食えないゆらり、ゆらり。青い光に目を細め空を仰ぐ、揺れる視界はさながら海の底を漂うようなのだろうか。ほらちょうど、ぶくぶくと口内で泡も弾けていて、鼓膜は真っ先に平衡感覚を奪わんと打ちのめしてあるからごおという響きだけを脳に送っている筈。なかなか表現としては冴えている気がする。
ゆらり、ゆらり。依織の目の前で一際大きく揺れてべしゃりと崩れ伏す。重力に身を任せて沈んだ先は青い月光の遥か下、浅く濁った血の水溜まり。
「…………旦那。それはもう済むか?」
「…あ、!もう、終わるッ」
返答に頷く。所詮、海を知らない男の戯言だ。ダウンした体から目を上げると遠くで躍り絡まっていた影が急接近していた。
避ける気もなく煙草を取り出していると背を付けて温くなったコンクリートの壁に振動が走る。匋平が鷲づかむ頭が依織の横に、二度、三度、叩き付けられた。
することもないので顔を横に向けて、見てやった。不細工な顔に張り付いた髪が引きちぎれ一度目、耳が潰れた。二度目、頬の外から白いエナメル質が覗いた。三度目、重い瞼の下の眼球が依織を捉えた気がしたがすぐにすり潰されて鼻と頬の境が消えた。
遠くに放られるのを見守って、匋平の溺れるような息が戻るのを待つ。次第に煙草を食む依織の緩い呼吸にかぶさり、ふたつが静かな夜気に溶ける。
「………」
生臭さの所為か普段の旨味を舌に覗かせない紙巻を依織は訝しげに見つめる。それからゆうるりと口角を引き上げた。手を振って指や爪の間に溜まった血や髪や肉を落としている匋平を低く、ざらついた声で呼ぶ。
「旦那ァ。血ィ付いた」
何かをアピールするように緩く開いたシャツの襟を摘み引っ張って見せる。
「…んぁ?」
匋平は相方を見遣り、派手な柄に混ざれないほど強く存在を主張する染みに辟易して舌を突き出した。だから、気に入りのシャツを着てくるなというのに。自分のやり方がコンパクトに済まない事は分かっているくせに依織は好きな時に好きな物を着る。洗濯係の労力というものを分かっていないのだ。
「…帰ったら洗ってやるよ」
そういう匋平のシャツの方が余程、人間が漏らしうる体液の色々を、できるだけ避けているにはしろ浴びているのだから。汚れ具合としては酷かった。レギンスで手の甲を拭っていると
「…じゃあ、コッチは?」
壁に凭れたまま挑発的な笑みを浮かべて。依織は指輪のはまった指で返り血の飛んだ頬をつついて見せる。ぷにと凹んだまろい頬に、首を傾げる幼い仕草と、それを取り巻く演出を全て間違えた違和感の渦。あざとい唇の下でだぁんなと喉が鳴った。
「…………チッ」
据わった目で依織を視た後、無言にて歩み寄る。つかつかと急くような足音が苛立ちを訴えながらもうひとつ確かな、焦りを含んでいることまでもを依織に届けてしまう。匋平にはもうどうしようもない。から、組まれた腕の上に胸板を押し付けた。細い顎を掴み左の頬に吸い付く。
「…ん、ぅ」
唇で柔いそこを食んで、舌を当てる。点々と散った依織を汚すものを、乾きかけも、濡れたのも全部湿らせ、肌から剥がして。拭いきれたのを確認してから地面に吐き捨てた。
「…うぇ」
こそぎ落とそうとするが血の味というのはしつこく舌に残る。あんなゴミの体液なんざと不機嫌を露わにして、ただこれが依織の「次はもう少し綺麗にやれ」という忠告である事も理解し残りは大人しく飲み下した。
腹の底が酷く苛つく。
乱暴に掴まれた首をさすり依織はんふふと笑っていた。頬を光らせる唾液が擽ったがる子供のような軽い声にそぐわない。匋平の機嫌にも。
「…お前な」
キスの一つくらい貰わねば労働の割に合わないと、壁に手をついてもう一度依織に詰め寄った。だがすげなく肩を押し返されて、顔を顰める。匋平の手を取り踊るように囲いをすり抜けた男はからかうように手を振って通りの方へ歩き出した。
「…、お前が誘ったんだろうが、」
冷えきったコンクリートに虚しく張り付いた空の手を引き剥がし不承不承、立ち上りかけた欲を抑えて後を追う。
「バーカ。ンなの犬に舐められてんのと変わんねぇよ」
振り向いた飼い主の目がぱち、ぱちと緩やかに瞬いた。同い歳の荒くれをそれなりに上手く躾けてきたという自信に満ちた笑みと、それに食い嬲られたいと焦れるような瞳の奥の鈍い猟奇。
「な?よーへい」
頭上でネオン管の継ぎ目が痺れるような電光を泳がせた。壁を伝い駆ける。青く、赤く点滅しては陰る。依織の細い瞳の中でふたつが何度も塗り替わり匋平の足をそこに縫い留めた。
「………」
乾いた喉に沈黙を詰まらせて唾で飲み下す。
まただ。
いつもこうして躱されて、この男を掴めない。真意など、汲もうと手を差し出した側からこぼれ落ちてゆく。霞や水みたい、そんな小綺麗な例えは相応しくない。うっすらと粘度を帯びて熱く、輪郭は曖昧に。ただ、歯をたてた瞬間果汁でも溢れだしそうな、甘さの気配だけ漂わせる正体のわからないナマモノ。血の味をした、ましゅまろの舌触りの頬の弾力の向こうを知りたくて焦がれている。
飢えた鼻腔が震えていた。
匋平の箍にそっと指先をあてがっているのは依織だ。その気になれば振り解けるくらいで、抑制する気があるのか無いのか定かにしないまま匋平の開いた口から唾液が滴るのを見ているのだ。
何もかも癪で、意識して口を閉じた。
なあ、良いのかダメなのかとっとと教えろよ。
口に咥えこまされて、香りだけ舌に乗ってんだ。あとはもうこの歯を沈めるだけなのに、いつまでもバカみてぇに待ってんだよ。
いずれ殺気でも纏いだしそうな匋平の剥き出しの欲を男はいなすばかりで向き合いはしない。
「…マジで、ケツに気をつけろよ」
開いた手で雑に依織の臀を叩き表のネオンの回遊に交わる。おお怖ぇと笑う、背も腹も喉も気安く匋平に晒す男のどこに、いつ齧り付けるかを。眈眈と狙っている。