星呑み小話6「絶対に嫌だ!」
甥・一重の鼓膜を裂くような大声なぞ初めて聞いた、と汽一は内心驚く。そもそも、あまり感情を表に出さない子供だった。それがあの一件から段々よくも悪くも年相応の振る舞いをするようなってきている。
「叔父さんもさ!駄目だと思うでしょう!?」
少し涙の浮かんだ目で一重が汽一の方を見る。
「……思うところはなくもないが、良いんじゃないかと儂は思うがなぁ」
その言葉に一重の首に巻き付いていた蛇が笑う。
『ほれみろ!そんなお綺麗なことを思ってるのはオマエだけだ!』
煽るような物言いに、一重が乱雑に蛇を払う。床に落ちた蛇は一瞬水のようになり、すぐに狐の形を取った。
呼吸をするように姿形を変える沽猩は、ついこの間までこの山で恐れられていた妖怪だ。強大な力で欲しい物を全てを手に入れてきた。しかし、今はその本体の殆どを失い、一時は食らおうとしていた一重の元に留まっている。
「……それでも、僕は嫌だ」
『強情め!』
一重と沽猩はぎり、と暫く睨み合うと、揃って顔を逸らした。もう何度も見た光景に、汽一はふうと溜息を吐く。この後どうなるかも分かりきっている。沽猩がつい、と逸した身体を戸の方へと――。
「ん?」
初めてのことだった。逸らした顔ごと身体を向き直したのは一重だった。沽猩も仰天したのか口をあんぐりと開けている。呆気にとられた面々に目もくれず、一重は乱暴に戸を閉めて駆け出していく。閉まり切る前に冥猩がするりと入り込んだ。
『なんだよ、揃って変な顔して』
呆れる猫に返事が返ってくるのは、少し経ってからである。
思わず飛び出してみたものの、そこからどうすればいいのだろう。
一重は怒りもどこへやら、何とも落ち着かない気分を抱えていた。それでも家へ戻る訳にも行かず、のろのろと足を動かしている。時折そっと後ろを見るが、誰も追ってくる様子はない。目的地があるわけではなかったが、自然と足は神社へと向かっていた。
「……伊呂波」
鳥居をくぐり境内を抜け、裏手にある小屋へ進む。神主の住居であるそこに居るはずだ、と窓を覗き込むもそこに伊呂波の姿はなかった。居たのは焼火だ。ならば他の場所へ行こう、と背伸びしていた踵を戻すのとほぼ同時に大きな音を立てて戸が開く。
「あっ……」
「やあ、一重。さあさあ中へ」
有無を言わさず焼火に連れ込まれる。焼火は何故か上機嫌そうに笑っており、余計一重としては身の置き所がない。
特に何があったわけでもないが、一重は自分とは違った方向に変わっている焼火が苦手であった。恩人であり、なんとなく波長の合う伊呂波にそう漏らしたこともあるが、返ってきたのは「ああ……ちょっと見ちゃったんだなあれ……」という歯切れの悪い言葉であった。悪い奴じゃないけどね、とも言われたが。
「今茶を淹れよう」
「あ、……いや、別に」
「子供が遠慮するものでもなかろう?……伊呂波は今、おっ……家の者と会っていてな?数日は戻らんのだ」
「そう……」
明らかに気落ちした声になってしまって、一重自身が驚く。
「先ずは一口飲むと良い」
差し出された湯呑を受け取って、一口啜る。自身の家で飲むのと変わらずしっかり熱い。
「さて、今日はどうした?何かあったのだろう、そういう顔をしている」
「……」
「勿論、俺相手に言いたくないことであれば無理強いはしないが……」
まだ中身の残る、手の中の湯呑をじっと見る。一重の手にはまだ大きい湯呑だ。
「……叔父さんは、ずっと僕をちゃんとした勉強をさせたいと思ってて」
「うん」
「でもそんなお金もツテもなくて」
足を悪くした只の人間の生活に、余裕はない。生きていくことは出来る、けれどそれ以上になることは出来ない。それすら少し年貢が上がれば、雨が降らなければ、そんな些細なことで崩れてしまう。
「でも、両方とも解決するって」
「それは良いことなのでは?」
「……そうだと、思う。でも」
湯呑を持つ手に、少し力が入る。
――汽一の話を聞いた石動からもたらされたのは、浮世離れした学びの道だった。
どうにも最初にこの村を彼らに紹介した者のツテらしい。焼けた屋敷を再建したものの、人の数が足りないのだとか言っていた筈だ。
「ツテの方は、いいんだ。本当かな、と思うけど、貴方達は、信じられる、から。……でも、やっぱりお金がいる。僕も、叔父さんも。そうしたら、お金ならあるって――沽猩が」
沽猩の言う金とは、勿論幾多の人間を殺し奪い、貯め込んだものだった。
血に濡れた手で掴んだそれを、まるで無邪気な子供のように差し出す沽猩を拒絶したのが先程のことだ。
「そうか……」
俯いた一重に、焼火の静かな声が落ちる。
「叔父さんも良いんじゃないかって言うし、僕」
ぼろり、と片目から涙が落ちる。
勿論汽一が沽猩の肩を持っているわけではないのは分かる。
「うん、うん。お前は間違ってないさ、一重。……だが、沽猩はそれしか知らんのだ」
「でも」
「そうだな。知らないから許してやれとは言えない。俺も言わない。けれどもう、それ以外にどうしようもなくなってしまっているんだろう」
不意に頭を撫でられる。
まさか焼火がそんなことをするとは思わなかった一重は動けない。
「どうしようもないんだ。償えぬ罪もある。それでも、何かせずには居られないんだ。……お前は、どうか沽猩と共に居てやってくれ」
「……」
湯呑はまだ、温かい。
「……離れたいほど、嫌じゃないんだ」
「そうか」
「でも、僕とは違いすぎるよ」
「俺と一重も、違いすぎるな」
顔を上げる。焼火が微笑んでいた。
「……そうかな。そうでもない気がする」
ほんの少しだけ、焼火が苦手ではなくなったような気がした。