白く綿毛のような、ふわりと舞って手のひらで消える。
人間の感覚ってのは記憶に残りやすいっていうが、俺の場合のトリガーはそれで。
圧迫される苦しさ、落として割れた瓶の消毒液の匂い、普段頭の上から降ってくるムトタさんの悲痛な声が耳元で。
「すまない、イファくん…すまない…」と何度も何度も繰り返す声。
たくましい腕で締め付けられる痛みは声に出せず、予想したことさえ言葉にできなかった。
俺の親は死後数日経ってから、他の患者だったと思われる者たちと一緒に見つかった。
わかってる。わかってた。軍医になるってことはこうなるかもしれないって。
成人手前の俺でもわかってたんだ。…それが事実になったら認められないことなんてわからなかったんだ。
「…寒くなったな」
風が強い。おおよそ墓とは言えない抱え込める程度の岩。そこに巻き付けられるスカーフと大きな羽根が1枚。
『医者だってすぐに分かるように白衣とこの派手な羽根をつけておくんだ。遠くからでも助けを求められるだろう?』
それは戦友とも言えた親父のクク竜の羽根だった。
『これがあれば何もなくても止血には使えるのよ』
それは同じくらい派手な燃えるような赤色の大判の布だった。
その二人が見つかった、寄り添って倒れていた場所にそれを建てた。
ナタでは戦死した人間の墓は無い。数え切れないし場所もないから。だから慰霊碑としてまとめて讃える。…でも、それが俺は出来なくて、この有様だ。
さく、と薄く生える草を一歩踏みしめて屈む。
「…毎年さ、こんな時にだけここに来て、ずるいよな。悪いよな。…ごめんな」
普段はその記憶を忘れたかのように過ごしているのに、この日だけは何もする気が起きなくてここに来てしまう。親不孝というか、自分勝手というか。忘れるなら忘れるで来ないほうがよっぽど夜神の国でのんびり出来るだろうに。…でも、無性に心が淋しくなってしまうから。
「…もう、来ないほうが…いい、かな…親父、母さん…」
風の音の中から聞こえるはずのない答えを探していた。
◆
いや納得行かねぇ。
急に「今日は休診だ」って言ったかと思えば「カクークは…家にいろ。ついてくんなよな」って頭撫でて一人出てった。
短い翼をバタつかせてイファが繕ってくれた藁を踏みしめる。
藁をここまで持ってくるのも大変だったし、何もすることがなくて暇だし、かと言っていつ帰ってくるか分からないし、でも帰って来た時に俺がいないわけにはいかない顔してたし。
そう考えながらフンと鼻を鳴らした時だった。
いきなりドアが開いてオロルンが入ってきた。
一瞬イファかと思って浮いた体がまた藁に沈む。
「…悪かったよカクーク、イファじゃなくて」
ポンと頭を撫でて、
「そうか…君も置いていかれたのか」
そう呟いた。
意味が分からないという顔をしていたからなのか、オロルンは俺が何も言う前に喋り始めた。
「昨日、初雪が降っただろう。この日は…その翌日はイファは両親の墓参りに行くんだ。命日がわからないから。」
「…クァ」
初めて、イファの親の話を聞いた。
唐突過ぎて人間の言葉を忘れてしまった。
「場所は…僕にも分からない」
俺の隣にドサリと荷物を置いて、少し陰った表情でそう言った。
「野菜…?」
「ん、そうだ。今日はイファは傷心モードだから好きなものをたくさん作ってやるんだ。」
クチバシの下をこちょこちょと触って微笑む。
別に心配なんてしねぇから無理に笑うな。
「…僕も、始めは一緒に行くって言ってたんだけど、どうしても一人で行きたいらしくて。」
「なんで!」
「それは…僕も聞きたい。決まって辛そうな顔で帰ってくるくせに何も教えてくれない。僕も気に食わないんだ。でも…こういう事は無理に突っ込むべきじゃないと、思うから」
じゃあ台所借りるよ、とオロルンは消えていった。
……はぁ?意味がわからん。
俺と、ましてオロルンにまで隠し事なんてらしくないんだよ。まして俺に出会う前からの事なのにまだ乗り越えられてないんだろ?誰かに言えよ。医者だろ。それくらい、わかれよ。
…言えよ。俺はなんなんだよ。イファの、ただの助手、なのかよ…。
しばらくして、台所から凄くいい匂いが漂ってきた。
早く帰ってこいよ。寒いだろ。オロルンも待ってるんだぞ。
ギィ、と。
白い息と赤い頬。…赤い目。
「ぅわっ」
俺は突進していた。つつきまわした。
「おかえり、イファ。寒かっただろ。スープ飲むといい」
「そ、その前にこいつどうしたんだいてててっ」
「それについては僕も君をつつきまわしたいから何も言わない」
「はぁ?」
「バカ!」
「な、なんだよ…」
なんだよ『ケンカか?』って言えよ
「っばーーーか!!」
「えぇ…」
どんだけ心配したと思ってんだ。行き先も言わないで、もう夜だぞ、出てったの朝だぞ。
「心配!した!」
やっと適切な言葉が口をついた。
呆けた顔をしていたイファがふと柔らかい表情になって俺を抱きしめる
「そっか…そうだよな。なんも説明しなかったもんな。…ごめんな」
「ゆるさない!」
「僕もそろそろ許さないでおこうかと思うんだがどうだろう?」
「は?何が?」
「なんで!一人!一緒!」
優しく微笑む瞳からは、揺らめく涙がこぼれそうだった。
◆
医者になろうなんて、実は思ったことはなかったんだ。
いつの間にかなってた、なんて言ってるけど。
親父と母さんのことは小さい時から隣で見てきていたから、そんな重い責任なんて俺には持てないから。
だからこそ、そんな二人を尊敬していたし大好きだった。
『父さん親父って呼ばれたいな』なんてどうでもいい事いうような人だった。
『おかえりなさい、お腹すいたでしょ?』なんて泥だらけの姿を見ても笑顔でいてくれる人だった。
そんな二人が突然、いなくなった。
大人たちが気を使ったのか、顔はきれいだった。まるで眠っているようだった。そのまま燃えて夜神の国へ行ってしまった。
ムトタさんが定期的に家に来てくれるようになった。何もする気が起きなくて、最低限の生きることしかしなくなった俺を気にかけてくれていた。
そんなムトタさんに無理を言って、二人が見つかった場所を教えてもらった。…まだ血が残っていた。遺品として貰った物をそこに供えた。
一ヶ月くらい経った頃だったか、ようやく少し親が死んだことを理解して前に進もうと言う気になれてきた頃だった。
「すっすみません先生!…あ、あれ…」
ほぼ暇潰しになっていた医学書をめくっていたらある子供が駆け込んできた。服装から豊穣の邦の子だろう。親は部族でも有名な竜医ではあったが一番遠い部族で、まして子供だったから知らなかったんだろう。助けけてほしいと駆け込んできたんだ。
「ど…どうしたんだ?」
「あっえっと…あの…別の竜医さんはどこに…」
その子はオロオロとしていたが、ふらりと背後から赤く染まったライノ竜が顔を出した。
その瞬間は何も考えてなかった。
「まず血を止めないと!そのまま歩かせちゃ危ない!」
そう言って、立ち上がっていた。
そりゃまだ成人してないやつに見られたくはないだろうがこのまま次の竜医の所に行ったら、と。万が一が頭をよぎった。
「俺で悪いが診せてくれ。頼む。せめて出血を止めてやりたい」
五、六歳は年下の、小さな女の子に、頭を下げていた。
「ワタシが崖になってることに気づかなくてっ助けてくれたの…ワタシのかわりに落ちて…血がたくさん出ててっワタシが無理にこんな遠くに連れ出したからっ」
まるでせき止めていたものがあふれ出るかのように。
女の子を心配させまいとそのライノ竜は顔をペロペロと舐めている。
泥に塗れたそのライノ竜の体を水で流して、出血源を特定した。後ろ足に木片が深く刺さっていたから下手に抜くことはできなくて、周囲の抉れている部分を圧迫して簡単な止血をした。根本もきつめに縛った。自分にできることはここまでだとわかって、正直辛かったが、その子と一緒にライノ竜を荷台に乗せて別の竜医の所に行ったんだ。
手際のいい処置を見て、親父を思い出した。悔しかった。辛かった。でも、
「ありがとう、ありがとう。あなたがいなかったら死んじゃってたかもしれない…」と感謝された言葉が忘れられなくて、
「君のお父さんはとてもいい竜医だった。よく見ていたんだね。今できる処置として完璧だったよ」と褒められた言葉が忘れられなくて。
しばらくして俺は、まだ見ぬ責任を背負うことにしたんだ。
◆
「親父はさ、俺に一度も後を継げなんて言ったことなかったんだよ。…母さんも。なんなら旅に出るのも後押ししてくれたしな」
オロルンの用意してくれた飯を食べて、落ち着いた頃にぽろりとイファは話しだした。
「いつでも、俺を応援してくれてた。あんなふうに、いなくなっちまうなんて、思っても見なかったんだ…」
「その時の戦争はばあちゃんも駆り出されてた。各部族の有名な戦士が何人も死んでしまった。君の両親もその中の勇士だったんだな」
ず、と鼻を啜る音。
「慰霊碑、がさ。認められなくて。…そこにはいない気がして、勝手に墓の紛いもん作って、自己満足で毎年墓参りしてたんだ。そんなとこの方がいないってのにな…」
はは、と力なく笑うイファは自虐的だった。
「夜神の国なんて、俺には遠い場所すぎて。どこにいるかわからなくて。…もういねぇんだけどさ。仕事が、忙しくなるにつれて、日々思い出してた思い出も考えなくなって、いつの間にか…初雪の時にしか思い出せなくなってた。」
…こいつ、まさか。
「…こんな日にだけ、こんな気持ちになったってしょうがない事は、わかってんだ。もう、忘れたも同然の生活してんのに、一日だけ感傷に浸って。いい加減、俺は…」
忘れるって?バカじゃねぇか
「そんなことない!」
「…カクーク?」
つい、大きな声が出ていた。
自分の言葉で話せないのがもどかしい。
思い出す回数が減ったって。思い出が薄れたって。
「好き!家族!いつも!大好き!」
どんな時だって、これから何年経ったって、笑ってたって、泣いたって、
「思い出すの!好きだから!」
いつだって好きなんだ。そんなの俺が一番知ってるんだ。母さんの姿なんて見たことなくたって、話したことなくたってこんなに好きなんだ。独りだった俺を拾ってくれた、こんな俺を育ててくれたイファも、俺の考えてることを代弁してくれて、俺の夢を叶えてくれたオロルンも、
「イファ!好き!オロルン!好き!」
何度だって伝えるんだ。大好きならいつだって、一瞬だって、思い出せばいいんだって。
「イファ!忘れるのダメ!忘れられない!そのままでいい!」
その悲しみは必要だから。それだけ愛されていた証しだって。今のイファがいるのは、二人がいてくれたおかげだから。大好きな気持ちは溢れていいんだ。泣いていいんだ。どこにいたって何してたって、心のなかに小さくいてくれるんだ。
「カクーク…」
「…通訳なんてしなくてもいいよね。イファ。僕もそう思う。…さすがだな、カクーク。ありがとう」
流れる涙が俺の頭にぽたりと落ちる。
「…俺、俺今日だけじゃなかった。親父ならどう処置するかとか…母さんならどう看病するかとか…無意識に、考えてた…今日だけじゃ、なかった…」
「…人間は、死ぬと魂になる。魂って第二の人生なんだ。大切な人の心のすみっこで生きていく。だから誕生日より命日の方が大切になるんだよ。君がいると思うところにいてくれるんだ。」
だから、その日を大切にする事は親不孝でも何でもない。愛してる証拠なんだと。オロルンはイファの手をそっと包んだ。
「…だから、君の気が向いたらでいい。君の愛してる人に会わせてくれないか」
オロルンを見ていたイファの顔が歪む。
「泣けよ」
「うるさ…カクーク…っ」
俺はイファの腕の中で、顔を見ないようにしてやった。思い切り、泣けるように。
◆
「はぁ、おい…ちょっと、待てお前ら……」
寒くなる。この季節。
「お久しぶり、お父さん、お母さん」
「父さん!母さん!」
「俺より先に挨拶すんな。しかもやめろその言い方」
ここ数年で、俺はこの日が好きになった。
親父、母さん。俺はこんな面白い奴らと一緒にいるよ。変わらないだろ?
なぁ、見守っててくれよな。
俺がさ、ちゃんと、この先もこいつらと生きていけるように。