月覚醒3話後の恋人未満なグラエマの話 廊下に部屋の明かりが漏れていて、あれ、とエマは足を止めた。
「グラン?」
グランの部屋のドアだと確認して、起きているのかなと思い小さくノックをして声をかけた。返事がない。鍵はかかっていなかったので、軽くドアノブを回すだけで開いた。そっと覗き込んで中を確認する。
(……寝てる、のかな?)
机の上の酒瓶と飲みかけのグラス。ベッドに横たわったまま微動だにしない背中。
途中で眠くなったのかな、と腑に落ちて、エマは部屋に入ってこっそり近付いた。よく見たら眼鏡もかけたままで外してない。
「グラン……?」
呼んでみたものの反応はない。ベッドに膝を乗せて上から顔を覗き込むと、すぅすぅと穏やかな呼吸音が聞こえてきた。
眠っているグランは、普段見せる表情のどれとも違う。クロウ達を窘める時の厳しい表情も、モンスターやゴロツキと対峙した時の荒々しい表情も知ってはいるが、基本的にエマには穏やかな優しい表情を向ける事が多い。以前、グランの拳骨を食らったクロウ達が『エマには甘い』『差別だ』『俺達にも優しくして』等と言っていたが、当の言われた本人が『お前達がだらしないから厳しくしているだけだ』ときっぱり言い返していて笑ってしまった。なんだかちょっとだけ特別扱いされたような気がして嬉しかった、というのは内緒だ。
いつもはこんな風に油断した姿を見せる事は少ないからこそ、無防備な表情を見せてくれるのは、それだけ信頼されているという証のように思える。
――それは仲間だとか共同体としての家族といった感情由来かもしれないけれど。
つらつらと考えながら見つめていた気配に気付いたのか、不意にグランの目蓋が震えた。
ゆっくりと持ち上がった目蓋の奥にある目は、まだ焦点が合っていないのかぼんやりとしている。寝返りを打ったグランの目が何度か瞬きを繰り返して、ようやく視界に入ったものが何であるか判別出来たのか、しっかりとエマの顔に向けられた。
「……エマ?」
「勝手に入ってごめんね。声かけても返事がなかったから」
「ああ……すまない、気付かなくて」
「明るいとこで寝ると疲れが取れないよ。眠るなら」
ちゃんと明かりを落としてあたたかくして、と続く筈だった言葉が出てこなかった。
(あ、あれ……?)
仰向けになったグランの顔を覆う人影。
数秒遅れてそれが自分の影だと分かってエマは咄嗟に身を退けようとした。それよりも早く動いたグランの腕が離れる事を許さず、エマよりも一回り以上大きい腕がしっかりと抱き留める。
「ぐ、ぐ、グラン……!」
エマはなんとか無理矢理離れようと試みるが、グランの力が強くびくともしない。それどころか余計に強く抱き締められて動けなくなってしまった。
「グラン、寝呆けてるの……!?」
「起きてる。大丈夫だ」
「だ、だったら」
「嫌だ」
顔が熱くなる。比例して心臓の音も大きくなり、なんだか息苦しい。
グランは駄々っ子のような口調で呟いて、エマを抱き締めたまま再び目を閉じてしまった。
「このまま寝たい」
「だ、ダメだよ! 眼鏡も掛けたままで……」
「それもそうだな」
あっさりと納得してくれた事にエマがほっとしたのも束の間、グランはまたぎゅっと強くエマを引き寄せた。そして耳の近くで話し始める。
「エマが外してくれ」
「え?」
「眠い……」
思わず硬直するエマに構わず、グランは腕の力はそのままで眠たげに瞬きした。自分が下敷きになるような体勢だというのに気に留めてもいない様子で、確かに大きな体躯と厚い胸板は女一人くらい乗せても平気なのかもしれない。
全身で感じるグランの力強さにエマは混乱しながら、必死に冷静さを保とうとするものの、考えようとすればするほど思考が絡まる。
(ど、どうしよう……この状況……)
抜け出そうと試みるが、グランは離してくれる気配がない。むしろエマを逃さないようにと抱え込んだままだ。相変わらず身動きは殆んど出来ないのでこれでは逃げる事も出来そうにない。
大人しく観念しようとエマは小さく溜息を吐いた。
「分かったよ。私やるから……腕、どけて。グラン」
グランの返事はなかったが、代わりに少しだけ拘束が緩んだ。こっそりほっと息を吐いて、ゆっくり体を起こす。見下ろした先でグランは目を閉じたままだ。
そっと、眼鏡のツルを摘む。持ち上げるように耳から抜いて外すと目を開いた。部屋の明かりが眩しいのか、細められた目が元々釣り目気味の目元と相俟って妙に鋭くて、胸がざわつく。
「外した、けど……どうしたらいい?」
「ありがとう。適当に置いてくれ」
言われるままにベッド横のテーブルの上に眼鏡を置いて、そのままグランの隣から離れようとしたが、その前に伸びてきた手に腰を抱かれて引き戻される。勢いのままベッドに転がって再びグランの腕の中に収まった。
「ぐ、グランっ」
「眠いんだ」
「だから、もう……やっぱり寝呆けてるんでしょ……」
「ああ、うん。これで寒くない」
エマはいよいよ顔を真っ赤にした。グランの言動も支離滅裂になってきている様子から察するに、もう半分眠っているも同然なのかもしれない。
「グラン……あのね、一緒に寝るのは、ちょっとおかしいよ」
私達は仲間なんでしょ、と続けようとして、エマは口を閉ざした。拗ねていると受け取られたら困る。でも、どうしていいか分からない。
「おかしいのか」
「うん」
「そうか」
「そうか、じゃなくて……!」
「いいから」
エマが言い募ろうとするとグランはエマを抱え直すようにして背中に手を回してきた。押し返そうとして結局エマはその手を止め、溜息を吐いた。グランの体温を感じて落ち着かない気持ちになるが、どこかで惜しいような気持ちもある。
グランの傍にいるととても安心する。腕の中なら、尚更。それはもう否定出来ない、本当の事だ。
エマが抵抗しない様子を察したのかグランはそのまま抱き寄せてエマの頭に顎を乗せた。そのまま身動ぎもしなくなり、ああ本当に寝たんだな、と殆んど諦めるようにエマは思った。
エマの鼓動はますます速くなっていくばかりで、このまま眠る事など到底出来そうにない。だというのに、この場から離れたいという気持ちはすっかりなくなってしまった。
(グランは、仲間だから平気なのかな……)
こんなにも狼狽えて動揺しているのは自分だけだなんて恥ずかしい。グランには自分がどれだけ困っているかちっとも伝わっていないようで、それがまた寂しい。更に加えて悔しい、とエマは思う。
「ずるいよ、……」
聞こえないと分かっていて呟く。こうして触れ合っていると都合よく勘違いして、期待してしまいそうになる。
自分はグランにとって特別なんじゃないか、と。
(そんな筈ないのにね)
グランの腕の中で、エマは力無く笑った。そのまま目を閉じて、その胸にこっそり頬を寄せ規則正しい心臓の音に耳を澄ませた。
きっと明日の朝になったらグランは忘れてしまっているだろう。そうであってほしいと思う。明日の朝には何食わぬ顔で接する事になると思えば今この時はあまりに勿体なくて、せめてもう少しだけ大事に覚えておきたかった。
このまま寝るなんて無理だと思っていたのに、次第にうとうととして眠気で意識が遠くなっていく。現実感がなくなってゆき、息を吐いて完全に体の力を抜いてしまうとグランの体温と混ざり合うような気さえした。
「おやすみ、グラン」
グランの返事はない。ただ、エマを抱き寄せる力が少しだけ強くなったような気がした。
〈了〉