Changeling - 5 世界を大雑把に分別すると、奪う者と奪われる者に分けられる。この俺がどちらに入るかといえば、間違いなく『奪う者』の側だ。生まれてからこのかた、実に多くを下し、生を奪い、また捧げられてきた。
世界はそのようにできている。これからもずっと、頂点に立ち続けるのはこの俺なのだ。
穏やかな波の揺れはまさしく揺籠。寝心地のよいベッドに腰を下ろし、静かな船室の中で一人本のページを捲る。
給仕のアイルーが淹れてくれた紅茶の香りにふと気付く。そうだ、冷めないうちに味わうとしよう。カップを持ち上げ一口啜る。柑橘の香りと茶の風味が程よく調和し、頭がすっきりとするようだ。
ああ、人の身で味わう贅沢とはなんと甘美か。
カムラの里の猛き炎、トラマルは――いや、トラマルの姿をした「それ」は、英雄として人々に傅かれる暮らしを心から謳歌していた。
それらしい振る舞いさえしていれば、拠点の住人たちからはちやほやされ、身の回りの世話もしてもらえる。寝床は清潔で居心地がよく、食事も美味しい。少々窮屈で自由に動き回れないことだけが難点だが、怪我を癒して英気を養うにはうってつけの暮らしだ。
特に気に入ったのが、人間たちが著した本だ。ルーチカという女から借りたこの本には王国の歴史が物語として描かれており、しばしば「自分」が脅威の存在として災害のように記されているのが面白い。寝る前についつい読み込み過ぎて、気付けば夜が明けていた時もある。
できることならもっとゆっくり本の世界に浸っていたいところだが、時は有限だ。紅茶を飲み干し、本を閉じる。
傷は癒えかけている。だが、まだまだ他の生き物の生気が必要だ。具体的には、人間なら数十人分の生気が欲しい。そうすれば傷は忽ち癒え、「それ」は再び空を手に入れられる。
この拠点の人間や獣人らを食い尽くし、周囲に住むモンスターや生物を平らげ、力を取り戻す。英雄も騎士もハンターも、何もかもいなくなる。全ては「俺」の思いのまま――。
「それ」、つまるところ、人間たちからは「メル・ゼナ」と呼称される古龍は、そう遠くない未来を思い描き、にやりと笑った。
生まれながらの収奪者、常に奪う者であるはずの龍が窮地に立たされたあの日。つまりカムラの里の英雄トラマルと、王国騎士フィオレーネが城塞高地にメル・ゼナを追い詰めたあの時。
二人のハンターに圧倒され、生まれて初めて人間に恐怖したメル・ゼナは、まさしく死に物狂いで抵抗した。
――この俺が、こんなところで終わるわけがない。終わるものか!
その一心で三又尾を繰り出す。長丁場の戦いに疲労も濃くなっていたハンターを捕え、その身に牙を突き立て生気を啜った瞬間、何かが龍に囁いたのだ。
この現実を認められないなら、何もかもひっくり返してしまえばいい、と。
その囁きを聞いた瞬間、特に命じたわけでもなくキュリアたちがハンターに群がった。それから何が起きていたかは、メル・ゼナ自身もよくわかっていない。気が付くと、メル・ゼナの意識は人間の形をした何かに宿っていた。
そしてすぐそばで気を失っていた女騎士が目を覚まし、こちらを見てこう言ったのである。
「大丈夫か、トラマル。メル・ゼナの姿が見えないが……今は一度退いて、体勢を立て直そう」
落ち着いてからわかったことだが、この人間体を構成しているのはキュリアである。数十体のキュリアが群体となって歪な人型を形作っている。本物のメル・ゼナの身体は城塞高地の奥地で眠っており、ゆっくりと傷を癒していた。
キュリアは時折周囲の人間を襲い、特殊なウイルスを伝染させている。このウイルスは毒性が弱い代わり、ある種の幻覚作用を引き起こす特性があり、感染した人間はこちらを無条件でカムラの里の英雄トラマルであると認識するようだった。女騎士フィオレーネがこちらをトラマルとして扱うのもそのせいであるらしい。
そして驚いたことに、トラマルという人間についての記憶もまたキュリアがもたらしてくれたのだ。生気を吸うように、情報を吸い取って我が物にすることができるのはメル・ゼナも初めて知った。
せいぜい二十数年ばかりの人間の記憶など、数百年を生きる龍にとっては本をさらりと読み通すようなもの。そこで得た知識を利用して、まんまと英雄になりすますことに成功したのである。
運が良いことに、エルガドの住人は最近やってきたトラマルのことをよく知らない者がほとんどだった。彼らの価値観に合わせて、騎士が重んじるような礼儀正しさ、勤勉さ、勇敢さを演じてやれば、問題なく「英雄」として認識される。だから多少言動や振る舞いがおかしくても、キュリアが引き起こす幻覚作用も併せて自然と受け入れられたのである。
もう一つ運が良かったことは、エルガド近海で嵐が起こっていたせいで船の便が止まっていたことだ。おかげで本物のトラマルを知るカムラの里から人の往来がほとんどなく、入れ替わりが知られることを防げた。
唯一エルガドに残っていたウツシという人間だけは、こちらをトラマルと認識しつつも偽者であることに気付いていたので、里の人間が多かったらきっと失敗していたことだろう。この幻覚作用はそれほど強いものではない。このトラマルは偽者だという認識が高まれば、簡単に解除されてしまう。
一方で、本物のトラマルはどこへ行ったのか?
メル・ゼナ自身もよくわからないが、オトモのアイルーとガルクを含めてこの拠点にいないということは、きっと城塞高地に取り残されたままなのだろう。あの時もかなり負傷していたはずなので、その状態で支援もなく狩場に残されたということは、ほぼ死んでいると見ていいだろう。万が一生きていたとしても、獰猛なモンスターや過酷な気候の中で十分体力を回復させることは難しいに違いない。一方、こちらは悠々と体を休め、英気を養っている。次に見えた時、勝つのは間違いなくこちらだ。
そして今気にするべきは、カムラの英雄の生死ではない。
メル・ゼナはごろりとベッドに寝転がり、天井を仰いだ。
今もキュリアがウイルスを撒き散らしつつ、人間に気付かれない程度に少しずつ生気を集めてはいるが、メル・ゼナ本体の古龍の体を癒すにはまだまだ足りない。
兎にも角にも今は少しでも多く生気を集め、効率よく傷を癒さねばならない。その為にも、最初の獲物は慎重に選ばなければ。
適当にその辺を歩いている人間を誘い込んで襲ってもいいが、この拠点の人間はだいたいが顔見知りだ。誰かがいなくなればすぐに周囲の者が気付くだろう。となれば、襲う順番は重要だ。
キュリアが構成するこの体は脆い。警戒している騎士相手ではきっと歯が立たない。まずはこの船の周りで仕事をしている船乗りや、非戦闘員の研究者などから少しずつ生気をいただいて力をつけたところで騎士やハンターを狙う。
適度に弱らせたところでキュリアをさらに呼び寄せ、一気に拠点を制圧して生気を吸い尽くす……これなら勝てる。
一人納得して頷き、ベッドから身を起こした。
――ただ、嗚呼、一つだけ残念なことがある。
それはカムラの里だ。
棚や窓の近くの壁など、この部屋で目につきやすいところには必ず里の写真が飾ってある。そして一番手に取りやすい机の上にはあの男、ウツシの写真が置かれている。
メル・ゼナは立ち上がり、その机の上の写真立てを取り上げた。
トラマルという人間の、故郷カムラの里と、想い人であるウツシへの愛着は途轍もなく深い。その記憶を奪ったメル・ゼナさえ思わず羨ましいと感じるほど、故郷と想い人に対する記憶は幸福に満ちていた。
魂を野生に引き摺られ、人の社会に馴染めずにいたトラマルさえおおらかに受け入れ、狩人として大成させたウツシと里の人々の優しさと逞しさ。そんな人々に支えられて過ごす日常の温かさ。トラマルが命を擲ってでも里を守ろうとした気持ちも、わからないでもなかった。
実際に里へ行ったことのないメル・ゼナですら、こうして目を閉じればありありと思い出す事ができる。重厚な大門。朱塗りの橋。笑顔で話しかけてくる馴染みの人々と、たたら場の大屋根。花の香の漂う風も、立ち昇る飛竜避けの煙も、滔々と流れる大河の音も、思い起こすだけで心地よいのだ。
俺もあの里へ行って、ただのトラマルとして人々に愛されて暮らしたい。だが、行けば俺がトラマルではないことが露見してしまう。
手が届かない場所にあるわけではないのに、絶対に手に入らない『幸福』。古龍としてのメル・ゼナの生とは一切関係のない、ある意味別世界にある輝かしいものを目の前にちらつかせられ、メル・ゼナの気持ちに僅かな揺らぎが生じていた。
欲しいと思ったものは全て奪ってきた。貪りたいと思ったものも全て喰らい尽くしてきた。このエルガドを陥れて人間の生気を吸い尽くし、傷を癒して元の古龍としての生に戻り君臨し続ける。それでいいと思っていたはずなのに、俄かに満足できなくなってしまった。
全てを奪う龍として、ちっぽけな人間のちっぽけな幸いが奪えないことが、歯がゆくて堪らないのであった。
「……ふん、詮無いこと」
窓の外を海鳥が悠々と飛んでいく。それを軽く睨み、苦し紛れに吐き捨てる。
惑うな、俺よ。メル・ゼナは己自身に語りかける。
たかだか数十年しかない人間の生に何を期待することがある。龍として百年の栄華に君臨すればいい。それは孤独ではない。孤高なのだ。
頭ではそう理解しているのだが、心がどうにも納得しない。ぎり、と奥歯を噛みしめる。
胸の奥の葛藤を押し込め、写真を伏せて机の上に置いた。窓から差し込む陽の光が、机の上を眩しく照らしている。その光が明るいほど、陰にいるメル・ゼナの姿は暗く沈んで見えるだろう。
いいさ。手に入らないものなら、徹底的に叩き潰してしまえばいい。
気持ちを切り替えるために深呼吸をする。
芽生えた甘い願いは叶えられることなく暗い感情へと反転した。こちらを愛してくれないというのなら、とことん苦しませてやれ。
ウツシに「お前の愛した英雄はもういない」と言ってやった夜のこと。あの困惑と動揺に塗れた男の顔といったら、実に痛快であった。
あれは実際ほとんど嘘はついていない。トラマルは本当に己という者が希薄なのだ。里が好き。ウツシが好き。だから彼らの誇れる英雄でありたい。その一心でここまで登り詰めた男だ。エルガドでは王国騎士のような人間こそ貴ばれるというのであれば、そのように振る舞うのは何もおかしいことではないはずだ。
エルガドの人間たちを壊滅させてやる時が来たら、ウツシは一番最後にしてやろう。目の前で人間たちの生気を啜り、今度はあの男の顔を恐怖と絶望で塗り潰してやるのだ。
そうして最後にウツシを殺し、エルガドから海を越えてカムラの里に行こう。百竜夜行の恐怖から解放された里を再び破滅させてやろう。
芽生えてしまった人の情を殺し、龍としての己を取り戻す。その為には禊が必要だ。
メル・ゼナは決意を固め、再び窓の外の海原を見遣った。
――不意に視界に映ったものに、思わず身を乗り出す。
「……船だ」
穏やかな湾の向こう。遠く、陽光きらめく波間に、来ないはずの船影が見えたのだ。