That's my line.(ジェイアシュ) 夜半の私用電話に掛かってくる呼出音の向こうには碌な要件はない。分かってはいるのだが、流石に五回もコールが鳴り続けると本当に緊急事態かもしれないと思われた。しかし着信画面を確認したアッシュは渋々といった様子で卓上の端末を手に取る。耳に当てる間に素早く応答操作をした。
「こちらはリリー・マックイーンだ。夜分遅くにすまない、今ジェイのセルフォンを借りている」
スピーカーから聞こえてきた音声が想定していた音ではなくて、アッシュは一度耳から離し再度受話中の画面を確認する。表示は間違いなく”ジェイ・キッドマン”と表示されていた。ああなるほど、溜息とも相槌ともつかぬ声でアッシュは答える。
「持ち主が酔い潰れてる、って訳か」
室内の時計を確認して推察する。業務時間を終えたジェイが『リリーに呼ばれたから行ってくる』と機嫌良く出掛けて行ってから時間はかなり経過している。電話の声の向こうで音楽らしいものも聞こえるからまだバーにいるのだろう。「ご明察」とリリーが語尾を半音上げる。肩を竦めて片眉を上げていそうな声だなとアッシュは想像する。
「キースくらいなら何とか御せるんだが、流石にジェイ相手はウェイトが違い過ぎてな、こいつの身柄を引き取ってもらいたい」
真面目に言っているのか彼女なりのジョークなのか、或いはそれなりに酔っているのか。堅い口調のままで奇妙な言い回しをしてくるリリーにアッシュは目を眇めた。恐らくはまともに相手をしない方がいい。そもそもアッシュは酒自体を好まないが、酔っ払いに関してはそれ以上に好ましく思わない。
「そっちに迎えを寄越す。場所は何処か--」教えてくれ、というアッシュの声に被せて、電話口でノイズが入った。
「アッシュ? アッシュに繋がってるのか? なぁアッシュ、俺を迎えに来てくれ。頼むよぉ」
「おい、お前が話すとややこしくなる。電話を返せ! ……すまないアッシュ、こういう訳だ」
間延びした語尾、朗らかな声、やかましい声量と困り果てた溜息混じりの声。それですべてを察し、今度こそ電話越しに聞かせるようアッシュは溜息を吐いた。
「その糞ったれ野郎は今何処にいるんだ?」
* * *
「だってキースの事はブラッドが迎えに来てくれてたんだぞ?」
うらやましいじゃないか、と言いながらジョッキに幾らか残っていた炭酸の抜けたビールを呷って、着地の座標がずれたジョッキ同士がぶつかりガチャガチャ音を立てた。それには構わず頬杖をついてジェイがぼやく。
「俺だって誰かに迎えに来てほしい夜があるんだ」
「なにガキの屁理屈みてぇなワガママ言ってんだ、この老耄は?」
「もうビール三杯目の半分目くらいからこの調子で、今正に五杯目を飲み干したところなんだ。代金はジェイが済ませてるから大目に見てくれ」
「当たり然だろうが、こんな醜態を晒しやがって」
唾でも吐き棄てるようにアッシュは横目でジェイを睨み付けた。こんなに顔を真っ赤にして酔っ払ってまで酒を飲まなければならない理由が、彼には甚だ理解出来ない。迷惑料としてチップをもっと弾んでおけと嫌悪感さえ感じる。「私もつい羽目を外してしまったんだ」と悪びれるこの鬼軍曹ならぬ女性教官殿もジェイに乗っかる形でタダ酒に与っているので、やはりアッシュにとっては好ましく思えない。
「いやぁでも本当に来てくれるなんてなぁ!」
アッシュの連々とした思考をかち割るようにジェイが明るく笑い、わざわざ回り込んでその背中を叩いて肩にしがみついた。というよりアッシュは抱き着かれた。
「アッシュは王子様みたいだな!」
「は?」
間髪入れずに受け応えたそのやり取りが何かの琴線に触れたのか、リリーが大きく開いた口を隠しもせず仰け反りながら笑った。
* * *
「風呂に入りたいんだが……」
「そのまま沈むぞ。明日にしろ」
「それもそうかぁ」
車中からエリオスタワーのエントランス、エレベーターの中、居住スペースまでの廊下。バーでの騒がしさが嘘のように、道中のジェイは非常に大人しくアッシュの半歩前を歩いていた。時折足元がもたついても躓く事はなく、アッシュが様子を窺って側に寄っても、緩くかぶりを振って制した。或いは大丈夫、と一言で示したが、本当に歩き出すまではアッシュは立ち止まりその場で待った。不意に何処か別の場所に行ってしまうのではないか、という予感めいた疑念があった。
煩わしさよりその出処の分からない不安こそがアッシュにとっては不快極まりなく、とにかくジェイをベッドの上に転がしてさえしまえば拭われるだろうと乱雑に誘導する。ジェイがジャケットを脱ぎもしないでシーツの上に仰向けに倒れ込んだ様を見て、アッシュの眉間の皺はその深度を増した。
「なぁアッシュ」殆んど目を閉じながらジェイが呟く。「どうして迎えに来てくれたんだ」
「てめぇが呼んだんだろうが。どうでもいいから一旦起きて上着を――」
「どうでもよくないんだ」
寝呆けた酔っ払いの割には言葉尻がはっきりとしている。酔いが醒めたのか、とアッシュは観察を試みたが、入室した際に自動で作動した室内灯が眩しいらしくジェイの目元は義手の方の手で覆われていた。
「俺が助けを求めて、そしてアッシュは来てくれた。それが大事なんだよ」
「何の話だ」
「俺が“助けて”なんて言ったら市民が不安がるだろ?」ふぅと一拍息を吐いてジェイは続ける。「だから俺は助けを求めちゃいけないんだ」
――この男はどこまで馬鹿なのだ。
自分がどんな声で喋っているのか、自分で何も気付いていない。そしてその声を聞いた者がどんな思いをするか、何も分かっていない。
アッシュは思わず舌打ちをした。だがジェイの言葉の意味を、理屈抜きで理解出来てしまった。自分の感情のままに動く事は容易い、だがそれを表立って実際に行動に移した場合の『ジェイ・キッドマン』が与える印象とその影響力。或いは、大多数から寄せられる一方的で無責任な信頼の重圧と課せられる役割。
だかそれは本当に『ヒーロー』が故なのか? 助けを求めた者がことごとく、取り零しなくすべて救われる訳がないと、口にしないだけで本当は皆知っている筈だ。
(面倒臭ぇ弱音吐きやがって……)
アッシュは舌打ちをまたしようとして、今度はただわざとらしく溜息を吐くだけに留めた。それを酔っ払いの戯言を聞かされ呆れている様子と感じたのか、ジェイは軽く笑う。
「あんな風にふざけた調子で言ったけど、アッシュは助けてくれるのかなって結構真面目に懸けていたんだ。お前は来てくれた、だから俺の勝ちだ。ヒーローじゃない俺が、懸けに勝ったんだ」
だからありがとう。顔の上からようやく手を退かして笑い掛けたジェイの表情はもういつもの調子だった。なんでもないもう大丈夫、と取り繕うのが得意なのも物哀しいものだなとアッシュは思った。
「馬鹿野郎が。お前が助けてくれなんて泣き言言ったらな、俺が手ずからぶっ殺すぞ。世迷言くっちゃべってねぇで寝ろ、今すぐにだ」
「ははは、そうするよ」
殆んど寝転がったままだが、ジェイはようやくジャケットを脱ぐ気になったらしい。ベッド側に置いた椅子の背凭れ目掛けて放り投げるように掛けて、引っ掛かったのを確認してからもう一度身を横たえた。一連の動作をアッシュは横着だなと思ったものの、それを咎める気力は残っていなかった。というよりもう仕方ないと諦めた。
「おやすみ。助かったよ、王子様」
その呟きを最後に、ジェイからは穏やかな呼吸音が聞こえ始めた。相変わらず眠りに就くまで早いな、とアッシュは肩を竦めた。
――人騒がせな男だ。言い逃げするみたいに変な言い回しをしやがって。
腹立たしいような気持ちが湧いてきて、もうさっさと自分も寝る支度をするかと思ったところで、ふと思い付いて彼が世話をしているアクアリウムの水槽前に立つ。規則的な寝息に呼応するように水槽内の酸素供給機が音を立てている。
この水槽の魚だって、ジェイが見捨てたらあっという間に飢えて死ぬだろう。或いは別にジェイがあれこれと世話を焼かなくても逞しく生きるかもしれない。『ヒーロー』が出来る事は案外少ないものだ。
だから別に『ジェイ・キッドマン』が助けを求めても、『アッシュ・オルブライト』が助けなくても、或いはその逆でも。
――王子様の出番はない。枕元の目覚まし時計は起床定時刻に設定済みだ。
キスなんかなくても、明日も明後日も起きられる。
〈了〉