Calling潮騒を遠くに聴きながら、ウェドは灯りもつけずに床板の継目を見つめていた。
「……」
深く、大きく、息を吐く。苛立ちと焦燥が胸を押し潰していくようで、気を落ち着かせようと火をつけた煙草を持つ手が震える。あの時アルダシアに持ちかけられた話が、今もずっとウェドの頭の中を巡っていた。
『取引をしようじゃないか、ディアスくん。なに、お前の大事なテッドをどうこうしようって言うんじゃない。そう怖い顔をするな…』
*****
「…何が取引、だ。まさかお前の言うことをこの俺が信用すると思っているわけじゃないだろ」
「するさ、今回ばかりはな。…情報をやる。だからお前の力を貸せ、ウェド」
「気安く呼ぶな。誰がお前の手駒になどなるものか」
「お前…南洋諸島付近の、壊滅した漁村の出身らしいな?」
「……」
「俺にそれを教えた人物の情報こそ、俺がお前に支払う対価だよ。気になる話だろ」
「俺に何をさせるつもりだ」
「そいつを消すのを手伝え。俺はそいつに死んでもらわなければならない。俺の命が危ないんでね」
「断る。殺しはやらない。お前がどうなろうと知ったことか」
「なら教えてやるよ…ガキだったお前の潜入を密告し、お前の女を殺したのはそいつだ。そいつは今までお前とお仲間の命を脅かしてきた。お前の宿敵、俺の障害…『シーナ・ナーガ』。お前の同郷だという化け物女だよ」
*****
それを聞いた瞬間のことを思い出し、ウェドの身体が小さく震えた。怒りと苛立ちに煮えたぎる心に、突然冷水をかけられた心地だった。
「…シーナ・ナーガ……」
ウェドはその人物をよく知っていた。シーナ・ナーガ…シーナは、ウェドの母親の妹だ。
(彼女はあの夜よりずっと前に島の掟を破り、追放されたと聞いた。確かに子供の頃から何か俺に執着するような気配はあったが…何故シーナは俺を狙う?)
アルダシアの言葉を頭から信じたわけではない。だがそれは乗り越えたはずの重く暗い記憶を甦らせるには十分で、怒りと罪悪感が胸をきつく締め上げた。
机の上に放り出していた紙切れを拾い上げる。
『取引に応じる気があるなら一人で来い。あの煩わしい子犬は連れてきてくれるなよ、来たところで足手纏いにしかならん』
(…なんにせよ、テッドを奴に会わせたくない。サリア…彼女にもだ。決着をつけなくては)
ウェドはクローゼットから取り出した厚手の装備に袖を通すと、防具を身につけ大斧を背負った。腰のポーチに葉巻ケースを入れ、太腿のホルスターにナイフと携帯銃を忍ばせる。支度を終えてソファのある大部屋へ戻ると、アンバーが金色の大きな瞳でウェドを見つめていた。
「…ああ、わかってる。昔みたいに無茶はしないよ。いつも心配ばかりさせてしまってすまないね」
ウェドがアンバーの小さな額に手を伸ばすと、アンバーはくるる、と鳴きながらぐいと伸びをして掌に頭を押し付けた。
「誰にも…テッドにも、俺の居場所は伝えないでくれ。頼むよ、アンバー」
そっと離れていく手を、アンバーの嘴がするりと撫でる。まるで恋人同士の名残惜しい別れのようで、ウェドは小さく微笑むと、静かに隠れ家の扉を閉めた。ピュイ、と笛を吹き、騎獣の大鷲を呼び寄せて背に飛び乗る。
じっとりと身を包む嫌な気配をはらうように、ウェドは霧を切って目的地への道を急いだ。