changeling - 1 カムラの里から招かれた英雄と王国騎士フィオレーネ、二名の狩人が悪名高き古龍メル・ゼナを『撃退』したという報せは、瞬く間にエルガドから各地へと伝えられた。
城塞高地にて捕捉されたかの龍は激しい抵抗の末に包囲網を脱し、行方を眩ませた。しかし激闘の舞台となった城塞跡には剥がれた鱗や外殻、切断された尾の欠片、流れ落ちた夥しい量の血痕が残され、メル・ゼナがもはや討伐直前というところまで追い詰められていたことを物語っている。
惜しくもメル・ゼナを逃したハンター二人も負傷してはいたが、命に別状はなく、怪我の回復を待って追跡班への合流を意気込んでいる。
次、その姿を捉えたならば確実に勝てる。メル・ゼナ討伐に光明を得たエルガド調査団は、希望に沸いていた。
ただ一人、ウツシを除いて。
「お見舞い、ありがとうございます。ウツシ教官」
ベッドの上の男が穏やかに礼を述べる。男に頭を下げられてから、ウツシは一拍遅れて「あ、あぁ」と曖昧に相槌を打った。
遠き地より招かれた英雄に相応しい、王族御用達の上等な船室。立派なベッドの上で半身を起こし、薬師のタドリから治療を受けている男は間違いなくカムラの里の猛き炎その人である。
であるはずなのに、ウツシはその男を自分の愛弟子と認識できなかった。
「ええと、その……怪我は、大丈夫かな?」
手土産に携えてきた茶屋の団子の包みと、ベッドの上の男を交互に見比べながら、どうにか挨拶を捻り出す。
男の手足や顔には包帯が巻かれ、痛々しい姿だが、その姿かたちは確かに愛弟子なのである。
「ご心配には及びませんよ、教官。傷は全て軽傷ですし、こうしてタドリさんが診てくれていますから」
男の落ち着いた声も、確かに愛弟子のものだ。だが、この違和感はどうだ。
「ええ、キュリアの持つウイルスへの感染も今のところ見られません。このまま薬を塗ってしっかりと養生すれば、数日中にはまた武器を握れるようになるでしょう」
男の脈を取っていたタドリがにこりと微笑む。
どうして、なんでこの状況で何も疑問を持たないのだ。ウツシはタドリを信じられないという目で見つめてしまった。
ウツシの愛弟子、カムラの里の猛き炎トラマルは、こんな物腰穏やかな喋り方をするような男ではなかったはずだ。
「教官。回復したらまた、訓練をつけてください。みなさんのためにも、一日でも早く狩場へ戻らなければ」
吊り上がる口角。巻かれた包帯の下で、男の目が細められる。微笑んでいる。
その微笑に、ウツシの背にぞくりと悪寒が走った。
「ぁ、うん……そ、そうだね。訓練なら、任せて。今はゆっくり休もうか」
「はい、そうします」
そう言っておとなしく頷く男の態度に、ウツシはますます訳がわからなくなった。目の前の男が、いよいよ怪物にさえ思えてくる。違和感はいよいよ警戒心となり、目を合わせているだけでモンスターと対峙している時のように心臓がどきどきと早鐘を打つ。
一体、この男は誰なんだ。この包帯の下は、果たしてウツシが知っている、そして心から愛する猛き炎の顔をしているのか。
冷たい汗が、こめかみを流れ落ちる。
「……さぁ、包帯を替えましょうか。ちょっと失礼しますよ」
薬箱の中身を広げ、タドリが椅子から腰を上げた。長い指がそっと、しかし手際よく男の頭の包帯を解いて巻き取っていく。
ウツシはその様子から目を離すことができなかった。金縛りのように突っ立ったまま、呼吸さえ忘れて、男に見入っていた。
包帯が、すっかりと外される。
顔の右側、こめかみから頬にかけての広い部分に赤黒く擦過傷ができ、痣も見えた。痛々しいが、骨や眼球に至るほどの傷ではないらしい。
「俺がまだ未熟だったばっかりに……お恥ずかしい。そんなに見つめないでください」
そう言ってにんまりと笑う男の顔は、確かに愛弟子の顔だった。
でも確かに、ウツシの愛弟子はそんな嫌らしい笑みを浮かべるような男ではなかったはずなのだ。
ウツシは何も言えず、ただ固唾を飲み下すのが精一杯だった。
傷に軟膏を塗り、ガーゼを当てて、清潔な包帯を巻き直す。ひと通りの治療を終えると、タドリは「何かありましたら遠慮なくお声がけください」と言って、船室を去っていった。
部屋に残されたのはウツシと、猛き炎の姿をした何か。
「教官。そんなところに立っていないで、どうぞこちらでお寛ぎください」
男が包帯の巻かれた手で、先ほどまでタドリが座っていた椅子を示す。
この得体の知れない存在の傍でそう寛げる気はしなかったが、不審に思われるのも恐ろしく、ウツシはぎこちなくベッドへ近寄っていった。嫌なのに、拒絶できない。男の言葉には抗い難い強制力があるかのようだった。
椅子に腰を下ろし、小さく息を吐く。男と目線が合う。何か喋ろうとして、何を喋ればいいかわからず、しばし沈黙が流れた。
その間も男はうっすら微笑を浮かべ、ウツシを見つめていた。船の上なのに、波の音が遠い。
「……と、トラマル……?」
ようやく、愛弟子の名を呼んでみた。
「はい」
当然のように、男が応える。強烈な違和感に、再びウツシの背筋が凍りついた。
男は固まるウツシをじっと見つめている。まるで環境生物でも観察するかのような視線が、どうにも居心地が悪い。会話が続けられず、また黙る。
「教官」
声をかけられ、ウツシの肩がびくりと震えた。
「そう固くならないでください。俺たちは、恋人同士でしょう?」
その甘やかな囁きに、心臓が一瞬止まったかのような衝撃を受けた。
荒唐無稽な話だが、メル・ゼナとの戦いで頭を打って記憶を失ったなどというならまだわかる。しかしこの愛弟子は過去の記憶もきちんと残っているし、何よりこの性格の激変に対してウツシ以外の誰も気付いていないのが異常なのだ。
この男は、間違いなく猛き炎にしてウツシの愛弟子であるのに、ウツシの知る猛き炎でも愛弟子でもないのである。
「教官、その団子は俺のために買ってきてくれたんですよね。食べさせてくれませんか? この通り、手の怪我のせいで食べにくいので」
「あ、あぁ……そう、だね」
手に団子の包みを持っていたことをすっかり忘れていた。呼吸を整え、包みを開く。
「俺の好きな味の団子ですね。ありがとうございます」
餡子がたっぷり乗った団子は、昔から愛弟子がよく食べていた味だ。妙な緊張を覚えながらも団子をひと串手に取り、愛弟子の口元へと運んでやる。
いただきますと小さく呟き、愛弟子は差し出された団子をゆっくりと食べ始めた。
唇の下、白い歯が柔らかな団子を噛みちぎり、咀嚼する。思いを交わし、恋仲になってから幾度となく重ねてきた唇である。普段なら愛おしさすら感じるその唇が、今は異様に恐ろしい。
「美味しいですね」
ごくんと嚥下して、愛弟子が艶然と微笑んだ。
「そ、そう……」
俺の愛弟子は、こんな笑い方なんてしない。ウツシは目の前の男は愛弟子ではないと確信しつつあった。
では、この男は一体誰なのか? 男は微笑みを浮かべたまま、美味そうに団子を食べ続けている。ウツシは男に団子を食べさせながら、頭の中で必死に考えを巡らせる。
彼は一体何者なのか。誰かが愛弟子と入れ替わっているのか。だとしたら何故自分以外誰も気が付かないのか。
それとも逆に、俺自身の愛弟子への認識が突然変わってしまったのか? 俺は何かの病気に罹ってしまったのか?
愛弟子がおかしいにせよ自分がおかしいにせよ、何か恐ろしいことが起きているということに変わりはない。こんな時に、せめてヒノエやミノトがいてくれたら。愛弟子とも家族同然の付き合いのある彼女たちからの意見もあれば、もっと冷静にこの事象を検証できるのに。
今、このエルガドに彼女たちはいない。適当なところで見舞いを切り上げ、里に文を飛ばして二人に来てもらうべきか――。
そんなことを考えていると、不意に扉を叩く音がした。
「どうぞ」
愛弟子ではない何かが、愛弟子の声で客を船室に招く。
「失礼する……トラマル、怪我の具合はどうだ? あぁウツシ教官も一緒だったか」
扉を開けて入ってきたのは、トラマルと共にメル・ゼナ討伐に赴いた騎士フィオレーネであった。彼女もまた少なからず負傷はしていたが、エルガドの中を歩き回るには支障のない程度の軽傷で済んでいた。
にこやかな笑顔を浮かべてこちらへ歩み寄ってくるフィオレーネもまた、愛弟子の変化にはどうやら気が付いていないらしい。
「お、団子か。やはり甘いものは疲れを取るのに一番ということだな」
「ええ、教官がお見舞いに持ってきてくださいました。ちゃんと滋養を取ってゆっくり休めば、怪我もすぐ治るとタドリさんも仰っていましたよ」
「そうか、それを聞いて安心した。メル・ゼナは今、バハリたちが痕跡を追っている。彼らが奴の居場所を突き止めてくれるまで、しっかりと休んでくれ」
タドリに続いてフィオレーネも愛弟子と当たり前のように会話している。やはり、異変を感じているのは、エルガドではウツシだけのようだ。
どうにかして、この謎を解明しなくては。
二人の会話を黙って聞きながら、ウツシは静かに決意した。
愛弟子が、豹変してしまった。
今やエルガドの主戦力であるカムラの猛き炎が、まるで人が変わったかのように振る舞っているというのに、エルガドの人々は誰も気が付いていない。いくらなんでも不自然過ぎる。
危機感に駆られたウツシは早速里に向けて文を書いた。ヒノエやミノトなど、古くから愛弟子を知る者を呼べば異変を指摘してもらえると考えたからだ。
しかし。
「……船が出せない、だって?」
折悪くエルガドの沖合では季節外れの嵐が来ているらしく、船便は止まり、フクズクも行き来させるのはやめたほうがいいと船員たちから言われてしまった。
ならばせめて愛弟子のオトモがいればとも思ったが、実はそのオトモたちはメル・ゼナとの戦いの際に行方知れずになっており、調査隊がメル・ゼナ追跡の傍ら捜索してくれているが未だ足跡が掴めずにいた。
風向きが悪過ぎる。まるで妨害されているかのようだった。
(……いや、こんなのはただの偶然だ)
港でひとり頭を振り、ウツシは騎士団の指揮所へと足を向けた。
ウツシは根気強く、エルガドの人々に尋ねて回った。最近愛弟子のことで何かおかしなことがなかったか。何か気付いたことはないか。
だが、有力な情報はなにも得られない。
「トラマルがどうだって? いやぁあいつは大した奴だよ。英雄と呼ばれるだけのことはあるな」
「ついさっきお話してきました! トラマルさんは騎士ではないですが、誰よりも騎士らしいお人ですよね! 尊敬してます!」
「最近は勉学の大切さにも気付いたと仰っていましたね。本が読みたいということでしたので、私の持っている本を何冊かお貸ししました」
違う、愛弟子はこんな子じゃなかった。口々に英雄を褒め称える人々の言葉が、今は少しも嬉しくない。悶々としながらウツシは指揮所を後にして、エルガド全体を一望できるいつもの足場へと登る。
ウツシの知るトラマルはとても不器用で、つい最近まで戦うことでしか自分を表現できなかった子だ。細かいことが苦手な反面、とても繊細な心の持ち主で、常に誰かを傷つけてしまうことを恐れているような子だった。
里の人々を心から愛し、そして人々から可愛がられてきた、それがウツシの愛弟子。
そうだった、はずだ。
(……そう、だよね?)
過去の愛弟子を回想しながら、ウツシの脳裏を掠めた僅かな疑念。
――いや、待ってほしい。ウツシの愛弟子は百竜の淵源を討ち倒した紛うことなき『英雄』だ。もっと欠点のない完成した人格の持ち主ではないか? 今の愛弟子のほうが、むしろ英雄の呼び名に相応しいのでは?
いやいや! そんなことはない!
心の内からふっと湧き出たそんな疑問に一瞬流されそうになって、それからぞっとして首を大きく横に振る。
未完成で未熟な精神性を抱えながら、自分が完璧ではないことを自覚して、常に自己を厳しく律していこうとする愛弟子の実直朴訥さをウツシは愛しているのだ。
俺は一体、何を考えているんだ?
己の内に浮かび上がってきた謎の疑問に、ウツシはただただ戦慄するしかできなかった。
「ウツシ教官」
はっとして顔を上げる。しかしその呼び声がずっと足元のほうから聞こえてきたことに気がついて、すぐにそちらを見た。
ウツシの足元には茶屋がある。茶屋の主のアズキと、エルガドで愛弟子が居住している船室のルームサービスが二人並んでこちらを見上げていた。
「ど、どうしたんだい?」
慌てて表情を繕い笑顔を浮かべると、それまで少し怪訝そうであった二人のアイルーはほっとしたような表情になる。
「トラマル様から伝言ですニャ。今夜はお部屋で一緒に夕食を召し上がっていってほしいそうですニャ」
呼ばれている。
そう思った瞬間、どきりと心臓が跳ねた。