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    even

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    even

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    焼き付いた時を動かすように、ここに確かにいると示すように無理矢理手を取った。どうか握り返してくれと切に祈りながら。


    写真が苦手な匋平の話。

    ラストフィルム人が居ない夜を探り当てるのが上手い。忍び込むように現れては決まった席を、グラス二杯分程温めて去っていく。約束をした時でなければ大体そうだ。遊びのようなひと時を依織なりに愉しんでゆくのをいつだって自由にさせている。というか、実際縛りようもないからそうさせているだけ。カウンターを隔ててしまえば気侭なタイミングで席を立つ男の翻る裾を掴む事も、この制服姿で追い掛ける事も出来はしないのだ。
    そうやって適度に構われ放置されの待遇にすっかり甘えた男は今夜は何の気まぐれか、先程からスマホをこちらに向けている。
    「……何してんだ」
    疑問形ではない、咎める色を含ませて言ったのは明らかにカメラ部分が匋平の半身を収める角度で見上げてきているから。
    「んは、バレた」
    ニカッと目を細めて依織は親指を動かそうとする。
    「やーめーろ」
    それを察知してわざと大きく移動すると大きな口が不平を垂れた。
    「ええやんかぁ。減るもんやないし」
    板に埋め込まれた黒い無機質な目玉はめげずに追いかけてくる。上へ下へ、右へ左へ。揺れる髪の曲線まで捉えようと。
    「え〜、なんぼ積んだら許してくれますのん」
    「そういう問題じゃねえ」
    …なかなか執拗い。大体の事では折れてやる匋平が時たま譲らなくなると長期戦になりがちだ。そう必死に逃げねばならない理由も特にないのだが、同じ位の強さで写真というものへの抵抗が滲み出続ける。ガキの頃は照れくささが一番大きな要因だった気がするのだが。
    「…何で今夜は折れてくれんの?」
    椅子から落ちないぎりぎりまで体を逸らした依織は作戦を変えたのか、じいと恨めしげな、若干の上目遣いで訴えはじめる。殊勝なように見えて押してダメなら引け作戦や、といつだったか酔っ払った本人が明かしたソレの効果は今でもそれなりにある。だが匋平の首を縦に振らせるまでには至らなかった。
    なあんで。
    拗ねた唇が尖ってそう吐き出すのを黙って見つめながら、確かに何がそこまで自分を頑なにするのだろうとふと思考する。
    「…なんでもだ」
    答えは咄嗟に導けず、少しばかり大人しくなった依織のスマホを奪うか、餓鬼臭い悪さをする手を捕まえるか一瞬迷って骨ばった手首を掴んだ。カウンターにそっと押し付けて宥めすかす。もう一押し、強く拒めば多分依織は退いた。触れる必要はなかったがそうしたかったから、余分な動機を交えて手首のうちを、熱い脈のあるそこをするりとひと撫でだけして手を離す。少し踏み込みすぎた後ろめたさもあった。
    「何でそこまでして撮りたいんだよ」
    得体の知れない、這い寄るものを振り払うように呆れた声を作る。
    「いつでも見に来れんだろ」
    写真になんかしなくても。何度でも、昼でも夜でもここに来ればいい。そういう赦しを仄めかして納得を促した。
    「…せやけど」
    ようやく諦めたのか、放られたスマホはダウンライトだけを見つめて鋭く光っている。手は素直に言うことを聞いたのに口は重く、まだ何か不満を訴えるようだ。
    「想い出に。遺したいやん」
    一度伏せられた瞼が持ち上がり、まだ酔いの入口に立ったばかりの目が匋平を捕らえた。
    ぐっと息が詰まった。
    思わず後ずさった数歩先で後頭部が煌びやかなボトルを収めた棚に当たった。
    呼吸と脈拍が徐々に食い違って別の音を、忙しなく刻み始めた。
    依織の目は、幽霊でも見るかのようだった。
    制服を纏ったこの体を透過して、別の何処かを探すような。腰を、胸を、顔を愛おしげに見上げてくる依織の眼差しが途端に恐ろしく感じられる。逸らすことも出来ずに見詰め返すうちに遠い昔のシャッター音を思い出す。過去に一度だけ、不本意ながら撮られた写真があった。奥行の無い依織の目に映されると何故か、あれに体を乗っとられる心地に襲われる。16歳。依織を懐に招き入れた頃。この得難いものを手放しはしないと、敵無しの未来に期待した頃。あの時カメラに切り取られた幼い自分を依織の目は追いかけている。
    「…想い出?」
    「そ。旦那のこと忘れんように」
    依織は柔らかく唇を撓ませる。
    目の前にいるのに。俺は想い出の、続き。
    だからかと、全てが巡り周り吐き出しそうなものを堪えるように口を抑えた。全部洗い流された訳じゃないと分かっている。ただ互いに不穏の気配を掘り起こすことはなく、語る過去は常に青く、淡く。そうやって再会後の時は緩やかに進んでいた。
    焼き付いた写真の続きだから。依織は抱えていておかしくない負の感情を一欠片も見せない。自分の欲や執着を見せなかったあの頃と打って変わって強引な…その場限りの消耗品のような甘え方をする。許されているから。そして諦められているから。何も依織を波立たせることはない。そういう、ことなら。

    「想い出にも、なってくれへんの」
    伏せたスマホの上に雑に肘を置いて、頬を乗せる男の声が初めて濁る。すっかり飲みほした透明なグラスの中をいくら覗いてもそこにはもう何も無いのに。次いでそこを満たすものを依織は求めない。
    何か大切な、綺麗だったはずの情愛が人質として握りこまれている。今の匋平がそこに触れようとすれば牙を剥かれるのだろう。
    大事に抱えたこの呪いを奪ってくれるなと。


    喉を掻きむしりたい衝動に駆られながら、空のグラスを奪い取った。もう一杯と、ねだって欲しかった。たとえ依織がいらないと訴えても。
    このまま背を向けて歩き出させたくはないから。

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