何処かで、この関係は『期間限定』だと。
そう思っていた。
天井から影を落とすファンがゆったりと回る音。時折何かの物音がパイプを伝ってやってくる。それらを聞きながら、書類に落とすペンを走らせる音を出す。
一度レコードをかけてみたことがあったが…俺にはこっちの方がいいらしい。
「…はぁ」
旅人たちは今頃ナタに戻ったか。
最近書類整理が億劫だ。歳のせいって訳じゃない。
カツンカツンと靴音を響かせて、執務室からさらに下へと降りていく。
ウィンガレット号。そいつは役目を終えた今、ここには居ない。だからここに来る意味はない。…だが、
ひた、と強化ガラスに手を当てる。
…俺は、『これ』に人生をかけてきた、…きていたと言っても間違いじゃあない。それが終わった今。…最近特に感じる感覚。
俺の『未来』はあの日終わった。
『予言』以降の未来は、俺の中には無い。
だがその『未来』に生きてしまった。
執務室を出て、コートを羽織る。近くにいた刑務官に告げる。
「数日空ける。トラブルがあれば連絡をくれ。」
「わっわかりました。」
…珍しい。とでも言う顔だ。そうだな。俺もそう思う。
不安そうな顔だ、なぁに。
「君たちならば監獄長が数日いなくても仕事をまわせるだろう?」
「あ…はっはい!!お任せ下さい!!」
ひらひらと歩きながら、背後の発言者へ手を振った。
俺がいなくても滞りなく回るように。そう、仕事を覚えさせたから。
底から見える揺れる空は晴れているようだ。囚人を送る道を逆走し、受付係に挨拶をし、エレベータに乗り込む。
ゴー、ギシギシ、という音を聞きながら上がっていくと滝の音がしてくる。この音が好きだ。だいたい上がりきって、この石造りの階段を上ればそこにはあのヌヴィレットさんがいることが多いから。
…まぁ今日は何も連絡してないからいねぇけどな。
西日を受ける歌劇場。並ぶトーチ。…まだあの中にいるんだろうか。
そのまま階段に腰を掛けた。
◆
俺の未来はあの日まで。そのはずだったんだ。
それ以降の未来は、俺の中にはなかった。
あの日以降、心が空っぽになった気分になることが多い。
『燃え尽き症候群なのよ』
そう看護師長に言われちまった。
ずっと、ずっと。このことばかりを考えて生きてきた。そのゴールを過ぎることは想定していなかった。
思ったよりも世の中は、未来を見据えていて。
俺は、存外仲間はずれに遭っている気分だった。
「ふむ、感心しないな」
頭の上から降ってきた言葉は愛しい聞き慣れた声。
「ヌヴィレットさん」
「体調が優れないのであればここにいるべきではない。」
眉をひそめて、それがこの人の優しさ。
「1つ、質問をいいかい?」
「…なんだろうか」
唐突な言葉に、一瞬詰まる返答。
「…あんたのこれからの未来には、俺はいるのかい?」
思ったよりも、はっきりとした声が出た。
「至極当然のことだな。ふむ、珍しい。」
心底不思議そうな顔。そりゃそうだろうな。
…ふと、先日の事を思い出す。
「ナタは、常に死と隣り合わせの国だったはずだ。それでも、あの若者たちは将来、未来を普通に思い描いていた。…正直凄いなと思ったんだよ」
あんなに明るく、楽しそうに。『今後』の事を考えられることが。
「…俺は、アンタとの未来を考えられないんだ。」
悪いな、と。
そうでもなければ公爵に関する令状なんてものに目を通さないなんて真似はしないさ。
その細長い瞳孔が、さらに鋭くなる。どんな感情なんだい?
…あぁ、星空に溶けるアンタはどうしてそんなにも綺麗なんだろう。
光のない海の底にいる俺とは正反対なんだ。
◆
あの日、ウィンガレット号は大勢の人間を助けた。しかしそれは、予言が間違っていた時、溺れ死ぬのを避けるためのものだ。
水位が上がり始め、囚人や看守たちを全員ウィンガレットに乗せて上昇している間。
…俺は、一足先に地上にいた。パニックになりかける住民に声をかけ、到着地点にできる限り人を集めていた。そいつらが乗り込むのを見届ける前に、走った。人々の走る方向とは逆へと走った。
露頭に迷うやつを一人でも救いたかった。
「アクアロードターミナルの水路を真っ直ぐ行け!!船が来る!!周りにも伝えろ!!」
そう叫びながら。
気付けばヴァザーリ廻廊まで来ていた。人々の声は聞こえるが、近くには居ない。空となったエミリエさんの店内や物陰なども見て回った。
そのうち、ちゃぷ、と。靴底が濡れる。
これが、もし予言通りならば。
「…ふぅ。遺言なんて考えてねぇなぁ」
そう呟いて、そこからの水位の上昇は早かった。
目を瞑って視界を遮り、すぐに聴覚が失われた。
溶け…ない。まさか。俺の、死ぬはずだった場所。
目を開けばウィンガレット号の船底。急いで泳ぎウィンガレット号に追いついたが、その時に心の何かをそこに落としてきた。
…そう、俺はこの日。死ぬ予定だった。約二桁に渡る年数、構想の中に常に含まれていた決定事項。
この日死ぬために生きてきた。ヌヴィレットさんの国民を少しでも多く助けて、ヌヴィレットさんの愛したこのフォンテーヌと共に。
…死ねなかった。そう思ってしまった。
◆
風が頬を撫でる。綺麗に整えられた草木がサラサラと音を立てる。
ヌヴィレットさんと深い関係になってからでも、
俺は不法取引をされていたロシが本物なのか確認のために飲んだこともある。
原始胎海の濃度が濃くなった海水を泳いで皮膚がただれかけた事もある。
封印が解かれる時に、最前線で覗き込んでそれこそかかったら即死していた。
そして、挙句には「死ねなかった」と、そう思ってしまった。
ヌヴィレットさんの事を愛しているつもりでいたが、そんな自殺願望ともとれる行動を何回もとっている。
…そんなの、嫌だろう。
「…ヌヴィレットさん。別れよう。」
喉が熱い。目の奥が痛い。この感覚は何年ぶりだ。
微かに震える唇を悟られないように結ぶ。
目を閉じると、角膜に既に溜まってしまっていたそれが溢れた。
…同時に、空も泣き出してしまった。
「…人は、己の想像以上の事が起こった時、自らを『弱い者』として捉えてしまうのだろう。」
己の涙を浴びながら、そう淡々と。
「リオセスリ、『未来』とは。どの時点を言っている。」
「…そりゃ、」
数年後。数十年後。自分の年を重ねた姿。
「『今』は、既に『未来』だ。」
雨に濡れたコートが重い。
「君は、考えられないと思っている『未来』に常に生きている。違うのか。それは、考える必要があることなのだろうか。」
全く想像だにしなかった言葉を、雨音の合間に聞く。
「…私との未来が見えないのは当たり前だろう。…未来など、誰にも分からない。ただ、その先に、いて欲しいという願望なのだ。」
よく、わからない。頭が理解を拒否している。
「ペットを、飼いたいと言ったな。」
「え、あ、あぁ」
カクークを見て、イファくんやオロルン達との姿を見て。一層その気持ちは大きくなった。色々言い訳は考えていたが結局の所予言が来た時には飼い主がいなくなるのだから。その時路頭に迷うその姿を想像したくなかったから。…でも、もうその必要が無いとしたら?
「不動産も検討するのだろう?」
「それは…どうだろうな」
俺の居場所を増やす意味もない。どうせ近々死ぬのだから。金なんて、そこまで生きるだけあればいい。貯金、と言うよりもただ持っているだけのモラ。…でも、もう使ってもいいのだとしたら?
「…その程度でいいのではないか。今まで押し込めていた事があるだろう。」
海底からの景色、パレ・メルモニアからの景色、ヌヴィレットさんの執務室の景色。…それ以外の景色を見れるとしたら?見てもいいのだとしたら?
暗闇に自ら閉じ込めていたこの身を、そちら側に置いてもいいのだとしたら?俺は…
「……旅に、出たい」
ぽろ、と口から漏れた言葉。
ぽろぽろと生暖かい雨が頬を伝う。
「…あぁ。」
「…色んな動物が見たい。」
「あぁ。」
「フォンテーヌから、出たい…」
ヌヴィレットさんが愛するフォンテーヌ。絶対に言ってはいけない言葉。
「もちろん。許可する。」
「……え?」
微笑んでいる。ヌヴィレットさんが。許されている。
「君の刑期などとうに過ぎている。君は自由なのだ。もう、自らを縛るのをやめるといい。」
自由。
久しぶりに、俺の目に光が灯る。
「おめでとう、」
あぁ、その瞳はとても柔らかで。
「ようやく君の為したいことを見つけたようだ。」
あの日の言葉。全く違う心。
「ヌヴィレットさん…俺、俺は…」
アンタを好きでいてもいいのかと。
返事はなかったが、さぁと雨が上がる。星空が煌めく。
「もちろんだ。リオセスリ殿。私も同様の気持ちであることを改めて伝えておこう。」
俺の未来。俺の今。
「では行こうか」
「は?今すぐかよ、てかアンタ審判とか…」
クク、とイタズラに喉を鳴らして、
「私がいないと立ち行かないフォンテーヌなど、不健全だろう?」
その言葉に呆気にとられ、
「私に付き合ってくれるかね?」
「は、アンタ…ふ、ククッあははっ!!」
心底笑った。
常にあった重圧はもう、不要なんだ。
「どこに行こうか。自由の国モンドも捨てがたいが知恵の国スメールも気になる。なにせ海がないからな」
「ほう?」
過去を取り戻すように、未来を生きよう。
「あ、でも竜をみたいな。アイツらにも会えるだろうし。ナタにするか」
「いやナタは却下だ」
「おい、マジかよ…」
俺の未来を、取り戻すんだ。