を傾げている。
「えむ?どうした」
「おや……何か違いがあったかな」
「ううん、そういうのじゃないんだけど〜……うーん……」
むむむ、と眉を寄せ、徐に立ち上がったと思うとぐっと類に顔を近づけた。反射的に避けようとして仰け反った類が倒れないよう慌てて手を添えると、ピク、と背が揺れたのがわかった。
「類くん、本当に無理してない?」
「ええと……無理しているように見えたかな」
「うぅん……なんか……上手く言えないんだけど〜……」
「僕は問題ないよ。心配しなくて大丈夫さ」
困ったように類が笑う。その答えに少し違和感を感じたような気がしたものの、司自身はそれだけにとどまった。
「2人にも心配かけたね。寧々も昨日夜遅かったのに、ご両親ともども来てもらって悪かった」
「いや、別に……」
「ああ、事故にあったと聞いた時は肝が冷えたが……大事なくて良かった。だがしばらく大きく動くような練習は控えてもらうからな。今回のように夜遅くまで残るのも禁止だ!」
「フフ、そうだね。じゃあ、しばらくはお言葉に甘えさせてもらおうかな」
「……え、」
寧々が小さく声を漏らした。同時に司も軽く目を見開く。それに気が付かなかったのか、目を伏せた類が続ける。
「それにしても、まさか車に撥ねられるとはね。不運なこともあるものだ」
「……うん。類くん、痛かったよね」
「今は痛くないから大丈夫さ。体も後遺症は残らないだろうと言われたし、不幸中の幸いってやつかな。意外と悪運が強い方だったらしい」
未だ眉を寄せながらも、類の痛みを想像して、まるで自分が痛かったかのように言うえむを安心させるようにか、類が明るく答えた。
「……アクセルとブレーキの踏み間違いだそうだな」
「ああ、そうらしいね」
「わたしたちもまだあんまり知らないんだけど、犯人は捕まった、んだよね?もう会った……?」
「いや、まだだよ。僕も事故についてはまだ詳しく知らされていないから……明日両親が帰って来てくれるらしいから、その時に詳しく聞いてみるよ」
類が一瞬目を下に逸らした。まるで期待した回答が得られなかったかのように。
「フフ、ところで司くん、学校は暇じゃなかったかな?刺激的な毎日の連続記録が途絶えてしまったね」
「なんだその記録は!?まさか今日もなにか……!?」
思わず辺りを見渡す。そこでふと、類のベットの脇には先ほどまで触れられていたであろうスマホと、冷蔵庫の上の物置には少し開けた形跡のある通学鞄が見えた。鞄からは恐らく機能調整してたであろう演出用機械の設計図が覗いていた。
「さすがの類も昨日の今日でなにか仕込めないでしょ」
「そうだねぇ。残念ながら」
「なんだ、驚いたぞ全く……そういえば昨日の夜作業していたこれは無事調整を終えられたのか?」
鞄を指し示しながら尋ねる。類はゆっくりと一つ瞬きをして、視線を軽く逸らした後、再び笑みを浮かべて目を合わせた。
「ああ、大体は終えられたと思うんだけれど……」
「まあ、昨日のことだもんね」
「あ、そうだな、悪かった……小さいものだったし、明日持ってくるか?」
「……そうだね、持ってきてもらえると、助かるよ。そういえば、今日は練習はいいのかい?僕はほらこの通り、問題ないし」
「何を言う。仲間が事故に遭ったと聞いたら、駆けつけないわけにはいかんだろう。寧々も大分寝不足のようだしな」
「そう、だね。今回のショーはミュージカル調で歌が多いし、ちゃんと落ち着いて練習したいかな」
ずっとどこかで何かが引っかかっている。会話を続ける中で時折類が考えるように顎に軽く手を当てるのは、何を考えているのか。
「確かに、今回は寧々の歌が映えるシーンが多いし、寧々が本調子の時に行なった方が良いね」
「演出家が戻ってこなければ満足な練習も出来ないしな」
類は一つ瞬きをした。
「……その通りだ。早く回復できるよう、努めるよ」
ドアが3回ノックされる。類がどうぞ、と言うと看護師が失礼しますと入ってきた。
「あら、草薙さんと……神代さんのお友達?」
「はい!」
「そう……神代さん、記憶の方はどう?お友達と話して思い出したことはあった?」
寧々が大きく目を見開いたのがわかった。
「そうですね、」
類は変わらない笑みのまま答えた。
「今のところ、何も」