Changeling - 6 この頃、どうにも違和感を感じるのである。
王都へ送る報告書のチェックをしながら、騎士フィオレーネはふとペンを止めた。
日常の何気ない瞬間に、何故か心に引っかかるものを感じて度々仕事の手が止まる。同僚のジェイやルーチカ、ガレオス提督にもまだ体調が戻っていないのかと案じられたが、そんなことはない。既にいつ狩場に復帰してもいいくらいに回復し、気力も体力も充実しているのだ。
しかし、違和感はあってもそれが何故なのか自分でもよくわからない。
メル・ゼナは未だに発見されていないから気になるのは皆同じだが、それに関しては調査隊の頑張り次第なのでフィオレーネにできることはあまりない。キュリアの動向も相変わらず活発だが、それも研究班次第だ。それらはきちんと理解しているし引っかかるということもない。
あとはなんだろう。フィオレーネはペンを置き、顎に右手を添え思考を巡らせた。
狩場の環境について。王域生物の活発な活動について。エルガド周辺のモンスターの活動。大穴サンに変化があるかどうか。本国で建造中の例の兵器について……。
ぐるぐると考えるのだが、違和感の原因はそれらのどれとも違う気がする。
じゃあなんだろう。もっと身近で気が付きにくいことだろうか。そう思って、マーケットのほうを見た。海風が吹き抜ける桟橋の上を、人々が忙しそうに行きかっている。
騎士。ハンター。研究員。船員。職人。アイルー。目に映る人々を順々に視線で追っていき、さらにぼんやりと考える。
いつもと違うところ。いつもと違うこと。それを探しながらマーケットの出店の傍に立っている教官のアルローの姿を見て、そう言えばここにはもう一人「教官」と呼ばれる人が滞在していることを思い出した。
(そういえば、このところウツシ教官も少し様子が変だったな……)
カムラの里からやってきた若い教官、ウツシ。里の隠密でもあり、日夜愛弟子トラマルを見守りながら様々な任務をこなす凄腕の男は、ここ数日妙に元気がない。
思い返せば、彼はエルガドの住人たちにいろいろと聞いて回っていたりした。自分も確か、トラマルの様子について何か気になったことはないか、と尋ねられた気がする。
今やトラマルはメル・ゼナ討伐に欠かせぬ大事な仲間だ。おかしいところがあればすぐに気付くつもりでいたが、それでもウツシとトラマルが重ねてきた年月には敵わない。フィオレーネが倒れた折にはアルローも「これがトラマルだったらウツシが真っ先に気付いていただろう」と言っていたし、ウツシはやはり何かを感じ取っているのかもしれない。
そう思って、ここ最近のトラマルについて思い返してみる。
怪我も順調に回復して、フィオレーネが見舞いに行けばモンスターや狩場の環境について意見交換をしたり、加工屋で開発中の新しい装備について評論したりと、話のたねも尽きない。
礼儀正しく、勉強熱心で、話上手で……。
「……うん?」
そこまで考えて、はたと気が付いた。
トラマルは――英雄という肩書きを取り払ったただのトラマルは、果たしてそんな男だったか?
狩猟技術こそ目立つものがあったが、出会った当初のトラマルは人見知りするきらいがあって口数も少なく、初めて訪れたエルガドでは目に映るもの全て物珍しそうに眺めていた、田舎育ちらしい素朴な青年ではなかったか?
英雄などという大層な肩書きを背負っていけるか、少し心配になるようながむしゃらなところのあるハンターではなかったか?
その違和感に気付いた瞬間、背筋をぞわりと悪寒が走った。
「!!」
がたん、と音を立てて椅子から立ち上がる。側にいた調査員たちが驚いたようにこちらを見てくるが、そんなこと気にしていられる場合ではない。
「すまない、ちょっと出てくる!」
それだけ言い残して、フィオレーネは詰め所から飛び出していった。
海上で吹き荒れていた嵐は、どうやら過ぎ去ったらしい。不意に現れて入港してきた船に、エルガドは一層賑わっている。
今日は一段と海風が強い。人をどこか落ち着かない気持ちにさせる風だ、と空を見上げるウツシは思った。
カムラの里からの貨客を載せてやってきたのは、王国騎士の一員で現在は交易商としても活躍しているロンディーネの船だった。船が接岸するや物流担当の者たちが慌ただしく動き始め、てきぱきと積荷を確認し、陸へと引き揚げていく。
「ウツシ教官!」
その様子をそわそわとしながら眺めていたウツシは、船の上から響く凛とした声にはっとして振り返った。
甲板の上から、船の主のロンディーネが深緑色のマントを翻し、こちらに向かって降りてこようとしているところであった。しかし、いつもであれば自信に満ちているはずの彼女の顔は、どこか困惑しているように見える。
「ロンディーネさん! もう航路は大丈夫なんですね!」
陸地へと降り立ったロンディーネにウツシが駆け寄る。
「あ、あぁ。まだ少し波は高いが、船の航行に問題はないよ。それよりも……」
どうにもはっきりしない表情のロンディーネが、ちらりと甲板を振り返り、再びウツシを見る。
「……あの、トラマル殿は?」
「愛弟子ですか? え、ええと……」
今度はウツシがしどろもどろとする番だ。
どこから話したらよいだろうか。確かに愛弟子と呼べる人物はすぐ近くにいる。しかし素直に「愛弟子はそこにいますよ」と答えることはできなかった。
メル・ゼナと戦って負傷したことは確かだが、問題はそこではない。だが、果たして「愛弟子が愛弟子じゃなくなった」と言ってわかってもらえるかどうか。
そうやってウツシが逡巡していると、甲板の上に二つの影が立った。
ウツシとロンディーネが同時に振り返る。
「ウツシ教官」
耳馴染んだ柔らかな声がウツシを呼ぶ。ヒノエの声だ。見れば眩しい陽光を背にしたヒノエとミノトの姉妹が、並んでこちらを見下ろしている。陰になって、その表情はよく見えない。
でも、どうしてだろう。その穏やかな声音を聞いて、ウツシの背に言い知れない悪寒が走ったのだ。
「トラマルさんは、お部屋におられますね?」
「え? あ、はい……」
なんで愛弟子が部屋にいるのがわかったのだろうと一瞬疑問に思ったが、どうにも得体の知れない威圧感に、素直に首肯せざるを得なかった。ウツシが頷くのを見て、姉妹は滑るような動きで悠々と船を降りていく。英雄の為に宛がわれた部屋は、港に停泊しているもう一隻の船にある。そのことは彼女たちも知ってはいるが、これまで彼女たちがわざわざトラマルの部屋へ足を運ぼうとしたことはなかったはずだ。
確かに姉妹とトラマルは里で家族同然に育った仲で、里にある水車小屋には二人もちょくちょく顔を出していた。しかしここエルガドでトラマルはメル・ゼナ討伐と王域生物の脅威を抑える要として招かれた英雄の立場にある。そのことは姉妹もよくわかっているので、エルガドではそこまで馴れ馴れしい行動はとらないようにしていたように思う。
その二人が、わざわざ船でエルガドまで来てそのままトラマルの部屋へ行こうとしていることに、ウツシはどうにも違和感を覚えた。
「……あの二人から、トラマル殿に会いに行きたいから船を出してほしいと頼まれたんだ」
トラマルの居室のある船へ迷いなく歩いていく姉妹の後姿を見送りながら、ロンディーネが困惑気味に呟いた。
「嵐のせいでまだ船は出せないと言ったんだが、もう嵐は止むから大丈夫と押されてしまってね……実際、止んでいたから問題なくここまで来れたわけだが、何故彼女たちは嵐が止むことがわかっていたのか……」
訝しむロンディーネの横顔と、姉妹の背を見比べながら、ウツシは胸の奥で徐々に大きくなる不安感に何も言えずにいた。
――カムラの里のヒノエ様とミノト様がお見えになっておりますが、お会いになりますかニャ?
来客の取次ぎをしたルームサービスのアイルーからそう訊ねられ、トラマルの顔をしたメル・ゼナは二つ返事で了承した。好機だと思ったからである。
ヒノエとミノトはトラマルと家族同然に育った仲だ。会えばここにいるトラマルが偽物であることは忽ち露見するだろう。だがそれでいいのだ。
エルガドの人間が気付かなければいいだけなのだ。この姉妹にばれたとしても、なんら問題はない。そして姉妹がいなくなったとしても、部外者であるエルガドの人間はすぐには気が付かないはずだ。だから、それでいい。
「俺の家族も同然の二人です。どうぞお招きしてください」
顔がにやけるのも抑えきれずに、メル・ゼナはアイルーに二人を部屋に入れるよう伝えた。アイルーからは家族に久々に会える喜びの笑顔に見えたか、特に不審に思われることはなかった。
ヒノエとミノト。カムラの里のツワモノに数えられる腕利きであり、百竜夜行の折にはその原因たるイブシマキヒコとナルハタタヒメの二頭と共鳴した経験のある竜人。ただの人間よりもその生気の質は龍に近いものだろう。この二人を贄として、エルガド制圧の狼煙を上げるのだ。
メル・ゼナは、実にわくわくとした心持ちで二人を迎え入れた。
「「お邪魔します」」
開いた扉から、声の揃った挨拶が聞こえる。外の明るさを背負い、二人の嫋やかなシルエットが視界に飛び込んでくる。
「今日は新しい花結を持ってきました」
「私たちの祈りを込めたので、是非付けてください」
竜人用の、小さく可愛らしい下駄がこつこつと鳴る。穏やかな笑みを湛えてこちらへやってくる姉妹を、メル・ゼナは両手を広げて出迎えた。
「俺のために? それは嬉しいな。ありがとう」
捧げ物を躊躇なく受け取るのは、君臨する龍のさがか。ヒノエとミノトが差し出した、可愛らしい花結。花も葉もまだ瑞々しいそれを、龍は迷うことなく腕に嵌めた。
ぎゃあああああああああああああああ!!!!!
平和なエルガドのマーケットに、突然絶叫が響いた。
誰もが驚き、顔を上げる。次の瞬間、船の甲板から人影がもんどりうって桟橋へと落下してきた。
船の舳先付近に店を開いている雑貨屋のオボロがうわっ!? と声を上げつつ、傍にいたアイルーのスピーを抱えて素早く飛びのく。周囲の者たちも突然のことに瞠目し、その場で硬直する。
「ああッ!! あ、がぁあああああッッ!!?」
マーケットの空気が、瞬時に凍りついた。無理もない話だ。
受け身も取れず桟橋の上に落下し、そのまま地獄の亡者のような絶叫を上げて悶える人影は、皆の期待を一身に受ける英雄、カムラの里のトラマルなのだから。
バチバチと火花が爆ぜる。何もない場所で、トラマルと呼ばれた男の体が勝手に爆ぜ、火花を散らしている。その度に四肢がめちゃくちゃに動き、絶叫を上げる。急に冷たくなった海風に、血と肉の焦げる臭いが混ざる。
「見るな! 下がれ! 全員建物の中へ退避しろ!!」
マーケットの近くにいたアルローが咄嗟に叫んだ。その声をきっかけに、凍りついていた人々が悲鳴を上げ始める。
腰を抜かしてへたり込む者。恐怖に震える者。その中で辛うじて動けたハンターや騎士たちが、必死に人々を引っ張って下がらせようとしている。
どうした、何があった、と控えていた騎士たちが指揮所から出てきた。異変に気付くや、とにかく姫を安全な場所へ、非戦闘員を退避させろと素早く動き始める。
混乱と戦慄の巷と化したマーケットを桟橋から見つめ、ウツシとロンディーネは何もできずに茫然としているより他なかった。あまりにも理不尽な光景だった。
あ、とロンディーネが不意に小さく声を上げる。振り返ると彼女は甲板の上を見ていた。
ウツシもそちらを見上げ――思わずひゅ、と喉が鳴った。
雲が日差しを遮った。冷たい海風が吹き抜ける。翳る甲板の上で、二つの影がマーケットを見下ろしていた。言わずもがな、ヒノエとミノトの二人だ。だがそれはウツシの知る二人ではなかった。
普段からあまり表情のないミノトは元より、いつもにこやかなヒノエですら表情が消えている。それなのに、爛々と輝く瞳は怒りと憎しみに満ちている。温和で優しい二人が、家族同然のトラマルに対してそのような目を向けるなど考えられないことだ。
しかし、ウツシには覚えがあるのだ。
「百竜の、淵源……」
乾いた声が漏れる。
そう。トラマルが討伐したあの古龍たち――長きに渡りカムラの里を百竜夜行によって苦しめていた、イブシマキヒコとナルハタタヒメ。あの番と姉妹が共鳴した時と全く同じ気配なのだ。
百竜の淵源は確かにトラマルによって討伐された。それはウツシが一番よく知っている。愛弟子が相打ちとなる覚悟で討ち取った龍が、何故今更姉妹と共鳴しているというのか。
ウツシの知らないところで、とてつもなく理不尽な何かが起きている。ウツシは事の重大さに気付くと同時に、どうすればいいのかまるでわからない絶望感に打ちのめされていた。
「ウツシ教官! ロンディーネ!」
酷く緊迫した声を上げ、指揮所のほうからフィオレーネが走ってくる。
「なんだこれは! 一体何が起きているんだ!?」
「あ、姉上! 危険です、離れて!!」
フィオレーネが荒れ狂う電撃の火花に近付こうとして、ロンディーネに止められた。ウツシですら止める術を持たないのだ。この惨劇は、とっくに人智を超越してしまっている。
「ちがっ、ちがう……! やめ……! お、おれはちがうぅぅッ……!!」
猶ももがき続けるトラマルが、ごぼごぼと口から血の塊を零しながら呻く。終わらない強力な電撃の責めによって、火花は間断なく迸り、生きながら血は沸騰し、体はだんだんと焼け焦げ炭化しつつあった。
ごう、と風が吹き抜けていく。
「「我らの生命を奪い、仔らをも奪った大逆の人間。我らの領域まで奪うのか」」
ヒノエとミノトが口を開いた。その声はいつもの穏やかな音ではなく、轟く遠雷のようなおどろおどろしい音をしている。
「くそォ……! 人間如きに狩られた、惰弱な生物がァ……! 俺は違うと、言っているだろうが……!!」
最早人型をした焦げ肉の塊と化しつつあるトラマルが、痙攣する腕を天に伸ばす。空を掴もうとするかのように掲げられた右手には、花結が嵌っている。その花結だけが、今朝摘んできたばかりかのように瑞々しい。
「俺は、必ずや空に舞い戻るのだ……! 貴様らなど、この俺の食い物に過ぎんというのに……ッ!!」
「痴れ者が」
苦しげに呻く黒焦げに向かって、ミノトが――いや、ミノトを依代とした何かが静かに一喝した。吹き付ける風に逆らい、長い黒髪がぶわりと浮き上がる。かつて龍宮砦跡でウツシが遠目に見た、あのナルハタタヒメの触手のようであった。
「我らの仇の姿で龍に成ろうなど、無礼千万。己が身の不徳を恥じるがいい」
雷神龍の怒りか、空はいつの間にか黒雲で覆われていた。分厚い雲の合間にちかちかと閃光が走り、まさに龍が唸るような低い轟きが響いている。
「人は人のまま、苦難の泥に塗れ、地を這いずり続けるのがお似合いだ!」
雷が来るぞ、伏せろ、建物に避難しろ、と騎士たちが声を上げ始めた。大気が震え、肌がひりつく。
「あ……あぁ……」
半開きの口から、最早意味を成さない音だけが漏れる。最早滅びの宿命からは逃れられぬと悟ったか、黒焦げの肉塊は力無く腕を下ろし、錆び付いたからくりのような動きで首を擡げる。
「き、きょう、かん」
電撃に焼かれた愛弟子の顔で、肉塊はウツシを見上げていた。硬く焦げた皮膚が割れて赤黒い血が滲み、頭髪は燃え、瞳は熱によって白濁し視力を失っているように見える。
しかし、彼は今にも泣きそうな顔で、ウツシを見上げていたのだ。
「教官、たすけて……お願いです……助けて……!」
恥も外聞もなく助けを求める瀕死の愛弟子を前にして、ウツシがふらりと前に進み出た。
「ウツシ教官……!」
フィオレーネが不安げに声を上げる。ウツシはそれを意に介さず愛弟子の前に歩み寄り、ゆっくりと膝をついた。
「……助けて、か……」
ぽつりと呟く声に、マーケットがしんと静まり返った。
「その言葉が言えれば、あの子ももっと生きやすかったろうにね」
「……!!」
愛弟子の姿をしていた肉塊がはっと目を瞠る。
「キミは俺の愛弟子じゃないよ。俺の愛弟子は、どんなに追い詰められても絶対に『助けて』なんて言わないからね」
そう言ったウツシは、とても悲しそうな顔をしていた。
フィオレーネが、ロンディーネが、マーケットにいる人々が。ウツシの言葉に呆然とする。何故かその言葉が妙に腑に落ちるのだ。
嗚呼そうだ。カムラの里の猛き炎トラマルは、例え窮地でも泣き言など言うような男ではなかったはずだ。巧みな言葉で人々を篭絡し、他者をいいように使う男ではなかった。
では、何故我々はこの男をトラマルと認識していたのか? そもそもこの男は一体何者なのか?
人々が突然夢から覚めたような感覚を覚えた、次の瞬間。
カッ、と眩い光がエルガドを漂白した。