京園③ いざ帰国しようとすると何かと準備に時間がかかる為、当日寮を出るギリギリまで京極は気忙しい日々を過ごす事になる。飛行機のチケットや宿泊先のホテルの予約は勿論、利用する公共交通機関の時刻を調べ、距離や移動にかかる時間を調べて荷物など詰めて用意する傍ら、いつも通りのトレーニングや留学先での課題もこなさなければならない。
「あれ。真さん、髪型変えた……てか伸びた?」
夜間の便であるにも関わらず空港まで迎えに来てくれた園子に指摘されて気付く。髪を切りに行かなければと思いながら、つい先延ばしにしてそのままにしてしまった。思い出すと途端に襟足がシャツの襟に引っかかるような感覚が気になり始める。
「散髪する時間が取れなかったもので」
「散髪って! 久々にその単語聞いたわ」
ヘアカットとか美容室とか言わないところが真さんらしい、と園子が明るく笑う。彼女の方こそ少し髪が伸びたように思えて京極はじっとその横顔を見つめた。肩につかない程度、顔の輪郭に合わせて均一に切り揃えられている髪が耳を覆っている側頭部の一房だけでなく、全体的に二センチメートルは長い。
「前に私パーマかけた事あるんだけど、今度はこのまま切らないで伸ばしてみようかしら」
もしもこのまま彼女の髪が伸びたらどんな雰囲気だろうか。伸びた毛先が項を隠すのは勿体ないような気もする。鎖骨の上で揺れる髪は軟らかく耳の後ろから流れ落ちた時にどんな風に肌に陰影を落とすのだろうか。首周りが開いた服を着がちな彼女だから髪が長い方が少しは紛れるのだろうか、等。徒に想像が巡って京極は一人赤面した。
「かなり、変わりそうですね。印象が」
手前勝手な想像図は思考の外に追いやって、咄嗟に返した言葉ではあったものの、せめてもう少し気の利いた事を言えたのではないだろうかと不安で胸中静まらない。髪が長くても今よりもっと短くても、彼女の美しさは変わらないだろうと彼は確信している。否やしかし何を勝手にまた考え始めているんだと今度は小さく首を振る。幸い彼女は挙動不審な京極の様子には気付いていなかった。
園子が半歩先で立ち止まって背後の彼へと流し目を寄越す。瞬きを途中で止めたような伏せた瞼の上に細かく輝く粒子と色鮮やかな艶が乗っている。耳の後ろに髪を掛けてから眸が見上げてくる。何故今そんな表情を向けるのだという思考が追いつかない。
「今でも充分魅力的な園子ちゃんなのに、ロングヘアーになっちゃったら……大人なフインキにみんなドキドキしちゃうかもね」
ふふん、と得意気に笑ってみせる園子の表情は自信に満ちていて、上がりかけた体温が鎮まる。同時に京極は自覚した。
どれだけ時間が経っても、彼女へ抱く感情は全く変わらないどころかより一層募り続けている。
思い返せば、名前も知らず目を合わせた事もない一方的なところから生じた、恋着、としか言い様のない想いだった。そして、それを今も変わらず持ち続ける事を許され、剰え受け入れ同じく想いを寄せてもらえたのだから、自分は世界で一番幸福な人間だと思う。
故に、欲も深くなる。
笑顔も声も眼差しも、仕草のひとつひとつ、自分だけのものにしてしまえたならと願ってしまう。
「園子さん。失礼します」
「なぁに――え、あ……っ?」
形だけの断りを入れて、しかし言いながら既に京極は実際に手を伸ばしていた。
彼女もまた襟足の髪が伸びているらしい。指先に僅かに髪が絡まる感触がある。彼の行動の真意を読み取れないまま、やや荒い手つきで首の骨の隆起に触れてくる指先の温度に園子は息を詰めた。引き寄せられるのではなく彼の方から距離を詰めてくる。半歩分にも満たない空間で、京極の影の中に入り込んで視界が暗くなる。指の腹が首の骨に沿って下へ滑るように撫でている感覚だけが分かる。
「ま、こと、さん?」
「自分は、いつもの貴女がいいです」
京極真は口下手な類の人間だと、彼は自分で分かっている。それを踏まえて、感情をそのまま言葉に乗せるときっと困らせてしまうだろうと予想出来るから、最低限の事しか言葉に出来ない。
自分ではない他の、不特定多数の目線など集めないで、誰かの為に貴女自身を美しく見せようとしないでほしい。
こんな事は絶対に言えない、と京極は思う。気を抜いて口を滑らせないように奥歯に力を込めて噛み締める。彼女の意志は勿論尊重したいし、その好奇心旺盛で自由な心はいつも眩しく思えるほど魅力的だと思う。大事にしたいと思うのに、彼女の言動すべてが自分だけの為だったなら、という願いの方がずっと強い。全くもって矛盾している。
「どんな園子さんもきっと……ですが、自分はいつもの、今の貴女が、一番なんです」
絞り出すように発した言葉は結局拙くて、不甲斐なさに眉根が寄る。いつまでも立ち止まったままこの体勢でいてはいけないと思うのに、どうしても触れていたくて止まった手が彼女の耳の下と顎の輪郭を確かめる。自分のそれと全く違う丸みを帯びた感触に感動さえ覚えて指先だけで肌を撫でた。
「ひ、ぁ」
突然触れられた事に驚いて出た声、の中に、色が含まれているような気がした。
抑えるべく小さく窄められた唇が、先程目にした瞼の上のそれとはまた別の艶できらめいていて、何故先程彼女が振り返った時に気付かなかったのだろうと京極は呆と見つめる。
こうしている間は、触れる手も見つめる目も声を聞く耳もすべて貴女の為だけのものだと、今の貴女でさえ何一つ自分のものに出来なくてこんなにももどかしいから今はまだ変わらないでいてほしいと、目線だけで伝わるならこんな不躾な触れ方などしないのに。
「え、と、ま、真……さん」
ぎこちなく見上げる彼女の目が瞬く間に潤んでゆく。頬だけでなく目尻を赤く染め上擦り掠れた声で、園子に名前を呼ばれて漸く彼は我に返った。
どうして、なんで、と。彼女は困り果てている。いきなり項に触られて睨み付けるように見下されているのだから、怖がらせようとしていると思われて仕方ない。
衝動のままに動いたからとはいえ、いくらなんでも無遠慮が過ぎた。分かっているのに、違う、そんなつもりはないと、弁明の言葉を探そうとしてしまう。しかし京極は開きかけた口から言葉を発する事が出来なかった。
「すみません」
たっぷりと一呼吸分置いて出てきた謝罪があまりにも簡素で、ああ違うまただ、と自己嫌悪になる前に彼女から手を離した。今更になって後悔する。もっと他に言うべき事があった筈だし、それより前の時点で、例えばいつもより髪が伸びているように見えたので雰囲気が変わったように感じてつい手が伸びてしまって申し訳なかった、とか。自分が口にしなかった言葉を脳内で補完しながら、まるで言い訳をしているようだと京極は思った。
園子が今し方彼に触れられていた場所を自分の手で確かめるように掌で覆う。首から上が熱くて、顔だけではなく全身に血が集まっているようで落ち着かない。心臓も痛いくらいに脈打っている。けれど頭の中では先の彼の言葉がリフレインしていて、それが鼓動を速めている原因のひとつなのは明らかだった。
「えっと、謝らなくていいよ。びっくりしたけどその、嫌じゃないし、嬉しかったし……。あ、嬉しかったっていうのは、無理に変わんなくていいみたいな、そもそも真さんに飽きられたらヤダなって思ってイメチェンするのもアリかなーって。……ごめん、私、一人で勝手に……おかしいよね」
今度こそ両手で顔を隠して俯く園子の頭を京極は撫でたくなったが、流石にそれはやめておいた。支えながら早口気味に捲くし立てる彼女の言葉は京極にとって都合の良い解釈にしか聞こえなくて、聞いていただけの筈なのに顔が赤らんでいくのが分かる。遣り場のない手で拳をつくって握り込んだ。
しかし、都合の良い解釈をしたのはもしかしたらお互い様なのかもしれない。と、お互いに相手が知り得ぬ思考の片隅で安堵した。
不特定多数の誰かの視線の為に変わろうとしないでほしいという京極の思いは、再会が毎回久し振りという接頭詞が付いてしまうような周期の為に代わり映えがないようではいつか相手の心が離れてしまわないかと不安に思う園子の思いと、重なるようで擦れ違う。肝心なところで互いに照れや見栄で言葉足らずなのに、想い合っている事実は歯車のように噛み合う。
「あっでもね、真さんが、私の傍にいなくちゃ! って思わず焦っちゃうくらい魅力的な女の子にはなりたいの。だから頑張って捕まえててよね!」
京極が引き留めるよりも早く園子が踊るように離れる。ふわりとスカートの裾が翻る。悪戯っぽく照れ笑いを浮かべている彼女は、間違いなく魅力的だと素直に彼は思った。
彼女の『飽きられたらヤダ』から『イメチェンするのもアリ』かと考えたという言葉に、懸念されるだけでも心外だと感じていても不思議と面映いだけで、甘い怒りで胸が詰まる。
わざと咳払いをして彼は小さく笑った。
「そのヒールのある靴で急に走ると危ないですよ」
大丈夫だと軽く手を振る彼女に苦笑して、京極は園子と共に歩き出した。
明日のデートの時にまた目の遣りどころに困るような服を着て来なければいいのだが。
〈了〉