誓約の痕ふと、意識を飛ばしていた。
桜河こはくは徐々に戻ってくる感覚に固まっていた体を軋ませる。
真っ先に視界に入ってきた見慣れぬ天井は、お世辞にも綺麗とは言えない安宿のものだ。
薄闇に沈む部屋の寝台にはこはくの他に大柄な男の姿があった。
裸の広い背には昨夜こはくが無我夢中で立てた爪痕が生々しく残っていた。
「おやあ、目が覚めたのかあ?」
と、先程まで確かに背を向けていた男──三毛縞斑がくるりと反転し、こはくに明るく声をかける。寝起きとは思えない喧しさにこはくは思わず顔をしかめた。
この男のことだから、もしかしたら寝てないのかもしれないが。
「……おん……ちゅうか、いつ落ちたんか覚えとらん……」
今なんじ? と寝起き独特の舌足らずな声で問えば、斑がまだ夜中の二時だなあ、と呑気に答える。
起きるにも早すぎるし、かといって妙に冴えてしまった意識をどうしたものか──こはくが思案していると、斑が急に距離を詰めてきてこはくの体を抱き寄せる。
「……なんや、あつくるしい」
「眠れなくなったんなら、人肌に触れてればいずれ眠くなるかと思ってなあ」
「なんやそれ……」
赤ちゃんとちゃうんやけど、わし。
子ども扱いに不満を訴えれば、愉快そうに喉を鳴らした斑の顔が一気に近づいた。
「……んぅっ……」
大きな手に頭を支えられ、唇を食まれる。
戯れにしてはいやに熱の籠ったくちづけに、こはくは息を乱しながらも視線でどういうつもりなのかと咎める。
斑はこはくの視線に気づきながらも、お構いなしに口内を執拗に荒らした。
斑に熱を吹き込まれ、寝起きでぼんやりしていた意識が否が応なく覚醒していく。
上がっていく息が苦しくて腹立ち紛れに斑の胸を叩けば、ようやく唇が離れた。
「っ……なん、なんっ……?」
寝直すどころか余計目が冴えてしまった。
息を整えながら斑を睨みつけるが、斑は気にした様子もなく今度はこはくの首筋に唇を寄せる。
「ちょ、斑はんっ?」
「いやあ、眠れないならもう一戦するのもいいかと思ってなあ」
にぱっと笑って告げられた言葉は、冗談なのか本気なのかいまひとつ判別がつかない。
「はあっ? 今からヤったら朝起きれんくなるやろ! ちゅうか、さっき散々ヤったやんか!」
あれだけ好き勝手貪っておいて、まだ足りないのか。
苛立ちに柳眉を吊り上げ腕の中でもがくが、がっちりと囲い込まれ抜け出せる術はない。
それでもこはくならば本気を出せばなんとかなるかもしれないが、先程までの行為での疲労が抜けていないせいか決して本調子とは言えなかった。
こんな状態で斑と事を起こしたところで無用な流血沙汰になるだけだ。こはくとしても体力の無駄遣いはなるべく避けたかった。
こはくが逡巡しているうちに首筋をチリッとした痛みが掠める。
「っ、そない見えるとこに痕つけんなや……!」
茶色い癖毛を引っ張り止めようと試みるが、斑は止まらず白い首筋に見事な鬱血痕を刻んだ。
「……どないすんねん、これ……」
「こはくさん、肌が白いからなあ! つい楽しくなっちゃうんだよなあ!」
すまん、すまん! と軽く謝りながらも、斑は体をずらして昨夜つけた自身の足跡を辿るようにこはくの肌をなぞる。
その触れ方に甘さを含んだ不穏なものを感じ、こはくはため息を吐いた。
先程の斑の「もう一戦」という言葉はあながち冗談ではないらしい。
「……せめて、見えんとこにつけてや。虫刺されて誤魔化すにも限界あるし。それにしても意外やわ」
ぬしはんが所有印つけたがるやなんて。
一見朗らかで皆のママを自称する斑だが、他人と一定の距離を保っているとこはくは気づいていた。
こはくにも覚えがあった。
裏の世界に生きるもの特有の処世術だ。
暗殺者として潜入先に馴染みつつも必要以上に親交は結ばず、任務を遂げたら速やかに存在を消す。
一般人と気軽に馴れ合うには、こはくの一族は血生臭すぎる。
それは斑のほうも同様のようで、他人との間に一線を引いている。
こはくに対してもその「線」は存在していて、この触れ合いにだって欲の処理以外の意味なんてないと、考えていたのに──
回数を重ねていくうちに増える所有の印を見ていると、まるで自分が特別なものにでもなったような錯覚に陥ってしまう。
我ながらくだらない幻想だ、と一笑に付すにはこはくは斑の体温を知りすぎてしまった。
「こはくさん」
不意に呼ばれて目を合わせれば、斑がこはくの左手を持ち上げた。
なにを、と思う間に、こはくの薬指が斑の口に含まれる。
「……っ……!」
かり、と指と手の付け根を軽く食まれ、反射的にこはくの背がしなる。
そのまましばらく口内でこはくの指を弄んでいた斑の意図がさっぱりわからず、怪訝な顔で斑の行為を見つめているとしばらくしてようやく指が解放された。
「ほんまになんなん、ぬしはん……」
思わず手を引っ込めようとしたが、未だにしっかりと握られ叶わない。
唐突な行動についていけないこはくを後目に、斑は先程まで噛み締めていたこはくの指を掲げ無邪気に笑った。
「やっぱりこはくさんの肌は白いからよく目立つなあ」
──噛み痕が指輪みたいだ。
なるほど、言われて見れば薬指の付け根に円を描くようにしてくっきりと残った歯形は、指輪を填めているかのよう。
「……ぬしはん、それ、わし以外のおひとに言わんほうがええで」
寒いわ、と口では吐き捨てながらも、昨夜掻き乱された体が震えるのを感じてしまい、悔しさに唇を噛む。
いくらこはくが世事に疎いからといっても、左手の薬指に指輪を填める意味は知っていた。
それは、想いの永遠を誓う証。
辛辣だなあ、と苦笑いする斑にこはくは不意打ちでくちづけた。
「こはくさん?」
「……斑はんのせいですっかり目ぇ覚めてしもたわ」
きょとんとする斑に責任取ってや、と誘えば、心底愉しそうな笑みを乗せた唇がこはくの薬指に優しく触れる。
そのまま大きな体に覆い被され、こはくは再びシーツの海に沈んだ。
翌朝、斑の薬指にも小さな噛み痕がしっかりと刻まれていた。
仲良く眠る双頭の猟犬が微睡みから目覚めるのは、もう少し後のはなし──