雨のち晴れ 本格的な夏を目前にしたこの季節の空はぐずつきやすい。冷えるかと思えば気温が上がり暑くなることもあり、過ごし方に難儀する季節だ。
そんな季節でも一緒に過ごすことができる時間を作りたいことは変わらないので、できるだけ諦めたくはない。―とはいえ。夜半過ぎ、雨の音で目を覚まして落胆した。
アーサーは、また駄目だったと先月の出来事を思い出して寝床でため息をついた。先月は薔薇園を見に行く予定だったのだが、公務の都合で休暇をずらすことになってしまったのである。カインは「公務なら仕方ない」と言ってくれたし、自分も自由の身ではないので覚悟はしていたが、励みにしていたことが目の前で消えるのは堪える。やっと時間ができた頃にみな散っていた薔薇をひとりで見て、アーサーは刺が刺さったような痛みを抱えながらひと月を過ごしたのだった。
明日は、箒で遠乗りの予定だった。ハイドランジアの花の名所があるというのでそこへ出掛けることになっていたのだが、やはりこの季節の遠出は無謀だったのかもしれない。せめて、朝までにやんでくれたなら。そう願いながら、再び瞼を下ろした。
しかし、朝を告げたのは陽光ではなく、変わらず降り続く雨の音だった。アーサーはカーテンを開けて、窓についた雨粒をしばらくぼんやりと見つめていたが、そんなことをしていても雨が上がるわけでなし、寝間着を脱ぎ着替えると自室を出た。
階下へ降りると、いい香りがした。どこか甘みを想像させる香ばしい香りだ。朝食の準備をしているネロがパンを焼いているのだろう。晴れていようと雨が降っていようと、変わらないここでの朝を過ごすことができるだけでも充分な癒しである。そう思い直してキッチンを覗くと、中にはネロがいた。
想像と違ったのは、そこにカインもいたことだろうか。彼は普段は結って髪留めをつけている髪を編み下ろしにして、キッチン台で何か作業をしているようだった。
「ネロ、カイン。おはよう」
ほんの数秒、彼らの様子を見てから声をかけてキッチンへ入ると、ふたりは手を止め振り向いた。
「おはよさん」
「アーサー、すまないがどこでもいいから触ってくれないか」
「分かった」
アーサーはキッチン台の前にいるカインに近づいて肩に軽く触れた。普段は手に触れることが多いが、台の上にはパンかクッキーか、そういった感じの生地があり彼の手は粉にまみれていたのである。
「ありがとう。おはようアーサー」
「うん、おはよう」
どのあたりにいるのか探していた視線がやっと合い笑みを浮かべるカインの表情は、外が雨模様でも明るい。そのことは救いだった。
「聞いたよ。出掛けるんだって?」
「ああ。その予定だったのだが……」
尋ねてきたネロに答える前に、アーサーは窓の外に目をやった。普段なら朝のキッチンは窓から日の光が入ってきて明るいのだが、今朝はやや暗いからか明かりがつけられている。
「どうしたんだ? 残してきた仕事が気になるか?」
「それは大丈夫だ。でも、天気が」
「ああ、そのことなら少し考えてみたんだが」
カインが生地を形作りながら言うことには、遠乗りはやめて船着き場のある大桟橋の辺りから川をくだり郊外の方へ行くのはどうかと考えていたらしい。この程度の雨なら船は出るらしいので、それでもよければと続けたカインにアーサーは二つ返事で頷いた。
「いい案だ。そうしよう!」
「本当にいいか? 当初の予定とは違ってくるし、雨の中出掛けるのは……」
「先月薔薇園を見に行くのも諦めることになったからな。今日は諦めたくないのだ」
もちろん遠乗りやハイドランジアに未練がないわけではないが、魔法舎で過ごすのが嫌だというわけではなくても久しぶりの外出を楽しみにして今日を待っていた。それに、先月とは違い自分で決める余地がある。それなら、悩む理由はなかった。
「分かった。じゃあ行こう」
「若者は元気だね。まあ、遊ぶときは本気で遊ばねえとな。大人になると、遊ぶにも無理してやらないといけなくなるからさ」
「そうなのか……。肝に銘じよう」
自分より年上の彼がそう言うのだから、きっとそうなのだろう。それに、自分の身分のことを忘れたわけではない。こんな風に自由や融通がきくのも今のうちで、無理さえできなくなるのかもしれない。そう思うと、いまという時間がどんなものより惜しい気さえした。
朝食と出掛ける支度を済ませて外へ出ると、起きたときよりも雲が気持ち薄くなり、雨も小降りになったように見えた。窓を開けて確かめたわけではないけれども、小降りになったなと思っている方が気分が軽いので、ふたりは前向きに勘違いしていくことに決めて大桟橋へ向かった。
「カイン、今日は髪を編んでいるのだな」
「ああ。湿気でごわっとしちまってさ」
道すがら、気になっていた髪のことを聞いたり自生しているハイドランジアを見つけたり、移動中も楽しんで大桟橋の船着き場につく頃には、勘違いや気のせいではなく本当に雨が弱くなっていた。
「帰りにまた降りださなければ、飛んで帰ってもいいかもな」
当初組んでいた予定では遠出のつもりだったが、近場に変えたので時間の余裕もある。ゆっくり飛んで帰るのもいいし、また船に乗って帰るのもいいだろう。まだ目的地にもついていないのに帰りの話をするおかしさにふたりで笑って、もうすぐ出る船に乗って出発を待った。
「先月は残念だったな」
「しかたないことだと解ってはいても、平気だといえば嘘になる。わがままは言えないが……」
「わがままなものか。どんな身分であっても、楽しみにしていたことがなくなると落ち込むよ」
「おまえも?」
「もちろん。薔薇園って柄じゃないが、あんたと見に行くのは楽しみにしてたから」
カインがそう答えたことに、アーサーは安堵して頬を緩めた。自分だけがいつまでも残念がっていて、割りきることができていないのだと思っていたから、そのつもりはなくとも確認ができてやっと先月の自分の心が落ち着いてくれた気がした。別々の個人だから考えていることは違って当たり前だが、やはり同じように思ってくれていたと知ると励まされるような思いになる。
「四季咲きの薔薇もあるから、また行こう。……行けたら」
「そうだな。多少無理したり本気を出したりして行けたら行こう」
うっかり約束してしまわないように曖昧にした言葉に、今朝ネロが言っていた遊びの心得が乗って、どこか奇妙だが不思議と嬉しくなる。無理をするにせよ本気を出すにせよ、カインは付き合ってくれるということだ。彼のことは何となく信じていて、自分が言えば道を外れたこと以外ならうなずいてくれるものだと思っているところがあるが、よく考えなくともそれは思い込みにすぎない。当たり前ではないのだ。出掛けようとしたその日が晴れるとは限らないのと同じように。
そのありがたみを胸に抱き、話をしたり船の上や船室を見て回っていると、出発から到着まではあっという間だった。楽しい時間はすぐに過ぎるものだと感じながら船室から出てくると、空を覆っていた雲の切れ間に青がのぞいていて、アーサーは感嘆の声を上げた。
「晴れた……!」
「アーサー、向こう!」
隣でそう言ったカインに手を引かれて、彼が指し示した方を目で追うと、空のまだ雲の残るところから晴れたところを繋ぐように虹がかかってるのが見えた。
「虹まで!」
「しかも二重だ。いいことがあるかもな」
二重の虹を見つめるアーサーの瞳に、歓喜が溢れてきらめいた。いいことなら、もう起こっている。
雨が降ったからといって自分はすっかり諦めるつもりでいたが、カインは諦めずに済む方法を考えてくれていた。そのおかげで諦めたくないと思えたし、こんなに素敵なものまで見ることができたのだ。
「これ以上、どんないいことが起きるのか想像もできないよ」
「そうか? じゃあ手始めに俺からいいものを……」
そう言い、カインは小さな手荷物のなかから彼の手のひらより少し大きい程度の包みを取り出した。口をリボンで結んで閉じてあって、とくに変わったところはないように見える。
ひとこと断りをいれて、アーサーはリボンの端をゆっくりと引っ張って口を開けて中を覗いた。包みの中には、小さめの卵くらいの大きさの焼き菓子が入っていたが、その形を見てアーサーは二度めの歓声を上げた。
「……ハイドランジアだ! 今朝の生地はこれだったのか」
「ネロが使う予定だったのをちょっと分けてもらって作ったんだ。予定ではハイドランジアを見に行くことになってたからさ。見られない代わりにって思って」
「……カイン、ありがとう。いいこと尽くしだ」
少し歪だが、四片の花をかたどったそれを手に取りアーサーは口に運んだ。歯触りは軽く、バターのいい香りがすっと鼻に抜けて小さな幸福感をもたらしてくれる。代わりなどなくても構いやしないというのに―。
「どういたしまして。でも晴れてくるとは思わなかった」
魔法よりも魔法みたいだと声を潜めて笑うカインをいますぐ抱き締めたくなる衝動をおさえて、アーサーは包みの中の甘いハイドランジアをひとつカインの口許へやり微笑み返した。
<おわり>