星呑み小話:柔らかきもの細く、柔らかなものだと丹星は感じた。
そう伝えたところ真顔で「それはない」と返されてしまったが。そのような表現は、女子供に使うものだと。けれども、触れただけで折れて腫れるそれは、他にどうにも表現出来ない。
『焼火』
己が与えた名前を呼ぶ。少し前までは、呼んでから自分の事だと認識するまでに少し間があった。今も完全には無くなっていない。恐らく奥の奥まで視れば、本来の名前を探し出す事は出来るだろう。だが、それをした所で何があるわけでもない。
「お早うございます、丹星殿」
『身体はどうだ?』
「どこも何も。全部繋がっているのでご安心なされよ」
此処の所、毎朝しているやり取りだった。
丹星が今纏っている人の見た目は、焼火の身体を「打ち直した」際に残った使いようのない肉で拵えた上辺だけのものである。鉄のように溶かして叩いて、形を整えただけに過ぎない。生命を奪う方法しか司らない丹星には、無から生き物を作れない。それが出来たならば、あのように焼火に苦しみを与える事もなかった。
窮屈な肉に詰まっているのは神の力ともなれば、どうしても加減が分からない。焼火に触れる度、骨が折れる音がする有様だ。それでも、殺さないだけ纏う意味がある。
『……』
「丹星殿?」
『……。いや、今はいい。朝餉にしよう』
言葉を飲み込み、まだ歩行が覚束ない焼火の袖を引く。手首か掌を掴むのが自然だろうとは丹星も思ったが、朝から骨の折れる音がするのも、と止めた。焼火がそれをどう思ったかは分からないが、ゆっくりと廊下を進む。数ヶ月前に客人達を招いた時とは様変わりし、当世の屋敷といって差し支えないものを構えている。実際これで人間が暮らしている様を丹星は見たことはないのだが、中々いい文化を築いたと関心していた。
自身の存在理由である争いを嫌ってはいないが、眺めるのならばそれ以外が良いと丹星は思っている。今も人間は争いを止めてはくれないが。文化は確実に先へと進んでおり、司る神も今や居ないも同然だというのにどうして止まらないのか、丹星には分からない。
「毎度思っているのだが……」
『うん?』
「一体、誰がこれを? 畏と虞がやっているとは、思えないのだが」
部屋に用意された膳を見て焼火が呟く。
畏、虞とは丹星の作った剣と矛である。神の打ったそれが只の武器である筈もなく、其処らのあやかしでは傷もつけられぬ強さを持っている。その代償に、とでも言うように、自律した意志は備えていない。只々命令通りに動き、単語の発話が出来るだけだ。纏わせたのも肉ではなく只の鎧兜である。生き物を作れない己らしい配下だと、丹星は笑うしかない。そんな主と配下を見れば、焼火の疑問も尤もであろう。
『その辺りは、過去の俺が勤勉だったのが功を奏した』
「……?」
『俗に言う、戦利品というやつだな。それで家事は回している。どれも神が作ったものだから、今でも朽ちる事なく動いてくれて助かった』
「それは、また。……動く所は見ても大丈夫だろうか?」
『興味があるのか? うん、構わない。夕餉の際は見物するといい』
そう言葉を交わしつつ二人で膳につく。
以前の丹星であれば、食事は必要なかった。しかし少量とはいえ肉を纏うとそうもいかない。これも慣れぬ故に、己の舌を食っていたのは一度ではない。
『味はどうだ? ……いや、聞かずとも分かりきった事だな』
味に拘りも何もないが、焼火が美味いと言って食ってくれるので、そういうものだと思うことにしている。神の道具は美味いものしか作れないらしく、丹星にはそれ以外の味が分からない。
肉も、飯も、味も、全てが上辺だけの、人間の真似事だ。その真似すら碌に出来ていないのだが。
「いやはや、毎日美味いものが食べれるのは良い」
『そういうものか?』
「上澄み以外は食うや食わずも多いのが人間。しかも汗水垂らさずとも食えるとなればここはもう……」
言葉を切った焼火が、不意に顔を歪ませる。
『焼火、どうした』
「……どうして、俺は。何も思い出せないのに……。丹星殿、どうして俺にこんな、風に」
焼火が立ち上がり、丹星の前へ来る。
そのままぐらり、と倒れてきた身体を丹星は咄嗟に抱えた。ごきり、と太い骨が折れる音がする。
『焼火』
「名前も、親の顔も、全て忘れてしまったのに、俺はどうして人間を覚えている」
『それは』
人間らしい人間に、神の力なぞ扱えはしない。代償のない力も存在しない。
触れてしまったばかりに、焼火の人間として当然の温かいものは全て燃えた。残ったのは丹星同様に歪なものだけだ。
「……貴殿に触れられている時だけ、俺は安心できる。罰が、痛みが、俺がそれでも人間なのだと」
焼火の腕が、丹星に縋り付く。その指も爪も、丹星の身体に傷も残せない。
「だが、人間でも俺は罪人だ。貴殿とは、違って」
『……』
「永久に罰を受けるべきだ。失ったものを補うべきではない。けれど、貴殿は俺に天上の暮らしを与え、優しくする。人間のように、扱う」
身体が震えている。泣いているのだろうと丹星は思った。骨肉ではなく、他のものが痛くて泣いている。
『焼火』
「……」
『お前は紛れもなく人間だが……もう、人の身体ではない。ここは人界ではない』
焼火の身体を治す事は、丹星には出来なかった。鉄のように溶かして、元の形に直しただけだ。しかし、どうにも戻せない、足りないものは他で補うしかなかった。それに用いたのが丹星自身の身体である。曲がりなりにも神自身が混じる事になった焼火は、もう人の範疇を完全に超えた。それでも、こうして泣く焼火は人間のままである。
「けれども、罪は消えるものではない。そうだろう?」
『そうだな。だが、俺と永久にいるのは、人から見れば罰だ』
「そんなことがある筈がない!」
焼火が叫ぶ。
『罰だ。お前は痛みで死ぬこともなく、以前のように気違うことも出来ず、人の世が滅び去ろうと全ての終わりまで俺と共に在るのだ。果てには何もない。俺では、何も与えてやれない……』
焼火はそれ以上何も言わなかった。只その涙が丹星の肩を濡らしていた。
やはり、細く柔らかいものだと思った。
不相応な望みであると理解していても、それを守りたいとやはり丹星は思わずにはいられなかった。
幾ばくかして、丹星は焼火を傷つけず触れることが出来るようになった。
しかし、それでも稀にわざとそのようにする。
その痛みが、細く柔らかいものを守るのだと思って。