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    omaenozirai2

    @omaenozirai2

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    omaenozirai2

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    最後まで書くことはできませんでした……。
    現代AU忘羨

    約束されたハッピーエンド 一番古い記憶は、黒くて大きな犬のような化け物が、父さんの運転する車に張り付いたというものだ。
     運転席の後ろに乗る俺は言った──とうさん、こわいのがいるよ!
     助手席に乗る母さんは笑った──阿羨、夢でも見たの?
     父さんも笑って、何かを言おうと口を開いた、その瞬間。化け物の笑い声がした。その笑い声はどんどん高くなっていって、父さんの酷く焦る様な声と母さんの悲鳴と混ざりあった。
     そしてすぐに、大きな衝撃があった。

     次の記憶は、多くの人が察せるものだ。
     ありふれたドラマのように、俺は病室で目覚め、両親が事故で死んだことを知った。

    「魏無羨!魏無羨!起きろ!!」
    「あと五分……いや十分……一時間……二十四時間…………」
    「お前起きてるだろ!さっさとベッドから出ろ!」

     魏無羨の朝は、幼なじみ兼義弟の江澄の怒声で始まる。
    剥ぎ取られた夏用の薄いタオルケットに手を伸ばすと、その手を叩き落とされる。

    「今日は補習だろうが!」

     補習、補習、補習……。

    「補習!?」

     魏無羨が慌てて飛び起きると、魏無羨をベッドから落とそうとしていた江澄の額と衝突し、再び魏無羨はベッドに沈んだ。使いすぎて固くなった枕は、衝撃を逃してくれず、ぶつかった額だけでなく、後頭部まで痛める羽目となった。

    「いってー!江澄の馬鹿野郎!もっと離れたとこにいろよ!」
    「魏、無、羨ッ……!!」
    「やっべ」

     本気で怒る江澄の声に、彼とぶつからないように今度は慌てず起き上がる。ベッドの上にぺたりと座り込んだ魏無羨に、江澄は拳骨を一つ振るおうとしてくるのでそれを避け、その勢いのまま、するりと猫のように魏無羨はベッドから降り、江澄から距離を取った。江澄はタオルケットを乱暴にベッドに投げつけると、拳を握りしめたまま魏無羨に向かって来る。魏無羨は部屋を出ると、階段を降り、一階にあるリビングへと入った。慌ただしくやって来た魏無羨に、食器洗いをしていた義姉の江厭離がにこやかに笑って言う。

    「おはよう阿羨。また阿澄を怒らせたのね?」
    「おはよう姉さん!違うよ、江澄が勝手に怒っ──」
    「魏無羨、貴様!!姉上に嘘をつくとは何事だ!!沈められたいのか!!」

     魏無羨を追いかけてリビングに入って来た江澄から身を守るため、魏無羨は江厭離の後ろに隠れ、彼女の小さな背中に縋り着き、甘えた声を出した。

    「わーん、姉さぁん、江澄がいじめるよぉ」
    「気色悪い声を出すな、姉上の後ろに隠れるな!!」
    「あらあら」

     江厭離は食器洗いを終え、濡れた手をエプロンで拭きながら笑った。
     魏無羨の朝はこうして始まる。魏無羨と江澄は仲が悪いわけではなく、これは二人のコミュニケーションの一つなのだ。江厭離が宥めると、二人も落ち着きを取り戻し、江澄はテレビの前のソファーへ、魏無羨は彼の分の朝食が置かれたテーブルへと向かった。パンが二枚といちごのジャム、昨日の夕食だった汁物。若干温くなってしまっているが、昨夜と同じく美味しい汁物を口に含みつつ、魏無羨はテレビを見た。朝のニュース番組が流れており、玉突き事故が発生した現場にアナウンサーが立ち、状況を説明している。それが終わると現場近くの店に聞き込みに行き、事故当時の様子を店員が語りだした。店の外観は見覚えのあるもので、汁物の椀から口を離す。

    「ここって江おじさんたちのオフィスが近いところだよな」

     江おじさんというのは本名を江楓眠という魏無羨の義父で、江澄と江厭離の実父である。両親を失い孤児院に入っていた魏無羨を友人の子だからと引き取り、実の子同然に育ててくれた、とても優しい人だ。古くから続く会社の社長をしており、彼の会社よりは新しいものの同じように古くから続く会社を経営する家系に生まれた虞紫鳶が彼の妻だ。政略面の強い結婚なこともあって、二人の仲はあまりよろしくない。さらに虞紫鳶は魏無羨の母と何やら揉めたことがあるらしく、魏無羨に対して当たりが強いが、家から追い出さずに育てたのは彼女も一緒なので、魏無羨は彼女にも感謝している。
     彼ら夫婦のオフィスには、手伝いで江澄とともに何度も行ったことがある。蓮が有名な湖畔に立てられたこの屋敷同様に蓮が有名な池近くにあるそこへの道のりはよく覚えている。今テレビに映っている店から数分歩けば、オフィスに着くはずだ。今の時刻は9時の5分前。夫婦はいつも8時30分には家を出て、秘書の運転する車でオフィスへ向かう。屋敷からオフィスへは、車で30分かかる。事故に巻き込まれていても、おかしくないのだ。
    魏無羨がぽつりと言った言葉を江澄が肯定する。

    「ああ、確かに父上たちのオフィスの近くだ」

     険しい顔をしていることの多い彼は今、眉が僅かに下がり、心配そうな顔をしていた。他人にも自分にも厳しいため勘違いされやすいが、江澄は家族を一番に考える、家族愛溢れた男なのだ。江厭離は江澄の隣に座ると、スマートフォンを操作し、耳に当てた。江楓眠か虞紫鳶のどちらかと連絡を取ろうとしているのだ。それを彼女の弟たちがテレビから目線を移して見ている。隣に座る江澄にスマートフォンから僅かに聞こえていた呼出音が止まると、江厭離はぱっと口を開いた。

    「もしもし、母上ですか。今ニュースでオフィス近くで玉突き事故が……はい……はい、分かりました」

     虞紫鳶と通話中しながら、江厭離は人差し指と親指をくっつけて丸を作り、両親は無事であると弟たちに知らせた。

    「良かった、おじさんたち無事なんだ」
    「まあ、現場の映像に父上たちの車は映っていなかったしな、当然だろ」
    「一番心配そうな顔をしてたやつが何言ってんだよ」

     いちごのジャムを塗ったパン一枚をぺろりと平らげると、二枚目に同じジャム塗る。赤いジャムに影がかかると赤黒くなり、血のように見えた。昨日のことを思い出し、魏無羨の顔は暗いものとなる。通話を終えた江厭離が、ソファーに座ったまま魏無羨に話しかけると、暗かった顔は嘘のように明るくなった。

    「阿羨、昨日の怪我は、どう?」
    「ばっちりだよ」

     パジャマのズボンの裾を上げて、切り傷を中心に青黒い痣の広がる脛を見せる。江澄は顔を顰め、江厭離は悲しそうな顔になった。

    「そうだな、ばっちり痣になってるな!」
    「阿羨、それじゃあ痛いでしょう?今湿布を持ってくるわ」

     江厭離はソファーから立ち上がり、薬箱を取りにリビングから出て行った。江澄は魏無羨のそばに行き、裾が下げられ隠れた脛を蹴り、「このバカ!」と吐き捨てるように言った。

    「痛いんだから蹴るなよ江澄」
    「だったら今後、油断しないことだな!」
    「分かってるよ」

     そして魏無羨は俯く。

    「ごめん」
    「何が」
    「……多分、さっきの事故は、昨日の俺の血が……車に……だから、オフィスの近くで──」
    「バカ野郎」
    「いったぁ!?」

     先程よりも強く脛を蹴られ、魏無羨は目尻に涙を浮かべた。それを見た江澄は面白くなったのか、一定のリズムで魏無羨の脛を蹴り始めた。

    「あれはただの偶然の事故だろう。何がお前の血のせいだ。全てがお前中心に動いているわけがないだろう。悲劇の主役ぶるな、気色悪い」
    「痛い痛い痛いぃ!そんなに蹴るなよ!うぇーん、姉さん〜!!」
    「嘘泣きはやめろ!!本当に気色悪いな!!」
    「じゃあ蹴るのやめろよ!!」
    「痛っ!?魏無羨、俺の手を離せ!!捻じるな!!」
    「蹴るのをやめるのが先だ!」
    「手を離せ!」
    「蹴るのをやめろ!」

     そこに湿布を持った江厭離がやって来た。彼女が「こらっ」と言うと、二人は渋々蹴るのをやめ、手を捻るのをやめた。

    「さすがにやりすぎよ。阿澄、阿羨の怪我を見たでしょう?昨日一番心配していたのは貴方なのに」
    「そ、そんなことない!」

     江澄が大きく首を横に振ると、魏無羨は「へぇ?」とニヤニヤ笑った。

    「それに阿羨、貴方もよ。弓道の大会を控えている江澄の手を一番心配しているのは貴方でしょう」
    「ちがっ、違うよ姉さん!」

     魏無羨が江澄のように大きく首を横に振ると、江澄は魏無羨のように「へぇ?」とニヤニヤ笑った。
     江厭離は魏無羨のスネを湿布を貼ると、「これでよし」と頷いた。

    「ありがとう姉さん」
    「いいのよ阿羨。今日はちゃんとお守りを持ってね?」
    「分かったよ!」

     魏無羨は元気に返事をした。時計をちらりと見た江澄が魏無羨に言う。

    「さっさと着替えて補習行く準備してこい。九時からだろ」
    「江澄、部活は?」
    「今日は午後からだ。いいか、絶対に人通りの多いところを通って帰れよ!昨日みたいに犬がいるからって裏道を通るなよ!!」
    「もう、分かったってば!!昨日もそれ言ったじゃんか!!」
    「ふん!」

     鼻を鳴らしそっぽを向いた江澄に「口うるさいやつ!」と言葉を投げ捨ててからから、魏無羨は自室に戻り、補習へ行く準備をした。指定の白いシャツの下に黒いTシャツを着て、紺のスラックスを履く。校則ではネクタイを締め、シャツの裾はスラックスの中に入れなければならないが、夏休みだしいいだろうと誰に言うともなく心の中で呟く。夏休みでなくとも魏無羨は常に制服を着崩しているのだが、そういう時の言い訳は「若いんだからいいだろう」である。
     そう、今は夏休み。しかも高校最初の夏休みで、今日から始まった。だというのに、魏無羨は補習に行かなければならない。教師から補習を告げられたのは終業式直前で、理由は成績は良いが素行が悪いから。

    「あーもう、最悪だ!本当なら昼までぐっすり眠って、そのあとは動画見て、漫画読んで、遊びに行く予定だったのに!」

     そう言って、大きなため息を一つ吐く。スマートフォンと今は亡き両親に買ってもらった赤いお守り──もうお守りの効果は無くなっただろうから、魏無羨は「形見」と呼んでいる──をポケットに仕舞い、財布と筆箱、数枚のルーズリーフが入った薄いリュックを背負う。部屋から出ようとして、慌てて漫画が積み重なった勉強机の上から文字がびっしりと書かれた紫色の布でてきた袋を持ち上げた。袋は両手に収まる大きさで、ずっしりと重たい。中には藁で作られた人形が三体と御札が十枚も入っている。江厭離が言っていたお守りとはこれのことだ。赤いお守りとは別に、布の色から紫のお守りと魏無羨は呼んでいる

    「これ重いし嵩張るんだよなぁ……」

     しかし、仕方がない。これが無いと、すぐに死んでしまう。魏無羨は背負っていたリュックを下ろし、布袋をその奥へ入れる。奥に入ったそれをじっと見た後、またため息を吐いて、チャックをしめ、リュックを背負う。今度こそ部屋を出て、玄関へ向かった。
     お気に入りの赤いスニーカーを履き、ドアを開く。熱風が魏無羨の顔を撫で、汗を誘った。屋敷の裏手に回れば蓮花湖があり涼しいのだが、玄関のある表には広い庭と、その先には門とコンクリートで出来た道路しかなく暑い。この時間帯から陽炎が揺らいでいては、昼間にはどれほど暑くなっているのか。考えただけで汗が吹き出してきそうだった。空を見れば、この暑さとは正反対の涼しさの象徴色である青が広がり、影のはっきりとした白い雲がぽつりぽつりと浮き、その向こうで雲よりも白く存在感の強い太陽が輝いている。遠くでは魏無羨と同じように夏休みを向かえた子どもたちのはしゃぎ声が聞こえる。子どもの楽しそうな声は、今日も平和な一日だと人々に教えてくれる。実際そうだろう。玉突き事故のニュースはあったが、当事者やその関係者以外にとってはあってないようなニュースであるし、そのような人が大多数なのだ。どこかで誰かが苦しんでいても、死んでいても、関係の無い大多数にとっては平和な一日、平和な世界だ。

     魏無羨にとって、今日もいつもと変わらず平和な一日、平和な世界──から遠く離れた、命の危機と隣合わせの一日、危険な世界だった。それはお守りが無ければ、なのだが。



     魏無羨。字の風習が残る現代において、それは字だ。本名は魏嬰。彼の記憶は両親が交通事故を起こす直前から始まる。
     幼い魏無羨は黒い化け物が、父の運転する車に張り付くところを見た。それを父に言うも、助手席に乗る母に笑われ、父にも笑われ。そして化け物も笑った。すると車は制御不能となり、ブロック塀へと突っ込んだ。
    寺院に行った帰りのことだった。買ってもらった赤いお守りを持つ魏無羨だけが、打撲のみで大きな怪我も無く、無事だった。親戚のいない両親を失うと、魏無羨は形見となってしまった赤いお守りを手に、孤児院へと入れられた。
     孤児院には多くの子どもたちがいたが、誰もが魏無羨に近づこうとしなかった。ある子どもは魏無羨と目が合っただけで泣き叫び、ある子どもは魏無羨が横を通っただけで悲鳴を上げた。孤児院で子どもたちの面倒を見ている先生たちが、夜中に魏無羨について話し合っているのをトイレのために起きた魏無羨は聞いてしまったことがある。
     いつもお菓子を作ってくれる優しい先生の泣き声が最初に耳に入ってきた──あの子が来てから、ここはおかしいわ。何も起きないところだったのに、夜になるとしゃがれた笑い声が聞こえるの。物が勝手に移動していることもあるし、誰もいないはずの部屋に誰かがいる気配もする!私もう無理よ!!
     子どもたちとたくさん遊んでくれる恰幅のいい先生はこう言った──あの子のご両親が亡くなったのは交通事故だったが、普通なら事故が起きない場所だったらしい。もしかしたら……。
     先生たちの中でも一番偉い先生がこう返した──やめなさい、縁起でもない!この科学の時代に非科学的なことを言わないで。どれもこれも偶然よ。よく効くというお守りをこの間もらったから、あなたにあげるわ。だから落ち着きなさい。
     泣いていた先生が「科学!?非科学!?じゃあ今も聞こえる笑い声はなんです!?お守りが効くんですか!?」と叫び、それを偉い先生が「子どもたちが起きるでしょう!」と注意する声を背に、魏無羨はトイレに向かった。
     先生たちが話していたのは、きっと自分のことだと頭の良い魏無羨は気がついていた。魏無羨がこの孤児院に来てから、ここには魏無羨にしか見えていない黒いもやがどんどん増えていった。先生たちが言っていた笑い声などは、全てこの黒いもやたちのものだ。魏無羨は黒いもやのことはよく分からないが、車に張り付いていた黒い犬のような化け物と同じもの、近いものだとは分かっていた。
     魏無羨はいつもあの赤いお守りを持っている。肌身離さず、お風呂に入る時は首に下げ、眠る時は枕の横に置いていた。お守りを持っていると、黒いもやたちは魏無羨たちに近づき過ぎることはない。代わりに魏無羨の近くにいる人たちにまとわりつくのだ。だから、子どもたちに離れられることは当然のことだと魏無羨は思っていたし、受け入れていた。
    しかし、魏無羨は用を足し終わって気づいてしまった。いつも持っている赤いお守りを、枕元に置いてきてしまっていることを!

     ひた、ひた、ひた。
     魏無羨の背後に誰かが立った。
     背後だけじゃない。右にも左にもいる。見える。視界の隅には、闇よりも濃い黒がちらついている。
     たらりと背中を伝った水は汗か?それとも、魏無羨を食べようとしている化け物のよだれか?
     窓は開いていないはずなのに、冷たい風がトイレに入り込んで、魏無羨の首を撫でた。その風は、ずっと魏無羨の首のまわりを流れ、ぐるぐると渦を巻きだした。
    首を狙われている。
     自分の首が、昼間子どもたちが蹴り飛ばしたサッカーボールのように遠くに飛んでいくところを想像して、魏無羨は肩はついに震え出した。
    死にたくない。
     そう思った途端に、両親の顔が脳裏に浮かんだ。魏無羨に優しい父、一緒にいると楽しい母。二人はいない。でも、死んだら、きっと──。

     耳もとで歓喜の笑い声が鳴り響いた。
     首が小さな手、大きな手とたくさんの手に締められる感覚があった。息が苦しくなって、視界がかすむ。意識が朦朧し、もうダメだと目を閉じかけた、その時。

    「だ、誰かいるの!?」

     あの泣いていた先生が、声を震わせながら入ってきた。その手には、お守りが握られている。魏無羨のではなく、彼女のものだろう。彼女が現れると黒いもやたちは消え、魏無羨の首からたくさんの手が離れていった。

    「ひっ…………!!」

     先生は息を飲み、床に崩れ落ちた魏無羨を見た。魏無羨は助かったのだと分かり、安堵から涙を流しかけたが、黒いもやの笑い声よりも大きな先生の悲鳴によって、その涙は引っ込んだ。

    「きゃああああああああっ!!」

     先生の悲鳴に駆けつけた他の先生たちも、子どもたちも、皆魏無羨を見て悲鳴をあげたり、泣いたり、逃げ帰ったりし、誰一人として魏無羨ではなく自分の心配をした。
     魏無羨の首に、煤だらけの手で締められたような、黒い痣がいくつもついていたからだった。異様な状態と、魏無羨が来てから起こる怪奇現象のせいで、孤児院の人々は正気を保つのにギリギリの状態だったのだ。そこへトドメとばかりのこの状況に、パニックにならない方がおかしい。
     孤児院の先生たちは深夜なのにも関わらず、手当り次第に霊能力者を名乗る人達や寺院へと電話をかけ、そして──江楓眠へとたどり着いた。

     古くから続く彼の会社は、裏では名の知れた祓い屋だった。

     車でも三時間以上かかる孤児院へ、電話をもらった江楓眠はすぐに向かった。事態が起こって既に五時間が経ち、東の空も明るくなってきた頃、ようやく孤児院についた江楓眠は、一つのお守りだけを持ち、奥の部屋に隔離された魏無羨と出会った。
     江楓眠は魏無羨の父魏長沢と古くからの友人であるが、お互いが結婚してからというものの疎遠となっていた。魏長沢は普段寡黙で穏やかなのだが、夢は家族で世界中を旅するという豪快なものであり、それに賛同した妻と幼い魏無羨と電波も届かないような場所へ行くことがほとんどだったからだ。けれど、時々届く手紙や、ごく稀に繋がる電話のおかげで、近況を知ることは出来ていた。だが、まさか死んでいるとは、江楓眠も知らなかった。
     魏無羨を見た江楓眠は、目を見開いた。
     魏無羨には、純度の高い陰気がまとわりついている。
     いや違う。まとわりついているのではない。
     魏無羨が、発しているのだ。
     彼の持つお守りがそれをどうにか抑え込もうとしているが、あまりできていないようだ。今までは抑え込めていたのだろうが、一度強い恐怖を感じたせいか、陰気は強まり、数日持つか持たないかというものになっている。お守りを持たない年も存在しただろうに、よく無事だったものだ──そう考えて、一つの推測に行き着く。
    ──年々陰気が強まっているのではないか。
     すぐに魏無羨を養子にした江楓眠は、彼に特製のお守りを与え続け、数年が経った頃、その推測が正しいことに気づいた。魏無羨の首にできた黒い痣がようやく薄まった頃だった。
     首の黒い痣を隠すため、魏無羨は髪を伸ばしていた。痣が綺麗に消えても、短くした方が落ち着かないだろうからと伸ばし続けたままだ。彼の長い髪を一つに結うのは赤い髪紐で、これもまた江楓眠が作ったものだった。これを身につけていると、陰気をいくらか抑えることができる。

     陰気を抑える髪紐と、いざというときに身代わりとなってくれる藁人形が三体と魔を焼くという御札の入った紫のお守りという名の袋。それらは魏無羨が人並みの生活を送るのに必要なものだった。

     だがしかし、魏無羨は夏休みが始まる前日、つまりは終業式の日に、紫のお守りを家に忘れてきてしまった。身代わり人形が全て焼き焦げたため、新しい身代わり人形を入れてもらおうと江楓眠に渡し、夜になって身代わり人形を補充してもらった紫お守りを机の上に置いたまま、リュックに入れるのを忘れたのだ。
     さらに、人通りの多い道に、たまたま散歩している犬が多かったという理由から、人通りの少ない裏路地を通ってしまった。魏無羨は事故の原因であろう黒い犬のような化け物のせいで、犬が大の苦手なのだ。
     入り込んだ裏道は影が多く、しんと静まり返っていた。幽霊も数体いるが、お守りがあるから大丈夫だろうと、忘れてきたことさえ忘れてしまった魏無羨は思っていた。
     昔は黒いもやとしか認識できなかった幽霊は、今は死んだ時の姿そのままに見えるようになっていた。頭の潰れた幽霊、足のない幽霊、体中の骨が折れた幽霊、人の形を保てていない幽霊……。もちろん、人だけではない。動物の幽霊だっている。見ていて一番酷いのは、動物と人の魂が溶け合って、異形のものとなった幽霊だ。魏無羨が事故の日に見た化け物はおそらくこれだ。どの幽霊に比べても体が大きく、力が強い。なんらかの事件があった場所には、大抵これらがいた。
     こうして並べてみると、幽霊とは悪いものしかいないのではないか、となってしまうが、実はそうでもない。優しい幽霊もいるのだ。
     例えば、地元の小学校近くにある夕暮れの公園には女の子の幽霊が住み着いているのだが、彼女は公園に独りの子どもがいると、話しかけに行く。霊感がある程度ある子どもなら彼女の声を聞き、姿を見ることができるので、そのまま楽しく遊んで、子どもは満足して帰る。魏無羨が女の子の幽霊に話しかけると、「公園は楽しい場所だから、辛気臭い顔でいられたくないの!」と笑って返した。
     他にも、交通量の多い交差点があるのだが、そこには三人の老人の幽霊がいた。昔ここで起きた交通事故で亡くなった人々で、横断歩道の信号機が変わるのを待っている魏無羨が彼らの姿と声を見聞きすることができる人間だと知ると、周りに他の人が大勢いるというのに、口々に同じような事故が起こらないようにと見守っているのだと主張してきた。そして最後にこう言われた──歩きスマホしてると、そこに停まってるでっけぇトラックに轢かれっからな!ほら見てみろ、あのトラックにでっけぇバケモンがのってる!
     言われて見てみると、確かにトラックの上に異形の幽霊が乗っていた。信号が変わり、人々が横断歩道を渡ろうとした瞬間、その異形の幽霊が動き出すとともに、本来停まっていなければならないトラックも動き出した。それを止めたのはやはりあの三人の老人の幽霊で、彼らは異形の幽霊の力をほとんど奪うと成仏していった。
    さらに、魏無羨はどうやら幽霊に好かれる性質らしく、お守りを持っていることを知っているのにも関わらず良い幽霊には何度も命を救われたり、中には「来世で付き合ってください!」とまで言われたこともある。もちろん丁寧に断ったが。ちなみに悪い幽霊にはとことん追いかけられた。魏無羨にとって悪い幽霊は壁をすり抜けられる過激的なストーカーだった。
     ──と、まあ、このように良い幽霊も悪い幽霊もいるので、魏無羨はそこまで幽霊という存在自体を嫌っているわけではなかった。スマホを手に入れてからの趣味は心霊動画漁りで、撮影者が怖がっているのに対し、幽霊たちは悪戯成功と笑っているのが面白い。江楓眠は家のこともあって霊感があり、それは実子である江厭離と江澄、妻の虞紫鳶もそうだった。夏によく放送されている心霊番組は、彼らにとってお笑い番組と大差ないものであり、あまり仲の良くない夫婦もこの時ばかりは一緒になって笑っていた。
     閑話休題。
     魏無羨が裏路地を歩いていると、近くを彷徨っていた良い幽霊が『ああっ!』と声を出した。

    『危ないよ、そこの君!避けて!』

     その声に従って横にズレると、魏無羨が先程までいた場所に、黒い何かがズドン!と落ちてきた。裏道の空気がどんよりと重くなり、夏だというのに冷たい風が吹いた。黒い何かは、よく見れば乾いた血を全身に浴びた猫の形をしていたが、顔は人間のもので、手足を見れば赤子の手が毛のようにびっしりと生えていた。異形の幽霊だ。思わず漏れた悲鳴に、異形の幽霊が魏無羨の方へ体の向きを変えた。人間のものである顔についている目は、眼孔の中でぐちゃぐちゃに潰れているおり、鼻は潰れて平面的になっている。そのため音で判別しているのだろう。再び上がりそうになった悲鳴を抑えつつ、魏無羨は音を立てないように、ゆっくりと、また横にずれた。もし髪紐が無ければ、魏無羨の発する陰気を察知して、目が見えなくとも鼻が効かなくとも、この異形の幽霊は魏無羨に襲いかかってきただろう。お守りを忘れてきたことをようやく思い出した魏無羨は、髪紐だけは忘れなくて良かったと思った。しかし、お守りが無いのは、非常に危険な状況だ。魏無羨を捕らえられない異形の幽霊は、音を捉えるためにじっとしている。下手に動けば音が出て、そこで終わりだ。どう逃げようかと考えを巡らせながら、目線を動かす。先ほど危険を知らせてくれた良い幽霊が、魏無羨をハラハラと見ていた。良い幽霊も、下手に動けばこの異形の幽霊の餌食となる。一度、魏無羨を助けようとした良い幽霊が異形の幽霊に食われた瞬間を見たことがあるため、この場にいるあの良い幽霊に助けを求めることはできなかった。
     何か投げるものがあれば、それを遠くに投げて、気をそらすことができる。でも投げられるものはリュックの中だし、チャックを開ける音でも危険だ。ポケットには何も無い。
     ──もういっそのことリュック自体を投げるか……。
     そう思ってリュックを下ろそうとした瞬間、「にゃあ」と小さな鳴き声がした。

    「ダメだ!!」

     反射的だった。
     魏無羨は裏道に迷い込んだ小さな子猫のもとへ走って、抱き上げた。子猫の鳴き声に反応して一直線に動いた異形の幽霊の鋭い歯が、魏無羨の体を掠めた。「うわぁ!」と、その勢いによろめいたところに、また異形の幽霊が突進してきた。避けようとするも間に合わず、右足の脛に強い衝撃が走った。ズボンは裂けて、衝撃があったところはきっと痣になるだろうが、それよりも、爪か牙が当たりできた切り傷から溢れた血に気が向いた。
    幽霊のいる人生を歩んで早くも十五年。魏無羨は気づいたことがある。良い幽霊であれ、悪い幽霊であれ、死んだものは皆、魏無羨の血に惹かれるということだ。
    前者は魏無羨を助けたり、その願いを叶えた対価として、少量の血を欲しがる。それだけで満足らしい。
     だがしかし後者は、魏無羨の血を大量に欲しがる。
     話の通じるものによれば、陰気をたっぷりと含んだ魏無羨の血は彼らにとって極上の食糧であり、力が増すものであるという。花の香りに惑わされる蝶の気持ちが分かるほど良い香りで、これ以外何もいらないと思わせるほど、素晴らしい血。
     それが今、出てしまった。
     尻尾を股に挟み怯える猫を抱えながら、魏無羨は走って逃げた。髪紐があろうと、陰気を含んだ血が流れてしまっては、陰気を嗅覚も視覚も関係なく察知できてしまう幽霊たちはどこまでも追ってくる。多くの幽霊が集まってきて、魏無羨に手を伸ばした。その幽霊たちは運が悪いことに、あまり良いとは言えない幽霊ばかりだった。
     もうダメだと思ったその時、幽霊たちの動きが止まった。というよりは、これ以上先に進むことを恐怖している様子で、それはあの異形の幽霊も同じだった。どうしたんだろうと魏無羨も足を止め、幽霊たちが怯えたように見つめる先に目を向けた。今魏無羨がいるのは裏路地をあと数歩で出られる位置で、その先には大通りがあった。そこにはいつも助けてくれる江楓眠や、なんだかんだ言ってそれに手を貸す虞紫鳶に、彼らの子で実は祓う力も強い江澄と御札を飛ばしてくれる江厭離は居らず、いたのは校則通りに制服を着ている同級生──藍忘機だった。魏無羨とあまり関わりのない彼だが、級友たちには魏無羨とは真反対の人間だと聞いている。顔は綺麗だが、その表情が変わったところを誰も見たことがなく、纏う空気は冷たく鋭く、常に口を閉じている、絶対に関わりたくない人間と皆に言われている。その藍忘機が、口を開いた。

    「何をしている」
    「……は」

     魏無羨の乾いた口から出たのは、短い困惑の音だった。何故この男がここにいるというだけで、幽霊たちは動きを止めたのだろうか、と。
     藍忘機は眉根を寄せ、いかにも不機嫌ですとばかりに魏無羨を睨んだあと、ズボンが裂かれ、血を出す脛を見て、目を見開く。

    「君、その足は」
    「これ、は……」

     この世は幽霊を信じないものが大多数だ。孤児院の先生が言っていた通り、今は科学の時代なのだから。
     魏無羨は笑顔を作って返した。

    「この猫とじゃれてたら、引っ掻かれちまってさ!あはは!」

     「ここの裏路地にいたんだ」と言いながら振り返って、幽霊たちがどうなっているかを確認する。幽霊たちはいつの間にか消えていた。ほっと息を吐くと、藍忘機に向き直る。

    「でもさすがにじゃれ過ぎたな。もう帰るよ」

     藍忘機はじっと魏無羨の傷を見たあと、ハンカチを取り出す。白いそれは高価なものだろう。江家で何度か見たことのある絹の柔らかな輝きが見えたから。

    「いい、いいよ。これぐらい唾でもつけときゃ治るんだし」
    「唾は非衛生的だ」
    「んじゃ家帰って薬つけるからいいよ」
    「しかし」
    「それじゃあ、家の人を呼ぶ。これでいいだろ」

     藍忘機はしばし逡巡した後、静かに頷いた、魏無羨は猫を下ろすと、リュックの中からスマートフォンを取り出して、江澄の電話番号をタップした。猫は魏無羨から猫だというのに脱兎の如く逃げ出し、姿を消した。「助けてやったのに薄情な」という言葉は、すぐに通話に応じた江澄の怒声で出すことができなかった。

    「この馬鹿野郎!阿呆!間抜けめ!!」

     通話が始まって出た、江澄の第一声だ。

    「いきなり罵倒って何だよ!俺は今な──」
    「今罵倒しなくて何時罵倒すると?お前、折角父上が作ってくれたお守りを忘れただろう!お前の机の上に見つけた姉上の気持ちを考えろ!!」
    「うっ」

     罵倒されても当然だと、魏無羨は口を閉じる。

    「で、何で電話をかけてきた。珍しい」
    「あのーぉ、実はですね、江澄さん……」

     魏無羨は「あはは……」と笑ってから、勢いよく早口で言った。

    「怪我しました血が出ました迎えに来てください!!」

     スマートフォンの向こう側で食器が割れた音と、江厭離の悲鳴が聞こえた。魏無羨の声は大きかったらしく、スピーカーにしていなくとも、そばで聞いていた江厭離にも聞こえたらしい。さらに彼女が慌てた様子で「父上!母上!」と呼ぶのが微かに聞こえた。魏無羨は、こってりと絞られることを覚悟した。
     江澄が静かなことが気になり、魏無羨は彼の名を呼んだ。

    「……おーい、江澄〜……?」
    「──っの」
    「え?」
    「この、大バカ野郎がッ!!今どこだッ!!さっさと言えッ!!」

     スマートフォンを当てていた右耳がキーンと痛んだ。

    「えっと、学校近くの大通りに面した裏路地……あ、いつも行くカラオケが見える!」

     場所の特徴を言うため辺りを見回して、藍忘機が立つ向こう側に、級友たちや江澄とよく行っているカラオケ店があるのが見えた。それを伝えると、江澄も分かったらしく、「そこで待ってろ、動くなよ!良い幽霊だけ寄り付かせとけ!」と言って通話は切られた。
     彼の言った良い幽霊すら、藍忘機がいるだけでそばに寄らないのだが。
     魏無羨はスマートフォンをポケットに仕舞うと、藍忘機を見た。彼は本当によく整った顔立ちをしている。性別を感じさせない美は、生死さえも超越してしまい、幽霊を寄り付かせないのだろうか?それにしては酷く怯えた様子だった幽霊たちの姿を思い出す。陰気が幽霊を呼び寄せる力を持つなら、反対に陽気は幽霊を祓う力を持つ。それを利用して、江楓眠のような祓い屋は仕事をしている。陽気を使うのには修行が必要で、江澄はその一環として弓道を習っていた。精神の統一が重要らしい。噂によれば藍忘機は弓道や剣道といった精神の統一が必要なものに通じており、大昔に存在したという仙師のような生活ぶりだとか。もしかしたら、藍忘機も祓い屋なのかもしれない。「帰ったら江おじさんに聞いてみよう」と考えていると、藍忘機が魏無羨に近づいて来た。やはり脛の傷が気になるのだろうか。血は未だ止まっておらず、魏無羨の案外白い足を伝い、赤いスニーカーの色を濃くしている。

    「やはり止血くらいは」

     藍忘機はそう言って、白いハンカチを押し当てようとしてくる。魏無羨は一歩下がってそれを避けた。

    「いいよ。これくらい自分でできる」

     いくら藍忘機が多くの陽気を持っていて祓えることができる人間だったとしても、陰気を含んだこの血を染み込んだハンカチを持ち歩かせることが申し訳なく、それに、藍忘機のように綺麗なハンカチを汚すのは、なんだか嫌だった。魏無羨の断りに、藍忘機は二度瞬きをすると、「そうか」と言ってハンカチを仕舞った。

    「忘機兄はどうしてここに?家、こっちの方だっけ?」
    「……いや」

     藍忘機は首を横に振った。

    「こちらの方に行きたくなってしまって」
    「へぇ」

     寄り道もしない超真面目な優等生という話はただの噂だったのかもしれない。彼も寄り道がしたかったのだろう。魏無羨はにこにこ笑って彼に話しかけた。

    「こっちの方は、あそこのカラオケとか、あっちの方にあるゲームセンターくらいしか遊ぶ場所無いよ。忘機兄もそういうの興味あるんだ、意外!」
    「違う」

     また首を横に振った藍忘機に、魏無羨は首を傾げた。

    「何故か分からないが、こちらへ行かなくてはと思った」
    「ふーん、結構衝動的なところがあるんだな」
    「違う」
    「え、違うの?どっからどう聞いてもそうとしか聞こえないけど。そうじゃなきゃ、なんか──」

     浮かんだ言葉に、魏無羨はぷっと吹き出した。

    「──運命みたいだね」

     口に出して、また魏無羨は吹き出した。藍忘機は笑いだした魏無羨を真顔のまま見つめており、「あれ?面白くなかったかな?」と魏無羨も次第に笑い声が小さくなっていく。
     髪紐とポニーテールを揺らして、魏無羨は二歩、藍忘機に近づいた。どちらかがあと一歩踏み出せば、ぶつかってしまう距離だ。

    「忘機兄ー、今の笑うところだと思うんだけどー?」
    「……笑うところなのか?」
    「そうでしょ。可愛い女の子が相手ならいざ知らず、相手は男の俺だよ?笑わないなら、運命なんてごめんだって言うところでしょ、普通」
    「…………」
    「ま、確かに俺はカッコイイからさ、俺が運命の人で喜ぶ人は大勢いるだろうけど、それだって女の子だろ。前はいくら美人でも男だしな」
    「…………」

     藍忘機は息を吐くと、魏無羨を睨みつけてから踵を返した。広い背中を向けられて、魏無羨は慌ててシワひとつないシャツを掴んだ。

    「待ってよ忘機兄!迎えが来るまでここにいてよ!」

     じゃなきゃ死んでしまうと思いながら魏無羨は必死で引き止める。藍忘機は一度立ち止まって魏無羨をちらりと見る。魏無羨は死にたくないと目を涙で潤ませながら藍忘機に言った。

    「お願い……」
    「…………」

     藍忘機は唇を固く引き締めると、魏無羨から顔をそらした。

    「手を離して」
    「やだ!ここにいるって言うまで離さない!俺、一人は嫌!寂しいの!こんなにも可哀想な俺を置いていくの?」
    「離して」
    「やだ!お願いだよ忘機兄、いや、哥哥!藍哥哥……あ、お兄さんいるんだっけ?じゃあ藍二哥哥!お願いお願いお願いー!迎え来るまでだからー!」

     酷い駄々の捏ね様だと魏無羨も分かっている。しかし、生死に関わる問題なのだ。絶対に帰らせないと、藍忘機のシャツを掴み続ける。シワひとつなかったシャツは、魏無羨が掴むところを中心にシワができていた。思っていたより藍忘機が無理矢理帰ろうとしていないのでシワは浅いが、綺麗な存在に傷をつけてしまっているようで、本当ははやく手を離し、つけてしまったシワを伸ばしたかった。そのためには藍忘機が「迎えが来るまでここにいる」と言ったり頷いてくれたりしないといけないのだ。

    「頷くだけでいいからさ!ここにいるって!ちょっと、聞いてる?忘機兄、藍忘機、藍二哥哥!」

     藍忘機は黙ったままだ。魏無羨は失礼と思いつつも、彼の名を呼んだ。

    「藍湛、お願い……!」

     藍忘機は小さく息を飲んだ。ぴくりと指を動かして、それをギュッと強く握った。

    「藍湛……」

     ──分かっている。男がこんな甘えるような声で気持ち悪いよな。でも、俺のためなんだ!!頼む!!
     逸らされた美しい顔に、涙目の懇願の目線を送っていると、藍忘機は再び魏無羨に顔を向けた。魏無羨は顔をぱあっと明るくさせ、「藍湛!」と彼の名を呼ぶ。

    「俺のそばにいてくれる?」
    「………………分かった」

     長い間を空けて、ようやく藍忘機は頷いた。

    「やったー!ありがとう、忘機兄!」
    「……」

     一瞬藍忘機の眉根が寄った気がしたが、彼の真顔は変わったように見えないので、気がしただけだろう。魏無羨は藍忘機のシャツから手を離し、笑顔で藍忘機を見た。
     ──やっぱり綺麗なんだよなぁ、こいつ。もう少し笑ったりすれば可愛いだろうに。
     藍忘機を見ていると、彼は魏無羨から目線を逸らした。いつも一人でいるようだし、人と向かい合うのは得意ではないのかもしれない。

    「ねえねえ、忘機兄、俺のこと知ってる?」
    「知っている。二組の魏無羨だろう」
    「ふふふ、そうだよ!良かった、これで知らなかったらちょっと悲しいからさ。なんで知ってるの?俺がカッコイイから?あ、分かった!俺が学校の人気者でモテモテだからか!それとも頭がいいから?それともそれとも──」
    「素行が悪く、叔父上が怒っていた」
    「あ、あー……」

     藍忘機の叔父といえば、藍啓仁だ。魏無羨と藍忘機の通う学校で教師をしている人で、魏無羨はいつも彼に叱られていた。「そういえば藍じじいと目の前の美人さんは叔父甥の関係だったけ」と魏無羨は思い出す。
     しかし、まさかそんな不名誉なことで覚えられていたとは悔しい。魏無羨は自分の名誉のために口を開いた。

    「言っておくが、俺の素行が悪いんじゃない。校則が厳しすぎるんだ。なんだよ無闇矢鱈に笑うなって!」
    「校則は守るべきだ」
    「お前は守ってるみたいだもんなぁ。言っておくけど、廊下は走らないって校則まで守っているのは、お前くらいだからな!」

     まるで校則を守っているのはおかしいというような言い方に、藍忘機の片眉がぴくりと動いた。

    「守らない方がおかしい」

     真顔に比べたらわかりやすい表情に、魏無羨は面白さを感じた。

    「いーや、破れる時に破らなきゃいけないだろ!大人になって、目の前に提示されたルールが、破ってもいいルールか破っちゃいけないルールか、区別がつかなくなるからな」
    「破って良いルールなどないッ」

     藍忘機の表情は怒気を孕み始めた。表情を変わったところを見たことがないという級友の話を思い出して、魏無羨は愉快な気持ちになり、さらに言葉を重ねていく。

    「でも、ルールを守ってばかりいたら、つまらない人間になるだろ?例えば、そうだな──お前やお前の叔父貴みたいな!」
    「魏無羨ッ!!」
    「あははっ!確か校則では、大声は禁止じゃなかったっけ?いいのかなー、優等生な忘機兄が大声を出して」
    「君……君は……!!」

     藍忘機は魏無羨を鋭く睨むと、再び顔を逸らし、魏無羨から離れようとした。魏無羨はまたそれを慌てて引き止めようとして、聞こえてきた声に、伸ばしかけていた手を下ろした。

    「魏無羨ーーッ!!」
    「江澄ーーッ!!」

     血相を変えた江澄が魏無羨のもとへ駆けて来た。藍忘機の横をすり抜けて、魏無羨のそばに来ると、全身を見て、右足の脛から血が出ているのを見て、辺りを見回す。しかし幽霊は一体もおらず、魏無羨と江澄、藍忘機がいるだけだった。
     江澄は持ってきていた包帯で手早く止血した。それを魏無羨は止めず、「助かった!」と笑顔で言った。江澄は顔をこれ以上ないくらい顰めて、魏無羨の頭に拳骨を落とした。

    「いたっ!!」
    「ったくお前は、お前ってやつは、この……ッ!!」

     顔を顰めているのは、今にも流れ出そうな涙を我慢しているからだと分かっている魏無羨は、素直に謝った。

    「ごめん」
    「どれだけ俺……姉上と父上が!心配したと思っているんだ!」
    「うん」

     もう一度魏無羨が「ごめん」と言うと、江澄は踵を返した。

    「とにかく、帰るぞ。父上たちが待って──ん?」

     そこでようやく江澄は藍忘機の存在に気がついた。先程から視界に入っていたはずだが、魏無羨を心配するあまり認識できていなかったのだろう。「あんな美人を認識できていなかったとか凄いな」と魏無羨は心の中で江澄に拍手を送った。
     藍忘機は江澄を睨みつけると、魏無羨にもその目を向け、二人に背を向け去って行った。

    「なんで藍忘機がここに?」
    「運命で!」
    「はァ?」
    「あはは!嘘だよ。寄り道だってさ!」
    「あの藍忘機が?それこそ嘘だろ」
    「嘘じゃないよ!」

     そんな会話をして裏路地から大通りへ出ると、一台の車が止められていた。一目見て高級車だと分かるその車の後部座席のドアが、運転席から出てきた男に開けられた。江楓眠の秘書だ。彼に促されて、二人は車に乗る。シートベルトをした時、魏無羨は自分の指にいつの間にか血が着いていたことに気がついた。シートベルトに着いてはいないだろうかと見てみたが、黒くて分かりづらく、江澄に何があったのか聞かれたため、血のことは頭の隅へ追いやられてしまった。
     屋敷に帰ると江厭離には泣かれ、虞紫鳶には怒鳴られ、江楓眠には静かに長々と説教された。ようやく解放された頃には、藍忘機のことすらも頭の中から抜けてしまっていた。



     それが、昨日のことだ。
     魏無羨は学校に向かいながら、藍忘機について聞くのを忘れていたことを思い出した。このままではまた忘れてしまうかもしれない。江楓眠も虞紫鳶も仕事で聞けないので、江澄に聞いてみようと、スマートフォンを取り出して、アプリでメッセージを送った。
     ──藍忘機の家って祓い屋?
     すぐに既読がついて、こう返ってきた。
     ──古い名家。金持ち。
     噂で聞いたことのある情報だった。
     魏無羨は「ああそう」とやけにイラつく顔で言うウサギのスタンプを送ってスマートフォンを仕舞った。メッセージを受信する通知が鳴ったが、怒った江澄からだろうから、魏無羨はスマートフォンを取り出すことはしなかった。
     歩いていると、白杖を持った幽霊の少女が魏無羨に声をかけてきた。

    『魏無羨、おはよう!今日はあっちの角にヤバいのいるから気をつけてよ!』

     周りに誰もいないことを確認してから、魏無羨は彼女に挨拶を返す。

    「おはよう阿箐。どうせ、いつもの薛洋だろ」
    『そうだよ!でも、あいつ本当にヤバいしウザイんだ!いつも同じこと言うし!それに、殺人鬼だよ殺人鬼!』
    「殺人鬼って言っても、もう死んでるだろ?」
    『死んでも変わらないよ、あいつは!家は祓い屋してるんでしょ、はやくあいつを祓ってよ!』
    「生きている人からの正式な依頼が無いと無理なんだってさ。江澄が言ってた」
    『死者にも人権あるんだけど!』
    「はいはい、そうだな。俺は今日学校だから、もう行くよ」
    『ほしゅー、だっけ?頑張りなー』
    「おー、ありがと」

     手を振る彼女に小さく手を振り返す。
     阿箐は何十年も前に死んだ白瞳の少女だ。目は見えるが視力が弱いらしく、白杖を持っている。本人曰く、百年くらい前に死んだという。当時世間を騒がせた薛洋という殺人鬼に、養い親であった宋嵐とともに、出会って早々、話したこともないのに殺されてしまった。薛洋は常に誰かを探すのに忙しいようで、生前とは違って悪さをするようなことはない。薛洋は、自身に殺された恨みから成仏できない阿箐を見る度に、「なんでお前と奴はいるのに、あいつだけがいないんだ」と癇癪を起こす。そして最後には「やっぱり、あの時、霊識が砕けたから……」と訳が分からないことを呟いて、また誰かを探しに行く。阿箐はそんな薛洋を嫌いながらも、見つからない誰かを探す姿を哀れに思ったのだろう、僅かながら気にかけている様子を見せている。
     薛洋と阿箐のような幽霊も、中にはいるものだ。生前と死後で関係が変わる幽霊や、死後の方が楽しんでいる幽霊もいる。幽霊に別の幽霊を好いてしまったのだと恋愛相談を持ちかけられた時は、飲んでいたジュースを吹き出してしまった。ちなみにその相談のおかげで、幽霊と幽霊はお付き合いし、この世を彷徨いながらデートしている。デートはあの世でしてくれ。
     歩いていると、阿箐の言っていた角があった。住宅街のさらに奥まった方へ続くそこは、人通りは無く、車も通っていない。ちらりと見てみると、案の定薛洋が誰かを探している。

    『暁星塵……暁星塵……』

     聞いた事の無い名だ。今まで魏無羨は薛洋に見つかったことがなく、話したことがない。話せばそれが誰か分かるかもしれないが、阿箐にはああ言ったものの生前が殺人鬼なだけに、あまり関わりたくないのが本音だ。それでも魏無羨は彼が成仏できるといいなと願いつつ、学校へと向かった。



     学校に辿り着いて、三階にある教室へ向かった。そこには成績の悪いクラスメイトが一人いた。普段から仲の良い聶懐桑だ。

    「おはよー、聶兄!」
    「魏兄、おはよう!今日も暑そうな髪だね」
    「そんなんでもないぞ」
    「またまたぁ」

     優雅に扇子を扇ぎながら笑う彼は、可愛らしい顔立ちをした優男だ。しかしその見た目に反してなかなかエグいエロ本を所持しており、魏無羨も級友達とともに、何度か彼のエロ本にお世話になっていた。
     聶懐桑の隣の席にリュックと腰を下ろした。教室の中はクーラーがよく効いていて涼しく、魏無羨はシャツの胸元をパタパタと扇いで、登校中に熱を持った体を涼めた。

    「そういえば、今日の補習の監督が誰か知ってる?」
    「藍じじい?」
    「うっわ最悪。でも違うらしいんですよねぇ、これが」
    「誰だ?」

     扇子で口もとを隠して、聶懐桑は声を潜めて言った。

    「もーーーーっと最悪な人」

     余計に誰だか分からない。魏無羨は首を傾げた。

    「ヒントは?」
    「ヒントはー……っと、そろそろ時間だ。藍じじい同様、時間に融通がきかない人が来たみたいだね」

     聶懐桑が言い終わった瞬間に、教室の扉が開かれた。入ってきたのは、校則通りに制服を着た藍忘機だった。彼の手には二枚のプリントと一冊の本がある。黒板に「十二時まで」と綺麗な文字で書くと、プリントを二人の机に置き、教卓の横に置いてある椅子に座って、本を開いた。ここまで一度も口を開いていない。あっという間に補習が始まり、聶懐桑と魏無羨は目を合わせた。
     ──まじで?
     ──まじで。
     目で会話をした二人を睨むのは、藍忘機以外にいない。鋭い目から逃げるように、配られたプリントに向かった。
     プリントの内容は数学の問題だ。表は基礎問題、裏は応用問題で埋まっており、一文字一文字が小さく、問題が多い。隣の席から聶懐桑の啜り泣く声が聞こえる。魏無羨は面倒だと思いつつも、すらすらと答えを書いていった。
     補習が始まって三十分と少し。魏無羨は本を読む藍忘機の前に立つと、ずいっとプリントを押し付けた。本に栞を挟んで閉じ、膝の上に置いた藍忘機はそれを受け取り、一問の抜けもなく書かれた答えを順々に見ていく。ふざけた答えが無いのを確かめると、藍忘機は頷いた。

    「もう帰っていい?」

     補習はこのプリントだけだろう。終わったなら帰っていいはずだ。帰りにコンビニによって好きなジュースとお菓子を買おうと考えている魏無羨に、冷たい一言が突きつけられた。

    「ダメだ」
    「は!?なんで?俺、ちゃんと終わらせたじゃん」
    「補習は十二時までだ」
    「でも、プリントは終わったよ」
    「自習していなさい」
    「はぁーー!?」

     そんなのってない!自習するなら家でやる!帰らせろ!
     そんな魏無羨の声が聞こえていないように藍忘機は再び本の世界へ入っていった。
     魏無羨はリュックを掴むと、「置いていかないで」と泣きつく聶懐桑に良い笑顔で手を振って、教室の扉に手をかけた。

    「自習を」

     しかし、教卓の方から聞こえた声が、魏無羨の動きを止めた。

    「十二時まで自習をしなさい」

     魏無羨は藍忘機にも良い笑顔を向けると、次の瞬間には「べぇっ」と舌を出して言った。

    「やなこった!」

     そして扉を開けると、風のように廊下を駆け抜け、学校を出て行った。
     補習はあと二日もある。同じことをあと二回もするのかと考えただけで吐き気がするが、留年するよりはマシだ。けど、と魏無羨は思う。
     ──忘機兄が監督なら、あの綺麗な顔が見放題だから、本当に最悪ってわけでもないんだよな。
     どちらかといえばグロい幽霊を見ることの多い魏無羨は、そのせいか綺麗なものが人一倍好きなのだった。
     学校から大分離れたところで走るのをやめて、歩き始める。走ったことでぶわりと汗が出たが、帰ったらシャワーを浴びる予定なので、拭うことはしない。今日は昨日のこともあるので、日陰の多い裏路地ではなく、人のいる道を行く。しかし真夏の昼前なので、歩いているのは小学生や部活に向かう中高生、どこかへ遊びに行くのだろう若い少年少女が数人くらいで、あまり人通りが多いとは言えないかもしれない。
     コンビニまであと少しというところで、今朝薛洋を見かけた角に気がついた。まだいるのだろうかと、何とはなしに一歩入って覗いてみた。
     濁った白の中心に丸い黒が浮かんでいるものが、二つ。それが瞳孔の開ききった目だと気づいたのは、三日月の形に歪んだからだった。

    『知っているぞ、あんた、あの時と姿は違うがそれが本当の姿だろう、俺は知ってるんだ……』

     笑い声を耐えながらそう言うのは、あの薛洋だった。思わず立ち止まってしまったが、関わってはならないと本能で理解して、魏無羨は立ち去ろうとした。しかし、地面に縫い付けられたように足は動かない。近くに人がいないかと見回すが、虫一匹すら見つからない。
     こんなことは有り得ない。まるで世界から隔離されているような──そう考えて、魏無羨は養子になってすぐ、幽霊について江楓眠から教えてもらった中でも、特に短い説明で終わったものを思い出した。
     ──ごく稀に、自分の周りに結界を張って、自分だけの世界を作る幽霊がいる。そういう幽霊は非常に危険だ。
     ──どうして幽霊なのに結界が張れるの?
     ──それが分からないんだ。生前そういう力を持っていたというような話もないからね。
     ──その幽霊に捕まったら、どうするの?
     ──祓うしかない。
     ──僕、祓えないよ、どうしよう。
     ──大丈夫、私が強いお守りを作ってあげるから。
     しかし、そのお守りを作るのに江楓眠は苦労しており、未だに魏無羨に与えられていない。

     魏無羨には祓う力が無い。結界を破る術などない。
     ──江おじさん、俺はどうすればいいんだ……!

    『なあ、お前ならできるよな?あいつの霊識を繋ぎ合わせてくれ。そしたら、また、あいつは』

     薛洋はそこまで言うと、身の毛もよだつ笑い声をあげた。霊障なのか、時々耳の奥がキンッと痛む。

    『ああ無理だ!あの時の鎖霊袋はもう無い!!全部全部あんたらのせいだ!!あれから何年経った?あれから、何千年経った!?ああ、そもそも残っているはずがない!!』

     空を仰ぎ、顔を片手で覆い、薛洋は笑い続けた。その間、魏無羨は動くことができず、死人の狂気を目の前にし続けた。
     異形の幽霊に話が通じることはなく、また、彼らも話すことができなかったため、どこか異世界から来たモンスターのように思っていた。けれどこの薛洋は違う。話が通じるかはさておき、話すことができ、見た目もちゃんとした人間だ。首を切って自死したために首に赤黒い傷があるが、それ以外は生きている人間と大差ない。そんな彼が、聞き取ることはできるのに意味の分からない言葉を言っている様は狂気と恐怖を増幅させるだけだった。さらにいえば、陰気を抑える髪紐を身につけた上に赤と紫のお守りを持っているとはいえ、こんなに近くに魏無羨がいるというのに、魏無羨に襲いかかって来ないのも、逆に恐ろしく感じた。
     異変を察知した江澄が来てくれないだろうか。
     そう思うも、ここから江家の屋敷へは距離がある。江楓眠や虞紫鳶ほどの力が無ければ気づくことはできないだろう。その二人も屋敷以上に距離のある場所にいるため、助けは望めない。
     このまま動けず、こいつの狂い様を見なくちゃいけないのか。唇を震わせていると、薛洋の姿が小さな背中に隠された。

    『何やってんのよ!!』

     阿箐だ。白杖を剣のように持って、薛洋と魏無羨の間に入り込んだ。彼女と対峙した薛洋はぴたりと笑うのをやめ、異様に静かな目で彼女を見た。
     何故薛洋の張った結界の中に彼女が入れたのかは分からない。気づかなかったが、彼女は力の強い幽霊なのだろうか。それだとしても、この薛洋は危ない。しかも彼女は生前彼に殺されている。トラウマがいつでも蘇ることのできる状況だ。
     幽霊は大まかに良い幽霊と悪い幽霊で分類することができるが、それ以外にも分類することができた。
     死ぬ瞬間を覚えている幽霊と、忘れている幽霊だ。ほとんどの幽霊が後者だった。そして、それは阿箐もだ。ただの知識として、薛洋に殺され死んだということしか覚えていない。死ぬ瞬間に味わうであろう絶望感も痛みも何もかもが、彼女の記憶の奥底に封じられている。

    『また意味の分からないこと言ってんの?しかも、生きてる人相手に!』

     白杖を握る力を強くすると、それでドンと薛洋を押した。少女の力で年上の男を下がらせることができるわけがないのだが、薛洋は数歩後ろに下がった。

    『あんたが何をしたいかも、誰を探してるかも、この人には関係ないでしょ!あんたが生きていた頃から百年も経ったんだ、関係ある方がおかしい!』

     阿箐がそう言うと、薛洋は「……百年?」と首を傾げた。

    『そうだ、百年だ!なのに関係があるなんて、有り得な──』
    『百年なわけが無いだろッ!!』

     吠えるような声だった。耳鳴りが酷くなって、魏無羨の眉根が寄った。

    『百年ぽっちの未練だったら、この俺様だってここにはいない。さっさとあの世にいってるさ!そうそう、百年ぽっちであんたも解放されるわけがない』

     薛洋は「あんた」と魏無羨を指して言った。

    「解放……?」

     ようやく出た声は掠れていた。

    『そうだよ。あんたは前世酷かったもんなぁ。はははっ!!そのせいで今、そんなことになってるんだ!陰気が強い。いや、陰気を発してる。だからあの世にいくべきやつらがわんさか集まってくるのさ……。前世のあんたがそうなったように八つ裂きにして、その肉も骨も内臓も、全て食べてやろうとな!』

     前世、と言われても魏無羨には分からない。幽霊はいるので信じるが、前世というものを魏無羨は信じていなかった。人は死んだらあの世へ真っ直ぐ行くか、幽霊となって遠回りをしてからあの世へ行くかだ。どの幽霊も生前のことは話しても、前世のことなど話したことがない。あの世へいってはい終わりではないのか。

    『ああ、でも俺はそんなことしないよ。何故か分かるか?前世で散々俺の邪魔をしてくれたあんたを苦しませるためさ!!』

     どこから取り出したのか、鋭いナイフを持った薛洋が、阿箐を突き飛ばし、魏無羨に向かって来た。しかし、魏無羨は動けない!

    『こんな時代でも、凌遅刑の話くらい残ってるだろ?あんたを凌遅したら、今のあんたの家族も同じ目に合わせてやるよ』
    「やめろ!!」

     魏無羨の叫びに、薛洋は不気味な笑い声を返すだけだった。ナイフを持ち上げて、それが魏無羨の高い鼻に向けられた。
     凌遅刑というのは、生きている人間の肉を時間をかけて削ぎ落とし、長い時間をかけて激しい苦痛を与えて死に至らせる、古い処刑法だ。凌遅される江家の人々を想像してしまうと、胃の底から胃液が湧き上がってくる。それを唾とともに飲み込んで吐くのを耐える。

    『凌遅したら、薄ーくなったその肉は、野良犬や幽霊に食われるだろうよ。良かったなぁ、前世と一緒だ!今度は蘇ることはできないだろうけどな!!──ア?』

     薛洋の目が魏無羨から逸れた。彼が見たのは自分の脇腹だ。そこには白杖が叩き込まれていた。

    『りょうちって何なのか分かんないけど、絶対最悪なことは私にも分かる!この殺人鬼!死んでる癖にこれ以上何かしようとするな!!』

     阿箐は白杖で何度も薛洋を叩く。

    『あんたなんかさっさとあの世へ行って地獄に落ちるべきなんだ!そこで舌をひっこ抜かれて、八つ裂きにされて、鬼にぐちゃぐちゃに潰されて、炎で炙られて、食べられちゃえばいいんだ!!』

     阿箐はわざと薛洋を煽り、気を引きつけようとしているようだった。

    『食べられたあとは、尻から出されて、踏み潰され──』
    『前世からお目目ちゃんは変わらないままだなァ?その減らず口は、前世と同じにしていいよな?目も同じにするか』
    『ぁがっ!?』

     薛洋は持っていたナイフを素早く阿箐の口の中へと入れた。少しでも彼が手を動かすか阿箐が動けば、口の中で血が溢れることとなる。スプラッター映画で見るような光景だ。もし魏無羨が今動けたとしても、どうにもできない。

    「薛洋、やめろ……!!」

     魏無羨の言葉に、薛洋は何も返さない。

    『あんたを殺しても、宋道長を殺しても、あいつは来なかった。そりゃそうだ、霊識はバラバラ、生まれ変われるはずもない……そんなのってムカつくよな?俺だけが記憶持ってて?そのせいで好きなように生きられなくて?なら、復讐するしかないだろ、なァ?今からでも遅くない、あんたも前世を思い出してみるか?ん?汚い浮浪児の記憶をさ』

     薛洋がナイフを持つ手を、横にずらした。あまりにも自然な、まるで引き戸を開けるような動作だった。
     響き渡る絶叫と、おびただしい血液は、阿箐の口から出ていた。死んでも尚血は出るのかと、頭の片隅で思う。血の塊とともに吐き出されたのは、魚の切り身のようなものだった。よく見ればそれは切り身のようにつるりおしておらず、表面がぶつぶつとしていることが分かっただろう。しかし魏無羨は見ることを拒んだ。母音だけの絶叫は、尚も続いている。痛みに暴れる阿箐の口には、未だナイフが入っている。暴れれば暴れるほど、彼女の口は人間のものではなくなっていく。死んでいる彼女は、もう二度と死ぬことはできず、痛みを永遠に感じ続ける。
     薛洋は笑っていた。思えば、出会ってからというものの、彼の顔はほとんど笑顔であった。江厭離の笑顔のように胸を温めてくれるものでも、江澄の笑顔のように珍しいと驚かせてくれるものでもない。目が三日月の形に歪み、口角が上がっているだけの彼の「笑顔」は、魏無羨の体中から血を引き抜いていった。
     阿箐の振り回す白杖を奪い取った薛洋は、それを大きく振って、阿箐の目を攻撃した。絶叫は一際大きくなり、地面に落ちる血の量が増える。
     魏無羨は自分の口が開いたり閉じたりしているのは分かっていたが、何を言っているかは分からなかった。絶叫以外、何も聞こえない。
     ようやく満足したのか、薛洋は白杖を地面に放り、阿箐の肩を掴むと、彼女も地面に放った。ナイフから垂れる血がぴちゃぴちゃと血溜まりの中へ落ちていく。その上を歩きながら、魏無羨へと近寄った。

    『さて、次はあんただ』

     ナイフを器用にくるくると回す。

    『楽に逝かせてやらないから、安心しろよ、魏先輩』

     薛洋がナイフを持ち上げた、その瞬間。彼の顔はこわばり、動きが止まった。その代わりのように、魏無羨は自分の体が動くようになったことに気がついた。魏無羨が薛洋から距離を取って後ろに下がると、トンと誰かにぶつかった。振り向こうとするが、薛洋が再び笑い声を上げたため、そちらへと視線が向いてしまった。薛洋は笑いながら後ずさっていた。その額から流れた大量の汗は、頬を伝って涙のように地面へ落ちた。

    『……は、はは、ははは!なるほどな!あんたがいるなら、そりゃああの含光君もいるか!あの時もそうだった……!!』

     含光君とは誰のことだろうか。もしや後ろの人物だろうか。
     後ろの人物は魏無羨の肩を掴むと、魏無羨を背後へ隠した。魏無羨の目の前に、シワひとつないシャツを着た背中が広がった。同じぐらいの背丈だというのに目の前の人の背中は広く、そして見覚えがあった。昨日散々行かないでと引き止めたその背中は、藍忘機のものだ。

    『ははは、はは、は……クソッ!』

     悔し紛れに悪態を吐くと、薛洋は煙のように姿を消した。
     長い耳鳴りが鳴り、周りの景色が揺らぐ。
     耳鳴りが止むと、景色の揺らぎも消え、セミの鳴き声と子どもたちの笑う声、車の走る音が一気に魏無羨の耳へと押し寄せてきた。魏無羨は音で頭が痛むのを我慢し、藍忘機の後ろから出て、「ああ……あ……」としか声を出すことができなくなってしまった阿箐のそばに駆け寄った。魏無羨は地面に膝を着いて、倒れる阿箐に話しかける。

    「阿箐、阿箐、ごめん……!」

     阿箐は魏無羨の存在に気づいていないようで、口をぱかりと開いて母音を漏らしている。その口の中に、あるべき舌は無く。眼孔の中には潰された眼球が収まっていた。今まで酷い姿の幽霊は何度も見てきたが、今朝まで魏無羨に話しかけてくれた明るい少女がいざそうなってしまうと、魏無羨の胃は再び胃液を上らせてくる。
     正式な依頼がどうこう言わず、江楓眠たちに言っておけば良かったと魏無羨は後悔する。そうすれば薛洋は祓われ、彼女もそれを見届けで成仏できただろうに。しかし後悔は先に立ってはくれず、今こうなっている。魏無羨はスマートフォンを取り出して、江澄に連絡を取ろうと考えた。修行中とはいえ、江澄だって幽霊を何度か祓ったことがある。きっと目の前の阿箐を祓うことで救ってくれる。
     酸っぱい胃液を吐くことを我慢して、ポケットに入れたままのスマートフォンを取る。画面に指を置いたところで、隣に人が膝をつく気配があった。見ればそれは藍忘機だった。

    「忘機兄……」
    「この子は、一体。それに、先程のは」

     「見えるのか」と尋ねようとして、藍忘機が先程自分のことを背中に庇ってくれたことを思い出した。あれは薛洋が見えていなければできないことだ。
     そのことを思い出すと、ふつふつと疑問が湧いてくる。
     どうやって薛洋の──強い幽霊が張った結界に入り込んだのか。何故、幽霊たちは藍忘機の近くに寄れないのか。何故、昨日も今日も、危ない時にそばに来てくれるのか。
     藍忘機が近づいたことで、阿箐の様子が変わった。見えなくなった目を開き、口を大きく開けて、じたばたと再び暴れだした。魏無羨と藍忘機は立ち上がって、阿箐から距離を置き、魏無羨は持っていたスマートフォンを再びポケットに仕舞った。阿箐の声が二人の鼓膜を突き破らんばかりに響き渡る。

    『ああああああ!あああ!あああああっ!!』

     耳鳴りが再び鳴り出し、頭の痛みが酷くなり、魏無羨の足がふらついた。その肩を藍忘機が支える。二人の目は、阿箐の方を向いていた。痛ましい彼女の姿に、揃って顔を歪める。

    「彼女は、どうしたのだ」
    「わかんない……。でも、昨日のも、さっきのも、お前が来た瞬間、怖がっているみたいだったから……」
    「昨日?」──藍忘機は独り言のように言った。「まさかあれは幻覚ではなかったのか……」

     藍忘機の呟きに、魏無羨は薄く笑った。

    「多分、阿箐も怖がっているんだと思う」
    「君は彼女と知り合いなのか?」
    「会ったら挨拶する仲だよ。……だから、はやく楽にしてやりたいんだ。俺を助けて、こうなってしまったし」

     恩人なんだよ。
     魏無羨がそう言うと、藍忘機は彼の方を見る。藍忘機は魏無羨の肩を支えているため、二人の顔の距離は近い。近くで見た藍忘機の顔に、魏無羨は一瞬だけ状況を忘れてしまった。

    「楽にしてやる方法を、知っているのか?」

     藍忘機の言葉に、魏無羨は頷く。

    「基礎知識だけ」

     養子となってすぐ、江楓眠は魏無羨にも幽霊の祓い方を教えたが、陽気を必要とするそれを、陰気しか持たない魏無羨が行えるようになることはなかった。故に、最初に教わった基礎知識のみ知っている。

    「教えてくれ」
    「分かった」

     本当に基礎の基礎だ。自分の持つ陽気で、幽霊の陰気を払い除ければいい。幽霊を構築する気は陰気のみなのだ。それを藍忘機に伝えた。

    「陽気?」
    「うん。自分の力が、もう一つの手になって、薙ぎ払うイメージらしい」

     余談だが、魏無羨がこれを陽気ではなく陰気でやろうとしたら、お守りを持っているのにも関わらず幽霊が常よりも寄ってきた。

    「こうだろうか」

     藍忘機がそう言うやいなや、阿箐の叫びは消え、彼女は突然現れた天から降り注ぐ金の光に包まれた。そして、安らかな寝顔となり、彼女は光とともに消えた。魏無羨の頭痛も消え、耳鳴りも止まった。
     十秒程度の、あっという間の出来事だった。

    「…………えっ」

     魏無羨は藍忘機と阿箐がいた場所を交互に見た。
     信じられなかったのだ。
     今まで江家の人々が幽霊を祓うところは何度も見たことがある。だが、今さっきのように天から光が降り注いだことなどないし、こんなにあっという間に終わることもそうそう無かった。そもそも、魏無羨が教えたのは本当に基礎知識のみなのだ。それだけで、こうなるとは。
     驚く魏無羨に、藍忘機は不安そうな顔を見せる。そんな顔もできるのかと、魏無羨はまた驚いた。

    「間違っていただろうか」
    「あ、いや……間違ってはいないと思うけど……」

     感嘆の息を吐いて、魏無羨は言った。

    「藍湛、お前凄いな……!」

     藍忘機は一瞬息を詰まらせたあと、息を吐いた。それが悪い意味でない事は分かっている。魏無羨はにこにこと機嫌良く笑って、藍忘機の肩に腕を回した。

    「あ、藍湛って呼んじまった。まぁいいよな!俺がお前のその才能を見つけてやったんだし!」
    「離れろ」
    「やーだ!なあなあ、さっきスマホで見たけど、まだ十二時じゃないよな。真面目なお前がなんでここにいんの?補習あっただろ?ま、俺は抜けてきたけど!あと、なんでまた俺のところに来てくれたの?やっぱり俺とお前って運命だったり──」
    「離れろ!」

     藍忘機に突き飛ばされた魏無羨は、しょんぼりとした顔を作った。

    「酷いよ藍湛……。俺はお前がいないと死んじゃうかもしれないのに、離れろだなんて……。しかもそんな乱暴な言い方で……!」
    「冗談を言うのはやめなさい」
    「冗談なんかじゃないよ!昨日だって、あと少しで死ぬところだった」

     そしてそこに現れた藍忘機が、魏無羨を救ったのだ。今日のように。

    「藍湛にも見えたんだろ?あいつらが。幻覚じゃなかったのかって、言ってたもんな」
    「あれは……」
    「ん?」

     口を閉じてしまった藍忘機に、続きを促すと、再び藍忘機は口を開いた。

    「昨日のあれは何だ。君に手を伸ばしていて、すぐに消えてしまった、あれは。先程の少女も、何だ」

     流れている噂が無くとも、本人を目の前にしていれば、藍忘機という男がとても真面目だということが分かる。科学の時代である現代に生きる彼は、魏無羨が言ったことを信じるだろうか。昨日と今日のことで信じるしかないだろうが、受け入れるまで一体どれ程の時間を要するのだろうか。案外すぐに受け入れてしまうのだろうか。
     答えはすぐに分かった。

    「幽霊だよ」
    「やはりそうなのか」

     「おや」と魏無羨は瞬いた。

    「分かってたのか?まあ、普通は幽霊だと思うけど、まさか真面目ちゃんな藍湛が答えに辿り着くとはな」
    「昨日兄上にそう教えてもらった」
    「兄……ああ、お前にそっくりだって噂の」

     詳しい話を尋ねると、藍忘機は案外素直に話した。

    「家に帰ると兄上がいて、私の様子が普段と違うことに気づき、事情を聞かれたので話した。そうしたら、それは幽霊だと言われた。望むのなら幽霊への対処法も教えると言われたが、一瞬見たことだったため、幻覚だとばかり……まさか、本当に幽霊とは」
    「藍湛は、今まで幽霊を見た事がないの?」
    「ない」

     藍忘機は間を置くことなくそう言った。「まあそうだろうな」と魏無羨は思う。藍忘機が近くにいるだけで、どんな幽霊でも恐怖するのだ。彼の視界に入らないように、幽霊たちは逃げ回っていたに違いない。その光景を想像すると面白くて、また、自分とは正反対な彼に笑ってしまった。

    「俺とまったく正反対だな!」
    「正反対とは」
    「性格もそうだけど、その性質さ!」

     魏無羨はそっと周りを見る。住宅街のさらに奥へと続くこの道は、人通りも少なく、車が通ることもない。だが、魏無羨はそれを確認したわけではなかった。彼が確認したのは幽霊の数だ。藍忘機がいるため一体もいない。これは凄いと心の中で笑う。今まで幽霊がいなかった場所は、祓い屋をしている人の家やその周りくらいだった。

    「今はお前がいるからそうでもないんだけど、どんなお守りを持っていても、俺の周りには絶対幽霊が寄ってくるんだ。昨日はいつも持ってるお守りの一つをうっかり忘れちゃって、殺されるところだったんだ。お守りが無きゃすぐに殺されるし、お守りがあっても、さっきみたいな強いやつがいれば、殺されちゃうんだよ、俺」

     藍忘機の目が見開かれた。

    「でも、お前は逆。お前の周りには絶対に幽霊は近寄って来ないし、陽気が強いから、簡単に祓うこともできる」

     「だからさ」と魏無羨は続けた。

    「俺を守る気ない?」

     小首を傾げ、藍忘機を見る。温い風が二人の間をすり抜けていき、庭先の木々を揺らし、カシャカシャと音を鳴らした。子どもたちは遠くへ駆けて行ってしまったのか、声はもう聞こえない。その代わりに蝉の声は大きくなった。音に包まれているのに、二人には沈黙が訪れ、まるで二人だけ世界から切り離されてしまったような錯覚に陥る。少なくとも、魏無羨はそう思っていた。
     藍忘機が答えるまでの間が、一秒にも五分にも感じられた。魏無羨の顎を伝って、艶めかしく汗が落ち、シャツにシミを作る。それを見た藍忘機の喉が上下した。

    「…………分かった」

     藍忘機の答えに、魏無羨は破顔した。

    「ところで、何で藍湛は俺のところに来てくれたんだ?」

     さすがに暑いからと近くのコンビニに避難して、アイスを選びながら魏無羨は隣に立つ藍忘機に尋ねた。
     練乳の入ったお高めのアイスか、昔からある安いソーダ味のアイスか……。二つのアイスの間で彷徨う手を見たまま、藍忘機は答えた。

    「行かなくてはと思った」
    「またそれか。昨日もそうだったよな」
    「…………」
    「あはは、なあ、やっぱり俺たち運命なんじゃ──あ、ちょっと待ってよ藍湛!藍忘機!忘機兄!」

     背を向けた藍忘機のシャツを掴む。偶然にも昨日も掴んだ場所だった。

    「分かった、分かったよ。もう言わない。からかって悪かったよ。多分、その、あれだろ。陰気が集まり過ぎてるのを、遠い場所にいてもお前には分かる。で、気になった。そういうことだろ。だから待ってよ、まだお前といたいんだ!」

     店員の微笑ましいものを見るかのような視線と、はやくそこをどいてくれないかなとアイスを求める小学生の視線が、二人に注がれる。それが理由か、はたまた別の理由か。藍忘機は魏無羨を振り返った。

    「早く選びなさい」
    「分かった!」

     「どちらにしようかな」とアイスを交互に指さし、魏無羨は練乳の入ったアイスを手に取った。

    「藍湛は?」
    「私はいい」
    「そう?じゃあ買って来る!」

     藍忘機のシャツから手を離し、レジへと向かった。藍忘機は魏無羨の手の離れたシャツのシワを直すことなく、魏無羨の横に立つ。会計を終え、シールの貼られたアイスを手に、魏無羨はイートインスペースへ歩いて行った。その後ろを藍忘機が歩く。
     窓際のカウンター席に並んで座って、魏無羨はアイスの封を切り、口に含んだ。一口齧って、その甘さと冷たさに目を細める。口内の熱で溶けかかったアイスを二回ほど噛んだあと、ごくんと飲み込んだ。

    「さっきの話の続きなんだけど、行かなくちゃって思ったから、わざわざ十二時までの補習を抜け出して来たの?藍湛は監督役だったでしょ?」
    「いや、正確に言えば私は監督役ではない。用事が出来てしまい、時間までに教室に行けなくなってしまった叔父上が来るまでの代わりだ。君が出て行ってすぐ、叔父上が来たので、私も学校を出た」
    「なるほどねー」
    「叔父上は君がいないのを知ると怒っていた」
    「げっ。明日の補習で絶対怒られる……」
    「君が悪い」

     魏無羨は藍忘機を睨むと、二口で一気にアイスを半分まで食べた。

    「話は戻るが」
    「なに?」
    「君は何故、幽霊に寄り付かれやすい?」

     もっともな質問だ。魏無羨は自分が陰気を発していること、陰気をたっぷりと含んだ魏無羨の血は幽霊たちにとって極上のものであること、陰気が幽霊にとってどれほどの存在であるかを話した。

    「だから、昨日のお前の止血も受けられなかったんだ。俺の血を含んだハンカチを持っていたら、藍湛に危険が及ぶし。昨日はお前がこんなにも凄いやつだとは思わなかったから」

     実際は本当は凄いやつだということを何となく察していて、ただ綺麗なハンカチを汚したくない気持ちが一番強かっただけだとは言えなかった。

    「では、昨日江晩吟の止血を断らなかったのは」
    「江澄の家は祓い屋で、その修行をしてるからだよ。祓い屋の家に幽霊は寄ってこないし、寄ってきたとしても、修行してる江澄ならある程度の幽霊相手なら大丈夫だし」
    「そうか」

     藍忘機はほっと息を吐いた。魏無羨は心の中で首を傾げた。「何故ここで安堵の息なんだ?」と。けれどこう思い直した──そもそも安堵の息じゃないのかもしれない!
     会話が途切れるのが嫌で、魏無羨は藍忘機に言った。

    「他に質問ある?」
    「無い。が、溶けてる」
    「え?あっ!!」

     藍忘機に指摘されて、魏無羨はアイスが溶けかかっていることにようやく気がついた。会話に夢中で、あれほど悩んで決めたアイスの存在を忘れていたのだ。慌てて食べきるが、溶けた練乳が唇やその周りに着いてしまう。「べとべとする……」と呟き、手で拭おうとすると、柔らかな布が唇に押し当てられた。それは藍忘機のハンカチで、昨日と同じものではないようだが、こちらも白く高そうなハンカチだった。藍忘機は優しく魏無羨の口周りを拭き、汚れた面を折りたたんで隠すと、カバンの中に入れた。

    「ありがと!」

     笑顔で感謝を伝えると、藍忘機は目線をそらして「……うん」と返した。

    「君は──」
    「ちょっと待った」

     藍忘機の言葉を魏無羨は遮った。魏無羨の顔は不満げで、先程拭われたばかりの唇は尖っている。

    「さっきから君、君、君ってさ。何なんだよ。俺にはちゃんと名前があるっての!」
    「では、魏無羨」
    「だーめ!なんかやだ!」
    「……何と呼べばいい?」

     今度は明らかに呆れていると分かる息を吐いてから、藍忘機は尋ねた。魏無羨は「阿羨」「阿嬰」「羨羨」と候補を脳内に上げたが、自分が彼を「藍湛」と呼ぶのならこれしかないと、脳内で決まった呼び方を口にした。

    「魏嬰って呼んで」
    「分かった」

     真面目に頷く藍忘機に、魏無羨は小さく笑った。

    「分かったなら呼んでみてよ。ほら、魏嬰って」
    「魏嬰」
    「なぁに藍湛」
    「君が呼べと言った」
    「あ、また君って言った!」
    「……魏嬰」
    「えへへ、なに藍湛」
    「呼んだだけだ」
    「知ってる!」

     魏無羨はアイスのゴミをゴミ箱に捨てると、藍忘機に名前を呼んでもらって笑顔になったまま、彼とともにコンビニを出た。茹だるような暑さが二人に襲いかかる。

    「あっついな〜。なぁ藍湛、この後どうする?」
    「家に帰るが」

     さも当然のように返された。

    「この俺と一緒だっていうのに、家に帰るなんて!どこか遊びに行こうよ。映画館でもゲーセンでもカラオケでもボーリングでも、どこでもいいよ!」
    「帰る」
    「わー!なんでお前はそうすぐ俺に背を向けるんだ!いいのか!?目を離した隙に俺が死んでても!!」
    「そこまで言うなら、何故安全な家に帰らない。君の家に幽霊は寄ってこないのだろう」

     若干イラついているように聞こえる声だった。魏無羨は思わず「だって!」と返した。
     確かにそうなのだが、安全な場所というならば藍忘機のそばもそうである。さらに魏無羨は藍忘機の表情を変えることや揶揄うことに面白さを見出しており、楽しくて安全な藍忘機と一緒にいたくて堪らなかった。それをそのまま魏無羨の言葉で言えば、何故か藍忘機は魏無羨を睨んだ。

    「なんで睨むんだよ。俺といるの、嫌?さっきは守るって言ってくれたのに?」

     藍忘機はそれを聞くと睨むのを止め、目線を周囲に移ろわせた。迷っていますと言っているような表情に、「案外分かりやすいやつだな」と思う。表情が変わらないだの分かりづらいだのという藍忘機と関わることが少ない人間が流した噂は、ただの噂に過ぎなかったというわけだ。そしてその噂を信じるものは多く、それは藍忘機がどれほど人と関わっていないかを証明していた。けれど魏無羨は噂が噂であると知り、こうして藍忘機とともにいる。半ば強制的とはいえ、本名で呼び合う仲にまでなった。優越感が魏無羨の心を満たす。そのせいか、どこかふわふわとした気持ちになって、藍忘機の名を呼んだ。

    「藍湛、ちょっと遊ぶだけでもダメ?」
    「…………」
    「やっぱり俺と一緒にいるのは──」
    「分かった」

     遊びに行ってもいい。
     魏無羨の言葉を遮って返された藍忘機の言葉は、魏無羨にとって嬉しいものだった。破顔した魏無羨は、藍忘機の汗が滲む手を取って、嬉しさを隠すこともせず、コンビニから離れた。握った手をぶんぶん縦に振りながら、魏無羨は言う。

    「じゃあじゃあゲーセンに行こ!ゲーセン行ったことある?」
    「ない」
    「初めてのゲーセンは俺と、ってわけだ!ははは!」
    「……うん」

     暑くて暑くて、二人して汗をかいているというのに、藍忘機は手を離せと言うこともなく、魏無羨に手を引かれるまま、ゲームセンターへと向かって行くのだった。

    「ただいま帰りました」

     家に着き、玄関の扉を開けて言うと、そこにはちょうど出かけようとしていた藍忘機の兄藍曦臣がいた。

    「おかえり忘機」

     藍曦臣は藍忘機が大事そうに手に持っているものに目を向け、「それは」と尋ねた。藍忘機はそれに目を向けると、兄にしか分からない程度に目もとと唇を綻ばせた。

    「大切なものなんだね」
    「はい」

     藍曦臣には分かったのだろう。それが藍忘機にとって特別なものであるということが。

    「兄上は今からどちらに」
    「会食にね。夕餉前には戻るよ。叔父上は本邸の方だから、しばらくは一人になるけれど大丈夫かい」
    「……小さな子どもではないので、大丈夫です。行ってらっしゃい」
    「ふふふ。うん、行ってくるよ」

     出かけて行く藍曦臣の背中が、扉の向こうに消えた。門の前に車があったのはそのためかと納得し、藍忘機は自室へと向かった。
     藍忘機の部屋は、勉強机と寝台、本棚、琴しかない。同じ歳の学生に比べて余分なものは無く、壁紙やカーテン、家具は白で統一され、部屋も広いため、綺麗よりも寂しさを感じる。藍忘機はカバンを机の上に置くと、手に持っているそれを──ゲームセンターのクレーンゲームで魏無羨が取ってくれた、黒兎のぬいぐるみをどこに置くか、部屋を見回した。



     ゲームセンターへ向かう道中、魏無羨は興味深そうに辺りを見回していた。気になって藍忘機が尋ねると、魏無羨は緩んだ表情のまま答えた。

    「いつもこの辺には、気のいいおじちゃんの幽霊が二人と、遊ぶのが大好きな小さな男の子の幽霊が一人いるんだ。そっちの方にはちょっと危ない幽霊がいて、あっちにはもっと危ない幽霊がいるんだけど。でも、そのどれもいなくて、いつもと違うから、なんだか面白くて」

     藍忘機と一緒だと幽霊がいなくなる。「違う世界に来たみたいだ」と魏無羨は言う。普段遊び回って、不真面目で、叔父の藍啓仁に怒られてばかりの魏無羨が、本当は自分と同じ世界に生きていないということを改めて突きつけられたようだった。
     関わりが無い魏無羨を藍忘機が知ることとなったのは、藍啓仁から憎々しげにその名を聞いたからでも、同級生たちがある時は憧れから、ある時は嫉妬からその名を呼ぶのを聞いたからでもない。遡ること十年以上前、藍忘機は叔父たちとともに縁のある寺院を訪れ、そこで幼い魏無羨と出会ったのだ──魏無羨は、覚えていない様子だったが。魏無羨はあの頃から幽霊に好かれる性質で、それをどうにかすべく彼の両親に連れられて寺院を訪れたのだろう。同じ時代の同じ国に生き、同じ学校に通っているというのに、見ている世界が違う。出会った頃から、ずっと。
     けれど、今日は違う。
     二人は同じ世界を見ていた。
     魏無羨は、藍忘機と同じ世界を見ていた。幽霊のいない、多くの人にとって、藍忘機にとっての普通の世界を。

     ゲームセンターに辿り着くと、藍忘機は店の外にいても聞こえる大量の音に戸惑った。魏無羨は藍忘機の手を引いて、中へと入っていく。中には多くの若者がいてはしゃいでいたが、その声すら掻き消すほどの騒音が藍忘機の耳と頭を痛めた。藍忘機の家系は昔から耳が人一倍良く、音楽の類を得意としていたが、彼らが操り人を癒す音は、時に彼らに牙を向いた。魏無羨が藍忘機に何かを話しかけるが、それを聞き取ることすらできない。二人が今いる出入口付近は、音楽ゲームが多く置いてあるらしく、様々な音楽が混ざりあって、余計に藍忘機の耳を使えなくさせていた。それに気づいたのだろう魏無羨は、再び藍忘機の手を引いて歩き出した。手が引かれるまま魏無羨に着いていくと、本当に少しではあるが、うるさい音が減った。周りに設置されたゲームは、音楽ゲームや、銃を扱うゲーム、スロット台などではなく、景品が詰め込まれた所謂クレーンゲームの台ばかりとなっていた。店内BGMとして流れていたらしい流行りの曲と、クレーンゲームから流れる軽快な曲、景品を取るのに必死な人とそれを応援する人の声が聞こえる。そして、魏無羨の声が聞き取れるようになった。

    「ごめん、ビックリしたよな。初めてのゲーセンがそういうものだって忘れてた。でもこっちは大丈夫だから!」

     そう言って、魏無羨は藍忘機の手を離してクレーンゲームの台の中身を見ていく。音は減っても慣れぬ場所に戸惑ったままの藍忘機は、その後ろを着いて行った。移った温もりが消えぬように、繋いでいた方の手を握りしめながら。

    「折角のゲーセンをただのうるさくて不快な場所だって思われたくないからな。クレーンゲームだって楽しいんだぞ。……ま、取れればの話だけど!」
    「取れないのか?」
    「取るのが難しいんだよ。やってみたら分かるさ」

     言われて周りでクレーンゲームをしている人々を見る。あまり人はおらず、その数少ない人は魏無羨が言うように、確かに何度も景品を落としている。ちょうど近くの台でキャラクターのクッションを取ろうとしている子どもたちの「もう一回だ!」「ダメだよ!もう今年のお年玉全部使ったじゃん!」という高い声が周りの音に掻き消されることなく聞こえて、藍忘機はついギョッとしてしまうが、魏無羨が振り返った時には、いつもの顔に戻っていた。

    「藍湛はどんなのが欲しい?色々あるよ。お菓子にぬいぐるみにクッションに、あとは何か色々!」
    「魏嬰は、何が欲しい」
    「俺?俺はー……」

     魏無羨はくるくると台を見回す。なかなかピンとくるものが無いようだ。忙しなく動く彼に合わせて、結われた長い髪と赤い髪紐が揺れる。いつの間にかそれに伸ばしていた手を引っ込め、体の横に下ろした。

    「んー、あんまり無いな。もうちょっと歩き回ってみてもいい?あっちの方にもっと台があるんだ。藍湛も欲しいのあったら言えよ」
    「分かった」

     今度は並んで歩く。台を一つ一つ見ていると、藍忘機の目に留まるものがあった。藍忘機の目を惹くものがあることに気づいた魏無羨も、同じものを見る。

    「兎か!可愛いな、藍湛」

     ニヤリと笑って、魏無羨は台から藍忘機へと目線を移した。台の中にあるのは両手に収まる大きさの兎のぬいぐるみで、白兎と黒兎があった。

    「……」

     無言で足を進めようとする藍忘機の手を引っ張って、魏無羨は藍忘機が見ていたクレーンゲームの台へ向かった。

    「欲しいんだろ!我慢すんなって」
    「別に」
    「あんなに見てたのに?」

     藍忘機は無言を返した。

    「まったく、素直じゃないなぁ、藍湛は!」

     背負っていたリュックから財布を取り出すと、魏無羨は硬貨を台へ投入した。するとピコンと音が鳴り、クレーンゲームのアームを操作できるようになる。

    「藍湛がいらないって言っても、俺は欲しくなっちゃったから、この台で遊ぶよ。藍湛はどうする?」
    「取れるまで待つ」
    「ちゃっちゃと取っちゃうから、待ってろよ!」

     慣れたように台についたスティックとボタンを操作し、その指示通りに動いたアームは、白兎のぬいぐるみを掴んだ。そのまま持ち上げるが、途中でぽろりと落ちてしまった。綺麗に掴んでいたため、落ちると思っていなかった藍忘機は驚いた。魏無羨は「やっぱり〜」と苦笑している。

    「アームの力は基本的に弱いらしいんだよ。でも、お金を注ぎ込んでいると取れる時がある。だから、裏で店員がアームの力を変えてるって話もあったりするんだ」
    「それは違法ではないのか?」
    「さあな。店員云々は都市伝説だから」

     魏無羨は再び硬貨を投入すると、先ほど落ちた白兎のぬいぐるみに狙いを定めた。

    「今度こそ取ってやる!」

     気合いを十分に入れてアームを操作する魏無羨の横顔を見る。真剣な表情は初めて見るものだった。普段彼は動いていることが多いため、ゆっくりとその顔を見たことがあるものは極わずかだろう。自然と上向きになっている長いまつ毛も、それに縁どられた愛嬌のある大きな双眸も、意外と日に焼けていない肌も、形の良いすっきりとした鼻も。
     そして藍忘機は、魏無羨の唇を見て、目の動きを止めた。
     厚くもなく薄くもない、朱を引いていないのにも関わらずほんのりと赤く、店の光を反射し柔らかそうに見せている、それ。指で触れれば無邪気な彼のことだ、ぱくりと咥えてくれるのではないか、そしてきっと口内は熱く湿っていて──そこまで考えて、藍忘機は己に驚愕する。何を考えたのかと。ここが店でなければ、魏無羨がいなければ、今頃頬を叩き己に罰を与えていただろう。
    じっと見ていた魏無羨の唇の端が、期待に上がる。アームが白兎のぬいぐるみを掴み、持ち上げたようだ。先ほど落とした高さまで持ち上げても、白兎のぬいぐるみは落ちることなく、景品払い出し口へと運ばれていく。魏無羨がそわそわと見守る中、ぽとりと白兎のぬいぐるみは景品払い出し口へと落とされた。魏無羨は藍忘機の方を向き、得意気な顔をすると、しゃがんで白兎を手に取った。立ち上がって、藍忘機に「どうだ!」と見せてくる。近くで見たそれは短い毛が使われており、ふわふわとした手触りになるように作られているようだ。可愛らしいそれと魏無羨の組み合わせに違和感は無く、むしろ似合っているように感じる。余程手触りが気に入ったのか、白兎の顔に自分の顔を近づけて、楽しんでいる。

    「俺ってやっぱり凄い!二回で取れちゃった。可愛いよなぁ、これ。ふわふわだ」
    「うん」
    「へへへ。黒い方もあるけど、どうしよっかな」

     魏無羨がガラスの中を見るのに釣られて、藍忘機も同じものを見る。二人の目線の先では、同じ数の白兎と黒兎のぬいぐるみが、誰かがそこから出してくれるのを待っていた。
     藍忘機は想像してみた。白兎と黒兎のぬいぐるみを持ち笑う魏無羨の姿を。想像だけでも心が和む。

    「私もやってみたい」

     そう言うと、魏無羨は驚くも、すぐに笑って台の前を譲ってくれた。

    「やり方分かる?」
    「君のを見ていたから分かる」
    「おっ、じゃあやってみな。取れなかったら、俺が代わりに取ってあげる」

     結果から言うと、取れなかった。札を二枚硬貨に変えたが、それでも無理だった。藍忘機が渡される小遣いを使うことは少なく、それぐらいの出費は痛くも痒くも無かったのだが、万札を一枚取り出した瞬間、魏無羨に止められた。

    「悔しいのは分かるけど、万札出したらダメだって!俺が取ってあげるから」
    「私がやる」
    「顔が怖いよ藍二哥哥!よし、じゃあこうしよう!俺が五回で取れなかったら、藍湛は万札を崩しても構わない。でも俺が五回で取れたらそれで我慢」
    「いいのか?」
    「いいっていいって。取れたらプレゼントだとでも思って受け取ってよ」

     取って君にプレゼントするつもりだったのに──とは言えず、藍忘機は「うん」と小さく頷いた。「持ってて」と言われ、白兎を渡された。

    「ふふふ」
    「どうした」
    「あ、いや……なんか……ふふふ!ははは!藍湛とその白兎、そっくりだなって思ってさ」

     無言になった藍忘機が怒ったと思ったのか、魏無羨は肩を大袈裟に肩を竦めると、台に硬貨を投入した。真剣な表情になって、藍忘機が取ろうとしていた黒兎を狙ってアームを動かす。一度目は取れず、二度目も惜しいところで取れず、三度目となった。その間、先程魏無羨がプレイしている時に意識してしまったせいか、引き結ばれた唇に再び目が向いていた。今藍忘機が持っている白兎の顔に近づけたのも、あの唇だった。そして魏無羨は言った──藍湛とその白兎、そっくりだなって思ってさ、と。この言葉を聞いてつい無言になってしまったのは、そのせいだった。
     ──この白兎の顔に、魏嬰の唇が……。
     あれは明らかに触れていた。ふわふわだと言っていた。
     ──ふわふわ……。ふわふわか……。

    「あーっ!落とした!くそ、四回目だ、四回目!」

     魏無羨の悔しそうな声で、意識が現実へと引き戻される。見れば、魏無羨が四枚目の硬貨を投入したところだった。

    「絶対取るからな!」
    「魏嬰、取れなくても私が取る」
    「万札を崩させるかよ!」
    「魏嬰」

     ……これは聞いていないな。
     藍忘機は小さく息を吐いた。
     店内は変わらず音が溢れ、声を張り上げなければ聞くことができない。慣れたのか耳の痛みも頭痛も大分和らいだが、完全に無くなったわけではない。だが何故だろう。魏無羨の張り上げる声だけは、藍忘機の耳も頭も痛めなかった。邪魔な音など全て消えて、魏無羨の声だけが聞こえるようになればいいのにと思う。これは、友人へ抱く感情なのだろうか……。

    「取れた!」

     魏無羨の弾んだ声がする。彼はしゃがみこんで、宣言通りに取れた黒兎のぬいぐるみを掴むと、勢いよく立ち上がって、藍忘機に差し出した。

    「はい、あげる!」

     可愛らしい黒兎のぬいぐるみが眼前にある。藍忘機は受け取ろうとして、白兎のぬいぐるみで両手が塞がれていることに気づく。片手に持ち変えて、白兎と黒兎を交換した。

    「俺だと思って大切にしてよ」
    「うん。大事にする」

     すると魏無羨はきょとんとした顔になる。

    「どうした、魏嬰」
    「あ、いや……なんでだろう。一度も言われたことないのに、くだらないって言われると思ってた」
    「そんなことは言わない」
    「だよな?変な思い違いしちゃった」

     くだらないなんて、絶対に言わない。
     君だけには、絶対に。
     口に出したこともない言葉を、絶対に言わないと誰かに誓う。神か、先祖か、それとも目の前の「君」か。
     魏無羨は白兎と財布をリュックの中に仕舞い、笑顔で藍忘機を見る。くるくると変わる表情に、藍忘機も目が離せない。

    「よし、じゃあ次行こうぜ!」
    「次?」
    「うん。ここ、うるさいだろ?無理言ってここまで連れて来ちゃったけど、藍湛あまり楽しめなかったんじゃないかなって。クレーンゲームは楽しんでもらえたみたいだけど」

     くすくすと魏無羨は笑う。

    「学校の誰も信じないよ、あの藍忘機がクレーンゲームで万札溶かそうとしたなんてさ」
    「言うのか?」
    「言わない!俺とお前だけの秘密にしておいた方が、面白いじゃん?」

     そうなのだろうか。……そうなのかもしれない。
     いつも人に囲まれている魏無羨と自分だけ。二人だけの時間を、誰かに知られるのは酷く面白くない。

    「じゃあ次はどこに行こうか?」

     魏無羨はいくつも候補を出す。近くの公園だったり、今話題らしいカフェだったり、どれもうるさくない場所だった。最後には片目を瞑って、

    「お前とただ二人で歩くだけなのも悪くなさそうだけど」

     と言う。こんなにもうるさい場所にいるというのに、藍忘機は自分の中で暴れる鼓動が魏無羨に聞こえてしまうのではないかと気にする羽目になった。
     とりあえず公園に行こうという話になって、二人で歩き出す。思い出したように魏無羨が立ち止まって藍忘機を見た。

    「うるさいなら、こうやってあげようか?」

     魏無羨の自由な両手が、藍忘機の耳を塞ぐ。感じる魏無羨の手の温もりと、近づいた顔に、藍忘機の指がピクリと跳ねた。

    「──なーんて言って揶揄おうと思ってたんだけど、タイミング逃しちゃったんだ!」

     「あははは!」と、こちらの気も知らず笑って離れていく魏無羨が憎らしくも愛らしい。再び歩き出した魏無羨の背中を見ながら、藍忘機はようやく言葉になった感情を、降り始めた雨のようにぽつりと落とした。

    「───」

     うるさい店内でそれが魏無羨に届くはずもない。なかなか歩き出さない藍忘機を振り返って首を傾げる魏無羨の左隣に、藍忘機は早歩きで向かった。
     ゲームセンターから出ると、魏無羨のリュックから軽快な音楽が聴こえた。魏無羨がリュックから取り出したのはスマートフォンで、江澄からの電話のようだった。藍忘機に断りを入れて電話に出た魏無羨は、そう短くもない会話を終えると、藍忘機に申し訳無さそうな顔で言った。

    「ごめん、帰らなきゃいけないみたいなんだ」
    「分かった」

     本当は帰ってほしくない。彼が自分にそうしたように、これから向けられるだろう背中に手を伸ばし、シャツを掴みたい。許されることなら、深いシワをつけ、困らせたい。しかし、それが出来たら苦労しない。今までだって、同じ高校に通っていると知って何も行動できなかったり、いざ顔を合わせても気の利いたこと一つも言えなかったり、素直になれなかったりとあった。
    頷いたまま動かない藍忘機に、魏無羨は小首を傾げると、「ああそうか!」と手を打った。

    「忘れてたな!いやー、悪い悪い」

     何のことだと彼を見ていると、魏無羨はスマートフォンを操作しながら、藍忘機に言う。

    「ほら、藍湛もアプリ開いて」
    「何の?」
    「メッセージアプリ。もしかして、入れてない?」
    「メッセージアプリ……これか?」
    「それそれ。同じやつだな。藍湛のことだから、もしかしたら入れてないかもとか思ったけど、年頃らしく入れてるんだな」
    「私を何だと思っているんだ」
    「真面目ちゃん!……えーと、もしかして連絡先交換したことない?ここ押して」
    「ここか」
    「そう!で、こうやって、こう」
    「こうか」
    「そうそう!……よし、できた!」

     魏無羨に教えてもらいながら、連絡先を交換する。今まで家族しか登録されていなかった場所に、魏無羨の名前が追加された。

    「これでいつでも連絡取れるな!」
    「うん」
    「じゃあ、そろそろ俺帰る!また遊ぼう、藍湛!」
    「うん、また」

     大きく手を振って走っていく魏無羨に、小さく手を振り返す。背中が見えなくなって、ようやく藍忘機は手を下ろし、ゲームセンターの前から動き出した。
    帰路につきながら考えるのは、魏無羨のことだった。

     ──お守りがあっても、さっきみたいな強いやつがいれば、殺されちゃうんだよ、俺。
     ──俺を守る気ない?
     ──ありがと!

     彼は藍忘機を、特殊なボディーガードか友達だと思っているのかもしれない。
     それでもいい。
     チャンスがあるのなら。



     家に着くまでのことを思い出して、藍忘機は広い部屋に一つ息を吐いた。水と熱を含んだ息だった。手に持つ黒兎のぬいぐるみを目線の高さまで持ち上げる。
     魏無羨は白兎のぬいぐるみを藍忘機に似ていると言ったが、魏無羨は黒兎のぬいぐるみに似ていると藍忘機は思う。ふわふわで、愛嬌があって。つぶらな瞳と見つめあったあと、藍忘機は黒兎の小さな口へ唇を落とした。短い毛が口もとを擽った。
     藍忘機はもう一度部屋を見回すと、ようやくこの黒兎を置くに値する場所を見つけた。綺麗に整えられたベッドの上、枕の横にそっと置いたのだった。

    「君が魏無羨か。私のことは……もう覚えていないだろうね」

     江澄に急いで帰って来いと言われて帰ってみると、午後は部活だと言っていた彼はスーツに身を包み、魏無羨にもスーツを着ろと言った。12時近くのことだ。客でも来るのだろうかと思ってスーツを着れば、あれよあれよという間に車に乗せられ「会食だ」と江澄に言われ、途中で江楓眠と合流した。虞紫鳶と江厭離は、江厭離の婚約者である金子軒と仲を深めるため、彼の母金夫人もともに出かけるらしい。「今日の我が家は忙しいな」と魏無羨が言うと、江澄は「そうだな」と不満げな顔で同意した。そして車が停まったのは、テレビで何度も見たことのある高級フレンチレストラン、話によると貸切らしい。一応魏無羨も養子とはいえ、表では会社経営者の一族である江家の一員なので、こういった場所には何度も来たことがある。今さら緊張などしないのだが、通された席には、とても見覚えのある綺麗な顔があった。しかしよく見れば、見覚えのある顔に非常に似ているだけだと分かる。誰に似ているかというと、昨日今日と不思議な縁で結ばれてしまった藍忘機にだ。双子だろうか。それとも世の中には三人似ている顔がいるという都市伝説の証明だろうか。
     そして、藍忘機に似た彼の第一声が、あの初めの言葉だった。

    「え、と……何処かでお会いしたことがありましたか?」
    「ああ、すまないね。まずは挨拶をしなければ。君と私が会った時のことは、後に話すことにしよう。時間はあるわけだしね」

     彼は軽く謝罪すると名乗った。

    「私の名前は藍曦臣。藍家の当代宗主だ。江家同様の生業をさせてもらっている一族のものだ」

     魏無羨も、隣に座っていた江澄も驚く。

    「藍……!?」
    「弟の藍忘機が、確か君たちの同学年だったね」

     魏無羨と江澄は目を合わせる。藍曦臣の話によれば、藍忘機は江家同様、表では古くからの名家、裏では祓い屋の一族であるということになる。今朝までは江澄からの情報の「古い名家。金持ち」しか無かったというのに、たった数時間で特大の情報が落とされてしまった。さらに藍忘機は宗主の弟だという。
     宗主というのは祓い屋のトップの呼び名だ。祓い屋がかつて「修士」「仙師」と呼ばれ、その知識や力を深めるために存在する多くの「仙門」の門派があった頃の名残りだ。かつては仙門同士の結びつきが強かったらしいが、超自然的なものが否定される現代では各々隠れて活動するようになったため、どの家が祓い屋か分からないことも多くある。そしてその祓い屋として必要なのは陽気とそれを操る才能だ。それらは基本的に遺伝することが分かっているため、祓い屋は血を重視することが多く、家を築いた始祖の直系の子孫のみが宗主となれる。そのため宗主直系は陽気が強いのだ。
     しかし、藍忘機が宗主の弟ならば、藍忘機のあの陽気の多さにも納得がいく。実は一般人であの陽気の多さは少々魏無羨には信じられなかったのだ。

    「江宗主と忘機自身から、忘機と魏公子が接触したと聞いて、こうして会食の席を用意させてもらったんだ。でも会食というほど堅苦しいものでもなくて、もっと気楽なものだと考えてもらっていい。肩苦しいのは、私はあまり好きではないからね」

     そう言い終わった時、料理が運ばれてくる。前菜のようだ。突き出し(お通し)からでないということは、本当に言葉通り「会食というほど堅苦しいものではない」のだろう。食事に手をつける前に、江楓眠はいつも通りの穏やかな表情のまま言った。

    「事前にお伝えしていた通り、藍宗主、こちらが実子の江澄、こちらが義子の魏嬰です。阿澄、阿羨、彼は君たちと四歳しか変わらないが宗主を務めていて、藍家と交流のある祓い屋からの評価がとても高いんだ」
    「そんな、私はまだまだ未熟ですよ。実際、我が家の少々特殊な決まり故に諦めなければいけないことがあるのにも関わらず、諦めきれず、足掻いているのですから」
    「特殊?」

     思わず魏無羨は言葉を繰り返してしまう。不躾だったかと口を閉じるが、藍曦臣はふわりと微笑んだ。藍忘機とは違い、柔らかい表情をする人だ。

    「そう、特殊なんだ。他の祓い屋では、生まれた時から自分の家がそうであると教えられるそうだね。けれど我が家では資格を得ていると分かるまで、この裏の生業を知らされない。資格を得ることができなければ、知らないまま年老いていく。基本的には得ることができるから、今のところ祓い屋を知らずに老いるものはいなかったけれど……」

     どこか含みのある言い方だった。彼は江楓眠に目線を移す。それに頷き、江楓眠は口を開く。

    「昨日、阿羨が幽霊に襲われたところに藍二公子がいたと阿澄から聞いた。しかし現場には幽霊は一体もいなかったというじゃないか。阿羨が血を流していたというのにね」
    「父上、魏無羨の血ついては──」
    「大丈夫、藍宗主は信用に足る人だ。心配することではない」

     心配してくれた江澄の手を、魏無羨はテーブルの下で叩いた。ありがとうの意だ。
     魏無羨が陰気を発し、その血が幽霊たちにとって極上のものであることは、基本的に秘されている。他の祓い屋が魏無羨を利用、最悪の場合は殺害する可能性もあるためだ。祓い屋のほとんどが姿を隠して活動している以上、魏無羨については神経質になるべきことだった。
     江楓眠の「信用に足る人」という言葉に軽く頭を下げてから、藍曦臣は言う。

    「それで先ほどの話に戻るけれど、我が家が祓い屋だと知るために必要な資格は、幽霊を見ることが出来るか否かなんだよ。見ることができないものは、徹底的に祓い屋から遠ざけ、決してそのことを洩らしはしない。祓い屋なんだ、見ることが出来なければ意味が無いだろう」
    「確かに、我が家とも多少交流のある姚氏のところでは、十分な陽気もあるというのに幽霊を見ることができない直系の子どもがいて、家が祓い屋であるプライドから生きづらくなっているという話を聞いたことがあります」

     江澄がそう言うと、藍曦臣は頷いて返した。

    「そう。我が家はそういったことにならないように、様子を見ているんだ。祓い屋の血を受け継ぐ以上、幽霊が見えないということは滅多に起こらない。よっぽど血が薄いか、天がそうお決めになられたか……」

     藍曦臣は一度言葉を区切った。間を置いてから彼が言ったのは、魏無羨を驚かせるのに十分なものだった。

    「弟の忘機は、幽霊が見えないようでね」
    「えっ!?」

     思わず大きな声が出た魏無羨の脇腹を、江澄が肘でど突くも、魏無羨は抑えられなかった。

    「藍湛は、見えてました!」

     それには思わず藍曦臣も声を上げる。

    「えっ!?やっぱり!?」──出た声が大きかったことに気が付いたのか、咳払いをし、声を落とす。「それは本当かい?」
    「本当です。藍湛は見えてました」

     驚きを隠せないのは二人だけではない。

    「いつから藍忘機を名で呼ぶようになったんだ!?」

     江澄は魏無羨の肩を揺らして尋ねた。魏無羨は「今日!」と返し、声の大きい二人を咎める咳払いを江楓眠がすると、江澄は失態を晒してしまったと顔色を悪くした。それに気づかぬ魏無羨ではない。彼の気を取り戻させるために、彼以上の失態をしたと言うことにした。

    「今日、俺の不注意で幽霊関係で大変なことになっていたところを藍湛に助けてもらって、それで名前を呼ぶようになっ──…………」

     魏無羨は思わず喋る口を止めた。三人の視線があまりにも怖すぎたのだ。薛洋より怖いかもしれない。
     江澄の失態を霞ませようと彼以上の失態を言ったため、少々お叱りは受けるだろうと思ってはいたが、ここまで殺傷能力の高い視線を向けられるとは思いもしなかった。視線だけで人を殺し、そのまま地獄に落とし、輪廻の輪に還らせないようにできてしまうのではないだろうか。

    「魏嬰」
    「ひゃい」

     江楓眠が魏無羨のことを「魏嬰」と低い声で呼ぶのは、これが初めてではない。二回目だ。ちなみに一回目は昨日のお守り不所持事件後のお叱りの時だった。

    「まさか、またお守りを家に忘れたのか?」
    「て、天地神明に誓って今日は忘れていません」
    「では不注意とは?一体何をしたんだ」
    「あの……藍宗主もいらっしゃるので、ここで話すのは──」
    「私は構わないよ。魏公子、私は理由あって君については話を聞いただけだが、それだけでも君の体質とその危険性を知ることができた。今後の祓い屋活動のためにも聞かせてはもらえないかな。それに、私の弟が深く関わっているようだからね」
    「えっ、えっ、えー……とぉ……」

     正直話すと長くなってめんど……いや、時間を取ってしまうし、未だ料理に手をつけていないのだ、冷めていく料理が勿体ない。

    「阿羨、話せ」

     滅多に呼ばない呼び方で魏無羨を呼び、江澄が怒りからこめかみに血管を浮き上がらせながら、口角の引き攣った笑顔を見せる。
    魏無羨は恐怖で引き攣った笑顔で返した。

    「話すから、ご飯、食べない?」

     もしかしたら、これが最期の昼餐となるかもしれない──…………。
     魏無羨は笑顔同様引き攣る喉をごくりと上下に動かしてから、学校を出てからのことを話した。覚えている限りのことを全て正直に話しつつ、食事を進める。藍曦臣は家の決まりで食事中は話せないらしいので、頷いて相槌を打つくらいだが、江楓眠と江澄はところどころ質問をした。「その時の周りの状況は」「本当に血は出ていなかったのか」等々。話が終わる頃には口直しの氷菓子が運ばれていた。
     江澄は不機嫌そうに眉を寄せる。本当に不機嫌からそうなっているわけではないと、長い間義兄弟として育ってきた魏無羨は察していた。

    「よく無事だったな、お前」
    「藍湛がいたからな」

     あの時藍忘機が駆けつけてくれなければ、どうなっていたか。想像したくもない。
     江楓眠は氷菓子を一足先に食べ終えると、さっぱりしたものを食べたはずなのに苦々しい顔をする。藍曦臣も同様の顔をし、口を開く。

    「忘機が人よりも陽気が強く、幽霊を寄せつけなかった。そのため幽霊を目撃できなかった、ということが分かり、これ自体は良いことだと私は思う……。けれど魏公子、貴方は今──いいえ……今後、あまりにも危険すぎる」
    「藍宗主、それはどういうことですか」

     魏無羨ではなく、江澄がそう尋ねた。藍曦臣は「それは君のお父上に聞くといい」と言って、表情を変えぬまま、氷菓子を食べた。江澄と魏無羨が揃って江楓眠を見る。彼は重々しく口を開いた。

    「阿羨に渡しているお守りは、よく見直しを行い、その都度強くなるようにしている。今渡しているお守りも、一昨日強くしたばかりだ。これ以上強くすれば、阿羨の体に影響があるのではないかというくらいに」

     江楓眠と江澄がいるため、紫のお守りは車の中に置いてあり、車も店のすぐ近くに停めてある。本来その中に入れている護符は両親の形見とともに数枚折りたたんでスーツのポケットに入れている。また、目を走らせれば、店内の四角にも強力な護符が貼られているのが見える。今魏無羨の髪を結っている陰気を抑える髪紐も、金の刺繍で呪が描かれている強力なものだ。そこまでしてようやく、魏無羨は安全に外で食事ができるのだ。そのことは魏無羨も江家の人々に昔から言われていたのでよく分かっていたが、まさかお守りが改良され、ついには魏無羨自身に影響が出る一歩手前まで強くしたというのは初耳だった。

    「だというのに……まさか、そこまで幽霊の接近を許してしまうとは……!」

     江楓眠は悔しそうに唇を噛んだ。魏無羨は江楓眠の悲しい顔も怒る顔も、今のような悔しそうな顔も苦手だった。昔からよくしてもらっている自覚があるため、彼には幸せそうな表情でいてもらいたいのだ。それは義姉の江厭離も同じだ。江澄と虞紫鳶は、むしろ不機嫌そうな表情ばかり見すぎて、それ以外を見ると困惑してしまうのだが、それは余談だろう。
     「私の力が足りなかった……」と言う江楓眠に、魏無羨は「そんなことないよ!」と努めて明るい声を出す。

    「江おじさんのお守りのおかげで、俺は死なずに済んでいるんだから。それに、今日の幽霊が強過ぎただけでしょ?あんな強い幽霊、なかなかいないって!」
    「違う!そういうことを父上は言っているんじゃない!」

     江澄は魏無羨を、真っ赤な目で睨みつけた。

    「話を聞く限りだと、薛洋だけじゃなく、阿箐という幽霊もお前のすぐそばにいけたらしいじゃないか!例えお前にとって良い幽霊だったとしても、幽霊ならば全て例外無く近づけないようにするのが、お前の持つお守りなんだ!」
    「…………えっ?」

     脳裏を過ぎていくのは、ここ最近の記憶だ。朝早く学校へ登校する途中、幽霊たちは魏無羨に挨拶してくれた。魏無羨にとって悪い幽霊をどこで見かけただのを教えてくれることもあった。魏無羨と幽霊、どちらかが手を伸ばしても届くことのない距離だったが、数歩歩けば手の届く距離だった。さらに昔の記憶が脳裏を過ぎる。幽霊たちは十数歩以上歩かなければ、手の届かない距離だった。もっと昔の記憶では、さらに遠い距離に幽霊たちはいた。お守りを持っていない時ほどではないとはいえ、いつの間にか近づいていて、あまりにもそれが自然だったから不思議に思わなかった。
     魏無羨の喉がひくっと鳴る。

    「阿羨、なぜお前のお守りを強くしていると思う?」

     穏やかではない江楓眠の声が、魏無羨の鼓膜を揺らす。魏無羨はふるふると首を横に振る以外のことができなかった。
     江楓眠が言う。

    「お前の発する陰気が年々強まっているからだ」

     今日はやけに忙しい──魏無羨はそう思うことで思考をできる限り混乱から遠ざけようとしたが、人間はそこまで器用な生き物ではない。彼の脳に一瞬で混乱の波が押し寄せる。

    「そん、な……聞いてない……っ」
    「お守りがあれば知ることはないだろうと思っていた。これは私の落ち度だ。最初から伝えておけば良かった」

     魏無羨は本人の意思が有る無しに関わらず、純度の高い陰気を発し続けている。陰気は幽霊を引き寄せる。良い幽霊も、悪い幽霊もだ。いくら引き取られた家が祓い屋だからといって、安全とは限らない──魏無羨も、その家族も。しかし、だからといって家を出ていくこともできない。そんなことをしたら、すぐに魏無羨は死んでしまう。
     ──死にたくない。
     そう思った今、頭の中に浮かんだ人物が誰なのか確かめる間もなく、藍曦臣が口を開いた。

    「忘機はどうでしょうか」

     江家三人の目が、藍曦臣へと向く。彼は人好きするような穏やかな笑みではなく、宗主としての顔をしていた。

    「元々、私は陽気の強い忘機には絶対に霊を見ることのできる力があるはずだと思い、諦めきれず、江宗主にお願いして、魏公子に忘機の手助けをしてもらいたいと考えていました。幽霊を引き寄せるという魏公子のそばにいれば、力も目覚めるはずだと。そのために、この場が設けられた。私の願いが魏公子にも聞き届けられたら、忘機と交流を持ってもらいたいと……そう言おうと思っていました。けれど、話を聞いた限りでは、忘機とともにいる時、魏公子は幽霊を見ることがなかった。魏公子の仰っていた通り、忘機の強大な陽気のおかげでしょう。そして、忘機に霊を見る力があることが分かった……。それならば、最終的には変わりありません──」

     藍曦臣の目が、呆然とする魏無羨を映し出す。

    「──魏公子、忘機とともに過ごしてみないか」

     魏無羨は間を置くことなく頷き、頷いた自分に驚いた。
     ──あれ?俺なんで頷いたんだ?そりゃ、藍湛に「守ってくれる?」って聞いたら「うん」って返ってきたし、俺は藍湛と仲良くなりたいから願ったり叶ったりなんだけど……。
     無自覚に頬が赤くなっていく魏無羨を見て、江澄のこめかみがひくつくが、父たちの会話を聞いて、表情は一変する。

    「藍宗主、私は阿羨の意思を尊重します」
    「はい。ありがとうございます」
    「お礼を言うのはこちらの方です。阿羨をよろしくお願いします。荷物の方は今日中に運び入れましょう」
    「大切にお預かりします。足りないものがあれば、藍家で揃えましょう」
    「ではそのように……」
    「父上、どういうことですか?」

     尋ねられた江楓眠は「そういうことだ」と言う。

    「元々、藍宗主の言葉に阿羨が頷けば、今現在藍宗主たちが暮らしている屋敷へ阿羨が移り住むことになっていた。阿羨が常にそばにいることにより、弟君も霊を見る力を生じさせられるのではないか、とね」
    「では、魏無羨は江家の屋敷を離れると?」
    「ああ」
    「……。それは、どれ程の間ですか」

     江楓眠は無言を返した。江澄も、彼が何故無言なのか分かっていた。そもそも尋ねる前から分かっていた。
    年々発する陰気が強まる魏無羨が、今のところ唯一安全である藍忘機のそばを離れることができる日が来るはずもないことを。
     黙り込んだ父子に、魏無羨は申し訳ないという気持ちが強まる。ここまで良くしてくれたのに、何の恩返しもできぬまま、離れてしまう。むしろ最後まで迷惑をかけてばかりだ。
     場の空気を変えるように、次の料理をウェイトレスが運んできた。皿は下げられ、肉料理が置かれる。湯気の出る、こんがりと焼かれた肉の匂いに、状況も状況だというのに口の中に唾液が広がる。魏無羨はフォークとナイフを手に取って、肉の前に彩りとして置かれているのだろう野菜を口にしていった。腹の中が溜まっていけば、気持ちも上を向いてくる。
     今まで江家以外の祓い屋と交流したことは、魏無羨には無い。江楓眠によって、表の会社に関する集まりに連れて行ってもらったことはあるが、裏の家業のこととなると魏無羨は途端に蚊帳の外だ。しかし、江家ではない祓い屋である藍家と交流することによって、この体質をどうにか抑える方法が見つかるのではないか。家によって祓い方が微妙に変わってくるみたいなことを、昔江澄が零していた気もするし、ヒントぐらいは得られるのでは。そこまでいかなくとも、何か面白いことが起こるのではないか。藍家には藍忘機がいる、面白いことが起きないはずがない!よくよく考えれば、いや、そこまで考えても分かることだった──江家の屋敷から出ていくということは、これ以上迷惑をかけなくても良いということ!
     「なんだ、良いことばかりだな」と心の中で頷く魏無羨に、不満げな江澄の表情に気づく様子は無い。
     魏無羨は無言のままとなっていた食事の席の雰囲気を良くしたくなり、ブロッコリーを飲み込んでから口を開いた。

    「そういえば、藍宗主が最初に言っていたことって、結局どういうことだったんですか?」

     話を振られた藍曦臣は、口に含んでいたものを飲み込み、答えた。

    「実は十年ほど前、君は私と忘機と会っているんだよ」

     初耳である。こんなに顔が良い人、しかも二人と出会っていれば、覚えているだろうに。首を傾げた魏無羨に、藍曦臣は「無理もない」と言った。

    「私たちが会ったその日が、君のご両親が亡くなった日なのだから」

     思い出したのは、一番古い記憶だった。
     黒くて大きな犬のような化け物が、父さんの運転する車に張り付いたというもの。
     運転席の後ろに乗る魏無羨は言った──とうさん、こわいのがいるよ!
     助手席に乗る母は笑った──阿羨、夢でも見たの?
     父も笑って、何かを言おうと口を開いた、その瞬間。化け物の笑い声がした。その笑い声はどんどん高くなっていって、父の酷く焦る様な声と母さんの悲鳴と混ざりあった。そしてすぐに、大きな衝撃があった。

    「江おじさんは、知ってたの?」
    「藍宗主に話を持ちかけられた時に聞いたよ。ちょうど事故現場の近くにいて、現れた幽霊を倒したこともね。あの時の幽霊がきっかけで、阿羨が犬を苦手になったことは私から伝えた」
    「うっ……」
    「まあ、仕方ないよ、魏公子。でも君は事故のことは覚えているんだね……」

     痛ましいものを前にしているように藍曦臣が言う。確かに事故の際に見た化け物のせいで、魏無羨は犬が大の苦手となったが、過去のことなのだ、そう痛ましそうに見られたくはない。

    「一番古い記憶が、事故直前のものってだけですよ。それで、事故前に会ったというのは?」
    「ああ、すまないね、脱線してしまって。私たちが会ったのは、藍家縁の寺院だ」

     護符と一緒にポケットに入れてある両親の形見──事故前に訪れたという寺院で買った、もう効果が無くなったであろう赤いお守り──を、ポケットの上から撫でる。記憶から消えてしまった寺院が、藍家縁の場所だったとは。

    「藍家は遡ると、祓い屋以前は仙門と呼ばれ、それ以前は寺だったそうだよ。寺から俗世へと出た僧が、我が家の元となる仙門を開いたという説もあるけれどね。私たちが出会ったそこは、かつて仙門があった頃に一族でも名を馳せた先祖とその伴侶のことを祀るための廟で、時が流れ、寺院になったとか……。私と忘機は、寺院にいる一族のものに会うという叔父に着いて行った。叔父が目当ての人と話し始めると、まだ幼かった私も忘機も居心地が悪くなってしまって、通された部屋を出て、庭を散歩をすることにした」

     散歩に出た藍兄弟は、敷地の隅、塀の下に蹲る子どもを見つけた。その子どもは二人に背を向けていて、肩を震わせているように見えた。親と来てはぐれてしまったのかもしれない……。そう思った藍曦臣よりも早く、その子どもに声をかけたのは藍忘機だった。

     ──きみ。
     ──ん?

     振り返った子どもの頬は涙に濡れておらず、目も赤くなっていなかった。想像と違っていて固まってしまった藍忘機を見て、子どもはにっこりと笑った。

     ──おまえもあそぶ?
     ──あそぶ……?
     ──そう!ほら、これみて!アリがたくさん!

     小さな手にはどこで拾ったのか、大人の手のひら程の長さの木の枝が握られており、それで蟻の巣を掘り返して遊んでいたようだった。年相応の行動に、後ろで見守っていた藍曦臣は苦笑した。その声でようやく藍曦臣の存在に気づいたらしい子どもは、「わあ!」と声を上げた。

     ──おなじひとが、ふたり!
     ──ちがうよ。わたしと、わんじーは、べつのひとだ。
     ──おんなじかおなのに?

     なんで?どうして?
     子どもは藍曦臣と藍忘機の顔を交互に見る。何度か見て、ようやく別人と理解したらしい子どもは、手に持っていた木の枝を放り投げた。

     ──おんなじかおだけど、おまえのほうが、ちいさい!

     そう言われて、藍忘機はむっと不機嫌な表情になったが、初対面の子どもはそのことに気づかないまま、藍忘機の手を取った。振り払おうとする藍忘機の手をさらに強く握って、藍曦臣のもとに駆けてくる。藍忘機を藍曦臣の隣に立たせ、「うん!」と満足気に頷く。

     ──やっぱりちいさい!

     「でもね」と子どもは続ける。

     ──あーしえんよりは、おおきいよ!ほら!

     あーしえん……阿羨という一人称。その子どもが、魏無羨だった。魏無羨は藍忘機と肩を触れ合わせて隣に立つ。確かに、わずかに藍忘機の方が魏無羨より背が高かった。

     ──ほんとうだ。わんじーのほうが、おおきいね。
     ──あにうえのほうが、おおきいと……。
     ──わんじー、きみはすぐにおおきくなるんだよ。そんなかおしないで。

     魏無羨は首を傾げた。

     ──ちいさいの、だめなの?
     ──……だめ。
     ──なんで?なんで?あーしえん、ちいさくてかわいー!ってとうさんとかあさんにいわれるよ?

     それに藍忘機は唇を噛み、魏無羨の肩を強く押して、自分から遠ざけた。しかし魏無羨はそのようなことでいじける子どもではなかった。何かを耐えようとする藍忘機が気になったようで、遠ざけられたばかりだというのに近寄ってきた。

     ──どうしたの?なんでそんなかおしてるの?
     ──……。
     ──ちいさいの、そんなにいや?
     ──ちがう!

     藍忘機は首を振った。背が低いことが嫌なのではない。藍忘機は母を失って、一年も経っていなかった。父はそれで気を病み、部屋を出てくることすらない。そもそも、藍忘機は物心のついた時から両親から離され、別荘に藍曦臣と藍啓仁、少数の使用人と過ごしていた。故に、両親の存在が近くにあることが当たり前であるように言われたのが、たまらなく嫌だったのだ。封じ込めようと頑張っている寂しさが、再び顔を出し、みっともなく泣き出してしまうから。けれど幼く今よりも口下手な藍忘機は、それを上手く言えず、「ちがう!」としか言えなかった。魏無羨は困ってしまったようで、眉を八の字に下げていた。

     ──えっとね、ごめんね。

     何が悪かったのかも分からず、魏無羨は謝る。それに藍忘機は無言を返すだけなので、魏無羨の目はうるうると潤んでいく。

     ──…………あーしえんのこと、いやになった?

     藍忘機は今にも泣き出しそうな魏無羨にどういう風に接すればいいか分からず、藍曦臣を見る。弟に頼られた藍曦臣も泣き出しそうな子どもを相手にしたことなど無かったが、泣かれたくなかったので笑みを浮かべて話しかけた。

     ──あーしえん。わんじーはね、あーしえんのこと、いやになってないよ。
     ──ほんと?
     ──ほんとうだよ。わんじーは、おはなしするのがにがてなんだ。ね、わんじー。
     ──………………うん。

     藍忘機が頷くと、魏無羨は目の端に溜まっていた涙を袖で拭いた。

     ──じゃあ、あーしえんがおはなししてあげる!

     両手で藍忘機のそれを握る。

     ──あーしえんがおはなしするから、わんじーはきいてて。

     藍忘機が手をきゅっと握り返すのを、藍曦臣は意外そうに見つめた。今にして思えば、あれは藍忘機が初めて母以外に関心を持った瞬間だった。

     ──わんじーではなくて、らんじゃんと。
     ──らんじゃん?らんじゃん!

     魏無羨は笑顔で藍忘機の名を呼ぶ。

     ──らんじゃん、らんじゃん。らんじゃんに、あーしえんのおなまえおしえてあげる。
     ──うん。
     ──あーしえんのおなまえはね、うぇいいんっていうの。
     ──わかった。
     ──わかったならよんでみてよ。ほら、うぇいいんって。
     ──うぇいいん。
     ──なぁにらんじゃん。
     ──きみがよべといった。

     くふくふ笑う魏無羨が会話を続けようと口を開いた時、遠くから「阿羨!」と呼ぶ声が聞こえた。それは魏無羨にも聞こえたらしく、嬉しそうに声が聞こえた方を見た。

     ──かあさんだ!

     遠くでは、「阿羨、どこなの!?」「阿羨!阿羨!」と男女の声がする。

     ──とうさんのこえもする!

     魏無羨は藍忘機から手を離すと、声のする方へ駆け出した。一度振り返って、手を大きく振る。

     ──じゃあね、らんじゃん!……と、らんじゃんのおにーさん!

     確実に藍曦臣はおまけ扱いだ。絶対そうだった。
     駆けて行く魏無羨に、藍忘機が引き留めようと手を伸ばすも、尚も聞こえる「阿羨!」という二つの焦っている声に手を下ろした。その声も聞こえなくなり、藍忘機は母が亡くなったと理解したときと同じ、寂しい顔をした。そのあとすぐに叔父も二人を探しに来て、用事も終わったからと帰ることになった。

    「──それが、私たちの出会いだよ。そのあとに事故が起きてしまって、強い幽霊の気配を察知した叔父上とともに私も現場に向かったんだ。余談だけど、幽霊を祓って戻ってきたら、忘機がいなくて焦ったんだよ。戻ってきた忘機に聞いたら、私たちを追いかけて迷子になっていたらしいけどね」
    「そんなことが……」

     何故覚えていないんだろう。小さい藍湛は、絶対可愛かっただろうに!
     悔しい気持ちを隠すことができていない魏無羨に、藍曦臣はくすくすと笑っていた。魏無羨は気恥ずかしくなり彼から目を逸らそうとしたが、ふと思ったことがあって、彼から目を逸らすことなく口を開いた。

    「藍湛は、覚えているんですか?」
    「ああ、覚えているよ」

     その時生まれた感情は、何だったのか。
     覚えていてくれて、嬉しい。
     覚えていたのに、何も言ってくれなくて寂しい。
     覚えていたくせに、「俺のこと何故知っているのか」と尋ねた時「叔父がよく怒っていた」と返されたことが悲しい。
     あいつは覚えているのに、俺は覚えていなくて、悔しい。
     多くの感情の奥に小さく光るものがあったが、魏無羨はそれに気づけなかった。ただ、とくんと鳴った鼓動がいつもより大きいことくらいしか、気づくことができなかった。

     それから話をしながら食事を終え、店を出るとそれぞれの車へと歩いて行った。魏無羨は藍忘機と藍曦臣、そして彼らの叔父であり教師である藍啓仁の住む屋敷へと向かうことになっていたので、魏無羨の横にあるのは江家所有の車ではなく、藍家所有の車だった。白いそれは汚れが一つもなく、管理する者の潔癖さを感じることができる。江楓眠は自分と息子が乗る車の中に置いてあった紫のお守りを魏無羨に手渡すと、唇を震わせた。

    「力が及ばなくて、申し訳ない」

     魏無羨にはその言葉が自分に向けられたものではなく、今は亡き両親に向けられたものだとすぐに分かった。魏無羨に対し常に優しい江楓眠は、時折こうして魏無羨を通して両親を見る。彼は、もし死んだのならすぐに幽霊になれるだろう大きな後悔を持っていた。虞紫鳶はそれに良い顔をせず、江楓眠の後悔そのものが人の形を取っているような魏無羨に対して当たりが強かったが、魏無羨をここまで育て上げ、体質を理解し協力してくれるのだから、彼女も優しい人だった。そんな二人の血を受け継いでいるのだから、江厭離も、今江楓眠の隣に立ち、魏無羨を見る江澄も優しいのは当然かもしれない。

    「何かあったら言えよ。俺が藍家に押しかけてやる」
    「ははは!うん、分かった。……あ、そうだ江澄。俺の荷物のことなんだけど」
    「なんだ?」

     二人は、一生の別れではないけれど、しばらくはもう会えないような気持ちになりながら会話をした。
     江楓眠と藍曦臣が二言、三言を交わすと、車に乗るように言われる。先に発進したのは魏無羨も乗る藍家の車だった。一人分の隙間を空けて隣に座る藍曦臣は、紫のお守りを膝に乗せた魏無羨に、優しく微笑みかけた。

    「今日は私と忘機、そして魏公子だけしかいないから、ゆっくりするといい。今日の昼近くから出かけて行った叔父上が、明日の早朝には帰ってくるんだ」
    「叔父上……って、まさか藍先生……!?」
    「うん、叔父上は人に物を教えるのが好きでね、一族では珍しく教師になっているよ」

     魏無羨の脳裏に浮かんだのは、額に血管を浮き上がらせて、「魏無羨ーッ!」と怒鳴る長髭の男だ。年配というほど歳を取っていないのにも関わらず、顎髭を長く伸ばしているものだから老けて見えてしまう彼は、藍忘機の叔父。そして藍忘機の兄は藍曦臣。どう足掻いても導き出される答えは、藍曦臣の言う叔父上イコール藍啓仁であり、彼も藍忘機らと同じ屋根の下に住んでいるということ。つまりは、魏無羨も今後、あの天敵と言っても過言ではない藍啓仁と共に過ごすことになる。魏無羨はこの答えを否定したくて、恐る恐る藍曦臣に尋ねた。

    「藍先生も同じ家に住んでいるんですか……?」
    「そうだよ。霊が見えないと思われていた忘機のために、祓い屋に関するあれやこれやがある本邸から出て、別荘で一緒に暮らすと決めてくださった優しい人だよ」
    「へ、へぇ、そうなんですね……」

     あの藍じじいと共に過ごせと!?
     魏無羨は早くも江家へ帰りたくなった。

    「そういえば、学校から帰ってきた叔父上が酷く怒っていたよ。魏公子、補習を抜け出したんだって?」
    「げっ」

     藍曦臣は困ったような笑顔で言う。

    「あまり叔父上を困らせないで。あの人も君の将来を心配してああやっているのだから」
    「う……はい」

     この藍曦臣という男には、どうにも逆らえない。不思議と怒りや焦りといった負の感情を抑えるような雰囲気が出ている。なんとなく江厭離を思い出させる人だ。

    「そうだ、学校での忘機について聞かせてくれないかい?あまり話をしてくれないんだ」
    「同じクラスというわけでもないし、昨日まで話したことなかったんですけど、それでもいいですか?」
    「構わないよ」

     それならと、魏無羨は自他共に認める多弁さを持って、学校での藍忘機の様子を話した。とても真面目で皆に一目置かれていること、実は密かに想いを寄せる女子生徒が多くいること、責任感が強いところ、結構優しいところ、そして今日のゲームセンターでのことなど、たくさん。それらを聞いて、藍曦臣は満足そうに頷いた。

    「そうかそうか。……忘機は何故か人に冷たい人だと誤解されやすい子でね。魏公子はあの子のことをよく分かっているようで、安心したよ」
    「そうですかね?そうだったら、嬉しいです」

     笑顔を向けた魏無羨に、藍曦臣も笑顔を向ける。
    藍曦臣は何度見ても藍忘機にそっくりな顔立ちをしている。藍忘機の笑顔も、今藍曦臣から向けられているような、人を安心させるような笑顔なのだろうかという疑問が、魏無羨の脳内にぽつんと浮かぶ。
     ──藍湛の笑顔かぁ。見てみたいな。絶対綺麗なんだろうなぁ。
     ふと目を向けた窓の外は木々ばかりで、遠くには白い塀が見えた。

    「話しているとあっという間だね。そろそろ、家に着くようだ」

     木々が開け、見えたのは白い塀と白い門、その向こうには黒瓦が陽光を受けて光る、古風で立派な屋敷があった。別荘と言うには大きく、しかし本邸と言うには小さな屋敷だ。
     門の前で車が停まり、運転手がドアを開けてくれた。紫のお守りを持ちながら魏無羨と藍曦臣が下りると、門が一人でに開かれた。門番でもいるのかと辺りを見回してみるが、その様な者は一人もおらず、ようやくこの門が機械式であることに気がついた。見た目と違ってハイテクだ。

    「表ではお金持ちの名家だって聞いてたけど、本当なんだ……」
    「無駄遣いをしないのと、古くから続いているというだけだよ。貯まりすぎても良くないからと、ここに移り住んだ時に、門を自動で開くようにしたらしい」

     思わず漏れた声に、藍曦臣が笑って返した。

    「さあ行こうか」
    「はい!」

     藍曦臣に着いて行き、門の中へと入った。
     門から玄関までは石畳が敷いてあり、途中でそれは小さな橋になることもあった。庭を横断する小川を 流れる水は澄んでおり、風邪で運ばれてきた花びらや葉が、船のようにゆったりと浮かんでいた。
     とても静かな場所だと魏無羨は感じる。江家の屋敷とは違い、世から隔離されたようだが、元は別荘なのだから変ではない。ここに幼い頃から藍忘機が住んでいることに納得できる厳かで綺麗な庭を進んで行き、たどり着いた玄関から屋敷の中へと入る。今日から魏無羨の体質が落ち着くまで暮らすことになる屋敷は、どこもかしこも手入れが行き届いていた。
     屋敷に入ってすぐ、藍曦臣は立ち止まり、後ろを着いて来ていた魏無羨を振り返った。

    「一先ず、君の部屋に行こう。とは言っても、まだ家具らしい家具もないから、場所の確認だけだ。江家から届くまで、家具のある客室でゆっくりしているといい」
    「えっ、客室じゃないんですか?」
    「もちろん。最初から君はただの客ではないのだからね。それにおそらく、君は長くここに住むことになる……」

     気遣わしげに藍曦臣に見られた魏無羨は、「そうですね」と声を暗くさせた。
     そうだ、この体質が落ち着くことなど、きっと無い。それは魏無羨自身がよく分かっている。そして最期には、幽霊たちにこの身を食べられて、肉片も残らずにこの世から去るのだ。
     ──でも大丈夫。藍湛が守ってくれる。
     魏無羨はいつの間にか浅くなっていた呼吸を整えて、藍曦臣に話しかけた。そういえば藍忘機は今どうしているのだろうかと思ったためだ。

    「あの、藍宗主」
    「ああ、その呼び方はやめてくれ。他人行儀じゃないか。曦臣と呼んでくれてもいいし、君が良ければ、兄と呼んでくれても構わないよ。私は無羨と呼ぼう」
    「はい。……はい?」

     藍曦臣という男は、案外気さくな人なのかもしれない。しかし、何故「兄」?義兄弟の契りというものは、今ではもうほとんど祓い屋同士の間でしか交わさない大昔の文化の名残りであると江澄や江楓眠が言っていた。魏無羨は祓い屋である江家の養子ではあるが、祓い屋ではなく、そもそも昔に一度会ったとはいえ、そう親しくない相手と何故義兄弟になりたがるのだろうか。それとも、藍家的冗談?祓い屋的冗談?
     疑問符を浮かべる魏無羨を、藍曦臣はもう気遣わしげな目で見ることはなく、今度は微笑ましいものを見るような目で見ていた。魏無羨の疑問符は数を増した。

    「まあ、そのうちでいいよ。それじゃあ君の部屋に案内しよう。そのあとは忘機のところに行って、そしてそのあとは、あの子に客室へと案内してもらうといい」
    「は、はい」

     魏無羨が頷くのを見ると、藍曦臣は再び歩き出した。
     長い廊下を何度か曲がり、屋敷の奥へと向かう。廊下の突き当たりが見えてきた場所にある窓からは、品の良い庭が見え、そこでぴょこぴょこ跳ねる白い兎を見つけた。

    「曦臣さん」
    「なんだい?」

     呼ばれた藍曦臣は立ち止まり、少し残念そうな顔をして、魏無羨に顔を向ける。魏無羨の目が向いているものを見て、彼が何を尋ねたいのかを察したようで、「ああ」と頷いた。

    「ここって兎がいるんですか?」
    「いるよ。野兎なんだが、たまに遊びに来るんだよ」
    「へえ……」

     だから、ゲームセンターで藍忘機は兎のぬいぐるみを見ていたのだろうか。

    「さて、行こう」
    「あ、足止めちゃって、すみません」
    「構わないよ」

     歩き出すと、突き当たり近く、二人から数メートル先にあるドアが、内側から開かれた。話し声が聞こえたのだろう。中から出てきたのは、真っ直ぐな黒い髪の美男子で、今魏無羨の前にいる藍曦臣そっくりな顔立ちであるものの、人を寄せ付けない冬のような表情を浮かべる藍忘機だった。彼は冬のような表情を、驚愕の表情へと変え、魏無羨はそれが面白いのと彼に会えた嬉しさから笑顔になって、「よっ!」と手を振った。
     いつも見る規定通りの制服姿ではないものの、どこに出かけても「どこかにお呼ばれですか?」と尋ねてしまうくらいシワのない白いシャツとスラックス姿は、どうしても部屋着には見えない。
     ──これが部屋着とは、まさかあの藍忘機ともあろう人が言うわけ……いや、ありえるかもしれない……?
     藍忘機は長い足を生かして三歩で藍曦臣と魏無羨のそばに来ると、二人の顔を見比べて、魏無羨に聞いた。

    「何故君がここにいる。それに、その持っているものは……」
    「ああ、これはお守り!んで、ここにいることを話すと長く……いや、そんな長くないか?うーん、短く……でも長いかも……」
    「どちらなんだ」
    「あはは!もう、怖い顔しないでよ藍二哥哥」

     そう言って案外もちもちとしている白い頬をつまめば、藍忘機は魏無羨の手首を握って、頬から離れさせる。

    「兄上」

     魏無羨に聞くより兄に聞いた方が早いと思ったのか、藍曦臣へと目線を移した。

    「実はね、無羨が今日からここに住むことになったんだ」
    「……魏嬰が?」

     藍忘機の目線が、また魏無羨に向き、魏無羨は頷いた。

    「これで俺を守りやすくなったな!」
    「魏嬰、それは──」
    「大丈夫。事情は聞いているよ、忘機。だから隠さなくていい。それに、私も君に隠していたことがある。それを話さなくてはならないから……忘機、君の部屋に入ってもいいかい?」

     藍忘機は目線を移ろわせた後、こくりと小さく頷いた。
     部屋主の許可を得たので、藍曦臣と魏無羨は藍忘機の部屋に入る。白で統一された、余分なものは何も無い寂しい部屋だと思いながら魏無羨は部屋を見回して、ベッドの枕元に置かれた黒いものに気がついた。綺麗な白紙に落ちてしまった墨のように異質な存在であるのに、魏無羨は口の端がむずむずし、目元が緩むのを防ぐことはできなかった。来客を想定していなかったのか、座れる場所を作るべく座布団を持ってこようとする藍忘機に袖を引いて、魏無羨は言った。

    「藍湛藍湛、めちゃくちゃ大事にしてくれてるじゃないか、今日俺が取った兎!今夜から一緒に寝る予定なの?」
    「……ふん!」
    「え、あ、ちょっ、藍湛!?」

     藍忘機は魏無羨の手を自分の手で外させると、部屋を出て行ってしまった。

    「怒らせちゃったのかな……」
    「いや、あれは照れているんだよ」

     藍忘機の部屋をその中心でにこにこと見回していた藍曦臣は、魏無羨に言う。

    「忘機は照れると耳だけが赤くなるんだ。次からは耳で判断するといい」
    「耳だけ!?器用ですね……さすが藍湛。……ん?でもなんでさっきのあれで照れるんだ?」
    「ふふふ」

     藍曦臣の笑い声の意味はどういった意味を持つのか分からなかったが、藍忘機に関する情報を一つ手に入れられて満足した魏無羨は、藍忘機が戻るまで彼のベッドの端に腰掛けることにした。藍曦臣は立ったままだ。

    「おー、ふかふか。お前も良かったなぁ、今夜からここで寝れて」

     座る横に紫のお守りを置いて、枕元に置かれた黒兎のぬいぐるみにそう話しかける。もちろん答えは返ってこないが、「どうだ!」と得意気にしているように見えて、魏無羨はくすくすと笑った。黒兎を持ち上げて、ふわふわ具合を確かめる。取った時と変わらず、素晴らしいふわふわだ。

    「あ、曦臣さんも触ります?これ、すっごいふわふわなんですよ!」

     「はい!」と手渡そうとすると、藍曦臣に断られた。

    「忘機のものだから、触れないよ」
    「はあ」

     と言いつつも、藍曦臣は藍忘機の本を手に取り、ページをパラパラと捲り出した。魏無羨には、彼の言動が矛盾しているような気がした。
     魏無羨が黒兎のぬいぐるみをつついたり、撫でたりしていると、ようやく藍忘機が戻ってきた。彼の手には藍色の座布団が二つあった。魏無羨は黒兎の前足の片方を持って、藍忘機に手を振ってみせた。

    「おかえり藍湛!」
    「…………」

     ちらりと藍忘機の耳を見てみる。そして魏無羨は目を見開いた。なんと、彼の白い耳が赤くなっていたのだ!
    思わず藍曦臣を見ると、藍曦臣に頷かれた。また藍忘機を見て、魏無羨はにんまりと笑った。

    「藍湛〜、固まってどうしたー?あ、それ俺たちの座布団だよな?座っていーい?」
    「……そのままそこに座っていればいい」
    「っ!?」

     ──友人を無下にしやがったな!?あー分かったよ、だったらこっちは自由無碍に振舞ってやる!
     魏無羨は黒兎の顔を自分に向けて持ち上げると、「はあーあ」とわざとらしくため息を吐いた。

    「酷いよなぁ、藍二哥哥は俺に座布団譲ってくれないんだってさ!だから俺はお前と一緒にここで寝ることにするよ!いいよな?お、いいのか!うんうん、さすが俺が取ってあげた兎ちゃんだなぁ!」

     そろりと見た藍忘機は、藍曦臣に座布団を勧めているところだった。なんということだ、丸っきりの無視である!
     藍曦臣と藍忘機が座布団に座り、藍曦臣が「さて」と口を開く。魏無羨は不貞腐れたように頬を膨らませたが、これから話されることは大変真面目なことなので、ベッドの端で居住まいを正した。

    「忘機、実は我が家は──」

     そして話された話に、藍曦臣は魏無羨がここに来た時と同じくらい驚いた様子を見せた。しかしそれを最終的には受け入れ、魏無羨を守りながら祓い屋としての修行をしていくことになった。祓い屋として陽気を自在に操るには、精神の統一が重要だ。魏無羨が聞いた噂によれば、藍忘機は弓道や剣道に通じているらしいので、丸っきり慣れぬことから始めるわけではないはずだ。そのことを魏無羨が言えば、藍曦臣が肯定してくれた。

    「そうだね。だから、ある程度の基礎はできているはず。無羨から聞いた話からしても、そうだと思う」
    「それで疑問なんだけど、なんで藍湛は弓道とかやってたんですか?藍湛がやりたかったの?」

     後半は藍忘機に尋ねた。藍忘機には無言を返され、魏無羨は「どこまでこいつは俺を無下にするんだ!?」と思う。

    「私と叔父上が諦められなかったからだね。忘機が後天的にも霊を見ることができるようになるのでは、と」
    「なるほど」
    「無羨は明日明後日と補習があるんだろう?無羨が補習の時は、忘機も着いていくように。それが終わったら真っ直ぐ帰っておいで。忘機には祓い屋としての知識を教えようね。無羨にも教えようか?」

     魏無羨は首を振った。

    「俺が教わっても、使うことはできないから」
    「知識が無駄になることは決してない」

     藍忘機が久しぶりに口を開いたかと思えば、そう言った。

    「昨日、君が教えてくれなければ、私はあの少女を祓うことはできなかった」
    「確かにそうだけど」
    「基礎知識と言っていた。あれは君が昔に教わったことだろう」
    「うん、まあ」
    「何かしらの形で知識を使うことはあるはずだ」

     何故かしつこい藍忘機に、魏無羨は根を上げる。

    「……あー、もう、分かったよ!つまり、藍湛は俺と一緒に曦臣さんの授業を受けたいってことだろ?」

     藍忘機は何も返さなかったが、耳がまた赤くなっているのを見て、魏無羨は口角を緩めた。
     つい昨日、藍忘機の目の動きから案外分かりやすい男であると思ったが、目よりも耳の方が分かりやすいかもしれない。なんとからかいがいがある奴だろう!

    「分かった。俺も曦臣さんの授業を受けるよ!お前と俺、隣同士でな!」
    「……うん」

     優しそうな藍曦臣の授業を、藍忘機と隣合って受ける。それに、魏無羨はもともと勉強することが苦ではない。興味があることなら、もっともっとと貪欲求めるところもある。魏無羨に陽気が扱えないと分かって、祓い屋の勉強からは遠ざけられてしまったが、実は興味があったのだ。明日からのことがとても楽しみになっている魏無羨の耳に、藍曦臣の苦笑が入る。

    「ふふふ、私も教えたいのだけどね」

     彼の言葉に、魏無羨は嫌な予感がする。

    「教えるのが好きな人で、それを表の生業としている人がいるだろう?」

     皆まで言わないが、こういうことだろう。
     授業は全て、魏無羨の天敵──藍啓仁が受け持つと!

    「俺、やっぱり授業受けるのはやめようかなぁ、なんて──」
    「受けると言った」
    「学校から帰ってきても藍じじいの授業を受けるなんて拷問もいいところだ!」
    「魏嬰」
    「嫌だ!だって藍じじい、俺のこと目の敵してるもん!絶対そう!」
    「君の態度が悪いからだ。改めれば叔父上だって、厳しくなさらない」
    「どうせ、俺の態度は悪いですよ!」

     魏無羨は黒兎のぬいぐるみを抱きしめたまま、顔を背けた。助けを求めるように、藍忘機は藍曦臣を見る。可愛い弟の頼みだと引き受けて、藍曦臣は魏無羨に声をかけた。

    「陽気を多く持っていなくとも、ある程度霊から身を守るのに必要な護符の作り方や結界に関しては、我が一族では叔父上が一番なんだ。交流のある祓い屋の方々、しかも次期宗主級の方に教えを乞われるほどね。無羨、君も自分の身は自分である程度守りたいだろう?」
    「うっ……」

     魏無羨は頭の中に天秤を出した。右手には「藍じじいの授業」、左手には「護符と結界に関する知識」を置き、ぐらぐらと揺れる様子を見る。そして、天秤は左に傾いた。

    「分かりましたよ!受けてやりますよ!ええ、ええ、受けてやりますとも!この俺が、そっちの分野でも優秀だってことを、藍じじいにも見せつけてやる!」

     片方の拳を天井に向けながら、魏無羨は決意した。
     護符や結界に関しては、当然江家では教えてもらえなかった。祓い屋家業から魏無羨を遠ざけたかったこともあるだろうが、おそらく、それに関する知識が藍家より少なかったのだろう。昔はよく江澄が「父上は今日、こんなことを教えてくれた」と嬉しそうに報告してくれていた。その中に、「大昔、江家は滅亡しかけたんだって。その時に失われた資料も多くあるらしい」というものがあった。きっとそれのせいだ。
     ──自分で自分の身を守れるようになったら、誰にも迷惑かけなくて済む。一人で身軽に色んなところに行ける!
     そのために、魏無羨は学ぶのだ。
     「やってやるぞー!」と言う魏無羨は、藍忘機が自分を見ていることに気がついていない。今後二人がどのような関係になろうとも、今の藍曦臣がすることはただ一つ。
     ──頑張ってね、忘機。
     忘機が望む結果に近づけるように、協力するのみだ。

    「さて、話も終わったことだし、そろそろ無羨の部屋を案内しようか。忘機もおいで」

     立ち上がった藍曦臣に、雛鳥よろしく紫のお守りを持って魏無羨と藍忘機が着いてくる。藍忘機の部屋を出て向かい側には、もう一つドアがあった。藍忘機の部屋がある深窓には、彼の部屋以外には一つだけしか部屋が無かった。本当ならば別荘に来た藍兄弟の母が使うはずだった部屋なのだが、彼女は一度としてここに来ることはなく、今では便宜上物置となっている、家具も何も無い部屋だ。その説明を受けて、魏無羨は「いいんですか?」と聞いた。

    「お母さんの部屋なんでしょ?取っておきたいんじゃ……」
    「使わない方が、母は嫌がるでしょう。有るものを使わないのも、私や忘機、それに叔父上も好きではない」
    「……ってお兄さんは言ってるけど、藍湛は?いいの?」

     藍忘機はただ一言。

    「構わない」

     と返すだけだった。

    「ってことは、藍湛の部屋と凄い近いんだな……」
    「嫌か?」
    「まさか!でもお前が嫌なら言えよ」

     次の返事は何も無かった。

    「家具が届くまでは、客室だけどね。さて、私は少しだけ仕事が残っているから、ここで失礼するよ。忘機、客室に案内してあげなさい」
    「はい」

     短い返事を聞き終えると、藍曦臣は二人に背を向けて去って行った。彼の姿が曲がり角の向こうに消えてなくなると、魏無羨は藍忘機の耳を見た。白い。どこまでも白い。むくむくと湧いてきた悪戯心に従って、魏無羨は紫のお守りを片手に持ったまま、部屋の中で抱いていた黒兎のぬいぐるみの代わりに藍忘機の腕に抱きついた。

    「魏嬰っ?」

     驚いて魏無羨を見る藍忘機の耳は……赤い!
     魏無羨は素知らぬ顔で藍忘機に言う。

    「ほらほら、案内してくれよ、藍二哥哥ー?それとも、俺に案内する部屋はないって?悲しいよ、羨羨泣いちゃう……」

     眉根を寄せた藍忘機の心の中がどうなっているのか気になって仕方がない。まったく、どれだけ人に触れられることに慣れていないのだろうか。
     藍忘機は深く息を吐くと、「こっちだ」と言って、魏無羨を振り払うことなく歩き出した。歩きにくくないのだろうか。しかし、振り払わないのなら魏無羨は藍忘機にくっつくのみだ。自由無碍に振る舞うと、この家で藍啓仁の授業を受けると決意する前に決めていたのだから。
     歩きながら、魏無羨はふと、今抱きしめている藍忘機の腕を見る。細く見えて、案外太い腕だ。とても羨ましい。魏無羨だって鍛えてはいるが、これほど太くない。藍忘機は着痩せするタイプだったようで、よくよく見てみれば、体も厚く肩幅もそれなりにある。だがまだ成長途中の十代男子らしさも残っている。これで成長したら、魏無羨をすっぽりと覆うことができそうではないか。もちろん魏無羨も成長途中だ、まだ諦めてはいけないと己に言いつつも、何故か藍忘機よりも体が大きくなることはないような気がする。
     「むぅ」と唇を尖らせて、床を睨む魏無羨を、藍忘機がじっと見る。距離が近いため感じることができる彼の香りと、己の腕から伝わる温もり、そして回された腕が思っていたよりも細いことに、心臓がどくんどくんと大きく動いていた。尖った唇をつついてみたい──そんな思いが思考を埋めつくしていく。彼が抱きついていない方の手を上げかけた時、運が良いのか悪いのか、客室のある場所へと着いてしまった。そこはこの屋敷の中で藍忘機の部屋と正反対にある場所で、距離もある。

    「ここだ」
    「おぉ……この部屋のどこでもいいのか?」

     一直線に伸びた廊下の左右には、突き当たりまでドアが二つずつ並んでいる。ドアの間隔から、藍忘機の部屋より一回り狭いくらいだろうと魏無羨は推測した。

    「おそらく兄上が掃除をするように指示しているはずだ」
    「ふんふん、じゃあ一部屋ずつ見ていくか!」

     近くの部屋から見て行った結果、最初の部屋だけがカーテンが開かれ、テーブルの上に茶器と少ないお菓子があったことから、その部屋が魏無羨のために用意されたものであると分かった。
     部屋は藍忘機の部屋と同じく白い壁と床だが、置かれた家具は使われた木材そのままの色をしており、敷かれたカーペットとカーテンもそれに合わせて焦げ茶色だ。木の香りが気持ち良い。

    「今日中に荷物が運ばれるって話だけど、この部屋のままでもいいなあ」
    「君の部屋は決められている」
    「分かってるよ!決められたこと以外許せないのかお前は」
    「……はぁ」
    「おい、なんでため息吐くんだよ!藍湛、藍忘機、藍二哥哥!」

     返事はない。魏無羨は藍忘機の腕を離して、ベッドに飛び込んだ。しっかり受け止めてはくれるが、藍忘機のベッドに比べると硬く感じる。紫のお守りを枕元に置いて、ごろんと寝返りを打ち、仰向けになった。

    「飛び込むのはいけない」
    「いいだろ別に〜」

     昨日今日と色んなことがあり過ぎた。一度ベッドに寝転がれば、すぐに睡魔が来る。魏無羨は欠伸をした後、ベッドに近寄った藍忘機を見上げた。下から見上げる藍忘機も、実に顔が良い。

    「今度は何だ?」
    「そのまま寝ては、服が皺になる。それに、髪も縛ったままだ」

     会食のためにスーツを着ていたことを思い出し、魏無羨は上半身を起こした。赤い髪紐を解くと、紫のお守りの横に畳んで置いた。柔らかな髪が落ちると、魏無羨はうなじがくすぐったくて、髪をぱさりと後ろに払った。次にジャケットを脱ごうとして、また悪戯心が湧き上がる。

    「ねぇ、藍二哥哥」
    「何だ」
    「脱がせて!」

     藍忘機に向かって両手を広げると、彼は鋭く息を飲んで、一歩後ろに下がった。

    「何で離れるんだよ」
    「君は……っ」
    「なぁに?俺が何だって?」

     くすくす笑えば、藍忘機は揶揄われたと気づいたのか、耳を赤く染めたまま部屋を出て行ってしまった。ぽつんと一人残され、魏無羨は傾く陽光が差し込む部屋の中で首を傾げた。

    「……揶揄い過ぎたか?抱きつくよりは軽い冗談だと思うんだけどなぁ」

     ジャケットを脱がすくらいなのに……。
     自分でジャケットを脱ぎ、備え付けられてあるクローゼットのハンガーに掛ける。少し考えてから、ベルトを取り、スラックスも脱いで、シャツ一枚でもう一度ベッドに飛び込む。注意する言葉が無く、何となく寂しい。夏用の薄い掛け布団の下に入り込んで、目を瞑った。安らかな暗闇が視界を埋め尽くす。何かあれば、藍忘機が起こしに来るだろう。それまで安心して眠ればいい。
     五分と経たない内に、すぅすぅと健やかな寝息が聞こえ始めた。

     魏無羨が起きたのは、空腹のせいだった。くわぁと欠伸をしてから起き上がると、客室は暗くなっており、窓を見れば、夜空が夕暮れを山の向こうに押し潰す手前だった。客室に取り付けられた時計の秒針が、かち、かち、かちと、音を立てて何かを急かすように動いている。静かな空間にはそれがよく響いて、暗さも相まってか、背後に誰かが立っているような不気味さを感じる。もちろん祓い屋の一族の別荘であるここに幽霊などいるはずもなく、魏無羨はベッドの上で上半身を起こしているだけなので、背後に誰かが立っているようなことはない。こういった不気味さや恐怖というものは、基本的にはただの刷り込みに過ぎない。夜は暗い、暗いと周りがよく見えない、よく見えないから危険、危険とは恐ろしいもの。それが骨の髄まで染み付いてしまっているだけだ。
     魏無羨は寝起きでぼうっとしたまま、ベッドから下りた。せめてスラックスぐらいは履かねばと、ゆっくりと動き出した脳で思い、クローゼットへと近づく。その時、ドアがノックされた。

    「はーい」

     声を伸ばして答えると、ぎぃと音を立ててドアは開かれた。開いたのは藍忘機で、彼は部屋が暗いことに若干眉を顰めたあと、ドア横にあるスイッチで電気をつけた。眩しい光が一瞬で部屋を明るくし、魏無羨の視力を一時的に奪う。それは藍忘機も同じで、二人は瞬きをしたあと、お互いに目を向けた。ばちりと合った視線だったが、藍忘機はそろそろと目を下げ、「君!」と口を開き、部屋の中に入って後ろ手にドアを閉めた。近づいてきた藍忘機に、ようやく寝惚けた脳が正常を取り戻した魏無羨は「なんだよ」と返した。三歩で手が届くという距離で立ち止まると、藍忘機は視線を微妙に逸らしながら言った。

    「服はどうした」
    「着てるだろ」
    「下はっ」
    「寝る前に脱いだけど?皺になるって言ったのは、藍湛じゃないか……あ、もしかして」

     魏無羨は藍忘機に見せつけるように、自分の太ももをつぅっと人差し指で撫でた。

    「俺の生足見て、変な気分になっちゃった?」
    「ないッ!」

     食い気味に否定の言葉を発し、藍忘機は踵を返した。慌てて魏無羨はその手を掴んで止める。

    「おいおい、待てよ藍湛、冗談だって。冗談を真に受けるなよ。で、何か用事があって来たんだろ?どうした?」

     藍忘機は顔だけ魏無羨に向けた。

    「江家から、君の荷物と家具が届いた」
    「おっ、ついにか」
    「家具の方は、使用人が既に置いてしまったが大丈夫か」
    「全然大丈夫だよ。服とかは、そのまんま?」
    「クローゼットに入れた。他は触っていない。部屋に入れただけ」
    「そっか。使用人さんたちにありがとうって言っておいてくれよ」
    「うん」
    「じゃあ今から俺の部屋に移動ってこと?」
    「そう」
    「分かった!」

     魏無羨はスラックスを穿き、ベルトを締めた。髪を髪紐で縛り、ジャケットと紫のお守りを持つと、藍忘機と共に自分の部屋へと向かった。
     藍忘機の部屋の向かい側にあるドアを開け電気をつけると、江家にある魏無羨の部屋をそのまま持ってきたような光景が広がっていた。さすがに窓の位置も壁紙も違うが、それ以外はほとんど一緒で、魏無羨は一度ドアを閉めてまたもう一度開けるという現実逃避をするほど驚いた。
     漫画や雑誌がずらりと並んだ本棚に、勉強机とは別に置いてある黒いテーブル、床に敷かれた同色のカーペット、趣味で吹く笛までちゃんとある。ブランケットが畳まれ置かれたベッドの横には、通学用のリュックがあった。

    「俺の部屋そのまんまじゃん!お前んとこの使用人さん凄いな!」
    「君の義父に、部屋の写真を送られたらしい」
    「それでもちゃんと再現するのは凄いな!ほら、藍湛も入れよ!」

     魏無羨は机の上に持っていたものを置くと、リュックを開けた。お目当てのものは開けてすぐに見つかり、魏無羨はそれを取ると、ベッドの上、枕元に乗せた。
     部屋に入って見回していた藍忘機は、それを見て目を瞬かせる。

    「それ……」
    「お前と置く場所もおそろいにしてみた!」

     そう言って、ドヤ!と得意げな顔を見せる魏無羨に、藍忘機は「……そうか」と返した。
     魏無羨が枕元に置いたのは、今日クレーンゲームで取った白兎のぬいぐるみだ。レストランで別れる際、江澄に何がなんでもこれは荷物の中に入れて欲しいと話をしていたのだ。ちゃんと入れてくれていたようで、「あいつも姉さんに似て、優しいやつだなぁ」と魏無羨の口角は上がる。

    「おい藍湛、突っ立っていないで、座れよ……あー、でも座る場所……よし、お前に俺が毎日大事に座ってたこの椅子を譲ってやろう!」

     勉強机とセットで置かれた、肘掛付きの赤い回転椅子を押して、ベッドの近くに持ってくると、魏無羨はぽすんとベッドの端に座った。藍忘機は魏無羨と回転椅子を交互に見たあと、黙って回転椅子に腰を下ろした。
     魏無羨は藍忘機を見て、「実はさ」と口を開いた。

    「お前のお兄さんに聞いたんだけど、俺たち、小さい頃会ったことあるんだってな」

     藍忘機はそれを頷いて肯定した。

    「お前は覚えてたんだろ?なら、俺に会った時に言ってくれれば良かったのに」
    「君は覚えていないようだったし、それに……」

     藍忘機は途中で口を閉じてしまった。言いづらいことでもあるのだろうか。

    「それに、何?」

     促して、ようやく口を開いてくれる。

    「話しかけて、嫌なことを思い出させる可能性があると思った」
    「嫌なこと?」
    「そうだ。君と私が出会ったその日だろう。……事故があったのは」

     魏無羨は「そういえばそうだった」と思い出した。確かに事故で両親を失い、それが悲しくてつらい日々もあった。それでも今は幸せで、両親の不在を悲しく思う日はあるものの、それが理由で心を病むようなこともない。事故にあった本人がそうであるのに、他の誰でもない藍忘機が気遣ってくれて、魏無羨は嬉しく思った。

    「心配してくれてありがとう!でも、今は全然大丈夫だよ。幸せだから。江家に引き取られて、ここまで育ててもらって、それに藍湛と友達になれたからさ!」
    「友達……?」
    「そう!一緒にゲームセンターに行ったし、あ、ほらほら、その時に取ったぬいぐるみは、色違いだけどおそろいだろ?さっき言ったように、置く場所もおそろいだし!」

     枕元に置いていた白兎のぬいぐるみを持ち上げる。

    「俺とお前は友達!それとも、お前は友達だと思ってくれていなかったのかな……?」

     眉を下げ、瞬きを多くして藍忘機を見る。さらに両手で持った白兎のぬいぐるみで口もとを隠せば、どうだ!江厭離がどうしても甘やかしてしまう羨羨三歳の完成である。藍忘機の喉仏が震えたように見えたのは幻覚だろうか。ちらりと彼の耳を見てみれば、なんと正直なことだろうか、本日何度見たのか分からない紅葉色だ。
     ──本当に今まで友達いなかったんだな……。
     同情するつもりは無かったのに、同情してしまう。
     藍忘機は首を横にゆるゆると振り、耳を赤くしたまま答えた。

    「君と私は……友達、だ」
    「っ、だよな!」

     友達。藍忘機がそう言った時、やけに熱が篭っているように感じ、魏無羨は一瞬言葉を詰まらせた。藍忘機はそれに対し何も言わないが、魏無羨は妙に気まずく感じ、わざとらしい明るい声を上げた。

    「ああ、そうだ!俺、着替えないと!ずっとこのまま過ごすなんて、さすがに無理だ!」

     ぬいぐるみを元の場所に戻すと、勢いをつけて立ち上がり、クローゼットへ向かった。すると、藍忘機も立ち上がる。

    「今ここで着替えるのか?」

     彼に背を向けたまま、魏無羨は答える。

    「当然だろ?ここ以外のどこで着替えるんだよ」

     クローゼットを開けると、ハンガーに乱れなくかけられた服が綺麗に揃っていた。お気に入りのジーンズとオーバーサイズのパーカーを見つけ、それに着替えることにする。あの藍忘機がどう見ても部屋着に見えない服を着ているということは、噂通りに校則並みに多くて厳しい規律がこの家にもあり、そこには服装に関するものもあるはずだ。なので魏無羨は服装のことで初日から指摘されないように部屋着ではない方がいいだろうと考えたのだ。
     ──それに、ちゃんと服を着た綺麗なやつの隣に立つのに、着古した部屋着はちょっとな……。
     さて、着替えるためにはまず脱がなくてはならない。ベルトを取り、スラックスに手をかけた時、パン!と何かを叩いたような乾いた音が聞こえ、魏無羨の肩が跳ねる。

    「何だ!?」

     振り向くと、藍忘機が椅子から立ち上がった状態で、魏無羨から顔を逸らし、天井を見上げていた。

    「どうしたんだよ、藍湛」
    「……なんでもない」
    「いや、なんでもなくないだろ。さっきの音は何だ?……ってお前、頬っぺた真っ赤じゃないか!」

     耳以外赤くなることは無さそうだった藍忘機の片頬が赤いことに気が付き、魏無羨は思わず駆け寄り、彼の頬に手を当てた。じんじんとした熱さが手のひらから伝わる。

    「さっきの音、もしかして、自分で自分をひっぱたいたのか?」
    「……」

     肯定の意を表す沈黙だ。

    「蚊でも出たのか?」
    「……」

     ならばこの沈黙も肯定の意かもしれないと魏無羨は思った。

    「自分で叩いて、痛すぎて天井を仰いでたのか?はははっ」
    「……」

     これも肯定の意だと魏無羨は捉えた。
     一人で納得して着替えに戻り、それからは何かを叩く音がすることもなく、魏無羨は無事着替えを終えた。脱いだスーツは、いつもならばクリーニングに出すのだが、藍家に頼ってもいいのだろうか。脱いだものを畳み、とりあえず机の上に置いておくことにする。そこで、ジャケットのポケットの中から物を取り出すことを忘れていたことに気づき、慌ててそれらを取り出し机の上に置いた。普段は紫のお守りの中に入れている護符が数枚と、両親の形見となった、手のひらに収まる一般的な大きさの赤いお守り。護符はいつものように紫のお守りの中に戻し、赤いお守りは今穿いているジーンズのポケットに入れようと再び手に取る。それに横から伸びてきた手が触れた。

    「藍湛?」

     いつの間にか横には藍忘機が立っていた。それもかなり距離が近く、少し動けば肩が触れ合いそうだ。人との距離が近い魏無羨は特に気にするまでもなく、藍忘機に話しかけた。

    「どうした?これが気になるか?」
    「これは、あの時の寺院のものか」
    「そのはずだよ。あ、もしかして、ずっと持ってるのが変だとか?確かにもう効果は薄まってるだろうけど、これは両親の形見みたいなもんだから、絶対返納しないからな!」

     藍忘機は魏無羨の言葉に返事をせず、黙って赤いお守りを見ていたと思うと、「貸して」と言った。

    「いいけど、さすがに一日中貸すことはできないぞ?形見なんだから!」
    「うん」

     赤いお守りを手渡されると、藍忘機はやはり黙ってそれを見て、少し経つと魏無羨に返した。

    「お守りに何かあったか?」
    「……。君が危険な目に会わないよう祈りを込めた」

     間を置いて、真面目な顔で藍忘機はそう言った。他人に言われたら腹を抱えて笑うところだったが、相手が藍忘機というだけで魏無羨は笑うことができず、心臓を擽られたような妙な気分になっていた。しかし不快感は一切無い。返してもらった赤いお守りに藍忘機の温もりが残っていて、魏無羨はその温もりが消えないように、両手で包み込んだ。

    「藍湛にそう祈られたら、本当に危ない目に会わなそうだな」

     藍忘機が触れていた赤いお守りを持つことに何故か照れて、己の心を誤魔化すように口を動かした。「むしろ良いことばかり起きそう」だの「お前のファンの子に羨ましがられちゃうな」だのと言い、最後はこの一言を藍忘機に渡した。

    「ありがとう、藍湛」

     藍忘機は表情を変えぬまま返事をした。

    「君を守ると約束した。だから、ありがとうはいらない」
    「俺の感謝の気持ち、受け取れよ」
    「いい」

     魏無羨は頬を膨らませた。
     感謝の言葉を受け取らないとも逆に非礼ではないか?それなのに、礼儀と決まりごと第一の藍忘機が断わるとは。いっそ意地を張っているような藍忘機の感謝の言葉の受け取り拒否に、魏無羨の頬は膨らむばかりである。

    「なんでだよ。嬉しかったから、ありがとう。それが嫌って、お前どんだけ──」
    「嫌ではない!」
    「お、おう」

     藍忘機の勢いに、魏無羨は狼狽えるが、言質を取ったのならそれを使わない手は、いや、口はない。

    「嫌じゃないなら受け取れよ。じゃなきゃ、俺は悲しいよ」
    「違う。私は……」

     もう一度「私は……」と零し、藍忘機は体の横に下ろしていた手をギュッと握りしめる。そして深呼吸をすると、彼は魏無羨の目を見る。

    「私は──!」

     その先を言おうとした瞬間、コンコンコンと三回ノックの音がした。

    「忘機、無羨、この部屋にいるね?そろそろ夕餉にしようかと思うのだけど」

     ドアの向こうからは、春の日差しのように暖かな藍曦臣の声がした。声を聞くだけでも、彼が微笑んでいるのが手に取るように分かる。
     藍忘機はドアの方を振り返り、今から行くと返事をした。

    「藍湛、さっきなんて言おうとしてたの?」

     ドアの方に歩いていく藍忘機の背中に、魏無羨は尋ねる。しかし返ってきたのは沈黙で、魏無羨は再び頬を膨らませると、藍忘機に続いて部屋を出た。
     廊下で待っていた藍曦臣を先頭に歩いて行く。部屋のドアが見えなくなった頃には、魏無羨はすっかり藍忘機が何かを言おうとしていたことを忘れ、どんな料理が出るのだろうかと考えていた。
     魏無羨は辛いものが大好きだ。江家の人々は皆辛いものが好きだが、その彼らにも──というよりは、言葉がいつも厳しい虞紫鳶と江澄に──「お前の言う“辛い”は、痛いの間違いでしょう」「お前の作った料理のおかげで、辛いものにも不味いものがあると初めて知った」と言われるくらいには超辛党だ。さすがに江家ほど辛いものは出ないだろうが、「一品でも辛いものがあればいいな」と思っていた。
     小さな食堂に入ると、そのとても静かな空間では、すでにテーブルの上に料理が並べられていた。
     江家ではテレビをつけて、家族で食卓を囲んで会話をしながら食事をするのだが、なんとここにはテレビがない。料理が並べられたテーブルと、それぞれが座る椅子しかなかった。そしてどの皿にも辛さの象徴たる赤がかなく、香辛料の気配もない。どれも緑や白の野菜だらけで、魏無羨は自分の目がおかしくなったかと思い、目を擦った。けれどそれで目の前の景色が変わるわけもなく、藍忘機に「ここに座って」と言われた藍忘機の隣の椅子に座って、魏無羨はぽつりと零した。

    「藍家はみんな兎なの……?」

     藍曦臣が小さく吹き出す。彼の笑いが収まってから食事が始まった。
     料理を口に含むと、何の味も広がらず、自分は一体何を口に入れてしまったのだろうかと思ってしまう。仙人が食べるという霞か、それとも目に見えるタイプの虚無か。だが噛んでいくと、じんわりと苦味と仄かな甘みが舌に広がった。なんとも微妙な味である。味付けらしい味付けもない野菜とはこんなにも味気ないものなのか。
     藍家の決まりに従い食事中に会話もなく、食器と箸が触れ合う僅かな音くらいしか聞こえない。
     ──せめて会話があれば、もう少し味も変わる……いや、そんなことあるわけないか。でも気分はもう少しマシになるだろ!なんだよこれ、通夜か?通夜なのか?暗い、不味い、つまらない!
     辛いものと賑やかなものが好きで面白いこと大歓迎の魏無羨にとっては爪を剥がすよりも酷い拷問である夕餉を終えて、部屋に戻ることになった。もちろん、向かい部屋の藍忘機とともにである。藍曦臣も、そして明日の朝に帰ってくるという藍啓仁も二人と部屋が近いのだが、藍曦臣はすることがあると言って、先に二人で食堂を出た。口内では微妙な苦味と甘味が舌の領土争いをしていて、魏無羨の顔は酷いことになっていた。

    「魏嬰」
    「なんだよ」

     つい返す言葉もぶっきらぼうなものとなるが、藍忘機は気にする様子も見せずに話した。

    「口に合わなかっただろうか」
    「…………お前の家って、香辛料禁止されてたりするの?」
    「ない。……でも、そうか」
    「うん……」

     藍忘機は魏無羨の言葉で百を理解したようだ──「お前の家の料理は香辛料が無くて不味い!」と言われているということを。未だ顔が変わらぬ魏無羨に、藍忘機は提案した。

    「口直しに茶を飲まないか」
    「お茶?お前が淹れるの?」
    「うん。部屋に茶器があるから、私の部屋でということになるが」

     途端に魏無羨は狭くなっていた眉間を広げ、鋭くなっていた目を緩ませ、いつ吐きそうになっても堪えられるようにと噛んでいた唇を開けた。
     藍忘機が淹れたお茶を部屋で飲むかと誘ってくれる幸運にありつけた者は、今までいたのだろうか?いたのならば、きっと気持ちが天に昇り、なかなか戻って来ず、足もとがふわふわとして落ち着かなかったはずだ。

    「飲む飲む!絶対飲むよ!俺は嬉しいよ藍二哥哥!お前は本当に最高だ!」

     魏無羨は藍忘機の肩に腕を回した。

    「そうと決まればはやくお前の部屋に行こう!」
    「うん。でも魏嬰、大声と走るのは禁止」
    「ちぇっ。分かったよ」

     唇を尖らせた魏無羨を藍忘機はじっと見ていたが、魏無羨は気づかず。足もとがふわふわとしているまま、あっという間に着いた藍忘機の部屋に入って行くのだった。

    「魏嬰、魏嬰」
    「あと五分……いや十分……一時間……二十四時間…………」
    「それはダメだ」

     魏無羨の朝は、幼なじみ兼義弟の江澄の怒声で始まる……はずが、恐ろしいほど優しい声で始まった。
     ──江澄め、作戦を変えてきたか?

    「起きて、魏嬰」
    「ん……もう少し……」

     寝返りを打って、声のする方へ背中を向ける。朝を拒むように枕に顔をぐりぐりと押し付け、再び夢の中に戻ろうとすると、頬にかかる長い髪が、声と同じく優しい手に払われた。

    「魏嬰」

     ──待てよ、江澄じゃない……というか、江澄なわけがない。だって俺、昨日……。

    「今日も補習だろう」

     補習、補習、補習……。

    「補習!?」

     魏無羨が慌てて飛び起きると、魏無羨に伸びていた長い腕がさっと戻っていった。しかしそれを気にしている余裕はないのだ。

    「やばいやばい、補習に遅れる!藍じじいに何て言われるか!!」

     魏無羨は昨日から藍忘機の家に住むことになったのだ。そしてそこには藍忘機の兄藍曦臣だけでなく、叔父の藍啓仁も住んでいる。昨日は不在だったが、今日の早朝に戻って来るという話だった。もしその藍啓仁の気に触る行動をしてみれば、ここは彼の家であるのだ……世にも恐ろしいことになるに違いない。

    「叔父上なら、先ほど学校に向かわれたばかりだ」
    「ああああ!」
    「魏嬰」
    「ハイハイ分かってるよ、黙れ、だろ?知ってる!」
    「いや、そうではなく、もう少し声を抑えてと……──!?」

     藍忘機に言葉を返すと魏無羨はベッドから転がり落ちた。床に着いた膝は何かに包まれていることはなく、魏無羨を後ろから見ている藍忘機が膝から上へと視線をあげれば、男にしては丸い臀部が何かに隠されることなく見えるはずだ。上半身を隠す長い髪がさらりと落ちれば、白い背中が見えてしまうだろう。

    「君、パジャマは……!」
    「夏にパジャマなんか着て寝るかよ!」

     これは嘘だ。藍忘機を揶揄うためにわざわざ服を着ずに寝ただけである。
     隠しきれない笑い声を出しながら立ち上がりクローゼットに向かった。着替え終わってくるりと藍忘機を振り返る。長い髪が赤い髪紐とともに揺れた。

    「藍湛!着替えたよ!」
    「うん。朝食にしよう」

     昨夜、夕食を食べた場所へ二人で向かうと藍曦臣がいた。用意されていた実に健康的な朝食を無言のまま食べ終わると、藍曦臣が車を出すか聞いてきたのでそれを断り、藍忘機とともに学校へ向かうことにした。
     この屋敷から藍忘機と魏無羨が通う学校への距離は、江家の屋敷から学校への距離とほぼほぼ同じだ。それぞれの屋敷の建つ場所が正反対なので、二人は今まで登下校で一緒になるようなことはなかった。一度自室に戻って荷物を持ち──紫のお守りは、いくら藍忘機と一緒といえど何かあると大変と考えてリュックの中に入れていくことにした──二人そろって正門へ向かい、屋敷を出ると、魏無羨はわくわくする気持ちが抑えられず、「藍湛藍湛!」と隣を歩く彼の名を呼んだ。

    「なんだ」
    「呼んでみただけ!」

     そっぽを向いた藍忘機の耳は真っ赤だ。
     ──どれだけクールぶっても意味は無いぞ、藍忘機!俺はお前のお兄さんに、お前の照れ方を教えてもらったんだからな!
     藍忘機は赤い耳のまま何かを逡巡すると、小さく息を吐き出してから、魏無羨を見て口を開いた。

    「魏嬰」
    「なになに、どうした藍湛?」

     しかし藍忘機はすぐに目を逸らしてしまう。どうしたんだろうと、歩きながら彼の美しい横顔を見ていると、形の良い唇が、先程の魏無羨と同じ言葉を紡いだ。

    「呼んでみただけだ」
    「へっ」

     魏無羨は素っ頓狂な声を上げた。まさか、藍忘機がやり返してくるとは思わなかったからだ。

    「お前でもやり返すことあるんだな!」
    「…………ふん」
    「あ、待ってよ!」

     早歩きとなった藍忘機を魏無羨は追いかけた。



     学校に着くと、藍忘機は図書室へ、魏無羨は教室へと向かうために別れることになる。図書室があるのは魏無羨の教室のある階の下、二階の西側だ。階段を登っていく魏無羨の背中で振り子のように揺れる魏無羨の髪の毛と髪紐。その奥に隠された項は汗ばんでいる。藍忘機は目を逸らして、冷やされた図書室の中へ入った。
     魏無羨が補習を終えるまで何を読もうかと考えて、歴史書のある一角に歩いて行った。国内の歴史から外国の歴史、世界史、地域や街の歴史など多くの本があった。本棚の一番上の段から本棚の一番下の段まで見て、最後の段の一番隅に、百ページ程度の薄さの本があるのを見つけた。図書委員か司書か、そのどちらかは分からないが掃除がサボられていそうなこの本棚の本は埃の被っているものが多いというのに、何故かその本だけは埃を被っていなかった。藍忘機は「ああ、これか」と手に取った。
     昨夜、魏無羨とともに藍忘機の淹れたお茶を飲んでいた時にとある話を聞いた。二人が通っている学校の図書室の歴史書コーナーに、祓い屋の前身である仙門百家について書かれているものが一冊だけあると。それに書かれているものは、霊が見えないと思われたことにより藍忘機が今まで訪れることが少なかった藍氏本邸にあるものや、江家にあるものよりもかなり薄い内容だろうが、今日から始まる祓い屋に関する授業の予習には丁度いいかもしれない、とも。また、この本を読むのは大抵は祓い屋の家に生まれたものくらいで、そのものたちも、一度読んだだけでもう読まないとも聞いた。薄い内容というよりは、基本的な内容なのかもしれないと藍忘機は考えた。近くに置いてあった椅子を引き寄せて、藍忘機はその本を読むことにした。

     本の内容は、要約するとこういうことだ──千年近く前までは本当に存在したという仙門は、所謂仙人を目指す人々の集まり、その門派だった。彼らは霊力の塊である金丹と呼ばれるものを得ることによって、若いまま長い生を生きることができる。現代の人間は陽気などを持っていることはあっても霊力が低く、金丹を得ることができないため、時代が進むにつれて大中小関わらず、仙門百家は弱体することとなった。しかし、仙門百家が相手してきた人を害する霊や妖魔が減ることはない。そこで彼らは霊力が低いものたちなりの陽気の活用法を新たに生み出し、今まで補助として使ってきた法器や呪符、護符などを補助から役割を引き上げ、主な武器として積極的に使うようにした。その法器、呪符、霊符の多くは「夷陵老祖」と呼ばれる人物が発明したものや、それをもとに作ったものである。彼についての資料は少なく、どのような人物であったかは分からない。呪符、霊符の威力を上げるためには特別な朱紗を使えば良いのだが、逆に血を使ってはならない。陽気を含んだ血では呪符の効果は薄くなり、霊符は逆に効果を半減させてしまうからだ。

     これが基本的な内容であるなら、本邸へ赴けばどれだけ詳しく知ることができるだろう。帰ってから今日から藍啓仁が行ってくれるという授業ではどこまで知ることができるだろうか。
     壁にかけられた時計を見ると、未だ補習終了まで時間があった。藍忘機はもう一度最初から本を読むことにした。そして、ある程度読み進んでから、ふとした疑問が湧いた。
     陽気は遺伝的なもので、陽気が強いものが子をなせばその子も陽気が強いと書かれているが、つまり陽気は血に由来するということなのだろう。では、魏無羨の陰気はどうなる?昨日魏無羨と藍曦臣から聞いた話では、魏無羨は「陰気を発し続けている」上に「年々強くなっている」らしく、それは血に由来しているというわけではない。もともと血に宿っていたものが、さらに増える原因があるだろうか。「取り込む」と「発し続ける」は違うのだ。それに、本によれば陰気は幽霊たちの糧となるもの、彼らを構成するものでもある。それを何故、人間である魏無羨が発し続けることができる?
     それではまるで、魏無羨がそういったものたちに近いような、というよりは、餌を与えるようであって、それらの上位的存在のような──。
     そこまで考えて、藍忘機はその思考を振り払った。まだ十分に知識も無いというのに、そんなことを考えてはいけない。
     本を戻して、気づく。この本の存在を藍忘機に教えたのは魏無羨だ。この本を読んだに決まっている。少しの間だけとはいえ、江家でそういうことを勉強したことがあったと本人が言っていた。魏無羨は頭が良い。きっと藍忘機が考えたことも考えたはず。考えてしまったはず。いや、魏無羨自身も陰気が年々強くなっていると聞いたのはつい昨日だと言っていたから、そこまでは考えついていないか。いいや、魏無羨は気づいた。聞いて、気づいたはずだ。あの魏無羨が、気づかないはずがない。

     藍忘機は音を立てずに立ち上がって、別の本棚の方へ歩いた。違う本を読んで気分を、思考を変えようと思ったからだった。
     ──そういえば……夷陵老祖と、どこかで聞いたことがある気がする。
     その思考も一旦、隅に置かれた。



     一方その頃、魏無羨は藍啓仁に渡されたプリントを必死で解いていた。隣に座る聶懐桑に比べて、かなりプリントの枚数が遠い。聶懐桑は三枚、魏無羨はなんと十枚だ。しかも裏表にびっしりと問題が書かれたA3サイズ。内三枚は聶懐桑と同じもので、残り七枚は「魏無羨のために」「藍啓仁先生が」「寝る間も惜しんで作ってくださった」大変ありがたいものだ。ありがたくて涙が出てきそうだ。しかも今日のプリントの教科は、応用問題多数で攻めてくることが想定できていた理数系ではなく、ニッチな知識を求められる歴史だ!教科書をただ捲るだけでは決して答えにたどり着かないような問題ばかりだ。この時初めて魏無羨は「こんなのいつ使うんだよ。だいたいは教科書に載ってるのに」と配布された時に笑っていた資料集を活用した。資料集は見ている分には面白い。教科書に載っていない写真や絵、図は大変目を楽しませてくれる。だが、文までは読もうとは思わない。何せ教科書よりも文字が細かいからだ。それに目を走らせ、魏無羨は求められている答えを探した。だがここで一番ネックなのは、魏無羨の好奇心だ。出された問題に関係ない箇所でも、一度読んでしまえばついつい好奇心が出てしまう。
     ──漢服の歴史なんて読むんじゃなかった、そこでタイムロスが発生した!くそ、まともに読めば面白いじゃんか!藍じじい、まさかこれを狙って……!?あー、くそ!早く終わらせて帰りたい!
     既に今日の補習が開始して一時間半経っている。補習は三時間、残り半分というわけだが、魏無羨が終わらせたプリントは未だ四枚。聶懐桑に渡されたものと同じものだけだった。自分に渡されたプリントの半分も終わっていない。今二人に目を光らせている藍啓仁は、プリントは必ず終わらせて帰るように──プリントが終わらなければ帰ることは許さないと言っていた。このままでは、いつ帰れるかが分からない!

    「先生ー、スマホ使っちゃダメですかー」

     聶懐桑が泣きながら藍啓仁に尋ねる。

    「ならん」
    「うわーん!インターネットで調べればすぐなのにー!」
    「そもそも校内での使用は禁止だ!」
    「びええええ!」

     聶懐桑の泣き声を作業用BGMに、魏無羨は資料集を捲り続けた。
     どうしても好奇心が疼く箇所には付箋を貼って、魏無羨は猛スピードでプリントを進めた。時計を見る時間さえ惜しい。
     ──補習が終わったら資料集持って帰って読んで、あっ、帰ってからも藍じじいの授業あんじゃん!うー、でも気になるものは気になるし……。それに藍湛と一緒だしな。
     いったい今が何時なのか分からないが、魏無羨はついに十枚目に辿り着いた。資料集のページを捲って答えを書くことを繰り返していけば、プリントの表の解答欄は埋め終えた。次は裏だ。裏に書かれた一問目を読んだ時、魏無羨は目を丸くした。急いで二問目、三問目と目を通し、「そんなまさか」と最後の問題も確認する。監督している藍啓仁を見ると、彼は長い顎髭を撫でながら魏無羨を睨んでいた。魏無羨はその目から逃げて、目線を資料集へ向けた。そして該当ページを開く。最後のプリントの裏側の問題の答えは、資料集のかなり後ろでおまけとしか思えない扱いをされていた。
     普通の人にとってはおとぎ話の存在。祓い屋にとってはご先祖さま。かつて仙師、修士、修行者と呼ばれた人々に関する写真、絵、図、文。それを見ていって、解答欄を埋めていく。
     ──何でこの問題を出した?資料集に仙門関連があるのは知ってたけど、こんなのどんな試験に出やしないじゃないか。今後の生活にももちろん使えない。本当にマニアックだ。まさか、藍じじいなりの嫌がらせか!?だとしたらどんな嫌がらせだ……!
     ついに最後の問題となった。
     “資料集289ページ図6、図7を見て、どちらが正しいかを答えなさい。また、なぜそう判断したか理由を書きなさい。”
     魏無羨は該当ページの図6と図7を見る。隣合って載るそれらはどちらも古い絵だが、描かれているものは正反対だった。
     図6は驚くほどの醜男の絵で、化け物と言われても納得できるものだった。対して図7は現代でも通じるほどの美男子の絵で、構える笛から口を離して、眩しい笑顔を見せていた。
     ──図6の方はひっどい顔だが、図7はいいな。俺ぐらいの美形だ!っていうか、なんだか俺に似てる気がするなぁ。俺のご先祖さまとか?
     余程高名な絵師が描いたに違いない。現代となって色は褪せているが、線も塗りも丁寧で美しい。さて誰が描いたのかと見てみれば、いつ描かれたか正確な時代は分からないもののある程度予測できてはいるが、誰が描いたかは不明と書かれてあった。それは醜男の方もそうだったが、こちらには「大衆に広まっていた一般的な絵」と書かれてある。魏無羨は首を傾げたが、図6と図7をまとめて説明している文があったのでそれに目を通すことにした。
     “どちらも夷陵老祖を描いたもの。寺院などではなく商人などが売る護符に描かれていることが多い(図6)2021年現在、夷陵老祖は実在していないとする説が有力である。その理由としては──”
     そこまで読んで、魏無羨はまた図6と図7を見る。二つとも、あまりにも違いすぎる。顔が。どうしてこうなったと当時の人々に問いたいほどだ。もし存在していたとしても、夷陵老祖はきっと二人いたに違いない。でなければ、こんなにも違うことなどありえない。一代目夷陵老祖とか、二代目夷陵老祖とかがいたのだろう。
     そして再び文に目を戻し、最後まで読んで目が飛び出た。
     “図7は藍家所蔵のもので、一般公開はされていない。”
     その藍家、もしかしなくとも藍忘機の家のことではないだろうか?藍なんて姓はなかなかない。藍家のこととなると、藍忘機よりは藍曦臣の方がよく知っているだろうから、帰って時間があれば聞いてみてもいいかもしれない。
     魏無羨はそう決めて、最後の問題に取り掛かった。
     ──そういえば、夷陵老祖ってどっかで聞いたことあるなぁ。どこだっけ。
     その思考も一旦置くことにして。



     授業の始まりを知らせるチャイムは妙に重々しく感じるのに、終わりを知らせるチャイムはどうして軽やかに聞こえるのだろう。
     チャイムと同時に立ち上がり、藍啓仁にギリギリで出来上がったプリントを渡すと、魏無羨は筆記用具と付箋がたくさん貼られた資料集を仕舞い、リュックを背負った。

    「魏兄〜!!」
    「ん?」

     名を呼ばれたのでその方向を見てみれば、同じようにプリントを提出し、筆記用具を仕舞っていた聶懐桑がにこにこ笑顔でいた。

    「補習も終わったことだし、遊びに行かない?部活が無いんだったら、江兄も呼んでさ」
    「あー……」

     いつもならば即頷いていたが、今日はそういうわけにはいかない。魏無羨は首を横に振った。

    「用事あるから無理」
    「そんな!魏兄が用事!?何の!?」
    「んー、内緒」
    「はぁぁぁ!?ついにあの魏兄にも彼女でもできたとか!?それなら、これからデート!?魏兄が私を捨てたーっ!」
    「あの魏兄にもってなんだよ!……はあ、なんか今日テンションおかしいぞ。どうした」

     呆れ顔で聞くと、聶懐桑は「聞いてよ!」と机をバンバン叩いた。

    「また大哥が私が夏課題全てを終わらせるまで部屋に閉じ込めるって言うんだ!しかも、監視付きで!どうかしてるよ!!」
    「聶兄もそろそろ学んだらいいんだよ。課題は早めに終わらせて遊んだ方が得だって」
    「だってやりたくないんだもんんんんん!魏兄ってば意外にそういうとこしっかりしてるよね!普段不真面目なのに!きーっ!」
    「んじゃ、俺行くから」
    「えーっ!私、本当に捨てられた!?魏兄待ってよー!置いていかないでぇぇっ!」

     聶懐桑に泣きつかれながら廊下へ続くドアを開けると、蒸し暑い廊下には涼し気な美男子が立っていた。ドアを開けようとしたのか、手は空中で止まっている。

    「藍湛ー!」
    「えっ、藍忘機!?」

     嬉しそうな魏無羨とは正反対に、聶懐桑は驚愕と恐怖が混ざりあった声を出した。

    「魏嬰、帰ろう」
    「うんうん、帰ろ帰ろっ」

     二人で揃って帰ろうとすると、聶懐桑が「ちょちょちょちょっ」と言って、魏無羨の腕を引いて足を止まらせた。
     聶懐桑はいつの間にか取り出した愛用の扇子で口もとを隠し、こそこそと魏無羨に耳打ちした。

    「なんであの藍忘機と仲良さげなの!?私より藍忘機を取ったってわけですか!?」

     それに魏無羨もこそこそと返した。

    「そう見える?」
    「見えます!え、何、まさかこれからあの藍忘機と遊びに行くの!?」
    「遊びには行かないよ。帰るだけ」
    「えーっ!あの魏兄がただ帰るだけとか信じられな──ヴァッ」

     聶懐桑は奇妙な声を上げると、「それじゃあまた補習で!」と言って駆けて行ってしまった。それに手を振って、何故彼があんな声を出して突然走って行ってしまったのか、最後彼が目を向けた方向を見ると、藍忘機しかいなかった。
     藍忘機は聶懐桑が走って行ったのを見ると、魏無羨に「行こう」と言った。

    「うん、行こう。ところで藍湛、お前、怖い顔でもしていたのか?」
    「そんなつもりはなかったが」
    「じゃあ、また聶兄の変な早とちりかな」

     そういうとこあるもんなー。
     と呟いていると、藍忘機が魏無羨に尋ねた。

    「聶懐桑とは、友人か?」

     魏無羨は頷く。

    「うん。今のクラスになってからの友達。面白いやつだよ。江澄も入れて三人で遊ぶことが多いかな」
    「そうか」
    「なになに?俺の友人関係が気になるの?大丈夫だって、安心しな!確かに俺は友達が多いけど、だからって藍湛を蔑ろにはぜっっったいにしないからさ!」

     話しながら廊下を歩き、階段へ向かい、降りていく。残り三段となったところで、魏無羨はぴょんと飛び降りて着地した。

    「魏嬰、飛び降りるな」
    「校則違反だった?」
    「うん」
    「ちぇっ」

     魏無羨がいじけると、藍忘機は「ふっ」と笑う。口角が少し上がったに過ぎない小さな笑顔だ。だが魏無羨は彼の笑顔を見ることができて、「お前も笑うことあるんだな」「もっと笑えば可愛いのに」「どういう意味で笑ったの?」と言いたいことはたくさん湧き出てきた。そのどれか一つを魏無羨が言うより先に藍忘機が口を開いた。

    「君に教えてもらった本を読んだ」
    「ああ、あれか。どうだった?」
    「勉強になった」
    「そりゃよかった!」

     さすがは真面目な藍忘機である。予習にでもなればと本を、紹介した次の日にはもうそれを読んでしまうとは。

    「それで、聞きたいことがある」
    「なんだ?俺もあんまり知らないけど、少しくらいなら教えられると思うよ」

     さてどんな質問が飛び出してくるだろう。
     二人は既に昇降口までたどり着いていて、校舎を出るところだった。茹だるような暑さは昇降口にもあり、二人の額や首筋には汗が滲んでいた。
     藍忘機の薄い唇が動く。

    「本に名前が出てきたのだが……夷陵老祖という名に、聞き覚えはあるか?」

     魏無羨は瞬きをして、「あっ」と声を上げた。

    「そっか!聞き覚えあるかと思ったら、あの本だったのか!」

     魏無羨の言葉に藍忘機が首を傾げた。

    「実はさ、今日の補習の教科は歴史だったんだ。俺と聶兄が不真面目だったのが、数学と歴史だったからな。まあ明日は俺は英語で、聶兄は科学なんだけど……あ、ごめん、話それた。今日の補習のプリントで資料集使ってさ、そこに夷陵老祖ってのが載ってたんだよ。ずっと聞き覚えあるなーって思ってたら、藍湛の話を聞いて、そういうことか!とね」
    「なるほど。私も夷陵老祖という名前に聞き覚えがあったのだが、資料集に出ていたのか。それなら聞き覚えがあることにも納得できる」

     二人してすっきりした気持ちになると、今度は魏無羨が「そういえば」と話を始めた。

    「その資料集に載ってる夷陵老祖の絵が二つあって、一つはすっごい醜男なんだ。でもひろーく知られてた絵がそっちなんだって。もう一つは美男子。まさに俺みたいな」

     藍忘機は「うん」と相槌を打った。それを自分が美男子であることを認めてもらったようで嬉しくなった魏無羨の口は軽くなる。

    「プリントの問題に、どっちが正しい夷陵老祖像か答えて、その理由も書かなきゃいけないってのがあったんだよ。藍湛だったら、醜い夷陵老祖と美しい夷陵老祖、どっちが正しいと思う?」
    「彼について知らないから、答えられない」
    「もー、そういうのじゃないんだって!こういうのって、どっちの方が歴史的に都合が良いかどうかだろ?お前だったらどっちの方が都合がいい?」
    「……」

     藍忘機はそれから考え込む。その間に正門まで辿り着いて、校庭で部活動に励む同級生やら先輩たちやらの声を背に、二人は学校を出た。正門すら見えなくなったところで、ようやく藍忘機が答えを出した。

    「歴史的に都合がいいのは、醜い方だろう」
    「その理由は?」
    「そうでなければ、美しく描かれた方があるというのにも関わらず、そちらが広まるなんてことはありえない。多くの人にとっては、夷陵老祖とは醜い存在だったのだろう。──だが」
    「ん?」

     二人のそばを、大きなトンボが二匹飛んで行った。空へと上っていって、すぐに見えなくなる。

    「本当は美しい存在だったから、広まらずとも正しい絵姿が残されたのだと思う。だから、君が解いたという問題への私の答えは、美しい方だ」

     さわさわと街路樹の木々を揺らして風が吹いていった。二人に滲んでいた汗も風で冷やされて、つかの間の涼しさが二人を癒す。
     魏無羨は「そっか」と頷くと、わざとらしく残念そうな顔をして、肩を竦めた。

    「なーんだ、俺の答えと同じじゃないじゃないか!俺は醜い方だと書いたけど!」
    「理由は何と書いたんだ?」
    「藍湛が最初言った理由そのまま。それにちょっと付け加えだけ」
    「付け加えた?」
    「そう!美しい方は、夷陵老祖に憧れたか勘違いした誰かさんが想像で描いたんだろうって」

    でもまあ。
    魏無羨は鬱陶しいほど澄み渡る青空を見上げて言う。

    「歴史の真実なんて、当事者じゃない限り分からないんだし、この問題に正解は無いんだろうけどさ」

    藍忘機は頷いてそれに返したのだった。

     藍家の別邸に帰って制服から私服に着替えると、魏無羨と藍忘機は昼食をとり、それぞれの部屋に戻る。その後すぐに、魏無羨は藍忘機の部屋に突撃した。

    「藍湛ー!藍じじ……藍先生が来るまで、課題しようぜ!」
    「魏嬰」

     藍忘機は意外そうに魏無羨を見た。なぜその目で見るのか分かった魏無羨は、魏無羨に誘われなくとも課題をしようと勉強机に向かっていた藍忘機に近づいて、むくれて見せた。

    「なんだよ。確かに俺は不真面目だけど、提出物はしっかりしてるぞ」
    「不真面目の自覚があるなら治しなさい」
    「やなこった!」

     課題類を持ったまま、魏無羨は藍忘機の部屋を見回して、「あちゃー」と言った。

    「そういえばお前の部屋って、机の類いは勉強机だけだったな」

     一人分の椅子と一人分の勉強机。テーブルがもう一つか、椅子がもう一つでもあればいいのだが、どれだけ見てもそれらが無いことには変わりはない。

    「待って、椅子を一脚持ってくる」
    「どこから持ってくるんだ?食堂か?いいよいいよ、自分の部屋でやるし」
    「いや、持ってくる」

     頑固な藍忘機がドアノブに手をかける前に、魏無羨は言った。

    「分かったよ。でも、椅子は自分の部屋から取ってくるよ。ちょっとだけ」──そこで藍忘機はドアノブに手をかけ、外へ行ってしまった。「──待ってて、って言おうとしたんだけどなぁ」

     魏無羨の声が空気に溶けた。
     それからすぐに藍忘機は戻ってきた。一分も経っていない。

    「あ、おかえり藍湛、はやかったな……って、それ俺の椅子じゃん」
    「うん」

     藍忘機が持ってきたのは、魏無羨の部屋にある椅子だった。それを藍忘機は勉強机の前に置いた。藍忘機とは隣合う形となる。

    「わざわざ持ってきてくれたの?ありが──」
    「その言葉はいらない」
    「だから、なんでだよ」

     昨日も同じやりとりをした。藍忘機が何かを言おうとした時に藍曦臣が来たため話は一度終わったが、蒸し返すことになってしまった。

    「なあ、藍湛。感謝の言葉ってもんは受け取っておくもんだぞ」
    「うん」
    「分かってるなら俺のありがとうを受け取れ!」

     藍忘機は間を置いて頷いた。

    「……分かった」
    「よっしゃ!」
    「だけど、今後はいらない」
    「だから、なんでだよ!それじゃあお前、まるで俺が心底嫌いか、親しくなりたいかのどっちかにしか聞こえないぞ」
    「そうだ」

     藍忘機が言う。

    「私は、君と親しくなりたい」

     魏無羨の口が閉じる。

    「私は、ただの友達よりも、君ともっと……親しくなりたいんだ!」

     体はぷるぷるとうさぎのように震え、耳は赤く染まっている。余程勇気を振り絞ったのだろう。魏無羨が「それって」と彼の言葉の意味を確かめようとした時、ドアがノックされた。

    「忘機」

     藍曦臣ではない。渋めの声は厳しさを湛えており、魏無羨が苦手とする人のものだった。

    「げっ」
    「叔父上」

     ドアが開いて、藍啓仁が姿を現す。今から出かけるんですかと問いたくなるような、白一色のシャツ姿に、「ああ、確かにこの人は藍湛の叔父だわ……」と魏無羨は心の中で呟いた。
     藍啓仁は魏無羨の存在を認めると、睨みつけた。学校ではいつもこうなので、魏無羨は特に気にすることなく、へらりとした笑顔を向けた。

    「曦臣から聞いているだろう。授業をする」
    「分かりました」
    「魏無羨、貴様もだ!曦臣から話は聞いた。お前が自分の身を守れるようになるためにも、真面目に聞け!」
    「分かってますよー」

     藍忘機と魏無羨で藍啓仁の態度が違いすぎるのは仕方がないだろう。片や優秀で品行方正な甥っ子、片や優秀だが不真面目な教え子だ。
     どうやら授業は藍啓仁の部屋で行われるらしい。魏無羨は持ってきていた課題類はどうしようかと藍忘機を見る。

    「授業が終わったら一緒に課題をしよう」
    「うん!」



     藍啓仁の部屋は藍忘機の部屋よりもさらに面白みが無い。そもそも藍啓仁の部屋というだけで面白くない。職員室にある、整頓されて美しさを保っている彼のデスク周りをそのまま持ってきて、ベッドとクローゼット、ついでに彼の趣味だろう古い文机を置いただけのように見える。文机の上には、数冊の本があった。新しくも古くもないそれが、今日から教材となるものに違いない。そして文机の前には座布団が二つ、奥には一つ。前者が藍忘機と魏無羨が座る場所で、後者が藍啓仁が座る場所だろう。授業の時よりも藍啓仁に近く、監視されやすい。魏無羨は喉の奥から唸った。藍啓仁に座るように言われて、魏無羨は藍忘機と隣合って座った。二人とも右利きのため、手がぶつかることは無いかと思われたが、少しでも身じろげば肩がぶつかるほど近かった。
     魏無羨は目の前にある本を一冊手に取った。題名が書いてあるだけで、著者名も出版社も書いていない。どういうことだと首を傾げると、藍啓仁が言った。

    「文机に置いてある本は全て、我が藍家に昔からあるものを、私自らが現代語訳して編集したものだ」
    「えぇっ!」

     魏無羨が驚いた声を上げると、藍啓仁はしてやったりの表情を浮かべた。

    「製本も藍先生が?」
    「藍家のものに製本できるものがいるからそちらに」
    「へー!藍湛、お前の家は凄いな!」
    「うん」

     手に持っている本をぱらぱらと捲ると、図がいくつもあった。改めて題名を見てみると、「霊符の作り方について」とある。
     ──早速学べるのか。見た感じ、ちょっと難しそう……。いや!天才の俺にかかればこんなのちょちょいのちょいさ!

    「魏無羨は今手にしている本と、この本を読んでいるように」
    「はーい」

     渡されたもう一冊の本は、今手に持っている本の発展・応用版のようだ。魏無羨はありがたく読むことにした。魏無羨の隣では、藍忘機のための授業が始められるところだった。自然と耳に入ってくる藍啓仁の言葉から、本当に基礎の基礎から教えるらしい。江家に引き取られてすぐの頃を思い出し、懐かしくなった。
     魏無羨は本を熟読するべく、一頁目から開いた。霊符とは何か、何を使用するのかから始まり、霊符の種類、書き方と書かれている。興味深かったのは、霊符の中に護符と、それと正反対のものが種類として存在していたことである。悪霊を祓う、または攻撃するための護符とは別に、悪霊を引き寄せるものがあり、それは主に旗にして使用されるらしい。それを召陰旗という。発明者は夷陵老祖とあった。
     ──夷陵老祖!今日はよく聞く名前だ。……あれ、こっちの霊符も夷陵老祖が発明してる。……こっちもだ!こっちは……夷陵老祖が作ったものを元にして随分後から作ったやつ……?うわぁ、これもそれもあれも、夷陵老祖がいなきゃ作れなかったものばかりだ……。夷陵老祖ってすげー!
     魏無羨は夢中で読んでいた。霊符の書き方の解説も読み込んだので、一度読んだ本を忘れることがない彼ならば、もう何も見なくても霊符を書けるだろう。すぐに一冊目を読み終わり、二冊目を手に取って開いた。
     ──あ、これ一冊目に出てきた護符だ!ここに書き足したらそんな効果が……逆にここにこうしたら……。

    「魏嬰」

     ──ああそっか!この部分にはそういう意味があるのか!……それじゃあ、ここに一冊目に出てきた霊符の効果を合わせたら、もっと強くなるんじゃ……。

    「魏嬰」

     ──あ、もう考えられてる。って、これも夷陵老祖作!?さすが夷陵老祖だ……!!

    「魏嬰……」
    「魏無羨ッ!!」
    「うわあああっ!?」

     怒鳴り声が頭上で響き、魏無羨は驚愕して本を閉じてしまった。

    「あー!読んでたのに閉じちゃった!」
    「魏無羨ッ!」
    「げっ」

     「やっちゃったー!」と肩を落としていたが、藍啓仁に名を呼ばれて、その肩はびくりと跳ね上がる。藍啓仁はそれはそれは恐ろしい顔をしており、魏無羨は自分の何が悪いかも分からないまま、首を竦めた。

    「大丈夫、魏嬰?」
    「え、何が?」

     藍忘機に心配され、魏無羨は首を傾げた。

    「どれくらい時間が経ったか覚えているか?」
    「三十分くらい?あー、夢中になってたから、一時間とか?」
    「四時間だ」
    「四……!?」

     まさかそれほど経っているとは思わなかった。確かに一冊で鈍器になるほど分厚い本ではあったが、まさかそこまでかかっているとは。

    「何度声をかけても返事をせぬから、巫山戯ているのかと思ったぞ」

     藍啓仁は長い髭を撫でながらそう言う。

    「あはは……すみません。集中してたみたいで」
    「日頃からその集中力を見せろ」
    「だってつまんな──うわっ、こわっ!分かりましたよ!気が向いたらそうします!」
    「この……っ!」
    「叔父上」
    「…………忘機に免じて今日はこの辺で勘弁してやるがな、魏無羨、明日の補習も授業も集中しなければ承知せんからな!」
    「はーい!」

     藍啓仁は忌々しげに息を吐くと、「今日はもう終わりだ」と言って、藍忘機と魏無羨を部屋の外へと追い出した。その扱いの割りに魏無羨が読んでいた本を貸し出してくれたので、魏無羨はにんまりと笑みを浮かべた。
     ──藍湛も藍じじいも、藍家の人達はああも不器用なものなのか?一方は照れ方が独特だし、一方は優しさの見せ所が独特だ!

    「なあ藍湛、明日も今日くらいの時間授業するのかな?」
    「そうだと思う。明日は君が叔父上から教えを受ける番だ」
    「ふーん、一日一日交代ってことか。本さえ読めば、これといって聞くことなんて……あっ」
    「魏嬰?」

     ──やっちまった!藍家所蔵の夷陵老祖の絵について聞く予定だったのに!
     魏無羨は今日の補習で使った資料集に載せられていた、美しい夷陵老祖を描いた絵が藍家所蔵ということで、そのことを藍啓仁に聞くつもりでいたのだ。美しい夷陵老祖と醜い夷陵老祖、どちらが正しいかという問題の模範解答も聞くつもりでいたのだ。補習最終日──つまりは明日に採点されたプリントと模範解答集が渡されるのは分かっていたが、どうしても問題を出した藍啓仁本人の口から聞きたい気持ちもあった。そのことを藍忘機に言うと、「それこそ明日にした方がいい」と返された。

    「うーっ!気になるー!」
    「部屋に戻ったら課題をしよう」
    「はっ!課題も忘れてた!」
    「魏嬰……」

     藍忘機の呆れたような視線が痛い。魏無羨は笑顔で誤魔化した。










    一回全部書いて、読み直して、矛盾するシーンがいくつかあったので書き直してたらもうわけわかんなくなってやめてしまったやつ。データがこれしか残ってないので元がどんな話だったかも分からない……過去に戻れるのなら最初から矛盾シーンを入れないようにするよ……。
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