星呑み小話:焼け野原の男『奥方様、奥方様』
ころころと廊下を毛玉が転がっていく。それの先頭を旋葎がむんずと掴んだ。
「今日の一着は三吉だな」
別に毛玉達は競争しているつもりはないのだが、旋葎からすると毎度順番が違うのでそうらしい。
この毛玉達は、楓星の配下である動物のあやかしである。見る限り毛玉だが、実際は家を切り盛りする出来た毛玉達だ。尤も、そのような能力はあやかしとして山で生きるには特に役に立たない。主がこうして家を構えてくれたからこそ忙しく働く身になっている。その点では、毛玉達は旋葎に感謝していた。
『奥方様、お会いしたいと言う輩が来てます』
「ん? いや、俺は全然なんにも聞いてないんだが」
通常、この家の敷地に入るには人里にある神社を通らねばならない。その際、旋葎か楓星に許可を取らねばならないが、それを求める声は空から降り注ぐ。しかし、旋葎は本日何も耳にしていなかった。
『いえ、いえ、何時もの方からやって来たのではないのです』
『川から来たのです』
『釣っていたら引っかかったのです』
何時もの方法ではなく、川から、釣り上げた。
それを聞いて、旋葎は理解する。
「なるほど、伊呂波のとこからの使いか」
広い領地を持つあやかしは、人間よろしく配下に数多のあやかしを従えている。
楓星は山に住む動物の、鯨湦は海に住む魚がそれだ。川の魚はどちら側なのか微妙なところではあるが、泳ぐものは後者寄りだろうと旋葎は結論づけた。
『そうです。あの海の方々からのお使いだと思います』
『ぬるぬるして運ぶのに苦労しました』
『桶に入れているのです』
またころころと転がっていく毛玉の後に続く。井戸の前まで転がると、それを止めた。脇に桶が置かれている。
『此方です』
旋葎がしゃがんで覗き込むと、一匹の鰻がとぐろを巻いていた。旋葎を見て取ると、鰻はのっそりと頭を持ち上げる。
『オ目にかかれて、光栄でございまス。海の者から言伝を、預かって参りましタ』
辿々しく言葉を紡ぐ。そういえば以前、鯨湦が人間と遜色なく言葉を話すあやかしは少ないのだと言っていたのを旋葎は思い出した。強い楓星・鯨湦は言わずもがな、毛玉達も流暢なのであまり意識したことはなかったが、恐らくこの鰻はこれでもかなり喋れる方なのだろう。
「ご苦労さん。それで、何て?」
『ハイ。言伝は、……二日後の昼、あの社にて……との事でス』
「あの社? ……ああ、もしかしてこの前のあれか」
先日の騒動を思い出す。火の神と、それに魅入られた男を巡るそれからひと月程が経っている。流石に怪我が尾を引いていた楓星も、今は普段どおりに回復していた。
『サテ。手前にはさっぱりでございますが、兎に角お伝え致しましタ』
「これ、返事とかいるのか?」
『ソちらは、承っておりませン。……デは、手前は失礼致しまス』
「忙しないな。駄賃代わりに飯でも食っていったらどうだ」
魚の話を聞ける機会も中々無さそうだしな、と旋葎は言う。しかし、鰻は首を横に振った。
『海の者から、ヨくよく、言い聞かされておりまス。長居をすると、良くないト。……人間と必要以上に話すと、鳥に食われるかラ』
「ははは、そりゃ確かに」
ソれでハ、と言い残して鰻は身を捩って桶をひっくり返す。旋葎がそれを持ち上げると、後には何も残っていなかった。
『使いはちゃんと仕事をしたのですね。ああ、良かった』
二日後、旋葎と楓星の姿を見た鯨湦はそう言って胸を撫で下ろした。
「別にあれくらい、余程馬鹿じゃなきゃ出来るだろ」
『その余程の輩が多いので』
鯨湦が嘆く。しかしその顔が嗤笑しているように見えたので、旋葎は追求するのを止めた。
「それで、これだけ集めて今度は何が始まるんだ?」
旋葎に楓星、伊呂波と鯨湦、更にその後ろには晶まで控えている。この面子が揃って、何も起きない筈もない。
「何でしょうね。……いえ、私は夢を見ただけでして」
『夢だあ?』
楓星がじとりと晶を睨みつける。声は何時ものとおり不機嫌丸出しであった。恐らく、鯨湦は楓星がこうであるから、使いを旋葎へと送ったのだろう。楓星のみに伝えたのなら、無視される可能性が高い。
「ええ。皆を集めて是非来て欲しいと」
晶があの日のように、朽ちた社に触れる。其処には何もなく、何も祀られていない。
「一体何があって、何が居るのかは私にも分かりません。……とは言っても、見れるようになったのでしょうね」
何を、と誰かが問う前に扉が開く。何もないそこから突然2本腕が飛び出してきたと認識すると同時に、5人の意識は一旦途切れた。
「なん……何……?」
伊呂波が目眩を覚えつつ目を開けると、其処には石畳があった。白い石は磨き上げられており、顔が映り込みそうな程である。その向こうへと顔を向ける。
「!?」
石畳の向こうには、何もなかった。いや、何かはある。だが、それは闇のような水のような、はたまたそれ以外のような、何ともはっきりとしないものであった。
『これの何処が見れるものなんですかね』
鯨湦の呆れ声が降る。差し伸べられた手を取って立ち上がると、少し先に赤い鳥居があるのが見えた。石畳はその先へも続いているようだが、果ては見えない。
「これって……?」
『あれの住処でしょうね。全く、私達であるから良いものの……』
あれ、と吐き捨てるように言った鯨湦は、伊呂波の肩を抱いて自分の方へ引き寄せる。それを受けて、伊呂波はまるで自分達の住処のようだと思う。底のない海に浮かぶ、不可思議な家。海に果てはなく、孤島の如く何処にも行けはしない。これが鯨湦の言うようにあれ――つまり先日の火の神が作ったのだとすれば、確かに己の半身は神に近いものなのだろうと納得する。
「で、もしや此れを歩いてけって言うのかね」
『否、否、否』
聞き慣れぬ声が響いた。顔を向けると、鳥居の中から人影が2つ現れた。
重い足音を立てるそれらは、一見すると鎧武者のように見える。だが目の前に来られると、異形のものであると分かった。隙間なく小札で覆われ、兜の下には穴のない板で顔が隠されている。異様なそれに戸惑ったのが分かったのか、鯨湦は自分の後ろへ伊呂波を隠すように前へ出た。
『客人方』
『此方』
鎧武者2人が、促すように横へ避ける。それと同時に鳥居の向こうがぐにゃりと歪む。
「此方、と言われても中々躊躇するなこれは」
「……説得力がありませんねえ」
晶の言うように、旋葎の声は弾んでおり躊躇っているようには見えない。それを察知したのか、はたまたこの状況に飽いたのか、始めに鳥居へ足を踏み出したのは楓星であった。混ざるように歪みに溶けた姿を見て、旋葎が続く。見ておいて続けるのが何ともらしいと思いながら、伊呂波は更に続いた晶を見送る。自宅と変わないのだろうと理解しているが、それでも未知へ踏み出すのは躊躇われる。
『帰ります?』
鯨湦が問う。ここで頷いたのなら、後で誰にどう文句を言われようと引き返すのだろうと伊呂波には分かった。
「……行く。行くよ」
『そうですか』
「ちょっと残念がってない?」
伊呂波が尋ねると、少し思案するような様子を見せてから鯨湦は肯定した。けれども、理由を話そうとはしない。気にはなるが、聞き出す方法は分からない。手を引かれるまま、2人で鳥居をくぐる。
『揃ったな。突然の呼び出しに応えてくれて感謝する』
先にあったのは、特筆すべき点のない只の神社であった。5人の前には、先の鎧武者2人と見知らぬ男がいた。赤い長髪を結い、肩衣袴を身に着けている。
「あんたは……」
『呼びつけておいて名乗らぬのは不躾だが、生憎名乗っても意味がないからな。……先日は、世話になった』
男が頭を下げる。上げた顔は整っていたが、何処か不安を感じる造形をしていた。更に目が鯨湦のように異形の色をしている。人の姿をしているが、これが火の神なのだろう。
「いえ、我らは出来る事をしたまで」
晶がそう返す。しっかりと神を見据えていた。
『……で? 頭下げるだけでお仕舞、という訳でもないんだろう』
楓星の言葉に、神は頷いて自身の後ろにある本殿の戸を開いた。大して広くはないそこには、布団が敷かれている。
『本当はもう少し見れるようにしてからと思ったのだがな。目処が立たぬので、これで』
神が布団から何かを起こす。
それは恐らく人であった。全身布で覆われ、手首の先は未だ無いそれが、唯一人間らしい所は露出している右目だけしかない。
「そ、その人」
『……ああ、あの男だ。今日はな、礼をもそうだがこの男に関する事を見届けて欲しくてお前達を呼び立てた』
男は声を上げない。右目が不安げに自身を支える神を見つめている。
『此奴は全てを失った。記憶も名も全て燃えた。俺が燃やした。……だから、新たに名をつける。俺と生きる、此奴に』
だが、と神は続ける。
『もう表舞台から降りた俺だけが呼ぶのでは意味が無い。お前達が記憶し、呼んでやってくれ』
そうして神は一呼吸置いて口を開く。
『焼火。……それがお前の名だ、焼火』
「……!」
男は、焼火は声を上げなかったが、一同にはそれがとても嬉しそうなのが見て取れた。