過日の微笑みの意図《1》
夕食後は、各々の自由に過ごしている。スノウとホワイトは早く休んでしまうことが多いようだが、そうであってもなくてもフィガロは構わず好きにしていた。本を読んだり習った術の応用を考えたり、そういったことをして気が済むか飽きるかしたら休むし、何かをする気分でないときは潔く寝床に入る。
今日は少し試してみたいことがあって自室に引きあげてきてからあれこれやっていたが、そろそろ集中力が切れてきた。ここらで終わりにしておこうと広げていた素材や資料を片付けていたそのときだった。
上の階で大きめの物音がした。
嫌な予感しかしない。上はスノウとホワイトの部屋のある階である。この夜更けにそこで物音ときたら、何があったか想像に難くない。ふうと深く息をつきながら、いち、に、さん、と口のなかで数えていれば、よんとごの間で自室のドアが開け放たれた。
「……フィガロ、いい夜じゃな」
「……。おかげさまで」
夜着に身を包んだ姿で立っているのは、師匠の片割れ―ホワイトだった。今回はそちらかと思いつつ招き入れ、フィガロはそっと様子を窺う。ノックをするなどという気遣いがないあたり、機嫌はなかなか悪いと見える。こんな夜更けに厄介な―。そう思っても表情に、口に、まなざしにさえそれを出してはいけない。ぼんやりとしていた頭が緊張感で冴えるなか、どう出たものか考えた。
初手を間違えると悲惨なことになる。一日の終わりに傍迷惑なことだが、仕方がない。あれこれ考えを巡らせている時間もないので、ひとまず微笑んで見せて言った。
「なにか飲みませんか。ひと息入れようと思っていたんです」
「うむ。いただこうかの」
仕舞いにするつもりだったがそうとは言わずに提案したフィガロに、ホワイトは穏やかに頷いた。心の憂さを捨てにきたにしても、この様子だと機嫌は悪くても然程荒れてはいないのであろうか。気を抜くことはできないが、身構えすぎてもそこをつつかれるので、フィガロはここで様子見をやめた。
「フィガロや。今夜はここで寝てもよいか」
「どうぞ」
あたたかいものを飲んで少し落ち着いて、一晩ここで過ごして朝が来れば元通り。予定調和で、よくあることだ。
同衾は落ち着かないが、眠ってしまえばどうということはない。むしろ、意識がないうちに時間が経つのだからありがたいと言える。これが日のある内なら大変なことだ。あちらにもこちらにも気を遣って、その上オズの面倒までみなくてはいけないところだった。
あたためたミルクにシュガーを落として少し世間話をしながらゆっくり飲んだ後は、出したままにしていた資料や素材を片付けて潔く床に入った。復習の途中ということにしていたがホワイトの前で再開する気にはなれないし、元々終わりにするつもりでいたので「落ち着いてしまったので」と丁度いい理由をつけて終わりにしたが、ホワイトも特に怪しむ様子は見せていない。
わからないことは考えない、相手がなにも言わないのなら黙っていること、それが損な役回りを担わないようにする鉄則である。ホワイトが訪ねてきた時点で損もなにもあったものではなかったが、自分で対応を間違えて怪我をするのも馬鹿馬鹿しい話だ。ひとつ屋根のしたに住んでいる時点であらゆることに巻き込まれることになってはいるので、この程度はそ知らぬ顔でやり過ごせないとやっていけない。
おやすみと言い交わしたあと、早くも寝息をたて始めたホワイトの横で、フィガロも目を閉じた。寝て起きればいつもどおり。そう信じて―。
けれども、翌朝の居間にスノウの姿はなかったのだった。どうしたことだろうかと思うも、ホワイトはそのことには一切触れず朝食の用意をし始めてしまったし、オズの様子を見に行っても彼の部屋はもぬけの殻だった。
昨夜何かあったんですか―と訊くかどうか、迷ったフィガロだったが、食事の前後にこういった面倒ごとに発展しそうな話題は出さないに限る。もちろん、食事中も駄目だ。ものの味がしなくなるか、不味くなる。
ここは知らん顔をしておくのがよいのだろう。ホワイトとて身に覚えがないわけでもないのだから、彼の気が向くまで適当に過ごしていればよいのだ。フィガロは自分が好きな茶葉を選んでいれた。これくらいのことは許されたい。
この際心配なのはホワイトとスノウのことではなく、オズがどうしているかである。死んではいないだろうが、なにか余計なことを言ってスノウの神経を逆撫でしていやしないだろうか、いつもなら自分かホワイトが間に入ってやれるが―。
「フィガロ、卵はどうする?」
「いらな……」
「ど う す る ?」
「……両面焼いてもらえると嬉しいです」
「オムレツにしないの?」
「俺はお揃いじゃない方が好きなんです」
「そうか。では待っておれ」
こちらもこちらで受け答えや態度には気を付けないといけない。フィガロは棚からカップをふたつ出して、みっつめに手をやろうとしてはたと手を止めた。
スノウかホワイト、どちらかひとりだけと食事をしたことがないわけではなかったが、やはり不在だとそれはそれで気になるのだ。何があったかは知らないし、彼らふたりが落ち着くまでは訊きづらいが、理由はさておき気まずさを感じる自由は自分にもある。自由があるだけで、どうにかする力はないのだとしても。こればかりは、どんなに魔法の知識が増えても制御ができるようになってもどうにもならない。
結局、スノウとオズが姿を現したのは日が高くなり始めてからのことだった。訊きたいことはたくさんあってもその場でというわけにはいかず、フィガロはオズを捕まえて自室に連れていき、そこで昨夜からいまに至るまでどうしていたのかを尋ねた。
「連れていかれた」
「どこに」
「……山」
「山?何をしに?」
「夜が明けるのを見ていた」
この感じだと、オズは双子に何が起こったのかを予想できていないようである。もう少し聞いてみたが、寝ていたらスノウが来て起こされて連れていかれた先が山だったという経緯しか分からなかった。しかし、オズの様子は至って通常通りだった。怪我をしているところもないし、健康そのものである。機嫌もそれなりに良い。ということは、過酷な環境で稽古をしたなどということではなさそうだ。
「楽しかったか?」
「無意味ではない経験だった」
「ああ……そう、ならいいけど。体調は?大丈夫?」
「良好だと思う」
最近のオズは少し言葉数が増えてきた。機嫌がいいと特に顕著だ。これでもまだまだだが、良い傾向である。質問への受け答えや自分の状態について話すことができるようになったのは、双子らがオズを捕獲してきたときのことを思えば上等だ。……と思っていると、オズが肩から見覚えのないものを提げているのを見つけてフィガロは首をかしげた。
大人の肘から手首くらいまでの長さの筒状のものに、携帯用とみられる留め具とベルトがついていてオズはそれを肩からかけていたのだった。
「おまえ、そんなの持ってたっけ」
「スノウがくれた。なかにはスープが入っていた」
「入っていたってことは……」
「全部飲んだ。もうない」
「朝御飯代わりだったのかな。じゃあ腹は減ってない?」
「減っている。気を失うかもしれない」
「だろうな」
それは相当の空腹だ。フィガロは真顔で答えるオズを見て堪えきれず笑うと、昨日作業をしていた机の前にオズを座らせた。
「塩漬け肉がそろそろいい感じになってるだろうから、少し待ってな。どうにかしてくる」
「頼む」
「頼まれた」
スノウには振り回されたようだが、それなりに面倒は見てもらっていたようだったので心配事は早々に片がついた。ただ、それはオズの安否と健康状態に関することであって、他のことはなにひとつ解決してはいない。
何があったのかなんて知らないし訊きたくはないが、拗れてしまったら自分が間に入るしかない。フィガロは憂鬱極まりなかった。救いはオズと意思の疎通が程々できるようになってきたことだ。もしこれが少し前なら、互いを避けあう双子と言語による意思疏通がままならないオズとの間ですべて投げ出していたかもしれない。
そうすることができる方が楽だっただろうが、一度失ったものはもう得られない。最早彼らは自分にとっては絶対に落としたら拾えない落とし物のような存在になりつつあった。だから放っておけないのだ。たとえ損な役回りを担うことになろうとも。
ふたりのうちどちらかに出会うかもしれないと思いながら屋敷のなかを移動して、オズに食べさせてやるものを用意していたが、部屋に戻るまでどちらの姿も見なかった。