日が沈んで空がオレンジから濃紺へと変わる頃、晩ごはんの支度をするために立ち上がりキッチンへと向かった。
献立を考えつつ冷蔵庫から野菜やらお肉やらを取り出していると、ふと背後に気配を感じた。一緒に住んでいるのだから、考えるまでもなく、千堂さんだ。
「手伝おか」
人懐っこい笑顔を浮かべて、私の肩越しに覗き込む千堂さんと目が合った。思いの外距離が近くてドキドキする。
以前、構ってほしかったのか、料理をしているところを猫のようにウロウロされ、危ないからと諌めたことがあったので、手伝うなら許されるという考えなんだろう。
一緒に料理なんて新婚みたいだ、なんて考えが頭を過ぎって思わず頬が緩んでしまった。
「それじゃあ……切っていただけますか?」
「任しとき」
気を取り直してほうれん草を渡すと、千堂さんは意気揚々と力こぶを見せてから、包丁を手に取った。
ゴツゴツした大きな手に握られた包丁がギラリと妖しい光を放ったので、反射的に身体が強張った。柄がメキ、と音を立て、握り込む力が尋常でないことが伝わってくる。これから野菜を切ろうという力ではない。
まな板の上のほうれん草と向かい合い、根っこを切り落とそうと狙いを定める目は猛虎の如くギラついている。
一緒に料理とほのぼのしていたはずが、途端に不穏な空気がただよい、さっきとは違う意味でドキドキしてきた。
「……あの、大丈夫ですか?」
「何がや」
「いえ……」
なんとなく迫力を帯びた声音に及び腰になり、それ以上は何も言うことができなかった。お米を研ごうと思ったのに、不安で目が離せない。
「あ!ちょっと待って!」
「うお!脅かすな!危ないやろ!」
ほうれん草の上をゆらゆらと漂っていた動きが止まった位置を見て、思わず大きな声が出てしまった。
謝罪もそこそこに、目でほうれん草の根っこを指す。
「もったいないから、もう少し根っこの方切ってください」
千堂さんが切ろうとした位置は、私がいつも切るところより随分葉っぱ寄りだった。もっと根っこの近くまで食べられる。
千堂さんは私とほうれん草を何度か見比べてから、ほお、と驚いたように声を上げた。
何か変なことを言っただろうかと考えて、私のかなり庶民的なこだわりに対するものだと気付く。たかだか数センチ、私にとってはされど数センチ。一人暮らしをしていた間に染み付いてしまった倹約の精神だ。
しかし、あんなに大きい声を出してまで主張することではなかったかもしれない。私の庶民くささが余計に際立ったようで、じわじわと恥ずかしさが込み上げてくる。
「……ケチくさいって思いました?」
きまりが悪くて千堂さんの目を見られず、おそるおそるそう尋ねると、千堂さんは、いや、とかぶりを振り、いつもは吊り上がっている目尻を少し下げた。
「ええ嫁はんになる思てな」
随分と優しい声音で、そんなことを囁いた。
ええ嫁はん。その言葉を心の中で反芻してから、誰の?と続けて考えてしまい、面映ゆい気持ちになる。
一緒に暮らしているのだから、これからのことも期待してしまうのだ。
もじもじと体を揺らしながら、目顔でそれとなく問いかけると、千堂さんはぎゅっと顔をしかめた。
「何笑とんねん!ちゃっちゃと飯作んで」
気づかぬうちに口角が上がっていたらしいが、怒鳴ってそっぽを向いた千堂さんの耳が赤いことに気付いてしまい、私はにやけっ面を抑えることができなかった。
ええ嫁はんになれるように修行しよう。そう決意して、お米を研ぐ手を再び動かした。
その後、まな板が割れる勢いで包丁が振り下ろされ、弾け飛んだほうれん草の根っこが私の頬をかすめていったので、お手伝いは丁重にお断りすることとなった。