七日間恋話一生に一度、最初で最後の恋をした。
こはくが新たな贄として神を祀る神殿に引き立てられたのは、儀式の数週間前のことだった。
この国の神は民を庇護する代わりに、常に新鮮な若い血を求める強力な荒神である。
よって、生贄は順繰りに領地の村々から選定される。
そうして此度はこはくの村の番が回ってきた、というわけだ。
両親や姉たちはこはくの選定を密かに嘆いたが、こはくは自身が選ばれたことが誇らしかった。
贄の選定を受けた一族は、その後の暮らしを一生国から保証される。
自分の命で家族全員の身代が贖えるなら、この身を捧げても惜しくはない。
そう割り切って、こはくは迎えの神官に連れられ故郷の村を後にした。
輿に乗せられ村から村を経由し、程なくして国の中心である王都へと辿り着くと、往来には贄としてのこはくを一目見ようと大勢の人間が集まっていた。これから神殿入りするこはくを盛大に讃え、歓声を上げる者もいる。
贄の証であるヴェール越しに、異様な熱気に湧く人々を冷めた目で眺めていたときだ。
茶の髪に緑の瞳の若者が、痛ましいものを見るような目でこちらを見ていた。
そしてすぐさま逸らされる眼差しに、言い様のない腹立たしさを覚える。
──あれは憐れみの目だ。若い身空で神への供物になる自分に対しての。
誇りすら持って、この地に贄としてやってきたというのに、馬鹿にしているとしか思えない。
宛がわれた一時の仮宿となる潔斎部屋は明かり取り用に小さな窓が天井に一つ付いてはいたが、石造りのせいか圧迫感がどうしても拭えなかった。
案内の神官が立ち去ってすぐ、こはくは腹立ち紛れに隅に設置された粗末な寝台に身を投げ出しそのまま目を閉じた。
****
──翌日。太陽がすっかり真上に登った頃。
こはくは雄々しい叫び声と何かが激しくぶつかっているような音を聞き、驚いて跳ね起きた。
いつの間に眠っていたのだろう。
いくら輿に乗せられ丁重に運ばれてはいても、故郷からここまでの道程は短いとは言えなかったし、緊張故の気疲れもしていたのだろう。
それにしたって不貞腐れた気持ちのまま寝台に飛び込んだら寝てしまった、というのはあまりにも子どもっぽかった、と密かに反省する。
昨日の出来事を振り返りながら、恐る恐る部屋の扉を開けて、音がするほうへと歩き出す。
幸いにも廊下は人気がなく、部屋から勝手に出たこはくを咎める者は誰もいなかった。
こはくの宛がわれた部屋は神殿の最奥に位置していて、関係者以外は決して立ち入れない。部屋の前に見張りがいなかったのはそのためだろう。一度中に入った者は絶対に逃げられないと踏んでいるのだ。
こはくは惹かれるがままに音を辿り、暗く長い回廊を歩き続ける。歩く先に日の光を見留め、自然とこはくの歩く足が早まる。
やがて廊下は外廊下へと繋がり、眩い太陽の光が目を灼く。
外廊下の目前は開けた広場になっており、その中心には二人の男が向かい合って対峙していた。
こはくは対峙する男の片方に見覚えがあった。
昨日の道行きの最中こちらを憐れみの目で見つめていた青年だ。
思わず声を上げそうになり、慌てて口を押さえ太い円柱の陰に身を隠す。
柱の陰からそっと覗き込むと、二人の青年は太陽光に身を晒し、互いに睨み合っていた。
一方の紅い髪の青年が不敵に笑い、人差し指をくいくいと曲げて茶髪の青年を挑発する。
茶髪の青年はその誘いに破顔一笑し、紅髪の青年の間合いに素早く踏み込んだ。
次の瞬間、茶髪の青年の大きく振り上げた脚が紅髪の青年の顔面に炸裂する。
パァンッという音が響き、こはくはあまりの衝撃に戦慄いた。
部屋まで聞こえてきた音はこの二人の、肉と肉がぶつかり合う音だったのだ。
顔面に蹴りが直撃したかと思われた紅髪の青年は咄嗟に腕を交差し、茶髪の青年の蹴りを難なく受け止めていた。
紅髪の青年はそのまま茶髪の青年の脚を掴み体勢を崩そうと試みるが、そうはさせないとばかりに茶髪の青年が拳を振り上げる。
負けじと紅髪の青年も拳を振り上げ、今度は拳同士がぶつかり合って激しい音を立てた。
ビリビリと辺りに闘気が溢れ、圧倒される。激しく死合いながらも、二人は笑っていた。その表情があまりにも力強く生気に溢れていて、こはくは目が離せなかった。
これから死に往く自分とは正反対の、眩いほどの生命の煌めき──
「……あっ、ちょっとあんた! 新しい生贄の人っすよねぇ? 駄目ですよぉ、勝手に出歩いちゃ」
こはくが目の前で繰り広げられる戦いを食い入るように見つめている間に、ずいぶん時間が経っていたらしい。
こはくより幾らか年嵩の青みがかった髪の青年が背後から現れ、こはくの不意の外出を咎めた。
「あ、堪忍……目ぇ覚めたけど、誰もおらんかったから、退屈で……」
大人しく謝罪するも、相変わらずこはくの意識は目前の戦いに向いている。
青年もこはくの視線の先に気づいたのか、あーと納得の声を上げた。
「そういや昼の御前試合の時間でしたっけねぇ。もう少ししたら終わるはずなんで、そしたら戻りましょうか」
「……ええの? すぐ戻らんで」
「別にいいんじゃないっすかねぇ? それに俺もあの二人の試合は見てるの好きなんで」
「……おおきに」
こはくが短く礼を言うと青年は微かに笑うと、黙ってこはくの隣で戦いを見つめていた。
しばらくして青年に連れられて元の部屋に戻ってきたこはくは、用意されていた昼食を食べながら先程目撃した戦いがなんだったのかを青年に尋ねた。
青年は少しだけ面食らっていたが、やがて快く話してくれた。
「あれは神様に捧げる奉納試合っすねぇ~。うちの国の神様ってえらく血の気多くて、定期的に血ぃ見せないとすぐ国が荒れるって言われてて……戦争があるときは自然と血が流れるからいいんすけど、平時はああやって日に何度か死合わないといけないんすよね」
青年は自分を含めた先程の二人は神殿の警備兵と拳舞を奉納する拳闘士を兼ねているという。そういえば目の前の青年も先程の青年二人も同様の衣装と入れ墨を纏っていた。
こはくは先程の光景を思い返す。
二人の青年は傷だらけで、古い痣や傷が体のあちこちにあった。
奉納試合で怪我をしても、命に関わるものでなければ基本的にすぐに手当ては出来ない決まりなのだという。
「あんな……命懸けの試合を日に何度も……? しかも怪我しても手当て抜きでって……正気やあらへんわ……」
「まあだからこそ生贄なんて伝統が未だにあるんすよね……っと、そろそろ俺も戻らないと。昼飯食いっぱぐれちまう」
「……あ、引き止めてもうて堪忍な! それといろいろ教えてくれておおきに!」
礼を言うと親切な青年はひらひらと手を振り、部屋を去っていった。
こはくは敢えて青年の名前は聞かなかった。それは彼も同じだった。
だってこはくの命はあと数日で尽きる。
誰かの名前を聞き、覚えたところで、意味などないのだ。逆もまた然り。
死にゆく者の名なんて、誰も記憶したくないはずだ。
ならば最初から、誰にも名乗らず誰の名も聞かず、静かに消えていったほうがいい。
そう、贄と定められてから決めたはず、なのに──
(……あいつ、名前なんていうんやろ……)
日の光の下、逞しい裸身に傷を晒してまで愉しげに戦う茶髪の青年の姿が脳裏を過る。
決意とは裏腹に、憐れみを持ってこちらを見つめていた青年の名が、こはくは気になって仕方なかった。
****
こはくが神殿に来て、三日目の朝を迎えた。
生贄というものは案外暇なもので、捧げられる日までの間はこれといってやることがない。
行動も神殿内の一部ならば特に制限はされなかったので、こはくは好きに出歩いた。
神官や警備兵はこはくの積極的な態度が物珍しいようだった。歴代の贄は大抵捧げられる日まで部屋に籠りきりで、身の回りの世話をする人間以外とは接点を持たず静かに役目を終えるという。
だがこはくはそんな陰気な生活は真っ平だった。
与えられた部屋の窓が小さいにのも気に入らない。
自分の村にいたときは日の光と共に起き出して、一日中太陽の光を浴びていた。
一日中過ごすにはあの部屋は陰気すぎる。
起き出してすぐ、こはくは部屋を飛び出し回廊を進み外廊下を目指す。
昨日、こはくを迎えに来てくれた青年によると奉納試合は早朝、昼、夜の日に三回。早朝の試合はもう終わってしまったかもしれないが、まだあの男が広場にいるかもしれない。
果たしてこはくのささやかな願いは叶えられた。
図らずも昨日こはくが試合をこっそり観戦していた柱に凭れかかり、荒い息を吐くあの男がいた。
腕の怪我をそのままに気怠げに目を閉じて、痛みをやり過ごしている。
どくどくと腕から流れる血の赤を見ていられなくて、こはくはその場に飛び出した。
「! 君、は……」
急に現れたこはくを見て、男は驚きに目を丸くした。
「……ぬしはん、ほんまよく怪我するんやね」
どうやら腕の傷は昨日のものが開いたようだった。私物の救急袋を持って出ておいて正解だった。
「昨日の傷そのままなんやろ。見してみい、手当てしたる」
「えっ、いや……大丈夫だから……!」
「……ええから黙っとき。すぐ済ます」
傍にしゃがみ込み、治療の邪魔になるヴェールをこはくが外すと、男は急に黙り込み大人しくなった。
その隙にこはくは救急袋から消毒液と清潔な布と包帯を取り出して、手当てを開始した。
傷の消毒を済ませ、手際よく包帯を巻いていくと、男が感心したようにこはくの手元を見つめて褒める。
「……ありがとう。ずいぶんと手際がいいんだなあ」
「わしも小っちゃい頃は大暴れしてよく怪我してたんよ」
「そうは見えないけどなあ」
「コッコッコ、ひとを見かけで判断したらあかん、よ……」
いつの間にかいつもの癖のある笑い方が出ていて、咄嗟に口を押さえて隠すが既に手遅れだった。
「変わった笑い方だなあ」
困惑と警戒に揺らめいていた深緑の眼差しが穏やかに細められ緩む。昨日試合のときに垣間見た好戦的な笑みとは違った柔らかい微笑に、何故か鼓動が早まっていく。
「……よう言われる」
挙動不審をなんとか誤魔化したくて、ぼそりと短く答えると、
「気にすることはないぞお。俺も変わり者だとよく言われる。この通り、図体も声も大きいうえ、戦えば負けなしだからなあ」
──人と違っていて、怖いんだそうだ。
今度は自嘲気味な笑いを溢す男に無性にイラッとしたこはくは、思わず先程手当てしたばかりの箇所を思いきり引っ叩いた。
「……いっ……! たいぞお! 急に何するんだあ!?」
「別に? そんだけでかい声が出るんならもう大丈夫やね」
さすがに傷口を押さえて情けない声を上げる男に、冷ややかに告げるとこはくは立ち上がった。何故だろう、男の自分で自分を傷つけているような物言いが無性に腹立たしい。
これ以上この場にいたら、ほぼ初対面の相手に対してもっときつい言葉を吐いてしまいそうだった。頭を冷やすためにも一旦部屋に戻ろうと思い、こはくは男に背を向けた。
「怪我人なんだし、もう少し労ってくれてもいいと思うんだがなあ……」
「ほんなら放置せんと、手当てくらいしっかりしぃや」
「君には関係な」
「──ある。わしが気になる」
こはくの背中に向かってぶちぶちと不満を溢す男に、こはくは振り向くと間髪入れずに言い返す。
男はこはくの物言いに一瞬面食らっていたが、すぐさま呆けた表情で言った。
「変わってるなあ、君……」
「ほな、ぬしはんとお揃いやね」
上げたままだったヴェールを被り直し微笑むと、男は一瞬押し黙った後にそうだなあ、と素直に頷いた。
****
その日以来、男はちょくちょくこはくの部屋を訪ねてくるようになった。
主に食事時に現れてはこはくのぶんと一緒に自分のぶんを持ち込んで共に食べたり、時には珍しい果実などの手土産を持参してくれたりもした。
逆にこはくから男に会いに行くこともあった。
男は日に三度行われる奉納試合の後、大抵中庭の闘技場に繋がる外廊下の柱に気怠げに寄り掛かって痛みをやり過ごしていた。
こはくは初めて会ったときと同様に手当ての道具片手に駆け寄り甲斐甲斐しく世話を焼き、なかなか癒えない傷とその身を投げやりに扱う男の態度に顔を曇らせた。
そんな日々が三日、四日と続き、気がつけばこはくが贄として捧げられる日の前夜──
夜半、表面上はいつもと変わらぬ顔で手土産に、と籠いっぱいの赤い果実を持った男が部屋に現れた。
「待っとったで、ぬしはん」
こはくは果実入りの籠を受け取りひとまず寝台の横に置くと、一つの決意を持って男を見つめる。
「……あんな、明日はいよいよ儀式の日ぃやろ。実質この夜がぬしはんと過ごす最後の夜じゃ。せやからって言うのも変やけど、わしのお願い一つ、聞いてくれるか?」
「……あぁ」
いつになく男の受け答えは静かだった。
真剣に、こはくの次の言葉を待っている。
その態度に後押しされ、こはくは震えそうな声をなんとか抑えて言葉を紡ぐ。
「わし、わしの名前な、『桜河こはく』っち言うんよ……せやから最後に、ぬしはんに名前で、呼んでほしい……」
このまま名前を告げず、穏やかに夜を過ごして別れるという選択肢もあった。
というか、本来ならばそうすべきだったのに、ここにきて、最後の最後でどうしても抑えられなかった。
生まれて初めて好きになったひとに、自身の名前を知ってほしい、その声で呼んでほしいという欲望を。
たった七日間ぽっちの短い付き合いだったけれど、こはくは男に友愛以上の感情を抱いていた。
誰に教わったわけでもない、けどわかる。きっとこれが恋だ。
最初で最後の、自分の初恋──
なんとか泣かないで告げたささやかな願いに、男は初めて対面したときのように目を見開き暫し黙り込んだ。永遠にすら思えた長い間を開けて、男が再び口を開く。
「こはくさん、かあ……いい名前だなあ」
「っ、おおきに……」
男の口から初めて出た自分の名前を聞いてなんとか礼を言うが、嬉しさと切なさがない交ぜになったような感情が押し寄せてきて、もはや感情を上手く制御出来そうになかった。
同性の、しかも明日死ぬ自分に想いを寄せられても絶対に困るし、迷惑になる。
だからこの想いは、封じたまま告げずに明日を迎えるべきだ。
そう思っていたはずなのに。
いけない、とわかっていながら、こはくは更なる欲深さに目覚めてしまった己を恥じた。
「──あ、わし、最後にぬしはんに伝えたいこと、が……」
告白は結局、最後まで言えなかった──男から急に肩を押され、寝台に倒れ込んだために。
「……斑」
「え?」
「『三毛縞斑』──俺の、名前だ」
顔を覗き込まれ、囁かれた言葉は何より知りたかった目の前の男の名前で。
それだけでもう充分すぎるほどだったのに、こはくが戸惑い気味に「斑、はん?」と紡いだときの男──斑の表情がこはくの自惚れを加速させる。
期待、してしまっても、いいのだろうか?
そう思っていた矢先、熱く、かさついた手が、こはくの頬を撫で、そのまま首筋を辿るようにして胸元へ降りる。
些細な触れ方のはずなのに、色を帯びたその手つきにこはくは全身が沸騰するかのような錯覚を覚えた。
「嫌なら、やめる」
きっぱりと言い切るわりに、お預けを食らった犬のようなしょぼくれた顔をしている斑が愛しくて、何より自分と同じ感情を抱いてくれたことが嬉しくて──
「ええ、よ、斑はんなら。せやからそんな顔、せんといて……?」
こはくは歓喜の笑みを浮かべながら、斑に向かって細い腕を伸ばした。
斑もこはく同様に嬉しかったのか、柔らかな抱擁はすぐに解かれ、些か乱暴に唇を食まれて──あとはもう、何もわからなくなった。