星呑み小話:それは海の味がする胃が重い。溜息も何度ついたか覚えていない。それでも、足を止めたり、踵を返す選択肢はない。なんとも面倒くさいな、とどこか冷静に伊呂波は自嘲する。
世話になっていた旋葎達の元を後にして半日程、ようやく風に潮の香りがするようになってきた。ほんの少しだが、それで身体が軽くなる。
結局、海の側で生きるしか出来ない身なのだろう、と伊呂波は思う。そこからまた暫く道を行き、視界の半分程が海となった頃に行きとは違う堂の中へと入った。
『――伊呂波、伊呂波、お帰りなさい』
「!?」
堂から屋敷へと場所が移った、と認識するより早く、伊呂波の身体を強く抱きしめた者がいた。鯨湦――伊呂波が名を与えた、あの鯨である。腐った巨体ではなく、今は楓星と同じく人の姿をとっている。だが、楓星とは違い、お世辞にも若くはなく、伊呂波とは親子程の差がある見目だ。あやかしが己のみの人の形をとるのは、ただ化けるのとは違うらしい。鯨湦本人も「もっと若い姿の方が良かった」と零していたので、望んでこの姿となった訳ではないようだ。
『怪我はないですか? 気分が悪かったりは? 楓星に苛められたりしませんでした?』
「え、うん、いや」
一体楓星の事を何だと思っているのだ、と伊呂波は呆れたが、実際あの態度――結局旋葎に何を言われようと、刺々しいままだった――ので、外れてもいないか、と思い直した。
大丈夫だから離して、と言いたいが、鯨湦はひたすら疑問を投げかけ続けて返事もままならない。どうしよう、と伊呂波が焦り始めると、
『お館様、そのままだと死にます。殺せます』
そう、冷静な声がしてやっと身体が自由になる。見上げると鯱が伊呂波の両手首を持ち上げ、鯨湦から引き剥がしていた。
「……あ、りがとう?」
『どういたしまして。お館様は、ずっとお前を待っていました。ずっと門から離れないで、お役目もしないで。困ってました』
『お前、それは言わなくてもいいでしょう』
『言わなくてどうしろと? 自分はそれくらいの権利あります。お館様のとばっちりの尻拭いは何時も自分です』
「え、ええと、ごめんなさい?」
『自分はお館様に怒っている。なので別にお前が謝る必要はないです。そもそも、お前を行かせたお館様が悪い。そんな気は微塵も無かった癖に』
やっぱりそうだったのか、と伊呂波は納得する。薄々そうだろうとは思っていたが、このはっきりと物を言う鯱が言うならそのとおりなのだろう。
『別に其処までは……』
『其処までです。この7日程、ずっと帰って来なかったらどうしようとウダウダ煩かったのはお館様です』
『お前は本当に……伊呂波の前でそんな……』
「……」
じ、と目の前で焦っている鯨湦を見つめる。こうしていると、まるで只の人間のように見えなくもない。だが、人にしか見えない姿でも、決定的に人と違う部分がある。
「……鯨湦」
やっと名を呼ぶ。伊呂波が与えた、この鯨だけを指す名前だ。呼ぶと、嬉しそうに伊呂波を見る。黒に赤の浮かぶ、人間とかけ離れた目で。
『はい』
「ただいま」
『はい、お帰りなさい。伊呂波』
ふう、と息を吐くと、やっと鯱が手首を開放する。そしてそのまま、伊呂波の背中から荷を取り上げる。
『そういう事なので、お前、当分はお館様はお前にべったりで使い物になりません。頑張ってあしらってください』
『お前、本当にその物言いは何とか出来ませんかね……』
そう呆れつつも、鯨湦は鯱を嫌っていない……どころかかなり好いているのだろうと伊呂波は感じた。恐らく本人に言っても、否定はするだろうが。
それと同時に、鯨湦が鯱へと向けている気持ちと、伊呂波へ向けている気持ちは違うのだろうと直感する。
――だって鯨湦は、鯱がいなくなってもきっと追わない。そう、伊呂波は思う。もし伊呂波が、旋葎達のところ以外へ出かけたいと願ったら、決して首を縦には振らないだろう。嘘を言って違う道に踏み出したら、きっと気付く。聞いたわけでも、言われたわけでもないが、伊呂波にはそうだと言い切れた。最初に、そう示されてしまったのだから。幾多のものより、何より伊呂波が大事だと、全身から叫んでいる。
『ならないので諦めてください。……それより、流石に中に入ってはどうですか。立たせっぱなしです』
『あ、ああ、そうですね。伊呂波、中に入りましょう』
鯨湦が手を差し出す。少し迷って、伊呂波はそれに自分の右手を重ねた。
それだけで、鯨湦は嬉しそうな顔をする。こうして伊呂波と触れ合えるのが、人の姿を持って一番嬉しい事だと言っていた。
「アンタとあの鳥って、結構似てるな」
ぽろりと思っていた事が声に出る。鯨湦は一瞬虚を突かれたような顔をしたが、
『……ええ、そうですね』
そう、肯定した。何処が、とは言わなかったが、きっと伝わっているのだろう。
――そこまでして誰かを欲しがる気持ちの名前を、他に伊呂波は知らない。己がそれに応えきれるのかも、分からない。けれども、伊呂波は思う。
多少なりとも応える気がなければやはり、戻ってなぞこないのだと。