この世にひとつ 賢者が教えてくれたバレンタインという行事は、魔法舎にチョコレートと感謝のブームを巻き起こした。各国、先生役へチョコレートを贈ることに始まり、流れるように元々あった関係の中で、そして賢者の魔法使いになって初めて顔をあわせて今では友人であり仲間でもある相手へと瞬く間に広がっていった。
バレンタインは大切な人に思いを伝える日とされているが愛を打ち明ける日という側面もあるという。『大切な人』の解釈はひとそれぞれだから、当然そういったこともあるだろうが、意識すると途端にアーサーの心はさんざめく。
カインとは既に日頃の感謝を伝え合った後だが、それとは別の想いを互いに抱いている。そして、思いを伝える日だからといってそれに対する言葉を交わしたわけではなかったので、ほんのわずかだが心残りにも似たものがあった。
一部、勘のいい魔法使いにはばれているだろうが、だからといっておおっぴらにはできない感情である。何ら恥じることはないにしても、少なからず周囲を困惑させることは間違いないので、便宜上は秘密という形にしているのだが、折角の機会にふたりの間でだけでもいま一度伝えてもいいのではないだろうか。
アーサーは感謝の宴から帰ったその晩、眠りに落ちそうな中ぼんやりと考えていた。その気になればいつでも伝えることはできるが、折角の機会だ。多忙なときは顔をあわせるのも難しいが、幸い明日は一日魔法舎にいられる。バレンタインも宴も終わってしまったが、まだ遅くはないはずだ。
そう息巻いていたアーサーだったが、翌日カインに切り出す前に彼から先手を取られる形になった。
いま、アーサーの手のなかにはきれいに包装された箱と皺ひとつない封筒がある。どちらも朝食後カインから渡されたものだ。一人のときに読んでくれと言われたので、つまり、自分が考えていたことと同じことでよいのだろうか。アーサーはひとまずそれらを携え自室に戻った。
自分からも話があるとすぐに返すことができたらよかったのだが、言葉だけ用意していたところに贈り物と手紙まで渡されてしまい、自分はなにも持たずに来てしまったことに悔いている間にカインは心なしか照れたような笑みを残していってしまった。
「(これは、)」
ほぼ得られている確信に、想いがこみあげてくる。いますぐにでも部屋を飛び出してカインのもとへ駆けていきたい衝動に駆られるが、一呼吸おいて机に向かいまずは手紙を読むことにした。
蜜蝋で封のされた手紙の表には自分の名が、裏には送り主であるカインの名が書かれていた。あまり彼の書き文字を見る機会はないから、中身を見ぬそばから嬉しくて仕方がない。
はたしてどんなことが書き綴られているのか、早く開けてみたいがその気持ちを一旦おいて、今度は手紙と一緒に渡された両手のひらに収まる程度の大きさのプレゼントボックスに目をやる。
さてどちらから開けようか、しばし悩んでアーサーはプレゼントボックスにかけられているリボンをほどいた。そうして包装紙を丁寧に取り箱の蓋を開けると、中にはつやつやとした一口大のチョコレートが行儀良く並んでおり、アーサーの目を楽しませた。
感謝の宴に先んじて贈り物や菓子を交換しあったときにもらったものとは違うものであるのは、一目で分かった。あれから少し自分もカインも忙しく毎日顔をあわせたわけではなかったが、あまり日数もなかったはずなのにいつ用意したというのだろう。大雑把な印象が強い彼の要領の良さを垣間見て、アーサーは敬慕の念を抱きながら手紙の封を切った。
◆◇◆
とろけるように眠くなりそうな午後、アーサーはカインを誘って談話室に来た。もちろん、今朝もらった手紙とチョコレートの話をするためである。先客がいれば場所を変えるつもりだったが、幸い無人だったのでそのまま二人でソファにかけた。
「カイン、今朝はありがとう。早速手紙を読ませてもらった」
「急に申し訳ありません。今日を逃したらしばらく渡せなくなりそうだったし、急な話でもあればすぐ城に戻らないといけなくなるだろうから、朝しかないと思って」
「気遣ってくれてありがとう。チョコレートもおいしく頂いたよ」
アーサーは、チョコレートの味を思いながらカインに礼を述べた。口どけがよく、まろやかな甘さのチョコレートはアーサーを癒し、送り主であるカインへの感情を募らせた。
行儀が悪いとは思いながらも自室だからということにしてチョコレートを食べながら手紙を読めば、またすぐに席を立ちカインのもとへ向かいたい衝動が疾り出しそうになったし、読み始める前に口にいれたチョコレートが読み終わりと同時に口の中からなくなったときは、感動のあまり部屋から飛び出すところだった。
「よかった! 手作りにも挑戦してみたかったんだが、何しろ時間がなくてさ。料理の腕ももうひとつ自信がなかったし、今回は出来合いのもので勘弁してくれ」
「いや、祭りの企画や準備で忙しい中用意するのは大変だっただろう。チョコレートだけでなく、手紙まで……」
「下書きなしで書いたからちょっとあやしいところがあったかもしれない。折角のバレンタインだからって、ちょっと手を広げすぎたな」
カインはそう言い苦笑いしているが、アーサーからしてみれば彼は完璧だった。魔法舎内におけるバレンタインから、感謝の宴から、そして今朝に至るまで。計画性の権化といっても過言ではないが、彼は決して押し付けがましいことを口にせず、ただ此方のことを思ってくれている。こんなにありがたいことはない。
「今度は感謝の宴やバレンタイン関係なく、一緒になにか作ってみたいな。何となく知ってはいるつもりのあんたの好みを、ちゃんと知りたい」
「……! 勿論だ、私もカインの好みを知りたい。そして、次の機会には私も手紙を書いて、贈り物もするよ」
感情のままこの場で口にしてしまいたい気持ちを抱いてはいるが、カインが忙しい中したためてくれたのだから、それに応え報いるのであれば同じ方法をとるのが礼儀というものだろう。アーサーは笑みを浮かべてカインの蜂蜜色の目を見つめた。小春日和のあたたかい室内で、やわらかく視線が絡み合う。
「賢者様が言うには、お返しは一ヶ月後にするのだそうだ。でも、それまで待っているだけというのは苦しいものがある」
手紙に綴られていた、彼の話し言葉とは違う少しぎこちなく形式ばった愛の言葉も、いま「知りたい」と言ってくれたことも、いとおしくて仕方がなく歯止めがきかなくなりそうな気がするのだ。
だから、とアーサーはポケットに忍ばせていた一輪の薔薇をカインに向かって差し出した。薔薇といっても生花ではなく、紙を折ったり細い芯に巻き付けたりして作ったものである。
「ルチルに教えてもらって、先ほど作ってきた。急ぎだったし、初めて作ったものだから出来はいまひとつだが……」
「そんなことないさ。世界で一番きれいだ」
手よりも小さな紙の薔薇を受け取ったカインの表情は喜びに彩られ、それもさることながら、彼の口から紡がれた言葉はアーサーの胸を充分に震わせた。
「しかし紙でできてるとはいえ赤い薔薇なんて、熱いな……」
「勝負事ではないのは分かっているが、私だって……想いなら負けていない。来月は楽しみにしていてくれ」
自分の口から伝えても、文字にして伝えても、想いは等しくこの世にひとつの感情で代えなどきかない。完璧にはできないかもしれないし、予想外の出来事も起こるかもしれないが、それでも報いたいのだ。彼の想いに。愛と信じるものに。
いまこの場で抱き締めあうことのかなわないふたりは、どちらからともなくひっそりと指を繋いで微笑みあう。季節はもう、春の階をのぼり始めていた。