お前が好きだと言えた時 彼が帰ってくれば全てが元通りになる。
そう確信していた――時もあった。
「キース?」
不意に己の名を呼ばれ、物思いに耽っていたキースは現実に引き戻される。バーカウンター越しにこちらを覗き込んでいたのはディノだ。眉尻の下がった、気遣わしげな顔。
「どうした?」
「どうした、はこっちの台詞だよ。全然戻ってこないからさ」
そう語るディノが視線を向けた先にはジェイやブラッド、リリーたちが居る。今日は久しぶりに全員揃っての飲みの席だった。先ほどまでキースはBarエリオスとして皆のカクテルを作っていたが、ひと段落した後もバーカウンターから彼らの様子を眺めていたのだ。
今にもささくれ立ちそうな気持ちを、鎮めるために。
「別に。こっちの方がすぐ酒飲めるしなぁ」
体よくそう返して、グラスの中でゆらめく蜂蜜色の液体を煽った。しかしディノの不満げな表情は崩れない。
「それじゃあ一人飲みと変わらないだろ。せっかくみんな居るんだから」
「へいへい。すぐ行くよ」
シッシと手で追い払えば、ディノは渋々と言った様子で皆の輪の中に戻っていった。彼に何事か話しかけられたブラッドの目が、ちらりとこちらに向けられる。咎めるような視線から逃げるように、キースは煙草に火をつけた。
最初はただ、ディノが帰ってきたことが嬉しくて。
合宿を経てヒーローとして正式に復帰した時は心の底から安堵して。
エリオスの仲間たちに囲まれて笑顔を浮かべる姿が微笑ましくて。
こんな日々がもう二度と喪われることなく続けばいいと、ただそう願うだけでよかった。
それなのに。
「怖い顔」
振り向けばフェイスが意地の悪そうな笑みを浮かべて立っていた。
「何だよ。俺はいつでもこんな顔だっつーの」
「冗談。眉間の皺、治らなくなっちゃうよ?」
「知ったことか」
何か飲みたいのかと空のグラスを持ち上げて見せるが、予想通りフェイスは軽く首を横に振った。確かに今の面子では彼も混ざりたがらないだろう。
さりとて、すぐに去ることもなかった。フェイスはバーカウンターにもたれかかると、楽しげな雑談が聞こえる方へ視線をやる。
「ディノに言わないの?」
皆まで言われずともその意味するところが分かってしまう。まったく末恐ろしいルーキーだ。キースは嘆息混じりに呟く。
「別にアイツの行動を制限したいわけじゃねえよ」
イクリプスによって奪われた時間の分、ディノは仲間たちとより密に交流すべきだとキースは思っていた。初めて会うルーキーたちはもとより。かつて同じ時間を歩んでいた同僚たちとの間に開いてしまった溝は、一刻も早く会話という土で埋め立て浅くするべきだ。その気持ちに嘘偽りはない。
にもかかわらず、この暗い感情は何なのだろう。
遠くから響く楽しげな笑い声、弾む声色。それらを見聞きする度に。さらに酷いことには、自分の居ないところで彼が笑顔を振りまく姿を想像するだけで。
小さな穴から黒い靄が噴き出して、あっという間に心を覆う。
あまりの女々しさに、我が事ながら涙が出てしまいそうだった。この歳で、仲間相手に、嫉妬などと。
ディノが隣に戻ってきただけで十分だと、それだけで幸せなのだと。これからはどうか自由に生きてほしいと、心からそう、思っていたはずなのに。
――変わらないものなどないのだと、気づきたくはなかった。
「我儘になったもんだな、オレも」
深く吸い込んだ紫煙を、細く長く吐き出す。フェイスはしばらくその様子を眺めていたが、おもむろに口を開いた。
「俺にはそういうの、分かんないけど」
カウンターにもたれていた上体を起こし、フェイスはゆるりと口角を上げた。
「楽しそうだね?」
「んなわけあるか」
拳骨を作って振りかざすと、フェイスはひらりと躱して今度こそ自室に戻っていった。
己がどうすべきかキースは考えあぐねていた。だから決断できるまでは、ディノを困らせまいと距離を取るべきだと考えていた。このまま近くに居続けては、いつかディノの振る舞いに口を出してしまいかねない、と。
……自分のことしか見えていなかったその時のキースには、それが浅はかな考えだと気づかなかった。聡い彼を欺き続けることなど、到底無理なことだったというのに。
「キース最近、俺のこと避けてるよな」
飲み会の撤収も終えた消灯間際、夜のしじまの只中で。断定に近い口調でそう問われ、キースは言葉を詰まらせた。
「俺、何かした?」
明らかに意気消沈した様子のディノに、さしものキースも狼狽する。まさか指摘されるとは思いもよらず、そう問われた時の準備など何もしていなかった。
「あー……いや、そのだな……」
適当な理由をでっちあげることは容易いだろう。さりとて半端な嘘であれば彼は見抜く。何より今この場の空気が、キースに誤魔化しを許さなかった。
「…………」
俯き加減のディノは、それでも澄んだ瞳でキースを見つめていた。祈るように。あるいは追い詰めるように。注がれる視線は決してキースから逸らされることはなく。
断崖絶壁まで追いやられたキースに、取ることのできる手段はひとつしかなかった。
「お前のせいじゃ、なくて……だから……」
らしくなく震える拳を、ポケットに突っ込んで隠しながら。
「……好き、なんだよ」
「好き?」
決死の告白は即座におうむ返しで聞き返された。
心がぽきりと折れる音を聞きながらキースは「お前のことがだよ」と掠れた声で付け足す。
すると。思っていた通りの反応が返ってきた。
「俺もキースのこと、好きだよ?」
堪えきれず、ため息が口をついて出た。
ディノの「好き」が、キースの「好き」と異なることは明白だった。両思いチョコレートを食べなくても彼は息をするように「好き」を振りまく。誰にも平等に与えられる、清らかな親愛の証。
自分もそうであれば、どれほどよかったか。
けれど目の前の鮮やかな空色の瞳は真剣そのもので、言葉で説得しようとすれば骨が折れることは火を見るよりも明らかだった。元より懇切丁寧な話し合いなど性分ではない。
だから。
「そうじゃねぇ」
キースはディノの頭に手を添え、ぐいと引き寄せる。
勢いのまま――唇を奪った。
一瞬触れて、抵抗されない内にとすぐに距離を取る。
目の前で大きな瞳が更に大きく見開かれた。見ていられず、顔を背ける。
「こういうことされたくなかったら、しばらく近づかないでくれ」
それだけ告げて、さっさと踵を返し自分の部屋に戻る。追ってくる足音は聞こえなかった。
安堵を覚えながらもどこか寂しさを感じていることに気づいて、キースはどうしようもなく、腹が立った。
* * *
「おいクソメンター」
「なんだよ」
「ディノと喧嘩でもしたのかよ」
「…………」
聞こえなかったふりをして、キースは街の喧騒に耳を傾ける。ウエストセクターは今日もそれなりに平和だった。サブスタンスをほどほどに発見しつつも、イクリプスに遭遇することはほとんどない。
今日のパトロールはキース・ジュニア組とディノ・フェイス組に分かれておこなっていた。メンターとメンティーを分けたと言えば聞こえはいい。しかしその実はごくプライベートな感情によるものだ。
非道極まりない無視という仕打ちに、しかし慣れっこの教え子は攻撃の手を緩めない。
「ディノのこと、嫌いにでもなったのかよ」
「んなわけねーだろ」
即座に否定する。するとジュニアは大きく頷いた。
「そりゃそうだよな」
「なんだそりゃ」
揶揄っているのかと胡乱げな視線を向けるが、ジュニアの顔は真剣だった。
「好きなら避けることないだろ」
するりと飛び出した「好き」というワードに内心動揺する。それでもキースは努めてポーカーフェイスを貫いた。
「そういうわけにはいかねーんだよ」
ディノの望まない関係になることは本望ではなかった。己が他人の感情に鈍感であるとは思っていない。彼がキースを友人としてしか見ていないことは明白だった。だったらそのままで、いい。
けれどそんな考えとは裏腹に、暗い欲望が心の奥底で渦を巻いているのも事実だ。ディノを自分のものにしたい。他の誰にも渡したくない。そんな子供じみた独占欲が。
こんな身勝手な欲望を抱えたままではいつかきっと、ディノを傷つける。本人も思い知っただろう、無理矢理唇を奪ったあの夜に。
「少年にはまだ分かんないかもしれないけどな」
こんな自分がジュニアのことを子供扱いすることなど、愚かとしか言いようがないこともまた理解していた。汚い大人だから、決して口にはしてやらないが。
「ふぁーっく! なんだよ、子供扱いしやがって! せっかく心配してやってんのに」
「へーへー。ありがとな」
ひらひらと手を振る。この話はもう終わりだというポーズだった。ジュニアは納得していないといった顔をしながら鼻を鳴らして。
「……でもさ」
しかしふと思い出したように、言葉を付け加えた。
「多分、いいことあるぜ」
「は?」
「地団太を踏んで喜べよ」
「なんだそりゃ」
意図するところが分からず、キースは首を傾げる。対するジュニアはただ笑うだけだった。意地悪そうに。
その日はすぐにやってきた。
「キース、話があるんだけど」
いつかと同じ夜の部屋。改まった様子のディノに、キースの背筋も自然と伸びる。
明るい色の瞳は忙しなく宙を彷徨っている。何の話か、大体見当はついていた。最近のキースの態度について。改めて問われたならば、もう一度説明してやるつもりだった。
しかし。
「あのさ、俺。キースのこと……」
紡がれた言葉は予想していた切り出し方ではなかった。一体何をいうつもりなのか、キースは静かに身構える。
ディノにしては珍しく、そこでしばらく言い淀んだ。
しかしすぐに、薄く唇が開かれる。細い声で紡がれたのは。
「……好きだよ」
思わず、脱力した。
それは今まで、幾度となく聞いてきた言葉と全く同じで。
「分かってるよ」
でも、そうじゃないのだと。あの日行動で示したつもりだったのに、お前はまだ理解してくれていないのか。苛立ちに任せて口を開こうとした刹那。
「分かってない!」
ディノが突然声を荒げた。喉まで出かかっていた言葉が吹き飛び、キースは目を丸くして目の前の男を見つめる。
「分かってないよ、全然」
ディノの骨張った手が伸ばされる。しなやかな指がキースの手首を捉えた。そのままそっと、引き寄せられる。
手のひらが、ディノの胸元に触れる。
「馬っ鹿お前、何やって」
「静かに」
存外真剣な声で嗜められて思わず口をつぐんだ。
薄いシャツの下で確かに息づく体温を感じる。呼吸に合わせて動く皮膚。その下の、心臓の音まで。
「聞こえる?」
ドクドクと脈打つ鼓動は――速かった。
常より駆け足であることは明らかだった。それだけではない。体温も高く、手首に触れる彼の手は早くもしっとりと汗ばみ始めている。
そして、何より。
「好きなんだよ、キース」
暗闇の中でも、キースにははっきりと見えた。ディノの顔が赤く染まっていることに。
「まだ、信じてくれない?」
探るようなディノの視線が向けられる。薄い色の瞳は夜の暗がりの中で不安定に揺れていた。それはおそらく、自分も同じで。
「いや、その……予想してなかったっつーか」
落ち着かず、顔を背ける。それでも手はいまだにディノの胸元に添えられたままだった。
「はは、そうだよね」
「そんな素振りなかっただろ。大体、一体いつから」
学生時代はもとより。ヒーローになってからも、部署が分かれてからも、数年の断絶を経て再会した後でさえも。ディノが自分にそんな感情を向けているなど、感じたことは一度もなかった。
だから思わずそう問えば、ディノの口の端が僅かに持ち上がる。
「隠し事は、得意だったから」
「――――…………」
言葉を、失った。ディノの胸に添えていた手が、するりと落ちる。
そうだ。ディノのことならなんでも分かると思い込んでいたが。
確かに彼には、前科があるのだ。
「ここに戻ってこれて、もう隠さなくてよくなった。洗脳も完全に解けたと思う。でも、俺はたくさん迷惑をかけた。取り返しがつかないくらい。特に、キースには……」
ディノが訥々と呟く様子は普段の快活な姿とはまったく違った。もうやめろ、そんな顔をするなと叫びたい。
けれどディノが何かを伝えたがっていることは嫌でも伝わってきて、キースは口を強く結ぶ。
「だからこれ以上、俺の勝手な気持ちのせいで、振り回したくないと思ってたんだ」
「…………」
「キースが俺のことを好きだって言ってくれた時だって。もしまた迷惑かけるようなことがあったらと思うと不安で」
「ないだろ、そんなこと」
自分に課した戒めはあっさり破られ、そんな否定の言葉がキースの口をつく。するとディノが、うれしそうに――ようやく嬉しそうに、笑った。
「うん、フェイスとジュニアにも言われた」
「あいつらに?」
さっと脳裏に記憶がよぎる。ジュニアのどこか含みを持った笑顔。まさかメンティーたちが一枚噛んでいたとは知らなかった。彼らが何らかの形でディノの背中を押したのだとしたら。
――地団太を踏んで喜べよ。
本当にそう、ならざるを得ないかもしれない。
目の前で、空色の瞳が潤んでいた。
「俺も、キースのこと。好きでいて、いいんだよな」
「……当たり前だろ」
一度下ろした手を、腕を、今度こそディノの身体に回した。そのままきつく、抱き締める。おずおずと背中に触れる温もりがあった。
「好きだ、ディノ」
「俺も」
そのまま自然と、触れるだけのキスを交わす。唇が離れても、今度は距離を取ることはしなかった。
至近距離で見つめ合うとディノが照れたように破顔した。我知らず口元が緩む。目を閉じて再び顔を寄せれば、彼もまた応えてくれた。
腕の中の体温を感じながら、何度も、何度も。それはまるで、遠回りしていた時間を埋めるかのように。