今日も鴨川ジムは練習生と選手たちが一心不乱に練習に励んでいる。私はジムの端で活気のある声や音を聞きながら、使われた道具を掃除しつつ、整理していた。使い込まれたものは、修繕や交換しなければならない。そういったものをまとめて、箱に詰めていた。
作業が一段落して、箱を抱えて立ち上がった瞬間、すうっと血の気が引いて視界の端が暗くなった。ああ、立ちくらみだ。このまま耐えればじきに治るだろうけど、しゃがんでしまった方がいいだろうか、どこか他人事のように状況を見ていた自分が迷った束の間に、足元がふらついて身体が後ろに傾いた。なんとか足を後ろに出そうとした瞬間、何か硬いものが背中にぶつかった。
壁のようなものにそのまま身体を預けていると、じわじわと頭に血が巡っていき、次第に明るく開けていく視界に、練習風景がはっきりと映ってきた。くらくらとしていた感覚もほぼ消えたので息を吐くと、上から低い声が降ってきた。
「何やってんだよ」
「えす、すみません!」
壁だと思っていたのは鷹村さんの胸板だったらしい。たまたま通りかかったところに寄りかかってしまったのだ。慌てて向き直り、何度も頭を下げる。
鷹村さんは黙ったまま私の手から箱を奪い、ぐいぐいと背中を押し始めた。力で適うはずもなく、ジムの奥へ奥へと連れて行かれる。
「虚弱ちゃんはここで大人しくしとけ!邪魔だからな」
事務室へと押し込まれ、バタンと派手な音を立てて扉が閉められた。その力強さから、出てくるなという意思を感じる。
まだやることはたくさんあったのに、どうしよう。
立ちくらみはしばしば起こるし、少し休めばすぐによくなるような軽いもので、倒れたことは一度もない。そんなに神経質になる必要はないのだけれど……。
そろそろと扉を開けて様子を伺うと、鷹村さんが物凄い反応速度で振り返り、鬼の形相で睨まれてしまった。身を竦めつつ、近くにいた八木さんに事情を伝えると、大事を取って今日はデスクワークにしよう、と提案してくれた。ありがたいけど、とても申し訳ない。
入門希望者の登録や伝票の入力など、なんだかんだデスクワークもやることがてんこ盛りで、その日はあっという間に終わってしまった。
◇
「今からちょっと付き合え」
次の日の練習後、掃除をしているとモップを奪われ、鷹村さんからお誘い、というより命令が下された。何に付き合えばいいのか訊いてから判断したいところだけど、もとより断る選択肢は用意されていないので私は頷くことしかできない。
奪われたモップは近くでシャドーをしていた一歩くんに投げられ、無理矢理掃除をバトンタッチさせられてしまった。慌てる私をよそに鷹村さんはもう外へと向かっていて、一歩くんに謝ると、いってらっしゃい、と笑ってくれた。なんていい子なんだ。借りは必ず返すことを約束して、急いで鷹村さんを追いかけた。昨日から鷹村さんに仕事を奪われてばかりだ。
「どこに行くんですか?」
「青木の店だ」
「それなら一歩くんたちも誘ったら……」
「今日はダメだ!」
青木さんが働くラーメン屋さん、ということは、ご飯を食べに行くということだろう。いつもなら木村さんや一歩くんや板垣くんも誘って行くのに。みんなでワイワイ食べた方がおいしいし、楽しいはず。
でも、今日はたまたまそういう気分なのかもしれない。鷹村さんだし。あまり深く考えずに、いつもよりゆっくり歩く鷹村さんの横に並んだ。
「おう、いらっしゃい!」
ラーメン屋さんの扉を開くと同時に、青木さんの元気な声が響いた。ちょうど青木さんがテーブル席に料理を並べているところで、おいしそうな、お腹が減る匂いが鼻をくすぐった。
ただ、いつも注文するラーメンや餃子ではなかった。炒め物、汁物、和え物──さまざまなおかずがテーブルの上でひしめき合っている。
「試食ですか?随分たくさんですね」
お店も貸し切りにしているようで、私達以外のお客さんはいなかった。試食会ならなおのこと、人数がいた方がよかったのではないだろうか。
色とりどりのおかずを眺めながらそんなことを考えていると、青木さんが席に座るように促しながら、こっそり耳打ちをしてきた。
「鷹村さんがレバーやら小松菜やら大量に持ち込んでよ、アンタに食わせるから何か作れって言うんだぜ」
言われてみれば、小松菜の和え物に炒め物やひじきのサラダ、そしてレバニラやレバーの煮物など特にレバーの料理が大量にあった。
どうしてレバーを私に食べさせたいのだろう。
しばし考えて、レバーをはじめ、並んでいる料理は鉄分が豊富なもの──いわゆる貧血に良いとされるメニューばかりだと気付いた。そこから、私が昨日立ちくらみを起こしたことを思い出す。
鷹村さんは、私が貧血だと思ったんだ。
「食ってやってくれよ」
青木さんは困ったように笑って、白いご飯を私達の手元に置いた。
「おい、コソコソ何話してんだよ」
「い〜え別に!ごゆっくり!」
凄む鷹村さんに対し、大袈裟に肩を竦めてみせて青木さんはカウンターの中へと戻っていった。
鷹村さんが私のために、ご飯を……。
驚きと期待で妙に高揚しながら、手を合わせて、湯気が立つレバニラに箸をつけた。
「とってもおいしいです!」
「そりゃあ、誰かさんの愛が詰まってるからなあ」
「あぁ?青木の愛なんざ気色悪ィだけだろ」
「オレじゃねえっすよ!まったく……」
青木さんのからかいに、頬が熱くなってしまう。愛、はさすがに自惚れだろうけど、青木さんの料理の腕がいいのはもちろん、鷹村さんが私を心配してくれたことで、とびきりおいしく感じるのだ。
お腹が満たされていくと共に、胸に熱いものがじんわりと広がっていく。
「鷹村さん、ありがとうございます」
お礼を言われた鷹村さんは、むず痒そうに表情を歪めて、レバーともやし炒めをかきこんだ。
「残すんじゃねえぞ、虚弱ちゃん。迷惑かけられるのは御免だからな」
「はい!」
不器用だけど、行動のひとつひとつに鷹村さんなりの気遣いが感じられた。こういうところが、好きなんだ。改めて鷹村さんへの想いを確かめたのだった。
「普段相当迷惑かけてんのはどっちだよ……痛え!」
洗い物の音でほぼかき消されたはずの青木さんのひとりごとを鷹村さんは耳ざとく拾い、食べ終わった皿を投げつけた。