星のない夜空星のない夜空なんて初めてで、私、驚いているの。
彼女は蔵色散人。かの有名な抱山散人を師に持つ優秀な仙師であり、夫の魏長沢とともに旅をしながら暮らしていた。山で育ったため人よりも目の良い蔵色散人の狩りの腕は一流で、彼女が狩った獲物を捌き料理をするのが魏長沢だった。毎日朝昼晩と魏長沢の料理に舌鼓を打ち、彼の引く驢馬に乗ってぶらりぶらりと天下を行く。気ままな生活は楽しく、いつまでもこの日々は続けば良いと思っていた。
しかし、女としての性なのか、夫への愛が止まらないからなのか、いつしか彼との間に子を授かりたいと思うようになった。蔵色散人はすぐにそのことを魏長沢に言った。思うようになったら一時とも我慢できなかったのだ。魏長沢は彼女の思いを受け入れた。
それから少しして、蔵色散人は子を授かった。
大きくなる腹、動き出す腹の子。夫へ向ける愛とはまた違った愛が胸を満たす。
どうか無事に生まれますように。
どんな姿でも構わない。
足がなくとも腕がなくとも、私と彼の可愛い子であることに間違いはないのだから。ただ生きてお外に出てきてくれれば、それで良い。
子の頭の代わりに腹を撫で、子守唄を歌う。
腹が目立つようになってからはさすがに旅も中断せざる終えなくなって、とある村に身を寄せることになった。日々の夜狩りで稼いだ金はあるし、蔵色散人ほどでなくとも魏長沢の狩りの腕も立派なもので、狩った獲物を売ればそこそこの金になった。仮の住まいとして一軒家を買うくらいの金には。
よく喋る蔵色散人がいれば寡黙な魏長沢も口を開く回数が多くなる。一軒家は、二人だけだとしても賑やかだった。
そしてその一軒家に一人、住人が増えた。
それは晩秋の夜だった。星が夜空に輝き、新しい命を祝っていた。
新しい住人は、そりゃあもう顔を真っ赤にして泣き叫んでやって来た。産婆とともに出迎えた魏長沢は珍しく目に涙を湛えながらその子を抱き上げ、横になって、新しい住人と同じくらいに真っ赤な顔をして汗を流していた蔵色散人に、その子の顔を見せた。蔵色散人は口角を上げて、その子の頬を撫でた。
「なんて可愛いお猿ちゃんなの!」
顔がくしゃくしゃよ!
先程までの息み苦しそうな声はどこへやら、いつものように楽しげに彼女は笑った。
新しい住人、もとい魏長沢と蔵色散人の間にできた子の名前は魏嬰、字名は無羨。二人は我が子を真ん中に穏やかな生活を送った。
ある時、狩りから帰って来た魏長沢に蔵色散人が興奮したように話してきた。雉を厨に置き、捌きながら、魏長沢は彼女の話を聞いた。
「ねぇねぇ、魏長沢、長沢、長沢!聞いてちょうだい、阿羨ったら何て可愛いのかしら」
彼女は大変親バカだった。
魏無羨が「啊」と言う度に「可愛い!」と叫び、寝返りを打てば「今日は記念日よ!」と言った。しかしそれは魏長沢もそうで、魏無羨が手を伸ばす度に「この子は天才だ」と静かに言い、欠伸をする度に「今日は世界で一番平和な日だ」と静かに頷きながら言った。二人の違いは自覚があるか、無自覚であるかということで、前者は蔵色散人、後者は魏長沢だった。
さて、今日の阿羨はどこが可愛かったのだろう、もちろん毎秒可愛いのだが……。
そう思いながら手を動かしつつ魏長沢は耳を傾ける。
「阿羨が、ぎゅうってずっと手を握りしめているから、きっと何か凄いものを持っているに違いないと思ったの。それで、あの子が眠っている時に手を開いてみたら……何があったと思う?」
「……石?」
「違うの!埃よ!!」
おかしくて愛おしくて堪らないと蔵色散人は笑った。
「大事なものだと思ったら、埃だったの!ずっとぎゅっとしているから湿っているし……ああ可愛い!可愛いったらありゃしないわ!」
「今も眠っているの?」
「ええ!あの子はよく食べてよく眠るし、きっと大きく育つわね。魏長沢の背は超すかしら?ねぇ、超すと思う?」
「どうだろう。超すんじゃないかな」
「最近の子は大きいものねー。ってことは、私の背もすぐ超してしまう……?いやだわー!絶対いやー!可愛い可愛い阿羨が私より大きくなっちゃうー!でも大きくても可愛わ、きっと!だって貴方によく似ているもの!」
ちょん、と魏長沢の鼻の先を人差し指でつつく。照れ隠しかたまたまか、雉を捌いていた包丁がガタンと音を立てて下ろされた。蔵色散人はその横で鍋の用意を始めた。それでも話は続く。
「阿羨の鼻は貴方によく似ているわ。筋が通っていて高い。耳の形も貴方に似てる。髪質も貴方ね!ぴょんぴょんして可愛い」
「それなら、阿羨の顔の作りはほとんど貴女と似ている。愛くるしい目の形も、上がったまつ毛も、柔らかそうな唇も」
「もー、魏長沢ったらー!こんなところで口説いで私をどうするの?食べちゃうの?雉じゃなくて私を食べちゃうの?」
「手が止まっている」
「わざと止まらせているのよ。ねぇどうなの?食べちゃう?」
蔵色散人が頬を赤く染めた魏長沢をからかっていると、寝室から泣き声が聞こえた。一家の宝、魏無羨のお目覚めである。
「あらあら阿羨ったら元気!」
「早く行ってあげるといい。あとは私がやっておくから」
「うん、任せたわ。待っててね阿羨、今行くわー!」
蔵色散人が寝室へ向かうと、そこには想像通り、普段夫婦に挟まれて眠る寝台の上で一人きりで泣く魏無羨がいた。そこまで大きな寝台ではないが、まだまだ小さな魏無羨だけが乗っていると、寝台が大きく見える。錯覚って凄いと思いつつ、生まれた時のように顔を赤くする赤子を抱き上げた。
「もー、どうしたの阿羨?お腹空いた?」
乳を出して口に近づけてあげれば、魏無羨は泣き止んで乳に口を近づけた。夢中になってごくごく飲む我が子に、先程までの人をからかうような笑みや無邪気な笑みはすっかり消えて、蔵色散人は子を慈しむ母の顔になる。
「いい子ね、阿羨。可愛い羨羨。私たちの羨羨。たくさん飲むのよ」
小さな体のどこに貯まるというのか、乳を放さない魏無羨に、蔵色散人は歌うように語る。
「たくさん飲んだらその分大きくなるから。大きくなったら歯が生えるわ。歯が生えたら、私の大好物も食べられる。魏長沢が作る汁物は美味しいのよ?雲夢出身だから、ちょっと辛いものが多いけれど。でもね、優しい味なの。鶏肉と蓮根が入った汁物は、作るのが大変そうだけれど、とても美味しいんだから。貴方もきっと気に入るわ。それにね、姑蘇という場所には天子笑っていう美味しいお酒があるのよ。大きくなったら、飲みましょうね。貴方と初めてお酒を飲むのは私と魏長沢なのよ」
夫によく似た鼻先をちょんとつつく。
「だからね、早く大きくなってね。でも焦らなくていいからね」
ぷはっと乳から口を放した魏無羨を抱き変えてゲップをさせる。魏無羨の可愛らしいゲップの音が寝室に溶けていった。
それから時が経ち、魏無羨が生まれて一年が経った。その日は蔵色散人が子を生んでから初めての狩りに出かけ、魏長沢が一人で魏無羨を見ていた。家の庭先で木の枝を持って振り回す魏無羨に、剣の使い方を教えている。
「違う阿羨、そう振っては自分も傷ついてしまう」
「こーお?」
「そう」
頷く父に気をよくして、教えられた動きをする。まだ一歳だというのに言葉の覚えも早く、動きも良い。魏長沢は将来が楽しみだと笑った。
「ねぇねぇ爸爸」
「どうした阿羨」
着物の裾を小さな手で握り、こてんと首を傾げながら上目遣いをする息子に、魏長沢は優しく聞き返す。
「たびってなぁに?」
「たび?旅か。阿娘がそう言っていたのか?」
「うん!羨羨が一歳になったから、たびするーって」
「言う予定はもう少し先だったんだが……。阿羨、旅っていうのはだな、この家を出て、家を持たずに各地を歩くことを言うんだ」
「おさんぽ?」
「……まあそんなところだ」
「おさんぽ好きー!」
「うん、良いことだ」
父とお揃いの跳ねる黒髪を撫でられて、魏無羨はきゃっきゃっと笑った。そこに狩りから蔵色散人が帰ってきて、楽しげな息子とすっかり父の顔が板についてきた夫に目元を綻ばせる。
「ただいま長沢、阿羨!」
「おかえり」
「阿娘おかえりー!」
駆け寄ってきて足に抱きつく魏無羨を抱き上げようとして、手に持っていた雉を、魏無羨を追うようにやってきた魏長沢に渡す。
「二羽も狩ってきたのか」
「三羽目も狩りたかったけど、さすがにやめておいたの」
魏無羨を抱き上げて、柔らかい頬っぺに己の頬っぺを擦り寄せる。
「ただいま阿羨、寂しかった?」
「爸爸がいたから寂しくなかったよ!あのねぇ阿娘、旅するの?」
「え、旅のこと阿羨に言ったっけ……ってああ、言ってたわ!」
「するのー?」
「するよー。でも準備もしなきゃだから、もう少し先よ。いい?旅をする時は散歩の時みたいに驢馬に乗るのよ」
「ろば!」
「そう驢馬!いつもみたいに隣の王さん家から借りるんじゃなくて、自分たちの驢馬でね。昔はね、私と爸爸の驢馬もいたのよ?でもあの子も歳をとっちゃってねー……」
「歳をとるとどーなるの?」
「うーん、羨羨にはまだ難しいかな」
「えー!」
不服そうに唇を尖らせる魏無羨に、蔵色散人は「そんな顔してもなぁ」と言って、脇をくすぐった。すると魏無羨はすぐに笑い出す。
温かい命が腕の中にある。漏らす息は弾んでいて、可愛らしい。笑う声は鈴のようだけれど、いつか声変わりをして、立派な男のものになるのだろう。そして伴侶を得て、子をもうける。その頃には、金丹を有しているとはいえ魏長沢も蔵色散人も年寄りと呼ばれる年になっている。魏無羨が仙師を目指し結丹をするのかは本人の意志によるので定かではないが、子が親より先に死ぬことは決して無いだろう。
歳をとるとどうなるか、なんてあまり考えたくはない。
蔵色散人はまた魏無羨の頬に自身の頬を擦り寄せた。
可愛い可愛い阿羨。
いつか来るお別れまで、どうかそばにいさせてね。お嫁さんがいても、母親権限で居座ってやるんだから!
……って、さすがにそこまでしたら阿羨に嫌いって言われちゃう?怒られちゃうかな?
「阿羨、阿娘のこと嫌いになったりしないよね?」
「しないよー?」
「いつも唐突だな、貴女は」
くすりと笑った魏長沢に、蔵色散人は満面の笑みを返した。
それからまた少し時が経って、一家は旅に出た。路銀は動物を狩って街で売ったり、夜狩りをして稼いだ。夜狩りの際は街や村の宿屋に魏無羨を置いて行ったり、連れて行ってどちらかが魏無羨を守り、どちらかが敵の相手をした。山育ちでどこか世間からズレたところのある自由奔放な蔵色散人と、明知不可而為之を家訓に持つためなのか自由な気質のある雲夢江氏の元下僕兼子弟であった魏長沢、そしてそんな二人の血を受け継いだ魏無羨の旅はあても無く、むしろ当てなんて作る方がどうかしてるといった具合にその時の気分によって方角が変わった。北に行ったかと思えば南に行き、西に向かっていたはずが東に行き。そんな旅であったのだが、ふとある時、蔵色散人が驢馬に乗りながら言った。
「この辺、なんとなぁく見たことがあるのよねぇ……」
その頃には既に三歳となっていた魏無羨は、蔵色散人の足の間で驢馬に乗りながら、辺りを見回す。少し遠くに川があり、その向こうには森が広がり、さらに遠くに山が見える。大きな山だ。同じように魏長沢も見回したが、彼に見覚えは無かった。
「いつ見たのかしら……」
「似たような景色を見ただけではないのか?」
「うーん……うーーーーん?うーん……。そうかしら………うーーーん」
「貴女は一人で旅をしていたことがあっただろう、もしかしたらその時かもしれない」
「かもしれないわ。となると、随分と昔のことね」
魏無羨は頭を蔵色散人の腹にくっつけて、顔を上に向け上目遣いになって尋ねた。
「阿娘、一人で旅をしていたの?」
「うん、そうよ。言ってなかった?」
「なかった!」
「そう、じゃあ教えてあげようねぇ。私はね、すっごい仙人の弟子だったのよ」
そう人差し指を立てて蔵色散人は我が子に教える。
「抱山散人といってね、ものすごーく有名なの」
「どんな人?どんな人?」
「んっんー、阿娘すごい!って言われるのを期待してたんだけどー……ま、いっか。えぇとね、面白い人よ!」
「かの抱山散人を面白いと言うなんて」
驢馬を引きながら魏長沢はため息を吐いた。
「いいじゃない別に。でも本当に面白いわよ?山にずーっといるし、山を下りたらダメとか言うし、なんて言ったって、孤児しか拾わないんだから」
「孤児って?」
知らない言葉に魏無羨が反応する。
「親がいない子どものこと」
山から吹いた風が、三人の髪を撫でていく。暖かな風は、もう季節が春であることを告げていた。
魏無羨は頭が良く、母の話から、初めて母の親について知った。いない、ということを。それを察してか、蔵色散人は魏無羨を頭を撫でる。ふわふわと跳ねた髪は柔らかく、陽光をたっぷりと浴びて暖かい。鼻を埋めれば良い香りがした。
「抱山散人はたくさんのことを教えてくれたの。礼儀、音楽、書道、馬術、算術、弓術、剣術と他にもたくさん。一緒に勉強して暮らす子もいた。みんな大事な家族だった。抱山散人が私の親みたいなものよ。だから、阿羨にとっては奶奶ね!」
「奶奶!」
「そうそう、奶奶!」
笑い合い、幼い声色で話す妻と息子を見て、魏長沢も笑う。魏長沢の両親も数年前に鬼籍に入っているため、魏無羨には祖父母がいない。抱山散人は山を下りたものには会わないだろうが、一度でいいから魏無羨に会ってほしいと思う。拾い育てた子の息子だ、嫌と思うわけがない。魏無羨だって、祖母のような存在に一度会うだけでも彼の情緒は育つだろう。これ以上無いほど育っているが。
「もしかしたら、あの遠くに見える山に、奶奶がいるかもね」
「阿娘はどこの山か覚えてないの?」
「ないわねー。多分何かしらの術をかけられてるんだと思う」
「戻らないようにか」
「そういうことよ」
そこで初めて、蔵色散人は寂しそうな表情をした。育ったのがどこの山か分からないが、もしこの近くの山だったら、抱山散人は蔵色散人の気配に気づいてくれているだろうか。
その日は近くに村があったので、そこの宿に泊まることになった。宿近くの店で家族三人仲良く食事をとっていると、近くの席の客が暗い表情で同じ席の客に話し始めた。
「このところ、夜になると裏山が酷くうるさくて眠れない……悪夢まで見るし、日々運が悪くなっていく気がする……」
「さすがに仙師様に依頼した方が良いのではないか?」
「できない……金が無いんだ……仕事中に眠気がやって来て、そのまま寝てしまう……そしたら仕事を失った……」
「しかし、このままではお前の命が無くなってしまうだろうに」
「ううん……」
魏長沢と蔵色散人は目を合わせた。
「阿羨、ちょっと待っててね」
「うん!」
蔵色散人ははぐはぐと箸を動かし料理を食べる魏無羨の頭をひと撫ですると、席を立ち、暗い表情の客に近づいた。魏長沢は魏無羨を見守りながら、彼女が帰ってくるのを待つ。話を引き出したり、依頼を受けてくるのは蔵色散人の方が上手い。
「お困り事でもあるの?」
無邪気な少女のような声色に、暗い表情をしていた客は顔を上げる。華やかな顔に笑みを乗せて、蔵色散人は続けた。
「私は旅の仙師。夫も仙師よ。お困り事なら破格のお値段で助けてあげられるけれど……どうかしら?」
「その値段とはいくらくらいなのでしょうか……?」
弱弱しく尋ねる客に、蔵色散人は答えた。
「私と夫が依頼をこなしている間、可愛い可愛いうちの子を宿で見ててくれるだけでいいわ」
「それならお任せください……!どうか、私を助けてください!」
「分かったわ!」
そらした胸を叩いて、蔵色散人は頷いた。
彼女が家族のもとに戻ると、魏無羨はちょうど食べ終わったところで、魏長沢とともに茶を飲んでいた。魏長沢は酒好きなため食後に酒を飲むことが多いのだが、今回は蔵色散人は依頼を受けてくることを確信して飲まなかったらしい。
「おかえり」
「ただいま長沢。阿羨、残さず食べたのね、偉いわ」
「おかえり阿娘!羨羨、ちゃんと食べられたよ!」
褒めて褒めてと頭を差し出してくる息子が今日も可愛すぎる。
蔵色散人は魏無羨の髪が乱れるのも気にせずに思いのままに撫でた。そんなに撫でると禿げてしまうと魏長沢が言うまで撫で続けた。蔵色散人が撫でる手を下ろすと、魏長沢が魏無羨の髪を整える。伸びてきた髪を蔵色散人と揃いの髪紐で一つに結んだ。
「ねぇ阿羨、またお仕事に行って来なきゃなの。いい子で待てる?」
「うん、待てるよ!」
まだ三歳だというのに、この子はなんて偉いのだろう……!
柔らかな頬っぺたを撫で、いい子ねと言った。魏長沢は整えたばかりの髪を気にしつつ、静かに、彼の性格を表すように穏やかに頭を撫でた。いい子だと言って。魏無羨は笑顔でそれらを受けていた。
これが、三人の最後の時間だった。
宿屋に依頼主となった男と魏無羨を置いて、魏長沢と蔵色散人は件の山へと向かった。そこには想像以上に強い邪崇がいた。二人も強かったが、相手はズル賢く、夜が朝になって、昼になって、再び夜がやって来ても戦いは終わらなかった。体力も残り少なく、限界だった。
けれど、ここで倒れるわけにはいかない。
蔵色散人は剣で体を支えながら立ち上がった。先程魏長沢と引き離された。すぐに合流しなければ。彼は足を怪我してしまったから。
ここで二人揃って死ぬわけにはいかない。
だって、家族で旅を初めてまだ二年も経っていない。もっと旅をして、三人で美しい景色を見たい。海をまだ見たことのない阿羨に、空と同じ色をした水がどこまでも広がる様をまだ見せていない。
あの子が大人になるまでの姿も、その後の姿もまだ見ていない。伴侶を得ても得なくても、健やかに穏やかに過ごすあの子を見ていたい。
お酒だって、まだ一緒に飲んでいない。あの子と初めて酒を飲むのは私と魏長沢なんだから。
それに、あの子の小さな手がいつか大人の男性の手になって、赤子の頃のように埃ではなく、幸せを掴むところだってまだ見ていない。
何より、あの子に愛を伝えきれていない。私たちはあの子の穏やかな未来を望むけれど、どんな険しい道を行ったとしても、どんな人間になったとしても、私たちは貴方を愛していると、そばにいると、伝えきれていない。
まだまだこれからだというのに!
そう、まだまだこれからだった。
あまりにも早すぎる別れになってしまった。
ようやく見つけた夫________その亡骸の横に投げ出されて、受け身も取れず、背中を強く打ち付けた。しかし、もう蔵色散人に痛覚は無かった。山育ちで良いはずの目は、遠く夜空に浮かぶ星を映してはくれない。
「暗い……」
空に伸ばすはずの手は上がらなくて。否、もうそもそも無くて。
これじゃあ、阿羨を抱き上げられないなぁ。
喉の奥から飛び出た血と目から流れ出た涙が地面で混ざりあった。
嫌だ、死にたくない。
死にたくない。
「……」
ふと人の気配がして、蔵色散人は瞬いた。
「……誰?」
そういえば、さっきまで戦っていた邪崇の気配は消えている。
気配の主は、蔵色散人に言った。
「お前は師匠の気配すら忘れてしまったの?」
「……本当に、師匠?」
幻聴かしら。
掠れた笑い声で言えば、平坦な声が返ってくる。
「愚かな子。山を下りるから、こんな目に合うの」
「ははは、師匠だ。つまらないことばかり言うのが面白いお師匠様だ」
「お前ときたら、こんな時にまでそのようなことを言うの?」
「なら、お師匠様。私と夫の魏長沢を助けることはできる?やらなきゃいけないことがあるの」
息が吐かれた音がした。
「できない。このような状態では、手の施しようがない。それに、隣の男はもう既に……」
「そう。なら、再会まで後少しってわけね」
また笑ったあと静かになって、蔵色散人は瞬く。視界に映る夜空に星は無いし、そばにいるだろう抱山散人の姿も見えない。
「ねえ師匠……星が見えない夜空なんて初めてで、私、驚いてるの」
それに抱山散人が返す。
「そうね、お前は目が良かったから」
蔵色散人は言う。
「ねぇ師匠……弟子の最期のお願いを……聞いてくださる?」
もう話すのさえ限界だった。聞こえる音も遠くになっていく。
「言いなさい、叶えてあげる」
平坦だったはずの声が、優しさを帯びた。魏無羨の願いを聞く時の蔵色散人のように。
だから蔵色散人は、また笑顔を浮かべることができた。
「阿羨を、ひとりぼっちにさせないで」
阿羨が誰なのか、抱山散人には何も言っていないが、口ぶりからもう察せているだろう。抱山散人は優しさを声に宿したまま返した。
「相分かった。任せなさい。他には無いの。願ってくれなければ、私はお前に何をすればいいのか分からない。山に戻りたいのなら、そう言いなさい。特別にお前の夫ともに山に……______」
しかし、もう返ってくる言葉はない。抱山散人は覗き込むようにして会話をしていた愛弟子である蔵色散人の頬を撫でる。急速に冷えていく彼女の体温、もう漏れることのない息。
「……そう、もう眠ったの。伴侶とは再会できたかしら、私の可愛い娘。山さえ下りなければ、お前はこんなところで死ぬことは無かった。けれど山を下りなければ、お前は幸せにはなれなかったのでしょうね……」
抱山散人は術で穴を掘り、二人の亡骸を埋め、土をかけた。荒らされないよう石も置いた。
もうとっくに夜が明けていた山の中で、抱山散人は考える。
どういうことだろう。星の巡り合わせが変わったのか。
本来なら、抱山散人はこの場に来ることは無かった。しかし偶然にも先日星を見た抱山散人は、今日の日を境に何かが変わることを知ってしまった。故に、数百年ぶりに山を下りた。すると、争いの音が聞こえた。そこには数年前に山を下りた愛弟子の声もあった。駆けつけるも間に合わず、愛弟子は死んでしまった。最期の願いを残して。おそらく、願いの中にあった「阿羨」が、今後の世界に大きく影響を及ぼす人間。ならば、山に隠さなければ。世界は何も無く平穏であるべきなのだから。
そういう子どもの中でも親のいない子を連れ帰り、山を下りさせないのが抱山散人であった。そうすることで、悲劇も喜劇も生まないようにしていた。
だから、今回もそうするまでなのだ。
「さて、愛弟子の子はどこにいるのかしら」
そう呟いて、抱山散人は、名も無き山を下りた。
「魏無羨!魏無羨!」
「はーい、お師匠様、俺はここだよ!」
柱の影からひょいっと出てきた黒い着物の少年に、抱山散人は息を吐く。魏無羨と呼ばれた彼は十五歳で、落ち着きを持つことなく、興味の引かれるものがあればすぐにそちらに走って行く少年だった。母親の蔵色散人そっくりである。
「また山を下りようとしたね」
「げっなんでバレて……あっもしや暁星塵か!!」
魏無羨の脳裏に浮かんだのは、六歳年下の白い着物の少年。魏無羨より年下だが剣の腕は見事なもので、よく手合わせをしていた。そのため行動も共にすることが多く、魏無羨が山を下りようとしたことを知っていて、さらに告げ口までするとは品行方正な彼ぐらいのはずだ。他の弟子仲間は何だかんだ言って魏無羨に甘く、ちょっとしたことなら見逃してもらえる。山を下りようとしたのが「ちょっとしたこと」かはさておき。
抱山散人はまた息を吐いて言った。
「魏無羨、山を下りたいのならそう言えばいい。私は反対しない。けれど無断でというのはやめなさい。毎回言ってるわよね」
「はーい。でも、山を下りたらここには戻れないんでしょう?俺、師兄たちと弟弟子たち、もちろんお師匠様も、会えなくなるなんて嫌だよ。だから、こっそり行ってこっそり帰ってくればいいかなって!」
「よくないわ」
「いたっ」
軽く頭を叩かれて、魏無羨は大袈裟に痛がるふりをした。
「いーたーい!お師匠様が可愛い可愛い弟子をぶったー!」
「……はあ」
「……お師匠様?」
今日はやけにため息を吐く。どうしたのだろうとその顔を覗き込んだ。
「……魏無羨、山を下りたいのね?」
「あ、いや、戻って来れないって言うなら、下りなくてもいいかなーっては思うかな」
あはは……と笑いながら、頬を指でかく。
抱山散人は珍しく眉を顰めながら、言った。
「戻って来てもいいようにする。特例で」
「本当に!?」
魏無羨は驚いた。特例など中々作らないような人が、どうして。
「ただし、今から言うことをよく聞き、全て行うのよ。いいわね」
「え?う、うん」
魏無羨が戸惑いながらも頷くと、抱山散人は一枚の紙を広げ、それを魏無羨に見せた。紙には教本に載るような字で、こう書かれている。
「座学に一年間留学する、岐山温氏を改心させる……って、ええ!?何これ!?お師匠様、何これ!?改心ってなに?座学と岐山温氏って何!?」
「今から説明するから落ち着きなさい」
魏無羨は岐山温氏も、そもそも仙門百家というものさえ知らなかった。山を下りなければそんなものと関わることは無いと、抱山散人は子どもたちが山を下りないことを前提で教育していたからだ。しかし、そういった方面も教えなくてはならない。魏無羨は山を一度は下りなければならないのだから。
「いい?お前は大きな星のもとに生まれた。お前が人の世に出なければ、悲劇も喜劇も無いまま、世は移ろっていく。そう思っていた。けれど、お前が人の世に出なければ、この先悲劇しかないの。悲劇は新しくお前のような子を生むわ。悲劇を続けないように、そういう風に天がお作りになっている。つまり、お前は山を下りて、世を平穏にして来なければならないの。他の者でもだめ、お前でなければならないの。天がそうお決めになられた」
魏無羨は呆気にとられるも、すぐに真剣な顔になって抱山散人の言葉に耳を傾ける。
「いい?今回はおそらく最初で最後の特例よ。全てが終わったら、すぐに戻って来なさい。いいわね」
「はい」
「いつもの教室で山の外のことを教えるから、先に行っていてちょうだい」
「分かりました」
返事をして、普段授業を行う教室へ向かう。その途中、暁星塵を見かけた。魏無羨が彼の名を呼ぶと、彼も魏無羨に気づく。
「無羨師兄!」
駆け寄ってきた弟弟子の頭を撫でる。さらりとした髪が指の間をすり抜けるのが楽しい。彼の頭から手を離すと、わざとらしく唇を尖らせ、魏無羨は言った。
「お師匠様に黙って山を下りようとしたこと告げ口しただろ?」
「告げ口ではありません、報告です」
「歳下のくせに生意気な」
「ふふふ、生意気ですみません」
暁星塵は口もとを隠して笑った。
「それで師兄はお師匠様に叱られましたか?」
「ん、まあ、うん」
歯切れの悪い魏無羨に、暁星塵は小首を傾げる。叱られる以外に何かあったのだろうか。それとも叱られ過ぎてさすがに堪えたか。
「それがな……色々話を聞いてさ。嬉しいけど、ちょっとびっくりというか」
山を下りることができるのは嬉しい。さらには、特例としてまた山に戻ってくることができる。師匠である抱山散人にも、兄や弟のように思っている他の弟子たちにも再び会うことができる。しかし、いくら優秀な弟子と褒められる魏無羨であっても、その条件に不安を覚えないわけではない。何より、話が大きすぎた。生まれた星だの、悲劇だの、世の平穏だの。しかも、自分でないとダメだという。腕を組んで、不安を胸に抑え込んだ。
「どのような?」
「話していいか聞いてないから、まだ言えない」
「そうですか。では、楽しみに待っていますね」
「話すのを止められたら話さない。その時はすまん」
「いいですよ。それより、師兄はどこかへ向かうところだったのでは?」
「うん。それじゃあ」
「ええ、また」
暁星塵と別れ、教室へ向かった。途中、他の弟子数人にも会ったが、「また師匠に叱られた?」「山下りようとしてたでしょ!」「飽きないね」と言われ、そのたびに魏無羨は唇を尖らすのだった。
山の外のことを教えられたものの、抱山散人曰く「私の知識はとても古いかもしれない。故に、座学ではしっかり学んでくること」らしい。座学というのは、姑蘇藍氏の本拠地雲深不知処で開かれる他世家の子弟も招き入れての勉強会みたいなもので、抱山散人からそれに必要なものと山の外で必要となる金銭を渡された。どうやって条件の一つである「岐山温氏を改心させる」のかは教えてもらえなかった。ちなみに、もう一つの条件である「座学に一年間留学する」は何とかできそうである。
山を下りる日、抱山散人とその弟子たちが総出で魏無羨を見送った。俺、結構好かれてるなぁ……まあ知ってたけど!と魏無羨は少々しんみりしながら思っていたが。
「師兄ー!甘味のお土産待ってますねー!」
「私は流行りの着物!」
「魏無羨、俺には面白そうな書物を四冊ほどよろしくなー!」
「魏無羨ーーー!僕には肉ーーーー!!」
土産目当てかと、肩を落とした。なんなら昨夜部屋に押しかけて来て、散々土産を要求してきただろう。一度言われれば十分だ。ちゃんと紙にも書いた。
「わーった、分かったって!それじゃあお師匠様、行ってまいります」
抱山散人に教えてもらった綺麗な礼をして言えば、抱山散人は頷く。
「全て終えたら、すぐに戻って来るように」
「はい」
そして、魏無羨は山を下りた。
世を平穏にするために。天がそう決めた通りに。
魏無羨が山を下りる数日前、座学の準備に忙しい雲深不知処にて。
「抱山散人の弟子……しかも蔵色散人の息子が、ついに来るというのか……」
藍啓仁は振り返って、後ろにいた甥に言った。
「しっかりと見張りなさい、忘機」
藍啓仁の甥──藍忘機は静かに頷いた。
「是」
魏無羨が抱山散人から渡されたものの数はそこまで多くない。雲深不知処で開かれる座学で必要な通行証と、その期間着ることとなる白い校服、金銭、そして伝送符が五枚。座学が始まるまで一週間も無いため、魏無羨は山を下りるとすぐに一枚を使った。伝送符を使うと霊力が大量に消費されると事前に説明されていたため、雲深不知処に近い街である彩衣鎮に飛ぶことにした。そこで宿でもとって一日休めば解決だ!
しかし、魏無羨は知らなかったのだ。
街というものがどれほど広いものなのかを。
「人多いな…そして建物も多いな…」
宿屋、どこだよ……。
魏無羨は山育ちである。生まれは違うらしいが、幼い頃の記憶は朧気で、驢馬に乗る自分と母、驢馬の手綱を引いて歩く父の記憶と、知らない男と両親を宿屋で待っていたら金を払えと店員らしきものがやって来て、金が無いと分かると追い出され、知らない男とはぐれて歩いていると野犬に散々追い回され……______そこで抱山散人に助けられ、拾われたという記憶ぐらいしか持っていない。両親のことをほとんど忘れてしまった魏無羨の頭を、抱山散人は「そういうものだ」と寂しげな目をしたまま優しく撫でたのは、もう三年近く前のことだったか。抱山散人は基本的に厳しく、冗談が通じない。彼女は面白くないのが面白い人で、そのことを言えばさらに優しく撫でられたものだ。「お前は本当にあの子にそっくりだ」と。
さてその抱山散人は長い間山に籠りっきりで、下山することなど無かった。彼女は気まぐれのように孤児を拾っては弟子にし、山を下りるなと言って聞かせた。そのため、魏無羨の故郷である抱山散人の山以外はほとんど知らぬ者ばかりで、「街」というものがどんなものか教えてくれる人などいなかった。抱山散人ももちろん、「街」がどういったものか覚えていないほど籠りっきりだったわけだから、詳しく教えてくれたわけではない。ただ「広く、人が多い」ということだけ。故に魏無羨は自分の幼い頃の僅かな記憶から、「街に行っても、まあ大丈夫だろ」と謎の自信を持ってしまった。
その自信は早々に打ち砕かれることとなった。
大通りは人が多いため、動きが取りづらい。人を避けて歩くと、建物も多いため、すぐ道に迷う。大通りの方向どっちだっけ、と歩けば歩くほど大通りから遠のいている。人に聞けばいいのだろうが、何やら皆忙しそうにしていて話しかけるのははばかられた(そのほとんどが今回の座学に参加する修士たちや、修士たちが泊まる宿屋の従業員が今晩の食材を求めて買いに走る姿であったが、魏無羨は知らない)さらに伝令符を使った後で霊力のほとんどを使いすぎたため、足取りも覚束無い。
どこかで休みたい、できれば宿……。それかどこかの酒楼……。
そう思い見渡してみても、いつの間にかたどり着いたのは住居区画。宿も酒楼も無い。魏無羨はとにかく困り果てていた。
「こんなことなら、直接雲深不知処に飛んでおけばよかったかも……」
はあ、と息を吐く。
「大通りどっちかな〜。……おっ」
特に忙しそうに見えない、ゆったりとした足取りで歩く長身の男性を二人見つけた。彼らの後ろに魏無羨がいるため、彼らは魏無羨には気づいていない。魏無羨は足取りは未だふらふらとしているが、迷わず彼らの元へ向かった。
「すいませーん」
声をかけると、彼らが振り返る。よく似た、しかし纏う雰囲気は全く異なる二人は双子か何かだろうか。僅かながら上背のある方の雰囲気は柔らかく、彼より僅かながら低い方は氷のような雰囲気を持っていた。二人の顔立ちはよく整っており、口を開かねば人形だと思ってしまうだろう。陶器のように白い肌はシミの存在を許さぬかのように、太陽の光を受けて輝いている。極上の墨に浸したような髪は癖ひとつなく、頭に結んだ白い抹額ともに風に揺れている。彼らのどちらにも目が引き寄せられるほど、美しい。雪解けの水や、春を告げる桃色の花よりも。これほど美しい人を魏無羨は見たことが無かった。ふと、魏無羨は昼間だというのに月があることに気がついた。氷のような雰囲気を持つ彼の目は金色で、中々お目にかかることができないその色に、思わず魏無羨は魅入ってしまった。
「どうかしたかな?」
柔らかな雰囲気を持つ彼の言葉に、魏無羨は我に返る。
「あ、ごめんなさい!二人とも凄く綺麗だったから!」
えへ、と笑ってみせると、柔らかな雰囲気を持つ彼も微笑みを返してくれた。しかしもう片方の彼は変わらず氷のような雰囲気を纏い、表情一つ変えないままだった。警戒でもしているのか、魏無羨をじっと見つめている。
「俺、この街初めてで、気がついたらこんなとこまで来てたんだ。大通りってどの方向にある?宿屋とかもそっちの方にあるかな?」
「それなら、良い宿屋を知っているので案内しよう。忘機、いいね」
「……是」
冷たい雰囲気の彼は忘機というらしい。
魏無羨は礼を言って歩き出したあと、改めて彼らを見て、あっと声を出した。
「姑蘇藍氏の校服だよな?」
彼らが着ていたのは抱山散人が教えてくれた姑蘇藍氏の校服と同じ白い漢服だった。確信を持ってたずねると、柔らかな雰囲気の彼に肯定された。
「そうだよ。私は藍渙、字は曦臣。号は沢蕪君」
ほら忘機、と柔らかな雰囲気の彼____藍曦臣が忘機を促す。
「……名は藍湛、字は忘機」
藍姓ということは、姑蘇藍氏の内弟子か!
魏無羨は、彼らが座学を行う一族であると知り驚いた。偶然とは凄い。
「藍曦臣に、藍忘機……よし、覚えた!」
名乗っても反応を変えない、むしろ今知りましたとばかりの魏無羨の反応に、藍氏二人は内心戸惑った。藍氏双璧と呼ばれるほど二人は有名であり、藍曦臣に至っては沢蕪君という号がついているほどで、名前も容姿も知れ渡っている。魏無羨の反応は、初めてのものだった。
「にしても偶然って凄い!俺は今度姑蘇藍氏の座学に参加する予定なんだ。その時はよろしくな」
「座学に?ということは世家の公子。しかし見たことの無い校服だ……もしや校服では無いのかな?」
「ん?うちに校服ってのは無いよ。お師匠様が用意してくれたり、器用な子が用意してくれたものをうちの子弟たちは着るんだ。俺のも、お師匠様が用意してくれたやつ」
「そのような世家、聞いたことが……____」
藍曦臣は何かに気づいたように一瞬目を大きく開くと、魏無羨にたずねた。
「失礼ですが公子、お名前を伺っても?」
あ、名乗り返すの忘れてた。お師匠様に怒られる。
魏無羨はそう短く反省してから名乗った。
「俺は魏嬰、字は無羨だ!」
母 蔵色散人が好んでいたという赤い髪紐は、癖のある柔らかな髪とともに風に揺れ、同じく風に揺れた黒い服の袖から覗く白い手で拱手する。名家の公子であってもここまで綺麗な礼をとれる者は少ない。滑らかな白い肌、愛嬌のある双眸、常に口角の上がっている唇。魏無羨も容貌が整っていた。綺麗な礼とその容貌に目を惹かれるが、しかし藍曦臣が再び大きく目を開くことになったのは、彼のその名前が理由だった。
「魏公子……お師匠様というのは、もしや抱山散人では?」
「うん、そうだけど。うちのお師匠様ってそんなに有名だったりするの?確かに凄い仙人だけど」
凄いという言葉では足りないくらい、凄いお人だ!と藍曦臣は言いたかったが、ぐっと堪えた。
しかし、抱山散人の弟子だというなら納得がいく。抱山散人もその弟子も、決して山を下りないことで有名だ。下山した弟子は二度と山に戻ることを許されないという。藍氏双璧の二人のことを知らないのも当然だ、山以外の世のことを知ることができぬ環境にいたのだから。
藍曦臣と藍忘機の叔父である藍啓仁によると、座学の参加者を募った際、抱山散人から文が届いたらしい。彼女から文が届くこともそうだが、書かれた内容も目が飛び出るほど驚くことだった。
______今年は荒れるかもしれん。
そう苦々しく呟いた藍啓仁の顔は忘れられない。
文には抱山散人の弟子である魏無羨という十五歳の少年が特例として山を下り、座学に参加するということ、魏無羨は悲惨な末路を辿ったという話の蔵色散人の息子であるということが書かれてあった。
藍啓仁は魏無羨が来るということを知ると、山で修行していた藍忘機を呼び出し、座学の間、魏無羨を見張るよう言いつけた。藍忘機はそれに頷き、つい数時辰前に新たに届いた抱山散人からの文____魏無羨が山を下り、伝送符で彩衣鎮に向かっただろうという内容だった____もあり、藍忘機に比べたら街にもよく行く藍曦臣とともに彩衣鎮へ魏無羨を迎えに来た。魏無羨から目を離してはならないと藍啓仁は口が酸っぱくなるほど言っており、その言葉を守るために早めのうちから雲深不知処においておくのが良いだろうと藍曦臣と藍忘機は話し合ったのだ。
……大通りもその周辺も、探してもいないはずだ。まさか住居の区画に迷い込んでいるなんて。
「そういえば仙人って珍しいんだったっけ……お師匠様は珍しいくらい面白くない人だけど……」
「魏公子」
「あ、はい!」
藍曦臣がぶつぶつ呟いていた彼の名を呼ぶと、彼は元気な返事をした。
「宿屋ではなく、雲深不知処へ来たらどうだろう?」
「雲深不知処に?でも、座学って数日後じゃ……」
「早めに雲深不知処に入っていた方が良いだろう。場所に慣れるためにもね。それに、もしかしたらどの宿屋も貸し切られているかも」
「え?」
「今年座学に参加する公子の中には、蘭陵金氏の第一公子もいる。ここまでの付き人も多いという噂だ。参加する公子ももちろん多いし、それ以外にも旅の人や観光の人もいるから、部屋をとれたとしても、ゆっくり出来ないはずだ」
「はあ……」
魏無羨は藍曦臣がどうしても彼を雲深不知処へ連れて行きたいように感じていた。断る理由はないけれど、先ほどから睨んでくる藍忘機の視線が痛い。雲深不知処に行ったら、この視線を一日中受けることになるのだろうか。
「魏公子、雲深不知処は修練に最適な場所でもある。座学が始まるまでの間、修練をしてはどうかな?」
藍曦臣の笑顔に圧が加わったような気がする。
魏無羨は頷くことにした。
「分かった、雲深不知処に行くよ!でもその前に、ちょっと寄りたいところが……」
「何処かな?」
「天子笑が売ってるお店!」
魏無羨は、下山する前に抱山散人から聞いていたことがあった。酒好きの魏無羨にぴったりだという、天子笑というこの世で一番美味いらしい酒の話だ。魏無羨は抱山散人の弟子たちの中では一番の酒好きで、自作するほどだった。この世で一番とうたわれる酒を飲まずにいられるか?否だ!
早く飲みたい、たくさん飲みたい、金ならもらった!と内心で踊る魏無羨の体は固まった。名乗ってから一度も開かれることの無かった藍忘機の口から出た言葉によって。
「雲深不知処で酒は禁止だ」
………はい?
「禁止、なのか?」
「禁止だ」
「た、沢蕪君、それは本当か?酒が飲めないのか?天子笑が、飲めないのか!?」
「ええ。家規で決められています」
「な、なんて……」
なんてつまらないところなんだッ!!
魏無羨の魂からの叫びは、藍忘機のため息をかき消した。叫んでから、魏無羨は気づく。
「……いや、待てよ。雲深不知処で飲まなきゃいいんだろ?」
それに藍曦臣が頷く。
「まあ、そうですね」
「兄上」
咎める声が藍忘機から上がる。
「忘機、一刻も早く帰りたいのは分かるが、ここで酒を取り上げては魏公子が可哀想だ。それに、それでは仲良くなれないよ」
「仲良くなる気などありません」
「そうか。でも彼は特例の下山であって、座学が終わり次第山に戻るそうじゃないか。そうなっては天子笑は飲めなくなってしまう。ここまで飲みたがっているのに。ね、飲ませてあげよう?」
藍忘機の良心に訴えると、沈黙の後ため息、またその後の僅かな沈黙が訪れ、こくりと彼は頷いた。
「では酒楼に行きましょう。そのあと雲深不知処に」
藍曦臣の言葉に魏無羨は元気よく返事をし、藍忘機は彼をじっと見ていた。
「ここが酒楼か〜」
「茶もあるようだから、私と忘機も飲めるね」
卓につくと、魏無羨はキョロキョロと視線を動かした。当然魏無羨が育った抱山散人の山には酒楼なんてものはなく、初めての場所だった。酒の匂いと酔っ払いの賑やかな声が混ざり合い、魏無羨を高揚させた。
従業員に天子笑を一度甕、茶を二杯頼むと、藍曦臣は魏無羨に尋ねてきた。
「魏公子。抱山散人が特例で山を下りるのを容認したようですが、どのような理由があったのでしょう?」
浮世離れしたような見た目の割に好奇心が強いのだろうか。答えない理由が無かったので、魏無羨は正直に話した。元々抱山散人は魏無羨が山を下りなければ世は平穏のまま移ろっていくと考えていたが、魏無羨が山を下りなければ、この先起こる悲劇が長く続いてしまうらしいということを。藍曦臣だけでなく、藍忘機も驚愕を隠せないようで、目を大きく開いていた。
さらに、抱山散人の弟子となった者たちは大小問わず、世に新たな流れを生むことになる力を持った者たちで、悲劇も生んでしまうらしい。抱山散人が言うには、魏無羨も例に漏れず新たな悲劇を生むのだが、その悲劇が無ければ以前の悲劇は消えず、どちらの悲劇を止めることになるのが魏無羨だとか。……という話まですれば、藍曦臣は「さすが抱山散人だ……」と感心したように呟いた。
「正直、俺も理解できているわけじゃないんだ。あまりにも壮大過ぎる」
思考放棄したいぐらいだ。
魏無羨が肩を竦めて言えば、ずっと黙っていた藍忘機が口を開いた。それに魏無羨は僅かに驚いた。
「悲劇とは」
「さあな!俺もよく分からない。岐山温氏が関わっているってのは確かなんだけど」
何せ、今回の特例には「座学を一年受けること」という条件とともに「岐山温氏を改心させるように」という条件が出されているのだから。もしかしたら、岐山温氏を改心させるための手助けとなるようなことが座学中にあるのかもしれない。
「岐山温氏ですか」
藍曦臣の言葉に、魏無羨は頷く。
「一応仙門百家についてお師匠様には教えてもらったけれど、お師匠様は孤児を拾う以外で滅多に山を下りないから、世俗には疎く、知識は古い。岐山温氏についても、そこまで知識があるわけじゃない。知っていることがあれば、教えて欲しい」
「ええ、構いませんよ。岐山温氏といえば……最近、何かと世を賑わせていますから」
藍曦臣はさっと周りを見回してから、声を潜めてそう言った。良くない意味を孕んだ言葉であることは十分理解できた。
「雲深不知処には蔵書閣という、古今東西のあらゆる書物が納められた場所があります。そこで調べるのも良いでしょう」
「分かった。ははは、確かに、沢蕪君が言ったように雲深不知処に早めに行った方がいいな」
「そうでしょう、そうでしょう。蔵書閣には忘機に案内させましょう。書物の場所も忘機に」
「兄上、私は______」
「え?いいのか?ありがとうな忘機兄!」
「……」
藍忘機が小さくため息を吐いたと同時に、酒と茶が運ばれてくる。魏無羨は目の前の天子笑の甕をキラキラとした目で見つめ、待ちきれないとばかりに杯へと注いだ。本当は甕から直接飲みたかったのだが、綺麗な二人の前でそれをやるのはなんだかはばかられた。しかも藍忘機はさっきからずっと魏無羨を見てくるし。
魏無羨は天子笑が注がれた杯を鼻の高さまで持ち上げ、香りを味わう。酒とは思えぬ清らかな匂い。これが今から口に入り、喉を通ると思うと、飲んでもいないのに酔いそうだった。杯に口をつけ、くいっと一気に飲む。こくり、と喉が上下する。想像以上の味に、魏無羨は堪らず目を細めた。その様子を藍曦臣は微笑ましげに見、藍忘機はより眼光を鋭くして見つめていた。
「すっっごい美味い!」
ぷはっと酒とともに飲み込んでいた空気を吐き出して、魏無羨は満面の笑みを浮かべた。空となった杯にまた天子笑を注ぎ、飲んで、また注ぐを繰り返し、あっという間に一甕を空にしてしまった。
「良い飲みっぷりだ」
「弟弟子や兄弟子たちによく言われるよ。そういえば、お土産に酒が欲しいって言ってたやつがいたな。天子笑を買って帰ってやろう」
帰るのがいつになるかは分からないけどな!
そう言って笑う魏無羨の顔に不安の影はない。酒が入って気分がいいからなのか、自分に相当の自信があるからなのか。藍忘機にはそのどちらにも見えた。
藍忘機は茶を飲み干すと、藍曦臣を見た。藍曦臣は彼の視線に直ぐに気が付き、その目が何を言いたいのか察すると、店員を呼び銀子を渡した。
「はい、確かに」
「ご馳走様でした」
勘定を済ませると、店員は忙しそうに店の奥へと引っ込んで行った。酒楼はいつの間にか人が増えており、その中には修士の姿もいくつか見えた。卓から立ち上がり、藍曦臣を真ん中にして三人は並んで店の出入口へと足を向ける。
「天子笑ってここ以外でも売ってるかな?」
「姑蘇でならどこでも売っていると思いますよ。何せ銘酒ですから」
「そっか!ありがとう、沢蕪君」
藍曦臣に笑顔を見せる魏無羨に、藍忘機は一言。
「雲深不知処不可境内飲酒」
魏無羨は沢蕪君から藍忘機に目線を移し、わざとらしく頬を膨らませてみせた。藍忘機はそれを見ると、そっと目線を外し、魏無羨とは逆方向を見た。藍曦臣は「おやおや」と笑い声を噛み殺しながら言った。
すると、藍忘機に目を向けていた魏無羨の肩が、すれ違った男とぶつかった。
「あ、ごめんな」
魏無羨は軽く謝って、すれ違った男を見る。男は紫色の漢服を着ていた。それは抱山散人に教えてもらった仙門世家のひとつ、雲夢江氏の校服だった。今日一日で四大世家の内二つの校服を見れたことに、魏無羨は自分の運の良さを実感していた。いくら大きな世家で子弟も多いとはいえ、この世には数え切れないほどの大小様々な仙門世家があり、それら全て合わせた子弟の数と四大世家のそれぞれの子弟の数では、圧倒的に前者の方が勝る。
ぶつかった雲夢江氏の子弟は、目がつり上がり気難しそうな性格が滲む、とても整った顔をしている。さらに謝罪した魏無羨にふんと鼻を鳴らした。しかし、意外にも彼はすぐに謝った。
「構わない。こちらこそ、ぶつかって悪かった」
悪いやつではなさそうだな。むしろ、良い奴っぽい。
魏無羨は彼をそう評した。
「……もしや、姑蘇藍氏の……藍公子と藍二公子では?」
雲夢江氏の子弟は、魏無羨の横にいる二人を見て彼らにそう話しかけた。藍曦臣は頷き、藍忘機は黙ったまま目線を寄越しただけだった。
雲夢江氏の子弟は拱手し、名乗った。
「私は雲夢江氏、名は江澄、字は晩吟。雲深不知処で開かれる座学に参加する者です」
「話は聞いています、江公子。優秀な次期宗主という噂は姑蘇の地でも聞こえるほどですよ。ああ、そうだ。座学には忘機だけでなく、こちらの彼も参加することになっています」
藍曦臣が魏無羨に目線を向ける。名乗れということなのだと気が付き、魏無羨も拱手し、江澄に名乗った。
「俺は抱山散人が弟子、魏嬰。字は無羨。座学ではよろしく頼む!」
今度はちゃんと名乗れたぞ!見てましたかお師匠様!ここは山ではないから見てないだろうけど。……いや、お師匠様なら何らかの術を使って見てそう。
ふんす、と鼻から息を出した魏無羨に対し、江澄は彼の名を聞くと目を丸くし、元々静かだったが、纏う雰囲気まで静かになった。
「………魏嬰、……魏無羨?」
確かめるように、江澄は魏無羨に聞き返す。魏無羨は頷く。
「ああ、俺は魏嬰、魏無羨だよ」
「父親の名を言えるか」
「父は魏長沢だが?」
何故そんなことを?
首を傾げる魏無羨を穴が空くほど見つめながら、江澄は震えた声を出した。
「やっと……見つけた……!」
はて、どういうことだろう。さらに首を傾げた魏無羨の体が後方に引っ張られた。驚きで目を大きく開く江澄の姿が、白い背中に隠れた。どうやら、藍忘機に袖を引っ張られ、その背の後ろに隠されたらしい。藍曦臣の「忘機」という咎めているはずなのにどこか柔らかな声が聞こえる。
「忘機兄?」
「……」
返事は無かった。一体どうしたんだ、この男は。
「……兄上」
「………分かった。お前にしては珍しいね。兄として嬉しく思うが」
いや待て、今ので何がわかったんだ?
と、魏無羨と江澄は同時に思った。
「江公子、私たちは雲深不知処へと戻ります。私は出ることはありませんが、座学では二人をよろしくお願いしますね。それでは」
「はい、分かりました。では」
礼をして江澄は三人から離れ、三人は改めて店の出入口へと向かった。魏無羨は藍忘機に袖を引っ張られながらだ。視線を感じて魏無羨が後ろを向けば、江澄がこちらを見ていた。空いている方の手をひらりと振って笑えば、江澄も手を軽く振り返してくれた。
やっぱり良い奴だ!
さらに笑顔になる魏無羨の袖が、強く藍忘機に引っ張られた。
雲深不知処へは御剣の術で戻る予定だったが、酒楼で休んだとはいえ霊力を大量に消費したばかりである魏無羨にそれは無理だった。未だに足はふらつき気味である。
「とはいえ、歩いてというのも、今の魏公子には酷だろう」
さらに雲深不知処は山の中にあり、山道を走ってくれる馬車は少ない。
「忘機」
「何でしょうか、兄上」
「剣に乗せてあげなさい」
「兄上、それは____」
「えっ!いいのか?」
藍忘機の声を遮り、魏無羨が喜びの声をあげた。
「乗せてもらえるのはありがたい!もう足も腰もガックガクでさ」
「………はあ」
確かに魏無羨の言う通りに彼の足も腰もがくがくと震えており、産まれたての子鹿のようである。藍忘機はため息をひとつを吐き、しぶしぶというように頷いた。
剣に乗せるということは、体を密着させるということ。さらに、剣の主たる藍忘機に体を支えてもらわねばならない。ただでさえ魏無羨の体は霊力が尽きかけているため、支える力はより強くなければならない。しかし、藍忘機は潔癖症の多い姑蘇藍氏の中でもかなりの潔癖症で、人と触れ合うことを苦手としていた。それは雲深不知処内で生きるならば何ら問題は無いが、今後、大人となり多くのものと交流しなくてはならないのだから、少しでも彼の潔癖症が軽くなればいいということもあって、藍曦臣は二人乗りを提案したのだった。藍曦臣が実弟の藍忘機を大変大事に思っているからこそだった。人に慣れることが必要だと判断した。しかも、珍しく藍忘機は人に___いや、魏無羨に惹かれているようだった。それがいずれ知己になるものに対する感情なのか、異性へ向けるべきと考えられている恋愛的な感情なのかは、さすがの藍曦臣にも分からないが。ただ大事なのは、あの弟が二人乗りすることを受け入れたということだ。
また一歩成長することができたようだね、忘機。
兄というよりはどこか母に近い気持ちで藍曦臣はそう心の中で呟いた。
「けれど二人乗りは慣れないだろうし、もし疲れるようだったら言いなさい。私が変わろう」
しかし、やはり無理を強いることだけはしたくない。
弟に甘い藍曦臣がそう言えば、藍忘機は藍曦臣が予想もしていなかった答えを返した。
「………………いえ」
それは長い間を挟んでいたが、はっきりと返ってきた。藍曦臣は感動した。
弟が、あの、弟が!!母上、見ておられますでしょうか!!あの忘機が、人見知りが激しく、人に触れることを嫌う阿湛が、二人乗りのまま雲深不知処に帰ると!!変わろうと言えば、否、と!!
その横で魏無羨も感動していた。
「忘機兄は何事もやり遂げる男と見た!しかも困ってる人を見捨てない!お前は良い奴だ!」
「…………」
「ま、黙ってばっかりなのはちょーーっとアレだけど……。うん、忘機兄は凄い男だな。是非とも友達になりたい!」
「ならない」
「そこだけ即答!?うーん、素直じゃないのか、本心なのか」
「本心だ」
「えぇ!?」
そんなぁ!と嘆く魏無羨の腹を肩に載せ、背と尻を支える、所謂俵抱きをすると、藍忘機は御剣した。
「え、何この格好……!俺は子どもじゃないぞ!」
「静かに」
「もう少しマシな抱き方はないのかーーー!」
藍曦臣を置いて宙に浮かび上がって雲深不知処へ向かう二人に、彼は瞠目した。
「あの忘機が……あんなにも動揺し、緊張し、照れているとは……」
これは、もしかすると……___。
「………いや、そうだったとしたら、忘機はきっと辛い思いをしてしまうだろうね……」
息を一つ吐き出して、藍曦臣も御剣し、姑蘇の空へと飛び上がった。
藍忘機が魏無羨のことをそういった意味で好いていたとしても。魏無羨はいずれ抱山散人の山へと戻り、二度と下山することはない。彼女の山が何処にあるかは誰にもわからず、藍忘機がその山へ行くことはできない。
二人は引き裂かれてしまう。
弟に辛い思いをさせたくはない。
_____さて、どうしようか。
藍啓仁は目の前でにへらと笑った少年に、目と眉をぴくぴくと痙攣させた。未だ成長途中の、美しい顔をした少年の体は布に包まれ隠されてしまえば、性別を不詳に見せる。出会ったばかりの蔵色散人がそのままそこに蘇ったような錯覚に陥るほど、魏無羨は彼の母にそっくりであった。動きやすいよう高く結った柔らかな髪に、その髪を結ぶ紐、顔立ち、態度、笑顔、何もかもが。
一方、藍啓仁に早くから来たことの詫びとこれからの挨拶をした魏無羨は、何故彼にこうまで睨まれているのか理解できず、敵意を無くさせるため笑顔を浮かべるしか無かった。しかし笑顔になってみせたらさらに睨まれるのだから、もう魏無羨は藍忘機に泣きつくしかないと考えた。
「藍湛……!」
全てを語らずとも察した藍忘機は隣に立つ魏無羨にこくりと頷くと、藍啓仁に言った。
「叔父上、魏無羨に何か非がありましたか」
「……いや」
藍啓仁はようやく過去の幻影から、現在へと目線を移し変えた。
よく似ているとはいえ、彼は彼女ではない。挨拶に非があったわけではないし、自分が彼にこのような態度を取ったことこそが非だ。
息を吐き出し、長い顎髭を二度撫でると、藍啓仁は「もう言っていい」と、目の前に立つ二人に告げた。それに了承の意を示し、藍忘機と魏無羨は今現在いた場所___客間である雅室から出て行った。
____しかし油断はできない。彼女ではないとはいえ、彼女の血を引いている。だから藍忘機に見張りを頼んだのだ……。
不安の消せない藍啓仁を雅室に残して出てきた藍忘機は、魏無羨に彼がこれから一年間過ごすこととなる寄宿舎へ案内した。
「ここだ」
「ここが……」
魏無羨は案内された部屋に入り、きょろきょろを見回した。寝台と文机、棚、小さな香炉のみの部屋だ。香炉には何も無く、当然良い香りが立ち込めているわけがなかったが、木の香りが鼻腔を擽り、故郷の山を思い出した。
「卯の刻には起きて、亥の刻には眠らなければならない」
「えぇ〜?それも家規か?」
全てを見失った人→( :D)┸┓ワァー