ナターレ しっかり晩ご飯を食べたのに、夜も更けてから嘘みたいに空腹感を覚えてしまい、どうしようか迷っていると近くの部屋のドアが開いた音がした。
お腹が空くからって一人でキッチンまで行くのは少しためらうけど、誰かと一緒ならという思いで追いかけるように俺も部屋を出たところで、階段の方へ向かう途中のアーサーが振り向いて目が合う。
「賢者様! どうなさったんですか?」
「ええと……実は、」
かくかくしかじか、恥ずかしながら話すと、アーサーは困り笑いを浮かべて「私もです」と言った。
「不思議です。夕食の直後は、確かにもう食べられないと思ったのに……」
「そうなんですよね! 俺もそんなかんじで……よかったです、自分だけじゃなくて」
ちょっと食いしん坊がいきすぎてるんじゃないかって心配になったけれど、仲間がいると分かると安心できた。安心できたところで、俺がそもそも食いしん坊であるということには変わりないとしても……。
「では、今宵は共犯ですね」
「あはは……怒られそうになったら、俺が罪を被りますね。王子様をたぶらかした悪者になります」
「いえ、私たちは二人で空腹に負けたのです。共に叱られましょう」
こっそりコソコソ、囁くような声で話しながら歩く間、そうやってやりとりをしていると自室からは少し離れたキッチンまでの道も短く感じた。
空腹に負けたからって一人で何か探しに行くには長すぎる道のりだったけど、運良く出会えたアーサーが隣にいるおかげか、しんと静まりかえった廊下も怖くないし、それどころか楽しい。共犯効果だろうか? こんなことを考えるのはよくないかもしれないけど、そう感じるのもあってものすごく楽しい。
「空腹感が気になるというのもありますが、少し気分が高ぶっているのかもしれません。寝付けそうになくて」
「今日は二日ぶりの魔法舎でしたもんね」
「はい。たった二日ですが、皆とずいぶん話していないような感覚になってしまって。今日は二日分のことを聞いたり話したり、忙しかったです」
夕食の後も中央の魔法使いをはじめとする若い魔法使いたちで集まって盛り上がってたから、それで少しハイになっているのかもしれない。でも、そういうときって疲れてすっと眠ってしまうか、何かもて余したように何故か遅くまで元気か極端な気がする。今日のアーサーは元気な方だったんだな。
何事もなく辿り着いたキッチンにアーサーが明かりをつけると、中は無人だった。もしかしたら俺たちと同じようにお腹を減らした誰かがいるかもしれないと思っていたけど、この時間は俺たちだけらしい。
きれいに片付いているキッチンに入って、アーサーはびっくりするほどためらいなく保管庫の扉を開けた。思いきりがいいなと思ったけど、ここにきて遠慮したって仕方がない。明日のために準備してあると思われるものに手をつけないようにして、荒らさず後片付けをちゃんとすれば、大丈夫だろう。
「私の寝付きが悪いときや、夜も更けて休むような時間になってから空腹を訴えたとき、オズ様はよくあたためたミルクを飲ませてくださいました。そのときに見て覚えた方法で、賢者様にもお作りしますね」
ふたりで保管庫のなかを覗いてすぐ、アーサーはミルクの入った瓶を手に取った。ホットミルクは眠れない夜の定番だ。もといた世界ではカップにいれてレンジで温めてたなあと少ししんみりしながら、俺はカップを用意する。
「暖める前に砂糖を加えるのだそうです」
アーサーはそう言いながらミルクパンにミルクを注ぎ、整頓された調味料の棚からとった砂糖を慣れた手つきで入れた。家事はひととおりできると話していたけど、その言葉に違わず彼の手つきにはそつがない。もしかしたら、俺の方が危ういかもしれないくらいだ。
「オズ様は、シュガーをひとかけ入れてくださることが多かったです。蜂蜜を入れるのもよいと聞きました。そちらはまた、機会があれば」
「はい、是非」
うなずいた俺の目の前で、アーサーは手のひらの上にシュガーを作り、ミルクパンのなかに落とした。彼が幼い頃、オズもこうして―こんな風におしゃべりはしなかったかもしれないけど、寝付けない子のためにミルクをあたためることがあったんだと思うと、何だかそれだけであったかくなって眠たくなってくるような気がしてくる。
それから最近の出来事や何かの世間話をしながらミルクが温まるのを待って、いい具合のところでアーサーがカップに注いでくれた。ほわほわと湯気のたつミルクの香りの、なんて、なんてやわらかいことだろう。
「お待たせしました。お気をつけて召し上がってください」
「ありがとうございます!」
ふーっと息を吹きかけて湯気が一瞬消える。その間にふとアーサーを見やれば、彼はカップを手にしたまま年相応か普段より少し幼く見える表情で俺を見ていた。
「少し熱かったでしょうか……?」
「いえ、そんなことないですよ。丁度いいと思います」
「でしたらよいのですが」
きっとアーサーは感想が欲しいんだろう。彼はオズを慕わしく思っているから。オズのレシピで作ったこれを俺が気に入るかどうかがとても気になっているんだ。自分が相手のためにしたことを喜んでもらいたいのは自然なことだし、自分が敬愛しているひとから教わったことを誉めてもらえれば誇らしく思うのも何ら不思議なことじゃない。
俺は今度こそカップに口をつけて、ミルクを飲んでみた。一口めは熱さを警戒して少しだけ。二口めで、少し量を増やして味わってみる。
「いかがでしょうか」
「おいしいです!」
やさしい甘さが加わったミルクの味と香りは、空腹感と少し冷えてきた体にゆっくり効いてくる。これが、アーサーが幼い頃口にした味。オズがアーサーのために作ってあげたもの。改めて考えながらもう一口飲んだ。おいしい。でも、おいしいという言葉だけで表現できないような気持ちがある。
「アーサー、」
「はい」
「あの……」
このミルクみたいにあたたかくやわらかくて、優しく包んでくれるようなもの。その時々で形を何にでも変えるもの。
「幸せって、たぶんこんな味をしてるんだと思います」
「……よかった。私もそう思っています」
誰かの編んだそれを違う誰かが編んで、俺に結んでくれた、奇跡みたいな幸福だ。