ピアノ弾いてくれ トッ、と鍵盤を爪弾く。一拍。鍾離の石珀が瞼に隠れた。微かに息を洩らして、タルタリヤに寄り添うように隣へ腰掛ける。晩夏の陽光を受けた、蜂蜜にも似た瞳が指慣らしにハノンを弾くタルタリヤを見る。丸みの消えた横顔、記憶よりも幾らか骨張った指を見て、鍾離の口から、ふ、と息が零れた。ピアノを弾く人間の手だ。
満たされている。
何百回、何千回と聴いて、弾いたハノンの音が、満ちている。いつもそこで指の形が崩れる。今、ドを弾きそうになった。クス、と笑みがこぼれ落ちる。
もう! とでも言いたげに音が力強くなって、窘めるように鍾離の指が鍵盤に添えられた。隣で歩く歩幅を、足を出すタイミングを、合わせるように。
一呼吸置いて、二オクターブ離れた二人のハノンが部屋に満ちた。
揺れる窓辺のカーテン。譜面台に置かれた色褪せた楽譜。蜩が脳髄に響くように姦しく鳴いている。
……夏が逝く。
◆
「先生」
見慣れない制服姿のタルタリヤが駅前のベンチで待っていた。
いつまでその呼び方をするんだ。そう声帯を震わせかけて、やめた。しょうり先生はおれにピアノを教えてくれるから、先生なんだ、とクリスマス会でもらったケーキで口の周りをベタベタにした記憶のタルタリヤが笑った。
「久しいな」
「先生が大学行っちゃうから」
気まぐれな、咎めるような言葉の棘が心地良い。街を離れると言った時のタルタリヤの顔が脳裏に浮かんで消えた。
「行かない方が良かったのか?」
「引っ越す当日にもう会えなくなるって中学生に言ってくる高校生……いや大学生か。それってどうなのさ」
心底呆れたとでも言うような視線に、ふふ、と笑いが込み上げる。ちょっと、と厳しさを増した表情が、幼さの抜けたタルタリヤの顔に浮かんでいた。
「ピアノを選んでどう?」
「後悔はしていないが」
「してたら今頃殴ってるよ」
ピアノを選んで、中学生にもなってびゃーびゃー泣いてる俺を置いてこの街を離れたんだからさ。酷いと思わない? ありえないんだけど、と言外に滲んだ不機嫌さを隠しもしないところがまだ若い。
見慣れた公園のベンチに座って、コンビニで買ったばかりのアイスを開ける。晩夏と言えど夏の気配はまだ濃い。アイスは少し溶けていた。
口に含むとレモンの味が広がる。
「先生っていつもそれだよね」
青い空に似たソーダ味を頬張るタルタリヤがブランコの柵に腰掛けながら笑った。ドはドーナツのド、レはレモンのレ。ソは青い空。レッスンを終えてにこにこ二人で歌いながらアイスを買う。癖みたいなものだった。甘い。砂糖と水とそれから香料の塊だ。アイスを食べるのは四年ぶりだった。
「ピアノは続けるのか」
がじ、とタルタリヤがアイスを齧った。頭が痛くなるぞ、と思ったけれど、何も言わずに目を伏せた。
「やめるよ」
誘われた遊びを、家の手伝いがあるからと断るような、軽くて、分かりきっているでしょう、と言わんばかりの声だ。
「俺はピアノを選ばない」
鍾離の目に浮かぶのは明らかな落胆。タルタリヤがクスリ、と笑う。
「先生と弾けたら何だって良かったんだ」
ピアノじゃなくたって、トランペットでも、バイオリンでも、何だって。
悪戯が成功した子どもの顔をしてタルタリヤは笑う。鍾離は、歓喜と絶望をミキサーでごちゃ混ぜにして、よく分かりもしない幸せと寂寥を飾り付けた何かを飲み込んだような顔をする。溶けかけたアイスがぼとり、と地面に落ちた。