得難き香辛料(オスカー+エマ) 曰く、定期的に味の品質を確認する為に抜き打ち検査をしている。と、オスカーは球状のクロケットを器用に四等分にした。きつね色の揚げ衣の中から鮮やかな緑が現れ、エマは思わず小さく声を弾ませた。
「すごく綺麗な色……! 見た目からは想像出来ないですね」
「このキッチンカーの主人はディレッタントの生まれではなくてな。生まれ故郷の料理をアレンジして振る舞っている。これは、ひよこ豆とそら豆をすり潰しペーストにしたものを丸めて揚げた『ファラフェル』という揚げ物料理だ」
店を訪ね席を取りテーブルマナーを守って食するような料理ではなく、青空の下の路上で手軽に買えるような庶民的料理も躊躇なく口にするオスカーをエマはまじまじと見た。不意に視線が合ったが黙したまま使い捨てのフォークを差し出される。切り分けたそれを食え、という事らしくエマは慌ててそれを受け取り一口齧った。顔を近付けただけで香辛料の香りを感じるが、それに反して舌には辛さの刺激はあまり感じない。
「なるほどな。同じレシピで同じように作っているつもりでも知らず知らずのうちに誤差が生じるものだ」
エマが付属のヨーグルトソースをつけてもう一欠片食べて頬を綻ばせている間、オスカーは慎重に咀嚼と嚥下を繰り返していた。テイスティングを鑑定と同義語とするならば、正に今の彼は観察と調査と検証とをその舌の上で遂行している。上着の懐から手帳を取り出して素早く書き付け、思案し、再びペン先を走らせてから軽く音を立ててそれを閉じた。
「ひよこ豆とそら豆の割合が変わっている。玉葱……は、確か原産国の方で悪天候が続いていたな。味の変化の要因にこれもありそうだ」
口許をチーフで拭ったのは思考を整理する為の言葉の声量を抑える為でもあったのだろうか。オスカーはフォークの先にヨーグルトソースを一匙取って口に含み「こちらの味は変わらないな」と呟いた。
「其処まで分かってしまうんですね」
「こういったインスタントな食事を提供する料理人には変わらぬ味を提供する技量が求められる。私なら是正の道を示してやれるという事だ。が、口にする度に初めの感動を神聖視してしまうのが難点ではあるな」
僅かに眉を寄せたオスカーはしかし口許で弧を描いた。
「お前を連れてきたのは無意識で初めの感動を思い出そうとしていたが故かもしれん」
「私がこれを今まで食べた経験がないから、ですか?」
「お前の食に対する感動の表し方は擦れていないからな」
だから初めの味を思い出すに当たってやはり適任であった。とオスカーはファラフェルの最後の一欠片を平らげた。今度は初めの時よりも幾分か時間はかけずに食べきったらしい。
オスカーが飲み込むまでの短時間、エマは一瞬にして己の過去の記憶を遡行した。瞬きの間にその言葉について納得し、空の皿の上にフォークを置く。
「私、身内が祖母一人しかいなかったので、もしかしたらそのせいかもしれません」
エマの声音はウェイターを呼び止めるような自然さで、オスカーは一瞬発言内容の意味を汲み取りそこねた。
「だから、誰かと一緒にする食事がそれだけで美味しく感じるんです」
屈折、屈託、卑屈のない、とは。この笑みを指して言うのだろうとオスカーは思う。彼女の食に対する価値観や感覚の、純朴、と表して差し支えないそれは己の美食師としての生業において良い影響を齎すだろう。ガストロノミーの面々が一目置くのも、また自分自身が彼女ならばと信を置く理由を改めてオスカーは確認した。
「今後の参考までに訊くが、最近その誰かと共にした食事の中で、印象深かった料理はあるか?」
「え? 最近、ですか……」うーん、と唸ってエマは首を傾げる。「ちょっと趣旨とは違うかもしれないですけど。先日、月渡りギルドのみんなでキッシュを作って食べたんです」
その時の様子を思い出しているのか、エマは頬を綻ばせて目を細める。
「みんな欲張って、ベーコンを多めに入れようとか、あれもこれも入れようって言い出すから意見をまとめたり。いざ焼き上がって切り分けたら自分の分が小さいってモメたり。賑やかでした」
「ほう。結局ベーコン以外の具材は何を使った?」
「ええと、トマトとズッキーニにしました」
「どちらも今時期が旬の物だ。良い選択だな」
「はい。すごく美味しく出来ました! 秋にはカボチャを使ってみようって話もして」
くすくすと笑いながらエマが答えれば、オスカーも微笑んで頷いた。
「料理の味の良し悪しは調理法のみに留まらない。器、カトラリー、食卓の飾り付け、盛り付け――此処に更に何か加えるとすれば、記憶、と言うべきだろうな」
「雰囲気とか、誰と何を食べたか、とかでしょうか」
「然様。厳粛な空気の中でしか味わえない料理も、このように青空の下でしか味わえない料理もある。食事中の出来事や感情は味覚と付随して記憶の中で更に『美味だった』と刻まれるものだ」
エマはオスカーの言葉に目を瞠って、瞬きし、そして輝かせた。その輝きはまるで、新しい知識を得た喜びに満ち溢れた子供のようだ。前のめり気味に顔を寄せてきたエマにオスカーは少しだけ仰け反ったが、しかし視線は逸らさなかった。オスカーの語った言葉は美食師であるからこそ説得力のある見解としてエマに響いたようで、彼女は感嘆の声を上げる。
「確かにそうですね。すごく、分かります!」
「これからも、そうやって食を楽しむといい」
「はい!」
素直に返事をしたエマにオスカーは満足げに笑う。それからふと時計を見て「そろそろ時間か」と呟いた。
「あ、もう城に戻らないとですね」
「いや、その前に。キッチンカーの主人が場所移動の為に片付けを始めるぞ、作り方を教わるなら今の内だ」
「えっ!」
オスカーの言葉を受けてエマは慌てて椅子から立ち上がる。彼の言う通り、既に店先では店主が屋台を畳む準備を始めており、客の姿もまばらになっていた。
「すみません、ありがとうございます。私行ってきますね!」
「構わん、礼を言われるような事ではない」
オスカーは苦笑して早足で向かうエマの背中を見送り、再び手帳を開いて先程のファラフェルについての批評を書き留めた。油の温度と揚げ時間について書き足し、これらをまとめてから店の主人に手紙を送る事に決めた。
ちらと横目で見た先で、エマは店の主人に頭を下げている。どうやら作り方を教えてもらえたらしい。
「食べさせてやりたい、いや共に味わいたいと思う仲間の存在こそが、か。中々如何して、まこと得難き香辛料だな」
く、と喉で笑ったオスカーは、満腹感とはまた別種の充足感を覚えて一人ごちた。
〈了〉