夜に忍ぶ声--
街道から枝分かれた道を歩んだ先、土塁とその上に立てられた柵が見えてきた。手前には堀もあるだろうが、夜の帳に隠れて判然としない。
「土塁の整備はまともにされてねェみてェだな」
ランタンを掲げながらエルモートが呟く。ショウにはよく見えなかったが、彼の目には崩れかけた土塁が見えているらしい。あらかじめ聞いていたとおり荒んだ街のようだ。
このまま道なりに進めば街の入り口に着くはずである。しかし、今回の依頼は少し込み入った事情があった。できれば街に入ったという記録を残したくない。依頼人の話ではこの街の入り口には関所がおかれている。予定通り、エルモートとショウは道を外れて近くの茂みに分け入った。
低木を掻き分けながらエルモートがぼやく。
「俺ひとりのほうが動きやすいンだが……」
「往生際が悪いぜ、先公」
ショウはしれっと答える。そもそも単独行動に否を唱えたのは団長なのだ。エルモートが断れるはずもない。
「せめてもっと場慣れしてる奴で良かっただろォ……」
夜の潜入調査だ。エルモートはショウを信用していないというより、子供を連れ回すことに不満があるようだった。ただ、他の団員にも仕事がある。調査自体は単独でもこなせる内容であり、いざという時の連絡係を付けようということで、騎空士としての練度はあまり求められていなかった。そこでショウが手を挙げたのだ。
ショウとしては一秒でも長くエルモートの傍にいたいのだが、その想いは当人には理解されていない。だからこそ小さな機会も逃すわけにはいかないと彼は考える。
ショウは不敵に笑ってみせた。
「夜更かしくらいは慣れたモンさ。いつも集会で疾走ってたからな」
「褒められっとこ、ひとつもねェからな、それ」
エルモートは呆れながら応える。それから彼は足を止めて双眸を細めた。視線の先、月光に縁どられた柵が斜めに傾いている箇所がある。
「依頼人が言ってた『裏口』ってのはあそこだな」
エルモートはランタンの灯りを消した。
傾いた柵に近づくと根元の土が掘り返されており、柵を構成する杭が抜けるようになっていた。依頼人の協力者があらかじめ準備しておいたものだ。ふたりは杭を持ち上げて柵をくぐり、街の中へと入った。
依頼人によれば、街は東西に分かれてそれぞれにならず者の集団が居座っているという。「裏口」の周辺はその境となる通りに繋がっており、抗争の緩衝地帯になっているらしい。
蓄光性の鉱石を利用した街灯が薄暗く照らす道を、エルモートが先導しながら進む。
「東のアタマが代替わりして、その隙に西が勢力を広げようとして、あちこちでいざこざが起きてンだとよ」
エルモートはつまらなそうに説明する。ショウは頷いて辺りを見回した。真夜中ゆえなのか、人影は少ない。通りに面して飲食店や宿屋が並び、いくつかは入り口の灯りが灯っている。窓には格子が入っており、治安の悪さを窺わせた。
視線を巡らせるショウの視界で、不意にエルモートの耳がぴくんと跳ねた。彼は顔をしかめると、ショウに囁く。
「おい、急ぐぞ」
「あ? ああ……」
ショウは訝しみながらも、歩みを早めるエルモートについて足を踏み出した。その耳に猫の鳴き声が届く。つられてショウは鳴き声のほうを見やった。通りから分かれた細い路地の先、暗がりに浮かんでいたのは猫の姿ではなく、白い足だった。ショウは目をしばたいた。そして、それが男と縺れ合う女の足だと理解し、ぎょっとして顔を背ける。と、エルモートがこちらを睨んでいた。
「急ぐっつってンだろ」
ショウはぐっと言葉を詰まらせ、視線を下げた。見たくて見たわけではないのに気まずい。
「……I'm on it.」
了解と答えるとエルモートが歩き出す。ショウは悄然としてそのあとを歩いた。
通りを抜けて暗い小道を進み、他の建物に埋もれるようにして並ぶ古びた酒場を見つける。酒場の入り口を観察できる少し離れた建物の陰にエルモートとショウは潜んだ。
エルモートは石造りの壁に背を預ける。
「さァて、あとは目的の輩が酒場に入るところを確認するだけだ」
「中で張ってるほうがいいんじゃねェか?」
ショウに尋ねられ、エルモートは肩を竦めた。
「出入り口が狭ェだろ。いざというときに外に出られなくなるとまずい」
なるほどとショウは頷いた。余所者、まして騎空士だと知れると面倒事が起きないとも限らない。
「つっても、ここにずっと立ってるのも怪しい奴だけどな。あんまり人目につかねェほうがいい」
そう言ってエルモートがショウの手を引く。目立たないようもっと建物の陰に寄れということなのだろう。
間近に迫った赤い耳にどきりとしてショウは視線を逸らす。脳裏に浮かぶのは先ほど見た光景だった。暗がりで密着する二人――ショウは雑念を払うべく首を振った。近くに宿でもあれば、そこから見張ればいいのではないか。そう考えて周りを見渡す。
そのとき、鈍い灯りが二人を照らした。光の向こうでランタンが揺れる。
「おい、てめぇら、そこで何してる」
男の声だ。どうするべきかショウが逡巡していると、エルモートがその肩を叩いた。
「誤魔化すから、そのへんに隠れてろ。出てくンなよ」
「おい」
「てめぇは連絡係だ。全うしろよ」
そう言って肩を押され、ショウは迷いつつも建物の裏手へと走った。壁に背を寄せ、聞き耳を立てる。エルモートの声が響いた。
「なにもしてねェよ」
エルモートは両手をひらひらと振って見せる。
ランタンを掲げた男はヒューマンで、裸の上半身に肩当てと手甲を付けており、腰には剣を帯びていた。その風体は街の自警団というにはいささか風紀に欠けている。男はエルモートの目の前まで近づいた。
「もうひとりいただろ。どうした」
エルモートは眉を下げて申し訳なさそうに愛想笑いを浮かべる。
「いや、ほんとになにもしてねェって」
相手の顔色を窺いながらも質問には答えない青年に、男は舌打ちをした。
「てめェ見掛けねェ顔だな。コソコソなにしてやがった」
あくまで疑ってかかる男に、エルモートはならず者集団の構成員なのだろうと踏んだ。揉め事が増えているから警戒心が強まっているのだろう。敵対者でないながらも物陰に潜んでいた理由がいる。
「あ~、その、ちょっと客引きをしてただけなンだが……」
男は顔をしかめた。親指で背後を指す。
「このへんは俺達のシマだぜ。勝手に商売をしてもらっちゃ困るな」
エルモートは観念したように両手を挙げてみせた。
「……悪かった。アガリなら払うからよォ」
「なんの商売してやがった?」
エルモートはおもむろにフードを脱いだ。それは服従の意を表して脱帽したように見えたが、そうではないと男は悟った。夜目にも分かる深紅の髪は照明の灯りに淡く輝き、険のある容貌を縁取って、妙に危うく妖しげに見えた。
エルモートは首を傾げてならず者を見上げた。金色の瞳がゆらゆらと光を浮かべる。物言いたげな眼差しが男を捉えた。
急にねだるような視線を向けられ、男は目を見張る。エルモートは双眸を細めて笑みを浮かべた。
「あんたはさァ、俺みたいなのには興味ある?」
響いた声音の甘さに、ならず者もショウも息を呑んだ。
ショウは思わず声を掛けそうになって、己の口を片手で押さえた。元担任教師のこんな声は聞いたことがない。先ほど聞いた「猫」の声が脳裏に過る。
「はあ?」
声を上擦らせる男に、エルモートは指先をしならせて自身の薄い胸を撫でてみせた。痩せた肢体を細い指がなぞる。それを男の目が追った。薄闇に浮かぶ白い肌に生唾を飲む。
「さっきの客はこういうのが好きなンだと」
ならず者は視線を泳がせた。
「へっ、物好きな野郎だな」
「俺ァおかげさまで飯が食えてるけどな」
エルモートは笑うと、取り出した数枚のルピ硬貨を男の手に握らせた。
「なァ、今日はこれで見逃してもらえねェか?」
予想できるみかじめ料の倍の額だ。断りなく商売をしようとしたのだ。相場を払うだけでは足りるまい。
ならず者は掌のコインを見下ろし、鼻を鳴らした。「まあ、いいだろう」と腰の革袋にしまう。
「どうも」
エルモートは会釈をすると、その場を立ち去ろうとした。しかし、ならず者がその手を掴んだ。
「客を逃がしちまったんだろ。俺が稼がせてやろうか?」
エルモートは振り返って苦笑する。
「物好きだって言ったじゃねェか」
「たまには悪くねぇ」
腕を離して替わりに腰を抱こうとする男の手をエルモートはさりげなく躱した。
「あんた、アガリを集めて回ってンだろ。道草食っちゃまずいンじゃねェかァ?」
「少しくらいバレやしねェさ」
エルモートは視線を下げる。調子のいい男だ。閨であれこれ尋ねれば世間話のように話すだろう。だが、そんな手段を取る気はさらさらないし、生徒を待たせてあっては尚更ありえない選択だ。
「わりぃケド、とばっちりは食いたくねェンで」
「つまんねぇこと言うなよ。てめぇだって男が欲しくてやってんだろうが」
エルモートは内心でうんざりしながら、男に背を向けて歩き出した。金を払った以上、無理に付き合う必要もないし、時間を掛けている暇もない。もしならず者がまた手を伸ばしてくるなら、次は手首を捻って返す。騒ぎになるのは相手も避けたいはずだ。そう考えながら、背後の気配に警戒する。
「おい、待てよ」
ならず者がエルモートを追おうとしたそのとき、その腕を掴む者があった。
「振られてンのに見苦しいぜ」
低い声が響く。エルモートは声の主を振り仰いで、思わず頭を抱えた。空色の瞳がならず者を射抜く。ショウだ。
(隠れてろっつったのに)
ならず者の出方を窺っていたので、ショウの気配に気づかなかったのだ。エルモートは溜息をついた。
とつぜん割って入って来た若い男に、ならず者はぎょっとして腕を掴まれたまま足を一歩引いた。
「な、なんだてめぇ」
ショウは一拍置いて短く答えた。
「客だ」
エルモートは両手で顔を覆いたい気持ちをぐっとこらえた。目を白黒させる男にショウは続けて言い募る。
「てめぇとの話はついたンだろ。俺がコイツの客だ」
そう言って、顎で赤毛のエルーンを示す。ならず者は合点がいった様子で、引き攣るような笑みを浮かべた。
「……ああ、てめぇが物好きの客か。なんだ、逃げたんじゃなかったのかよ」
「待ってただけだ。聞いただろう。俺は『こういうの』が好きなんだよ」
ショウはゆっくりと言い含めるように告げる。そして、懐から財布を取り出すと、男の胸元に押し付けた。
「それを持って失せろ」
ならず者は口を開こうとしたが、ショウの手から離れた財布の重さに息を呑んだ。財布とショウを見比べ、悔しそうに舌打ちをする。
「次はねぇからな」
男は捨て台詞を吐き、二人に背を向けて遠ざかって行った。
男の影が見えなくなってから、エルモートは大きく息を吐いた。
「……馬鹿野郎」
苦々しく呻く。薄闇のなか、その頬が朱に染まっているのをショウは見逃さなかった。
「あんたが自分で言ったんだろ。こういうのが好きだって」
「ありゃぁ嘘で――」
「いや、間違ってないぜ」
ショウは相手の言葉を遮る。エルモートは気まずそうに耳を下げながら、視線を逸らした。フードを被り直して、話題を変える。
「……財布、いくら入ってンだ」
ならず者に渡した金をショウに返すつもりらしいエルモートに、ショウは首を横に振った。
「ガキの小遣いさ。忘れてくれていい」
「そういうわけにはいかねェよ」
ショウはエルモートの背後の壁に手を突いた。背を屈め、唇が触れそうなほど近くで囁く。
「じゃあ、そのぶん、客としてヤラせてくれって言ったらどうする?」
エルモートは目を見開き、次いでショウを睨んだ。金色の瞳が怒りを露にする。
「ざけンなよ」
その眼差しに怯むことなく、ショウは短く息をついた。
「こっちの台詞だ。ああいう危なっかしい芝居はやめてほしいな」
エルモートは不服そうに眉を寄せる。
「夜中に身ひとつでやるような商売なンかそうねェだろ」
反論してから、彼は額を押さえて「いや」と零した。
「確かにガキの前でやっていい芝居じゃァなかったな」
反省を口にする元担任教師に、ショウは呆れて双眸を細めた。
「……そういう意味じゃないんだが」
そして、続けようとした問いを口にできず、躊躇って壁から手を離す。媚びるような声音が脳内で繰り返し響いていた。ショウは目を閉じ、その声を追い払うように首を振る。彼はエルモートに背を向けながら口を開いた。
「……し、芝居じゃなくて……実際にやったことあンのか?」
エルモートはきょとんとしてから、羞恥の混じった渋面を浮かべた。
「……あるわけねェだろ」
地を這うような声で否定する。ショウはほっとしてエルモートに向き直った。
「……どこで覚えたんだよ。ああいう演技――はっ、買う側」
「ばっ……かやろ! ちげェよ。そういうことしてる奴と団の仕事で会ったことあンだよ……会っただけだからな」
エルモートは耳をめいっぱい下げて否定する。その狼狽ぶりはかえって怪しくも見えたが、この元担任教師においてはその言葉が事実なのだろうと思えた。色事に不得手な様子はショウを安堵させた。
「くだらねェこと言ってねェで、ちゃんと見張ってろ」
エルモートに酒場の入り口を指し示され、しかし、ショウはそれに従わず相手を見つめた。
「……またさっきみたいなことがあったら、次は二人でどこかに隠れようぜ」
ならず者のご機嫌取りなど楽しいことではないはずだ。そんなことはしてほしくない。
それに、とショウは考える。たとえ芝居だとしても、色目を使う姿は見たくない。そして、誰にも見せたくない。あの声を、誰にも聞かせたくない。
エルモートは駄々をこねる子供を見るようかのような苦い顔をしたが、すぐに諦めて息をついた。
「分かったよ。おまえの財布ももうねェしな」
ショウにとっては財布のことは痛くも痒くもないのだが、それでこの元担任教師が意見を聞いてくれるのなら、むしろ払ったかいがあると思えた。なので「気にしなくていい」という言葉もあえて引っ込めて、ショウは満足して頷いた。
エルモートに酒場の見張りに戻るよう指示され、機嫌よくそれに従う。
エルモートはそんなショウの横顔を見て、そっと視線を逸らした。暗闇へと続く路地の奥を見つめる。建物の隙間で闇に閉ざされた細い道は息苦しい過去を思い出させた。
(……ウリなンかやったことねェけど、どうしようもねェとなったら、やってたかもしれねェな……)
ろくな手持ちもないまま家を飛び出したかつての日を思い出す。善人に拾われたのは運が良かったとしか言いようがない。
もし、そうでなければ――ならず者に腕を掴まれた感触が蘇り、ぞわりと背筋が冷える気がした。自分でそうした芝居をしておいて情けない。エルモートは闇のなか寄る辺なく吐息を震わせた。
凍えた意識を押し退けるように目を閉じると、男と己の間に割って入って来た少年の姿が瞼の裏に浮かんだ。臆したところのないまっすぐな後ろ姿。瞼を持ち上げる頃には不躾な手の感触は消えていた。
隣の少年を見やって、エルモートは少し困ったような笑みを零した。
終わり